目次
はじめに:原初的核家族と文明の遭遇
原初的核家族が文明と出会うとどんなメンタリティが醸成されるのか。探究する最初の資料は旧約聖書です。なぜでしょう。
前回、アッシリア帝国の付近で暮らすことになった狩猟採集民の人たちがいましたよね?
実をいうと、あの人たちは実在の民族で、その苦闘によって、歴史に名を残すこととなったのです。その彼らが作った文書が、旧約聖書。
*前1200年前後にパレスチナに定住し、前1000年頃に王国を成立させ(王政に移行)、旧約聖書を書き記した古代イスラエルの人々(ユダヤ人)は、トッドによれば、原初的核家族です(我々はどこから来て、今どこにいるのか・上174頁)。
「本当?」とお思いの方のために、専門家のレーマーさんの所見を添付します。
*レーマーさんは旧約聖書の専門家なので、彼らが原初的核家族であったことはご存じないと思いますが。
アッシリア帝国なくしては、旧約聖書はけっして存在しなかったであろう。前9世紀から前7世紀末までレバント地方を支配していたアッシリア人たちは、イスラエル王国とユダ王国を属国とし、前722年にイスラエル王国の滅亡を招いた。しかし彼らは、ユダ王国の設立文書を執筆するためのモデルを、はからずも王国の知識人にもたらした。ユダ王国の設立文書は、アッシリア文書のレトリックや思考様式から大いに着想を得ている。たとえば、申命記はアッシリアの宗主権条約のような手法で書かれている。この書には、アッシリアの条約文と同じような構成や語彙がみられる。しかし、申命記においてイスラエルが絶対的忠誠を誓う宗主は、アッシリア王ではなくヤハウェである。ようするに、神がアッシリア王にとってかわっているのだ。
トーマス・レーマー著 久保田剛史訳 『100語でわかる旧約聖書』(白水社、2021年)20-21頁
レーマーさんの見立ては、トッドに学ぶ本講座の見立てとかなり通じるところがあり、この後も何かとお教えをいただくことになりますが、ここでは、上の引用から一つ。
「神がアッシリア王にとってかわっている」。
これを読んで「やっぱり!」と(私が)喜んだのは、姉妹サイトの方で、これとよく似た仮説を提起したことがあるからです。私の理解は今も変わっていないので、そのまま引用させていただきます。
*ただし、同記事では(旧約聖書の執筆ではなく)前11世紀末のイスラエル国家の成立とユダヤ教の成立について論じているため、アッシリア王は出てきません。
原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。
それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。
窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。
https://www.satokotatsui.com/state-and-religion/
こうして、彼らは、アッシリア帝国の文書や、アッシリアを通じて触れたメソポタミア文明の蓄積に学び、のちに旧約聖書と呼ばれることになる文書群を構築しました。そこには、もっともらしい系譜が記され、歴史が記され、律法、聖歌、預言が記されている。あたかも、共同体家族や、直系家族が営む文明の成果物のように。
それでも、書き手が原初的核家族であり、想定される読み手も原初的核家族であった以上、彼らがまとめた旧約聖書の文書群には、彼らのメンタリティが色濃く投影されているに違いありません。
さて、いったいどんなものなのか。探ってまいりましょう。
◉旧約聖書は、アッシリア帝国を通じて「文明との遭遇」を果たした原初的核家族がまとめた文書群である
原初的核家族の宇宙
旧約聖書には、「ああ、原初的核家族だな」と思える要素がいろいろあります。恋愛やエロティシズムの礼賛とか、婚姻外の(近親間を含む)性関係がやたらたくさん出てくるとか。しかし、そうした事どもを逐一見ていくことが、この講義の目的ではありません。
本講義のテーマは近代史。
「抗争と略奪」「暴力と殺戮」「おかねがすべて」の近現代を導くことになったメンタリティを解明することが目的ですので、これに関連しそうな案件に絞り、「これは!」と思える特徴をご紹介させていただきます。
