目次
はじめに
本連載の最終回です。
*「近代のメンタリティ」と「「トッド後」の近代史」の両方です。ウェブサイトは続きます。
しばし物騒な話が続きますが、最後はそれなりに落ち着くところに落ち着きます。どうか心安らかにご参加くださいますように。
敵
(1)掠奪の法観念史
さて、前回予告した奇跡のような書物とは、こちら(↓)。
法制史家の山内進さんによる、
『掠奪の法観念史ー中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』
です。
まず、あらかじめお断りしておく必要がありますが、著者の山内さんこの本を書かれた目的は、「 ”抗争と掠奪と500年” の深層に迫ろう」という私たちの目的とは異なります。
少し長くなりますが、山内さんの前提とされている歴史認識が表れている部分を引用させていただきます。
近代以前のヨーロッパは、本質的には、「暴力」的社会だった。それは、権力分散的で、自力救済を基軸とする社会だった。人は自らの実力を頼りとし、生計を維持し紛争の解決をはかるにも、しばしば生の実力つまり暴力に訴えた。‥‥
山内進『掠奪の法観念史』ⅰ-ⅱ(はしがき)
言うまでもなく、近代世界はそうではない。「暴力」は、そのすべてを国家が権力として独占し、私人が暴力を振るうことは本質的に否定される。私人はあくまで「権力を持たない社会(societas sine imperio)」のうちに暮らす平和的市民であり、自力救済はごく限定的にしか認められない。正当防衛でさえ、その「正当」さが認められる範囲はかなり狭い。一般の国民が唯一公然と暴力を振るう機会である戦争においても、その暴力は完全に国家によって管理されている。その管理から逸脱する暴力行為はすべて不法であり、犯罪である。「掠奪」も、管理された暴力行使からの逸脱として犯罪とされる。われわれにとって、それは自明なことである。
*「societas sine imperio」は、国家権力以外の権力(領主、家長の特権など)が存在しない社会という意味だと思います。
山内さんご自身は、あくまで、近代以前のヨーロッパが持つ「暴力」性は、近代化によって克服されたという前提に立っている。その上で、われわれの住む世界とは「異なる」ものとしての「中・近世ヨーロッパ世界」を知るために、この本を書かれているのです。
しかし、私たちはもう「家族システムに基づく集合的メンタリティはそう簡単に変わらない」ことを知っていますので‥‥
そう。そんなわれわれにとって、この本は、近現代に通底する欧米世界のメンタリティを知るための本にほかなりません。
「掠奪」を主題に、戦争に関する法と法理論を探究するこの書物は、「自由だの、人権だの、なんちゃら主義だの・・」に飾られてキラキラ光る近代化ストーリーの陰に隠された深い穴の奥底で、ふつふつと煮えたぎっていた彼らの深層のメンタリティを白日の下に晒す、まさに奇跡の書、なのです。
著者の山内さんには、無断での「目的外使用」をお詫びするとともに、このような研究を残して下さったことについて、心よりお礼を申し上げます。
*お詫びしたいのは「克服された」という前提だからここまで書けたのではないかという気がするからです。他方で、「ひそかに告白するならば、戦争の法を生み出し、それについて詳細に論ずる学識的法理論を執拗に発展させていったことのうちに、いかにも「ヨーロッパ的なもの」があるような気がしてならない」(はしがき)と書かれる山内さんは、その感受性によって、われわれがトッドの人類学を通じて接近した「核家族たるヨーロッパ」をしかと感じ取っておられるに違いない、とも私は感じています。
*注意(というか言い訳):
山内さんご自身は、約350頁に及ぶ学術書の中で、人の掠奪(捕虜の殺害等)や物の掠奪等で項目を分け、時代や媒体(慣習、訴訟、法理論など)の別に目を配り、それぞれのニュアンスの相違や変遷に配慮しながら、そこに通底する「法観念」を抉りだして行かれるのですが、私はそれをほとんど「一言で」まとめるという乱暴なことをします。大意を正確にお伝えするつもりではありますが、「もっといろいろあるんじゃないのか?」とお感じになる方は、ぜひ、山内先生の本を直接参照してください。
(2)三十年戦争:17世紀の破壊力