*注意:私は特別に旧約聖書に詳しいわけではありません。概説書を何冊か読み、創世記の翻訳を読み(あと以前これを書くためにサムエル記の翻訳を読み)、あとは仮説を立てながら目星を付けた部分に目を通していますが、すべてを読んで咀嚼した上で仮説を立てているわけではないので、より適切な引用箇所を逃していることなどがありうると思います。ご容赦ください。
(1)他者は存在しない
①天地創造
旧約聖書は、創世記から始まります。冒頭は、「初めに、神は天地を創造された」。
*以下、旧約聖書からの引用は日本聖書教会『聖書 新共同訳』によります。
古代イスラエルの人々が、定住し、国家を作ったのは前1000年頃。定住以前から集団としてのアイデンティティを持っていたことも考えられなくはないですが、いずれにせよ、彼らの周りには、すでに「満員の時代」を迎えて発展を遂げた文明があって、地球上、とりわけユーラシア大陸には、大勢の人が住むようになっていたはずです。
それでも、旧約聖書は、彼らの神が、宇宙を創造したと書くのです。
*なお、民族の起源に関わる神話が「天地の創造」から始まるのは必ずしも通常のことではないようです(日本の国生みは、日本列島を構成する島々の誕生神話ですし)。中国の古代神話には「天地開闢」を含むものがあるそうですが、中国にはその資格があるでしょう。
なぜか。
彼らが原初的核家族であったことを考えると、答えは明らかであるように思われます。
本来の居場所である狩猟採集社会で、彼らは、夫婦と子供(核家族)の世帯を基本単位とし、緩やかな親族集団に囲まれ、必要に応じて移動をしながら暮らしています。
そんな彼らが、世界というものをどう見ているか、と考えてみると、おそらく、彼らにとっての世界とは、「彼らと自然界」であり、それが全てです。
他の集団とすれ違うこともあったかもしれませんが、遠くに人がいようがいまいが、具体的に接点がない限り、樹木や草花、蛇や亀なんかと変わりはないでしょう。
単純に「彼らの世界」こそが天地の全てである以上、彼らの神が、天地を創造するのはまったく自然です。
旧約聖書が、前1200年頃に始まった彼らの歴史を、創世記から始めるのは、当時の知識人による知的創作でも、大言壮語でもなく、彼らの世界観の自然な表れなのではないでしょうか。
アッシリア帝国に伍していくというプラグマティックな目的のために、全知全能・唯一絶対の神が必要であったことはたしかです。唯一絶対の神である以上、「天地創造」が必須であるということも。
とはいえ、彼らが「われわれの弱点を補うにはこれが必要だから‥」と計算したとは考えられません。
原初的核家族の彼らが、アッシリアを通してメソポタミア文明に接し、「自分たちもこんな風なものを‥‥」と、彼らのメンタリティの赴くままに話を紡いでいたら、一神教ができ上がり、文明の中で生きる彼らの必要性を満たした。
旧約聖書とはそのようなものであり、だからこそ、神は、当然のように、天地を一から創造するのではないでしょうか。
◉旧約聖書が「天地創造」から始まるのは、原初的核家族にとっては、「彼らの世界」が天地のすべてだからである
②カインとアベル
大勢の人間が住み、文明の栄えるユーラシア大陸の上にありながら、彼らは「この世界にいるのは自分たちだけ」と感じていた。その雰囲気は、旧約聖書の全体に漂っていて、有名なカインとアベルのエピソードにも、一例が見て取れます。
兄のカインはアベルを殺し、そのことによって神から追放処分を受けるのですが、そのとき、カインは神に次のようにいうのです。
*農夫となったカインと羊飼いとなったアベルは、ある日それぞれ神に供物をする。神はアベルの供えた羊(の初子)を気に入り、カインの供えた作物には見向きもしない。それで、カインは怒ってアベルを殺してしまいます。神(=父)の気まぐれ、というテーマも、非常に(原初的ないし絶対)核家族的ですね。
「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
創世記 4:14
そこで、神は、カインが誰かに殺されることがないように、カインにしるしを付けてあげます。でも、この世にアダムとイブとカインしかいないのなら、いったいカインは誰に殺されるというのでしょうか?
*カインとアベルは、アダムとイブが最初にもうけた息子で、つぎにアダムが子供を作るのは113歳のときなので、この時点で世界にいるのは、アダムとイブ、カインの3人だけのはずです。
何しろこれは旧約聖書の話なので、この「謎」については、各種の合理的解釈が存在しているようです。
しかし、彼らが原初的核家族であったことを知る私たちには、これが謎でも、矛盾でもないことがわかります。
彼らが暮らす界隈が全世界であると感じている彼らにとって、自分たちと関係のない人間たちは、存在しないのと一緒です。普段は、すれ違っても関わらず、万一、攻撃を仕掛けてくるようなことがあれば、その瞬間に「敵」となる。そのような相手です(野獣と一緒です)。
神の元、すなわち「彼らの世界」を追い出されるとなれば、カインは、当然、そうした人間たちと出会わなければなりません。ひとりぼっちのカインに、よそ者たちは、野獣となって襲いかかってくるでしょう。そのことは、カインも、神も、知っているのです。
カインが、彼らの存在を想定し、敵か野獣のように恐れるのは、そのようなメンタリティの単純な発露である、と私は感じます。
◉関わりのない他者は存在しないのと同じ。攻撃を仕掛けてくれば「敵」となる(=存在する他者は全て「敵」である)
③選民思想
あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
申命記7:6
神がイスラエルの民を「選んだ」とするいわゆる選民思想も、単純に、「他者は存在しない」という彼らの世界観を、さまざまな民族が共存する現実の中で合理化するための表現と考えられます。
彼らにとって、世界は彼らだけのものである。彼らの神は唯一絶対で、当然、宇宙の創造主である。しかし、彼らが投げ込まれた(?)場所には、アッシリアやらエジプトやら、彼らよりも偉そうな感じの人間たちがたくさんいる。
そうした現実の前でも、「他者は存在しない」「世界は自分たちだけのもの」という狩猟採集民的感覚を持ち続けた彼らは、その感覚を正当化するために、自ずと「神はわれらを選んだ」と考えることになった、と。
「自分たちは特別だ」「選ばれた偉大な国民である」という思想・感覚は、現代のイスラエルにも、アメリカにも見られるものですが、かなり単純に「原初的核家族と文明の遭遇」の所産かなという気がします。
*レーマーさんは、選民思想は、伝統的な多神教的な神学体系を持つ世界の中で、一神教を打ち立てる際に生じた矛盾を解決するために生まれたものだとしています(37-39頁)。多神教的な世界では、さまざまな神がいて、さまざまな国の王権を正当化していた(アッシリアにはアッシリアの神がいて、イスラエルにはイスラエルの神がいた)わけだが、ヤハウェが唯一絶対の神であり、宇宙の創造主であるとすれば、「その神とイスラエルはいったいどういう機縁で特別な関係を結んでいるのか?」という問題が生じる。そこで、旧約聖書は、「神がイスラエルの民を選んだ」ということにしたのだと。これは、焦点の当て方が違うだけで、私とほぼ同じことを言っていると私は感じますが、いかがでしょう。
◉「他者は存在しない」原初的核家族が、多数の民族が行き交う文明と遭遇したとき、選民思想が生まれる
(2)神は和睦を望まない
旧約聖書の神には、彼が選んだイスラエルの民と、現実には存在する他の諸民族とを和睦させるという発想がありません。
あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。‥‥ あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。
申命記7:1-5
神は、彼が選んだイスラエルの民に対し、約束の地に行くよう命じます。とはいえ、べつに、すでに誰かが住んでいるその地に行って、支配者としてふるまうことを期待しているわけではない。ただ、神に忠実であれば、神は彼らの数を増やし(子孫繁栄ですね)、「乳と蜜の流れる土地」での何不自由ない暮らしを約束する、というばかりです。
でも、そこには実際に、異なる集団が住んでいるわけです。彼らに、他者と和睦する(共存する)という発想がない以上、残された方法は一つしかありません。
追い払う、あるいは殺す。
民族浄化です。
約束の地で繁栄するために、邪魔者を滅ぼせという神の命は執拗です(執拗さを実感していただくために、もう1箇所引用します)。彼らは、エジプトのような強大な敵からは逃げ、それ以外の諸国の民は(邪魔になるときは)滅ぼすのです。
あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる。あなたが、「これらの国々の民はこちらよりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と考えるときにも、彼らを恐れることなく、あなたの神、主がファラオおよびエジプトの全土になさったことを思い起こしなさい。すなわち、あなたが目撃したあの大いなる試み、あなたを導き出されたあなたの神、主のしるしと奇跡、力ある御手と伸ばされた御腕をもってなされたことを思い起こしなさい。あなたの神、主は、今あなたが恐れているすべての民にも同じことを行われる。あなたの神、主はまた、彼らに恐怖を送り、生き残って隠れている者も滅ぼし尽くされる。
申命記7:16-20
原初的核家族には、国家を作る素質がありません。利害の異なる多数の集団を一つにまとめるには「縦型の権威の軸」が必要ですが、彼らはそれを持っていない。彼らが、「統合」「和睦」の可能性を顧慮せず、つねに、他の集団を抹殺しようとするのは、そのためと考えられます。
旧約聖書におけるこれらの記述が、北米大陸に渡った元イギリス人のアメリカ人や、近代イスラエル国家を建国したユダヤ人に影響を与え、先住民インディアンやパレスチナ人の虐殺につながった、とする議論があります。しかし、順序は逆だと思います。
彼らが旧約聖書を読み続けたのは、おそらく、それが彼らのメンタリティに合致したからです。ユーラシア大陸の大文明の影響から離れて、未知の土地に向かう核家族の彼らは、旧約聖書の中に、自分たちのメンタリティを支え、強化する要素を見出した。
旧約聖書が彼らに命じたから、彼らがそれを行なったわけではない。彼らのメンタリティが、旧約聖書を選ばせたのです。
◉権威の軸を持たない(=国家を作る素質がない)原初的核家族には、他集団との和睦、他集団の統合という発想がないため、邪魔になったら消すしかない
(3)神は問題を解決しない
もう一つ、旧約聖書を読んでいて、「すごく特徴的だよなー」と(私が)感じるのは、神は一切の問題を解決しようとはしないし、民を使って問題を解決させようともしない、という点です。
「問題を解決する」という発想を持たない神は、気に入らない事が起こると、全てを消し去ります。全消去するのです。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
創世記6:5-7
有名な、ノアの方舟(大洪水)のエピソード。創造主である神は、自らがつくった人類が悪いことばかりするのを見て嫌になり、お気に入りのノアの一族だけを残して、すべてを滅ぼしてしまいます。
全知全能の神なのですから、人々を教え諭したりして、よい方向に導く努力をしたっていいと思うのですが、どうも、旧約聖書の神にそういう発想はない。「悪い者は悪い者。滅ぼすしかない」というハードボイルドな考えのようなのです。
*そしてまた、旧約聖書の「悪」がきわめて抽象的であるのも興味深い点です。旧約聖書はただ「不法」とか「堕落」とかいうばかりで、何をするのが不法で堕落なのかは大抵よくわかりません。
大洪水を経て、全人類をノアの子孫とするところからやり直した神ですが、その後も、その態度に変化はありません。
「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
創世記18:20-21
もちろん、神は、確かめた後、ソドムとゴモラを滅ぼそうと考えています。
話を聞いたアブラハムが「10人でも正しい者がいるなら、町全体を滅ぼすのは正義に反するんじゃないか」みたいなことを言ったので、神は「じゃあ10人正しい者がいたら滅ぼさない」というところまで妥協します。しかし、結局、ソドムとゴモラに正しい者はいなかった。
*ここでも、何が罪なのかはよくわかりません。ソドムの住民が確かめにきた神の使者に対して粗暴な振る舞いをしていることは事実ですが。なおソドムに関する記載を「同性愛批判の物語として読むことは、まったく物語の主旨にそぐわない」そうです(レーマー101頁)(普通に読んでも決して同性間性交を問題視しているようには読めません)。
主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。