出発点は、三十年戦争(1618-1648)。ちょうど、イギリスがインド洋に出て行ったのと同じ頃に、ヨーロッパで起きていた戦争です。全ヨーロッパを巻き込んだその戦争は、近代化への一里塚(主権国家体制の確立)として知られるとともに、その破壊の凄まじさでも有名です。
死者数は、ヨーロッパ全体で推計450万人から800万人(wiki英語版)。主戦場となったドイツの人口は、なんと、戦争前の3分の1から4分の1にまで激減しました。
*ドイツのヴュルテンベルクでは34万人の人口が4万8000人にまで減少したそうです(本文中のドイツの数字を含め、山内進『掠奪の法観念史』(東京大学出版会、1993年)6頁)。
兵士だけでそれほど多くの死者が出るはずもなく、上述の死者数には、兵士よりもはるかに多い民間人の犠牲がカウントされています(死者数における兵士:民間人の比率は約1:5)。
しかし、当時は、銃火器の使用が始まっていたとはいえ、せいぜい、小銃の斉射戦術が取り入れられ、大砲が野戦で活用できるようになったという程度の時代です。もちろん、大量破壊兵器もないし、無差別爆撃の技術もない。
いったい、どうやると、これほど多くの民間人の犠牲を出せるのでしょうか?
まず、現象面について、山内さんのご説明をうかがいましょう。
三十年戦争下で非交戦者の被害が大きかったのは、‥‥ とにかく全住民が直接的に攻撃、掠奪されたからである。とりわけ広く見られたのは、敵や味方側の兵士による掠奪行為である。住民が殺害されるのは、しばしば掠奪行為と虐殺行為が密接に繋がるからである。その一連の行為が戦争規模の拡大によって非常に広範に生じたことが、戦場であったドイツのあまりにも多数の住民の死を招いたのである。
山内進『掠奪の法観念史』(東京大学出版会、1993年)6頁(本文中の引用も)
掠奪。
戦争には掠奪が付きもので、掠奪は虐殺につながりがちであると。
では、なにゆえ、戦争と掠奪は一体であり、戦争となると、全住民が当然のように攻撃・掠奪の対象とされたのか。
『掠奪の法観念史』は、直接的には、この問いに答えるために書かれた本といえます。再び少し長くなりますが、引用します。
では、この三十年戦争期に、交戦者のみならず、非交戦者の殺害、その財産の破壊、奪取を一般的にもたらした「掠奪」行為はなぜそれほど広範にみられたのであろうか。戦争一般における、人間の攻撃本能の解放ということだけでは、説明は十分につかない。なぜなら、たとえそのような本能がわれわれに備わっているとしても、この攻撃欲は、近代国際社会においては、ただ組織的に解放されるだけであって、その対象は本質的には交戦者である兵士=軍人にほかならず、直接的で公然とした、住民からの掠奪は行われないからである。無差別爆撃ですら、住民の生命や財産を直接、狙うものではなく、あくまで交戦者の能力を削減するためのものにすぎない。したがって、近代国際法は一般住民の殺害はもとより、彼らに対する攻撃や掠奪を厳しく禁止している。南京事件‥‥のごとき行為は道義的にも法的にも許されず、あくまで軍の本来の行動からの逸脱と考えられる。それは本来、あってはいけないことなのである。
山内進『掠奪の法観念史』6-7頁
ところが、三十年戦争期においては、戦時下の掠奪は必ずしも「逸脱」ではない。それは当時の時代環境の下では、なかば常識に属することであり、ある意味で必然的なものであった。だからこそ、それがいたるところで見られたのである。むろん、それが「戦争の惨禍」を生み出すものであるとの認識はあった。それは不幸なものであった。だが、掠奪は、実は広く行われる一般的な慣習であり、その行為自体における後ろめたさというものは、少なくとも今日に比すれば、殆どなかった。それは、公然と実行されたのであり、その行為を隠す必要すらない、いわば自明の出来事だったのである。
だが、問題は、その自明さの根拠であり、当時の人々の常識、共通感覚の在り方である。戦時下の掠奪はどのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか。
「戦時下の掠奪は、どのような意味において、どのような感覚の下で、自明だったのであろうか。」
皆さんは、この問いが、「抗争と掠奪の500年」の深層にあるメンタリティを探究するわれわれの関心とピッタリ重なっていることにお気づきでしょう。
探り当てられた答えは、どんなものなのか。さっそく見てまいりましょう。
◉17世紀の戦争で民間人に膨大な死者が出たのは、当時の戦争に掠奪が付きものであり、掠奪は往々にして虐殺を伴ったからである