創世記 19:24-25
なぜ、旧約聖書の神は問題を解決しようとしないのか。私は、書き手である人々に、その発想(能力)がないからだと考えます。
国家以前(家族システム以前)の世界では、争いの解決は実力によるしかないのだが、権威が生まれたことで、法に基づく解決が可能になる。前述の契約〔「親の権威を認め、親の権威が長子に受け継がれることを認め、家の繁栄と永続のために結束する」という直系家族の社会契約〕に基づき、権威者の裁定に従い、権威者の定めるルールに従うことが、人々の義務となる。
https://www.satokotatsui.com/birth-of-state/
社会の秩序を正すには、まずは、社会の成員が、社会の共有物としての「正しさ」が存在するという感覚を持っている必要があります。その上で、はじめて、人々は、具体的な規範を共有し、規範の遵守を義務とし、正しい(公正な)秩序を構築することができる。この一連のプロセスを可能にするものが、(家族システムにおける)権威にほかなりません。
旧約聖書の書き手は、知識としては、「正しさ」の存在を知っています(何しろアッシリア帝国の付近で暮らしていますから)。その「正しさ」が、一定規模の集団を成り立たせるのに不可欠であることについても、知識があるようです。
しかし、彼らには、「正しさ」が具体的にどのような内容を持ちうるのかは、皆目見当がつかない。もちろん、それを世の中に行き渡らせる方法も。
旧約聖書の神は、途方に暮れ、仕方なく「全消去」ボタンを押すのです。
◉「法」「正しさ」を成立させられない(=平和的な問題解決の能力を欠く)原初的核家族は、世界が荒れると「全消去」を目論む
(4)神の偉大さは、暴力の激しさによって示される
そういうわけなので、旧約聖書の神は、自らの正しさや、徳の高さによって、その偉大さを証明することができません。では、どうやってその偉大さを証明するのか。
破壊です。
神はすでに大洪水を起こしてノアの一家(と方舟に乗せたいくらかの動植物)以外を全滅させ、ソドムとゴモラでも、硫黄の火を降らせて生きとし生きるもののすべてを滅ぼしましたが、それ以外にも、とにかくやたらと殺戮し、破壊します。
例えば、エジプトを出た後、モーセに率いられて約束の地を目指していたイスラエルの民の間に、徒党を組んでモーセに反逆する者たちが現れたときの、神の態度はこうです。
*彼らは共同体の指導者である名のあるイスラエルの人々250名を仲間に引き入れ、モーセが共同体を構成する会衆の上に立つ者としてふるまうことを批判しました。
主の栄光はそのとき、共同体全体に現れた。主はモーセとアロンに仰せになった。「この共同体と分かれて立ちなさい。わたしは直ちに彼らを滅ぼす。」
民数記 16:19-20
神はこう宣言し、破壊を実行する。
地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして、会衆の間から滅び去った。彼らの周りにいた全イスラエルは、彼らの叫び声を聞いて、大地に呑み込まれることのないようにと言って逃げた。また火が主のもとから出て、香をささげた二百五十人を焼き尽くした。
民数記 16:32-35
なお、このとき、神は追加で疫病を放ち、さらに14700人を殺害しています。
旧約聖書では、神がこうですから、イスラエルの民も、神の遣わす天使たちも、皆、破壊と殺戮に明け暮れます。
*神の命令に従わないと呪われると脅かされているのでこれはやむを得ません。神は、ありとあらゆる方法でお前を呪うと事細かに預言されているので、ご関心のある方はこちらをどうぞ(申命記28:15-68)。
破壊が、神が自らの偉大さ(ないし存在)を示す方法であることは、神自身が語っています。
それゆえ、彼らにこう言いなさい。主なる神はこう言われる。わたしは生きている。廃虚にいる者たちは必ず剣に倒れる。野にいる者はすべて、獣に餌食として与え、砦と洞穴にいる者たちは疫病によって死ぬ。わたしはこの土地を荒れ地とし、荒廃した土地とする。この土地が誇った力はうせ、イスラエルの山山は荒れ果て、そこを通る者はなくなる。彼らが行ったすべての忌まわしいことのゆえに、わたしがこの土地を荒れ地とし、荒廃した地にするとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル書 33:27-29(神が預言者エゼキエルに語りかけた言葉(多分))
なお、旧約聖書における神やイスラエルの民の暴虐については、それを「アッシリアの軍国主義を告発するもの」として正当化する見方があります。
約束の地に入ったイスラエルの民が、神の命令に従って、先住の人々に対して民族浄化を敢行するヨシュア記について、レーマーさんは次のように述べています。
*このときのイスラエルのリーダーはヨシュア。モーセの死後その後継者となった。
ヨシュア記を読んで衝撃を受ける者もいるであろう。なにしろこの書では、イスラエルとその神が異常な残酷さを見せているからだ。
ヨシュア記の最古の資料は、前7世紀、ユダ王国がアッシリア帝国に脅かされていた時代に書かれた。アッシリア人は、全民族に対する支配権をみずからの神々から授かったと主張し、暴力のかぎりをつくしていた。ユダ王国の書記たちは、ヨシュア記の征服物語を書くことにより、イスラエルの神がアッシリアの神々よりも強いことを訴えようとした。また、ヨシュア記において、他民族にはカナンを占有する権利がいっさいないということが示されるとき、この発言は第一にアッシリア人に向けられているのである。
トーマス・レーマー著(久保田剛史訳)『100語でわかる旧約聖書』(白水社、2021年)147-148頁
したがって、ヨシュア記は、アッシリアの軍国主義を告発した「カウンター・ヒストリー」となっているのだ。
*注意: 旧約聖書の専門家は、旧約聖書の記述を鵜呑みにし、アッシリア帝国は「傲慢で不遜で暴虐に明け暮れた専制主義の帝国」であるという前提で話をする傾向があるので注意をしてください(参考までにアッシリア学者のコメントを紹介します↓)。
「前8世紀から前7世紀のアッシリア帝国によるイスラエル・ユダ王国への侵攻の衝撃は旧約聖書の歴史書と預言書に記され、当時のアッシリア帝国の圧倒的国力、その中心都市の威容、英雄的指導者の人物像は、怪しい伝説的語りとして西洋古典の著作に書き留められた。これらの叙述は、アッシリア帝国の軍事行動や帝国支配の一側面を伝え、その摩訶不思議で屈折したイメージを興味深く語っている。しかし、それは、アッシリアという現象のほんのわずかな一片であり、その一部は面白おかしく創作された奇談にすぎない。」(山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、2024年)325頁)
大変興味深い指摘です。ヨシュア記がアッシリアを告発する「カウンターヒストリー」であるということは、旧約聖書の書き手たちには、アッシリア帝国の行動が、このヨシュア記におけるイスラエルの行動のように見えていた、ということですから。
ヨシュア記の中で、ヨシュア率いるイスラエルの民は、エリコの町を滅ぼします。攻撃の前に探りを入れ、「土地の住民は皆おじけづいている」という情報を得たにもかかわらず、エリコの人々に降伏の機会を与えることもなく、ただ、神に与えられた土地(約束の地)に彼らが住んでいたというだけの理由で、全滅させるのです。
彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。
ヨシュア記 6:21
*事前に偵察に行ったイスラエルの2人を匿ってくれた遊女とその一族だけは被害を免れます。こうした個人的な信義には篤いというのも、旧約聖書の特徴だと思います(旧約聖書がときどき挙げる「悪」の実例もそういうものが多いです。客に親切にしなかったとか)。すごく狩猟採集民(原初的核家族)っぽいです。
アッシリアは、たしかに、軍事力を用いて領土を拡大し、他民族を支配下に置いた帝国でした。しかし、アッシリアは、もちろん、ただ「神に言われたから」地域を征服したわけではありませんし、征服した土地の民を皆殺しにしていたわけでもありません(それでは帝国は成り立ちません)。
アッシリアが広域支配を目指したのは、バビロニアとの覇権争い、大国エジプトとの関係、絶えざる異民族の侵入、新興国の台頭といった歴史的な諸条件の中で、アッシリアが生き抜き、その繁栄を保つために必要だったからです。軍事力は欠かせないとはいえ、軍事力だけで帝国支配が実現できるというものでもない。アッシュルバニパルは、治世初期に、次のように語っています(記念碑の草稿だそうです)。