◉われわれにとっての問題は、「その深層にどんなメンタリティがあったのか」である
戦争の経済と掠奪:兵士と家族の食い扶持は‥
近代国家の成立以前、国家の戦争を主に戦ったのは傭兵です。彼らはいわば「兵士であることを職業とする、半ば独立的な自営業者」ですから、武器はもちろん、衣服や食料も自分で賄わなければならない。戦争と一体であった掠奪は、当然、彼らの生活の手段となりました。給与は大抵不十分でしたし、そもそも、傭兵の雇用主(君主です)は、最初から掠奪による補足分を見込んで給与の額を設定していたといいます。掠奪は、すでに、戦争の経済に組み込まれていたのです。
また、当時は、銃後の家族を国家が養ってくれるといったこともありませんので、兵士たちの行軍は家族と一緒。彼らもまた、掠奪に参加しました。
「被害の多くは、何百台もの荷車に乗り、何百頭もの家畜をひきつれて行軍につき従い、いなごの群れのように農村地帯をおおいかつ襲った、兵士たちの妻、売春婦、少年、子供、御者、召使の一団によるものであった。進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった相貌を呈するほどであった。」
掠奪が戦争の経済に組み込まれていたことが、戦場における掠奪の「原因」といわれることもありますが、おそらく順序は反対で、「戦争の際に掠奪を行うのは常識」という観念があったからこそ、掠奪が当然のように傭兵の食い扶持となったものと思われます。真実に近づくには、やはり「戦争と掠奪は一体」という感覚の根っこにあるメンタリティを知る必要があるのです。
(3)「敵」と戦うー掠奪のメンタリティ
①倫理的義務としての戦争
山内さんによると、戦争と掠奪が一体であった当時、戦争(+掠奪)は、単に許容される行為であるだけでなく、戦える立場の者にとっては、倫理的義務であり、名誉を高める行為でもありました。
何故に、戦争(+掠奪)が、倫理的義務なのか。その理由を示すのが、次の一文です。
封建的中世ヨーロッパの戦争は、その本質においてすべてフェーデであった。
山内進『掠奪の法観念史』34頁
フェーデ?
辞書を引きましょう。
フェーデ
Fehde ドイツ語
中世西ヨーロッパで、封建貴族や都市間に行われた合法的私戦。中世封建社会では、すべての自由人に、侵害された自己の権利を、裁判手続に訴えることなく、実力で回復する権利が認められていた。この実力行使の結果発生する戦いがフェーデであった。ゲルマン古来の「血の復讐」から発展したものであるが、一定の形式的手続を踏む必要があった点で、「血の復讐」と区別される。たとえば、3日以内に相手に通告しなかった場合は、合法的フェーデとは認められなかった。10世紀以降、教会を中心に、「神の休戦」「神の平和」という形で、フェーデを制限・禁止しようとする動きがおこり、有力諸侯や国王はこれを利用して、領内の治安維持、警察権を自己の手に集中しようと努め、ここから近代的国家権力が発展していった。ドイツでもたびたびラント平和令が発布されたが、領邦的分裂が著しかったため実効をもたず、1495年の「永久平和令」は、いちおうフェーデの全面的非合法化を達成したとはいえ、中世末から近世初頭にかけて貴族や騎士や都市間のフェーデは、ほとんど日常の現象となっていた。[平城照介]
ー日本大百科全書(ニッポニカ)ー
侵害された権利を、実力で回復する。一種の自力救済のための戦いということですね。
なるほど、自力救済だから、掠奪を伴いがちである、ということはわかります。しかし、実力で回復する「権利」があるからといって、直ちに、それが「義務」である、ということにはなりませんね。
さしあたり、「上記の辞書の記載だけでは、なぜ当時の人々が戦争(+掠奪)を倫理的義務と感じ、熱心に掠奪に興じていたのかまではわからない」ということを確認し、次に進みましょう。
◉当時の戦争はすべて「フェーデ」だった
②「敵」
フェーデというカタカナ語では言葉のニュアンスが感じられないので、語源を調べてみました。
Middle English fede ‘hostility, ill will’〔敵意〕, from Old French feide, from Middle Dutch, Middle Low German vēde, of Germanic origin; related to foe〔敵〕.