‥‥神々の父たるアッシュル神は、私がまだ母の胎内にいるときに、王となる運命を私に定められた。偉大なる母神ムリッスは、この地と人民を統治するために私を召命された。エア神とベーレト・イリ女神は、私の姿を主権者にふさわしく創造された。清らかなシン神は、私が王権を行使することについて縁起のよい印を記された。[シャマシュ神とアダド神]は、占い師の業、変わることなき技術を私に授けられた。神々のなかの知恵者マルドゥク神は、広い知恵とはるかなる知識を私に与えられた。すべての書記術の神ナブーは、その知恵の習得を私への贈り物とされた。ニヌルタ神とネルガル神は、力、男らしさ、比類なき強さを私に授与された。
山田重郎『アッシリア 人類最古の帝国』(ちくま新書、2024年)250-251頁
「神に授けられた」とするアッシュルバニパルは傲岸不遜でしょうか。しかし、いずれにせよ、彼はその治世において、主権者としての威厳、先を見る力、広い知恵とはるかなる知識、学び続ける姿勢、比類のない強さを、発揮し続けなければなりません。
偉大なる帝国とは、義務を進んで引き受ける偉大な君主と、進んで君主に従い、君主の下で力を尽くす官や民がいて初めて成し遂げられる大事業なのですから。
しかし、狩猟採集民のメンタリティを持つ人々に、「偉大なる帝国」の存在意義を理解することはできません。どういう事情、どういう理由があると、「偉大なる君主」が現れ、人々が自発的にそれに従うなどという事態が発生しうるのか、見当もつかない。
「親の権威に従う」という発想すらない彼らにとって、帝国という巨大な秩序の存在は、恐怖と嫌悪の対象でしかないのです。
そこで、彼らは、帝国を「悪」と決めつけ、その原因を、為政者の個人的な資質に求めます。「悪い奴が力で人々を押さえつけている」。そのように理解します。
こうして、旧約聖書はアッシリアの王を悪しざまに罵り、旧約聖書の神は、アッシリアの王を超える力を見せつけるために、ひたすら理不尽な破壊に興じるのです。
◉「正しさ」を司らない神は、破壊の大きさによって偉大さを示す
◉原初的核家族は「帝国」の存在意義を理解できず、悪の権化である為政者が一方的に国民を抑圧する「地獄の専制国家」と決めつける
次回に向けて
古代イスラエルの人々が、「文明」の圧力にさらされた際の原初的核家族の心性を見事に書き記して離散した後、ユーラシア大陸では、再度、「狩猟採集民が文明の付近に投げ込まれる」(に近い)事件が発生します。
いわゆる「ゲルマン人の大移動」の中で、北方からやってきた原初的核家族の民は、ローマ帝国(西ローマ帝国のこと。以下同じ)崩壊(前)後のヨーロッパに居を定め、ローマ帝国の遺産(キリスト教を含む文明知識、行政組織など)を享受して集団として成長していく。
*人口を増やした彼らは、東方に植民したり、十字軍遠征を敢行したりして、当時の先進文明圏(ビザンツ帝国やイスラム世界)との接触も果たしました。
そして、識字率の急速な向上が始まった15世紀の終わり頃、彼らは「大航海」に乗り出し、世界を大きく変えていくのです。
*ちなみに、この段階でも、彼らのほとんどは原初的核家族のままです(まもなくイギリス、オランダなどには絶対核家族、フランスなどには平等主義核家族が生まれていきます)。なお、この講座では、トッドの立場に従い、絶対核家族と原初的核家族の相違を割と強調してお送りしてきましたが、最近の私は「この両者の相違に本質的な意味はないのではないか?」という疑念を持つようになっているため、以後、両者の区別が曖昧になり「核家族」とざっくりくくる部分が多くなると思います。ご了承ください。
旧約聖書には、確かに原初的核家族の秘密が記載されています。しかし、情報量に限りがあることも事実です。
核家族が能動的なアクターとして登場したその頃、彼らがその心の奥底に、どんなメンタリティを醸成していたのか。
「知りたいよなー」
と思って文献を探していた私の元に、神は、奇跡のような書物を遣わしたのです。
どうぞ、お楽しみに!
今日のまとめ
- アッシリア帝国を通じて「文明との遭遇」を果たした原初的核家族がまとめた文書群が、旧約聖書である
- 原初的核家族にとっては「彼らの世界」が全宇宙。他者は存在しない
- 関わりのない他者は「存在しない」扱いだが、万一攻撃してくれば「敵」となる(≒ 他者はつねに敵である)
- 和睦するという発想(能力)がないため、邪魔者は消すしかない
- 法(正しさ)を通じた平和的な問題解決能力を欠き、窮地に陥ると世界を消そうとする
- 神は、徳の高さではなく、破壊の大きさによって偉大さを示す
- 一切の権威を欠く彼らにとって、帝国という巨大な秩序は、恐怖と嫌悪の対象でしかない