*Google検索したら出てくるオックスフォードの辞典
ほほう、これは‥‥。
「敵」ですか。
実をいいますと、『掠奪の法観念史』(全5章)の第4章のタイトルは「敵」。
*第5章は「掠奪の非合法化ー近代ヨーロッパ世界の誕生」ですから、第4章は、合法な掠奪に関する研究の最終章、結論部分に当たります。
『掠奪の法観念史』もまた、フェーデとしての戦争(+掠奪)、そして中・近世ヨーロッパの法観念の核心部分に「敵」の概念があった、という結論に達しているのです。
*おことわり:『掠奪の法観念史』は、冒頭部分では、三十年戦争の惨禍(掠奪による被害のすさまじさ)と、フェーデを基礎づける「権利のための闘争」の観念との関連性を示唆するにとどめ、じわじわと本丸に迫っていって、最終盤(第4章)で、掠奪行為を積極的に正当化する要素である「敵」の観念を登場させる、という構成になっています。そのため、私たちが知りたい基本的な情報が集中している冒頭箇所には肝心の「敵」が出てこず、より専門性の高い議論が行われている終盤になって初めて「敵」の概念が登場するのです。この構成は、私たちにとってはちょっと不便なので、誠に勝手ながら、以下、冒頭箇所を引用する際に、必要に応じて「敵」の観念を付け加える、ということをさせていただきます(明示はします)。
◉フェーデとは、自らの権利を「敵」から守るための戦いである
③権利のための闘争:相手は「敵」
いきなりの結論で恐縮ですが、『掠奪の法観念史』は、中・近世ヨーロッパ世界の根底にある「法観念」を、ひとことで、次のようにまとめています。
「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身の生命、財産、名誉ならびに自身の親族もしくは親族類似のもののために実力をもって戦うことは正当である」というものであろう。この文字通りの「権利のための闘争」の観念こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。
山内進『掠奪の法観念史』41頁(第1章)
ただし、これは冒頭部分の記載なので、端的に結論を知りたい私たちとしては、第4章で登場した「敵」の観念を補足して読む必要があります。
そこで、上の文章(マーカー部分)に、「敵」の観念を補足して修正してみたものが、つぎの文章です(大きく変えた部分だけマーカーします)。
「中・近世ヨーロッパ世界」に特有の、そしてその根底にある「法観念」は、ひとことで表現するなら、「自己自身(ならびに親族・親族類似のもの)の生命、財産、名誉を脅かす他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」というものであろう。この「正義の回復=集団的懲罰としての戦争」の観念、「敵を懲らしめることは正義であり、正義の回復のために武器を取ることは義務である」という規範こそ、人々の行動と意義、社会や政治的共同体そして共同体相互の関係を規律し、法と法理論を貫くものであった。「掠奪」もまた、この観念の一翼を担い、その下で実行され、自明視され、法的に正当とされたのである。
いかがでしょう。修正前の文章と、修正後の文章では、ずいぶん雰囲気が違うと感じられるのではないでしょうか。
修正前の文章における「権利のための闘争」は、私たちの知るヨーロッパと地続きです。実力行使を許す点に荒っぽさが残るとはいえ、自由と権利を重んじる近代ヨーロッパの原風景がここにある、という感じがする。
修正後の方はどうでしょう。
純然たる復讐ではなく「正義」を論じる点にわずかに文明の息吹が感じられないことはない。しかし、利害の対立する他者は「敵」であり、「敵」と決まった相手とは戦うほかない、というあり方には、合理性のかけらも、人道主義の気配も感じられません。
それでも、山内さんが最終的にたどり着いた結論により近いのは、間違いなく、この後者の方なのです。
*山内先生、本当にごめんなさい。
何故に、当時の人々は、戦争(+掠奪)を倫理的義務と捉え、激しい掠奪を実行したのか。その答えは、以下の引用部分に明確に記されています。
ヨーロッパ中世の戦争は本質的にフェーデであり、権利のための闘争(→「敵」に対する、正義の回復=集団的懲罰としての戦争)であった。この考え方が、根本のところで戦争つまりフェーデの実行方法を規定した。正しいフェーデの正当な実行手段は3つある。
36-37頁(文中の引用はブルンナー 太字は辰井の加筆)
(1) 敵対者およびその援助人の殺害、
(2) 敵対者およびその援助人の捕獲、つまり彼らを捕虜にすること、
(3) 敵対者およびその援助人に損害を与えることである。
第三の手段は、具体的にいうと、主に掠奪と放火である。オットー・ブルンナーは、この三つの手段のうち、第三の掠奪と放火を「フェーデ実行の主要な手段」と考えている。なぜなら、フェーデは、敵対者(敵対集団)から損なわれた権利を回復し、不法を排除することを本来の目的としているから、血讐の場合を除けば、相手を殺害するよりも、むしろ相手集団に損害を与えてその力を弱め、自己の権利を実現すべく強制することの方がより妥当と考えられたからである。「そのようなわけで、フェーデはとくに『掠奪と放火(Raub und Brand)』、劫掠と破壊によって実行された。人は敵の勢力下に侵攻して『領国を破壊しなければならない(ad destruendam terram)』。そして、敵の領国を『荒廃させ(oede machen)』ねばならない」。
当時の人々が、「権利のための闘争」を、(単なる権利ではなく)「倫理的義務」と感じていたのは、大前提として、「利害が対立する他者はおしなべて敵である」、もっといえば、「利害が対立する他者は不法=悪であり、懲罰の対象である」という観念があったからです。
*上の引用からは、引用文中でさらに引用されているブルンナーがフェーデの合理的解釈(「自己の権利を実現すべく強制する」など)を試みているために、「懲罰」の趣旨が読み取りにくくなっていますが、実際には、フェーデではまったく単純に「損害を与える」(敵の勢力を殺ぐ)ことが重視されています(248頁)。「敵」であることを理由に、正義として肯定される加害(破壊!)とは、普通の日本語でいえば「懲罰」(敵を懲らしめる)に他ならないと考え、ここでは「懲罰」の語による説明を採用しています。
フェーデとは、したがって、決して、単なる自力救済のための戦いではない。その主目的は、むしろ、「敵」を懲らしめ、その戦闘力(=敵対的に行動する能力)を奪うことにこそあるのです。
*「敵を懲らしめ戦闘力を奪う」ことこそが「権利の回復」である、というメンタリティの下では、自力救済と私的制裁(懲罰)をイコールで結ぶことは可能です。
当時のヨーロッパの戦争は、すべて、その本質において、「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」ためのフェーデであった。
だからこそ、当時の人々は、敵対する共同体の全成員に対して、共同体が求める倫理的義務として、堂々と、熾烈な掠奪を実行したのです。
◉ヨーロッパの法観念の基礎には、「利害が対立する他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」という観念があった
◉「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」ことが正義であったからこそ、人々は、敵対する共同体の全成員に対する熾烈な掠奪を倫理的義務として遂行した
(4)近代とは何か
①なぜ「敵」なのかー「文明との遭遇」再び
では、この「敵」の観念、利害が異なる他者を「敵」と見て、懲らしめることを義務と見る。その感じ方は、どこから来たものなのでしょうか。
*まっとうな法制史の研究書である『掠奪の法観念』は、観念の由来にまでは踏み込んでいないので、導き手としての同書の役目は前項まででおしまいとなります。山内先生、本当にありがとうございました!
トッドに学んで、探究を続けてきた私たちには、すでに、かなりのことが明らかだと思います。
当時のヨーロッパの大部分は核家族(原初的核家族)であり、一部に生まれていた直系家族もまだ確固としたものではなかった。
つまり、この頃のヨーロッパ人は、再び、文明世界に投げ込まれた狩猟採集民そのものだったのですから。
前々回(狩猟採集社会)、前回(旧約聖書)の探究を踏まえて、彼らのメンタリティを追体験してみましょう。
見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。
そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。
身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。
「こんなところでは、生きていけない!」
恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。
ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデですね)。
その実態は、自力救済や正当防衛というよりは、「やられる前にやる」方式の、かなり攻撃的な戦いであることがほとんどだと思います。
しかし、彼らから見れば、それは、純然たる「自衛のための戦い」であり、「敵」から共同体を守るための、正義と名誉をかけた戦いなのです。武器を取って戦いに赴くことは、当然、成年男子の義務、と感じられるでしょう。
こうして、「敵」と戦うことによって、「敵」と戦うことによってのみ、彼らは、「満員の世界」を生き抜き、国家の形成に向かうことができたのではないか。
第1回で紹介した「人間の本性」に関するトッドのコメント(↓)は、おそらく、「文明との遭遇を果たした原初的核家族」という限定された対象にこそ、もっともよく当てはまるものなのです。
集団の一体性は、他の集団への敵意に依存する。内部での道徳性と外部への暴力性は機能的に結合している。したがって、外部への暴力性のあらゆる低下は、最終的には、集団内で道徳性と一体性を脅かす。平和は、社会的に問題なのである。
『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』154頁
◉満員の世界に投げ込まれた狩猟採集民の恐怖が「敵」の観念を作り出し、「敵と戦うことは正義(義務)である」という感覚をもたらした
◉「敵意原則」(集団の一体性は他の集団の敵意に依存する)は「文明と遭遇した核家族」にもっともよく当てはまる原則である
②「文明化」への歩み
こうして何とか文明に適合し、国家を作り上げた彼らが、のちに家族システムを進化させたかといえば、さにあらず。彼らの多くは、人口を増やし、教育水準を上げてもなお、核家族であり続けました。
その代わり、彼らは、ローマ帝国の遺産を譲り受け、一神教という「代替権威」を支柱として用いた。キリスト教の存在は、彼らの「文明化」にとって、本当に貴重で、有意義なものだったと思います。
*ここでは、他者(集団)との平和的共存能力の向上を「文明化」と表現します(本講座は集団間の平和的共存こそが家族システムの進化=文明化の本源的な目的と捉えています)。
しかし、信仰は、彼らの最も深い部分のメンタリティ(家族システム)にまで影響を及ぼすことはなく、やがて、彼らは、識字化の進展とともにそれを投げうってしまう。
結局、集団の一体性を保つための道具として、彼らがその集合的メンタリティの中に一貫して持ち続けたのは「敵意原則」それだけだったのです。
「利害が対立する他者は敵である」「敵と戦うことは権利であり義務である」という前提に立つ彼らは、文明国家の流儀に則り、その規範を、仔細に法律文書に書き込みました(『掠奪の法観念史』の資料となったものです)。
ところが、そのままスクスクと成長を続けた彼らが、「正義」「名誉」「権利の回復」などといいながら、「敵との戦い」を続けると、17世紀のある時、地上に地獄が現れた。
三十年戦争の壮大な破壊を目の当たりにした人々は、粛然とし、「敵である以上、そのすべてを破壊し荒廃させることこそが正義であり、名誉ある者の義務である」という規範の問題性に気づきます。
そこで、彼らは、規範のとげとげしさを緩和するなどの方法で、さらなる「文明化」を図ろうとしました。
三十年戦争の戦後処理の過程では、主権国家の概念を確立し、国家間の関係を律する法律を作り(国際法)、勢力均衡を図って、戦争の惨禍を軽減しようと努めた。二つの世界大戦を経ては、各種の国際組織を作り、戦争を原則として違法とし、紛争の平和的解決を義務付けたりもした。
そうして、彼らは「文明化」を成し遂げた、というのが、教科書的な筋書きなのですが。‥‥
本当のところは、どうだったのでしょうか?
◉「敵との戦い」によって地上に地獄が現れたのを見た彼らは、ついに「文明化」の方向に舵を切った
③西欧は変わったのか?
そうした様々な試み、様々な努力は、果たして、彼らの集合的メンタリティに変化をもたらしたのか。
いま、私たちが、躊躇うことなく、問わなければならないのはこの問いだと思います。
急いで付け加えますが、私は、もちろん、彼らの努力を軽く見ているわけではありません。
ウェストファリア条約(三十年戦争の講和条約・世界初の近代的国際条約であるとされる)、国際法、国際社会、国際組織の確立、こうした事象は、紛れもなく「文明化」への第一歩であったでしょう。
他者は存在しない。眼前に現れた他者は敵である。集団性を保つ唯一の方法は、敵と戦うこと。そんなメンタリティの人々が、曲がりなりにも、「他者との平和的共存」を目指して進み始めたのですから。
彼らにとって「文明化」への道は、苦痛と恐怖を伴うものであったに違いなく、それでも、文明の高みを目指した彼らの真率に対して、私は、いささかの疑義も持ちません。
*トッドなら「人間が天使の高みに舞いあがろうというような途方もない努力」とでも表現するでしょう。
しかし、果たして、その努力は報われ、彼らは「文明人」に変貌を遂げることができたのか。
彼らのメンタリティは、多少なりとも、進化した家族システムのメンタリティに近づき、この地球上において、「人類の平和的共存」を支えうる存在となったのか。
答えは「否」である、と私は考えます。
◉「文明化」のための努力によって、彼らの集合的メンタリティは変化したのか?
④核家族にとって「文明化」とは何か
事実を確認しましょう。
西欧の中で戦争を律する機運が生まれていたちょうどその頃、地球の裏側では「抗争と掠奪」の活性化が観測されていました。主体は、彼ら自身です。
近代国家の生成に際しては、イギリスはアイルランド人、アメリカは先住民に対して、旧約聖書の神もかくやと思われるほどの、激しい殲滅戦争を展開しました。
その後、主に欧米圏内部での多数の国際戦争と、二度の世界大戦を経て、彼らはついに、西側諸国の間では、戦争をやめたように見える。しかし、世界各地での彼らの戦争行動はむしろ活性化しているのです。
最初は冷戦(舞台は全世界でした)。
ソ連崩壊後は、西アジアや中央アジアに「敵」が見出されました。
ここ最近は、ロシアを「敵」と定めてウクライナ戦争を引き起こし、中国に対する敵意を煽って「台湾有事」を目論み、西アジアでの掠奪と破壊と虐殺に(控えめにいっても)大いに加担している。
彼らの集合的無意識の中で「平和的共存」に資する要素がそれなりの位置を占めているとは到底思えない様相である、といわなければなりません。
一方、彼らのメンタリティが狩猟採集時代のままであると仮定すると、以上の事実は、次のように説明できると思います。
狩猟採集民にとっては、彼らが暮らす世界がすべて。世界は一つです。
*これはこれで平和です。何の問題もありません。
そんな彼らが、そのままの状態で文明に放り込まれると、世界は二つに分離します。自分たち(以下「身内」)の住む世界と、「他者=敵」の住む世界です。
彼らはまず、他者を敵とみなし、「敵意原則」を活用して集団をまとめ、国家を成立・発展させました。
しかし、「敵と戦う」という、彼らなりの正義の追究が、地上に地獄を顕現させたのを見て、彼らはついに「文明化」を志す。
その「文明化」とは何であったかが、ここでの問題です。
「文明化」のために彼らが行ったのは、実質的には「身内の拡大」ではなかったか、と私は見ています。
身内とは、(彼らの世界観では)「敵」の反対概念です。「自分の延長」とでもいったらよいでしょうか。
*フェーデの説明のところででてきた「自己ならびに自身の親族もしくは親族類似のもの」がこれにあたります。
多少の利害の対立(もめごと)があったとしても、(少なくとも直ちには)「敵」と観念されることはなく、したがって、フェーデ(戦争)の対象にはならない。そういう対象がここでいう「身内」です。
古くは親族集団のみであった「身内」は、やがて地域の共同体(?)などに拡大したと思われますが、三十年戦争終結後にはこれが主権国家にまで拡大します。
以後、第二次世界大戦の終結までの期間に、「身内」の範囲は漸次拡大を続け、最終的には、西ヨーロッパとその派生地域のすべてが「身内」の範疇に入ったのです。
狩猟採集時代の自由なメンタリティのままで、これほど広い範囲を「身内」に収めることができるなんて、なんて素晴らしい達成でしょう!
おそらく、この感嘆こそが、国際連合憲章の採択、世界人権宣言の起草・採択といった平和への動きに伴う多幸感の源にあったものです。
*イヤミに聞こえると思いますが、これが大変な偉業であったことは事実だと思います。
しかし、彼ら自身、気づいてはいなかったと思いますが、彼らの一体感を可能にしたものは、実際には、オスマン帝国やロシア帝国(→ソ連邦)、日本という明確な「敵」の存在にほかならなかったのです。
*意地悪く付け加えると、当時の彼らにとって、上記の「敵」以外の他者は存在しないも同然だったと思います。
絶大な国力を誇るアメリカという覇権国が誕生し、誰もがアメリカの下での平和を願ったにもかかわらず、実現しなかったのは、おそらく、彼らにとってはいささか広すぎる「身内」の結束を維持するために、それに見合った「敵」が必要だったからです。
彼らは、必要に迫られて、まずは冷戦を戦いました。「必要」こそが、彼らを戦いに駆り立てているのですから、冷戦が終わったからといって、戦争をやめることはできない。一つの敵が倒れたら、また新たな敵を探すだけです。
ちょうど、この間、世界各地では、それまで彼らにとって「存在しない他者」でしかなかった人々が、識字率を上げ、存在感を増していた。この人々は、もちろん、彼らの目には「自分たちの権利を侵害する敵」にしか見えません。
世界を圧倒する豊かさを実現したにもかかわらず、なお、周辺の民を帝国の臣民として同化させるというやり方を知らない彼らは、すべての「敵」に、従属(隷属?)を求めます。
*そうなのです!核家族の(帝国主義の)「帝国」が、共同体家族の帝国と大いに異なる点は、彼らが決して「敵」を同化しないことだと思います。「敵」はいつまでも「敵」である(そうでなければ、彼らの一体性の維持に役立ちませんから)。「敵」とみなされた者は、未来永劫、「敵」であるまま、彼らに従属しなければならないのです。日本もこの扱いだと私は見ていますが、どうでしょう。
しかし、別に戦争をして負けたわけでもないのに、誰も彼もが大人しく従属する道を選ぶはずはない。まして、その「敵」は、近代化の過程を歩んでいる最中の、勢いのある人々なのですから。
世界の半分以上を占める「敵」に怯える彼らは、彼らの「自由」と「権利」を守るため、「敵」が強者となって彼らの前に現れることが決してないように、「敵」を蹂躙し、掠奪し、その力を奪い尽くそうとします。三十年戦争の頃の掠奪とまったく同じように。
*掠奪がかなり普通にビジネスの一環となっている点も当時と似ていますね。
それでも抵抗をやめない者には消えてもらうしかない。彼らはそう考えるでしょう。
ああ、そして、もし、彼らの集団が真に存続の危機に陥った(と彼らが感じた)ときには、他者のすべてを殺害し、文明のすべてを破壊しても、自分たちだけは生き延びようとするのではないでしょうか。
*もちろん、成功はしないでしょう。
世界は、こうして、現在のこの局面に到達した、ということではないでしょうか。
◉「身内の拡大」によって欧米世界内部の戦争は克服されたが、「敵と戦う」を基本とする姿勢は変化しなかった
◉彼らが「敵」と戦い続けた結果、世界は現在の局面を迎えた
⑤近代とは何かー核家族の現在
近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」という観念であり、「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である(いずれも無意識の次元に存在します)。
以上が本連載(近代のメンタリティ)の結論です。なんとまあ、物騒な仮説にたどり着いたことでしょう。
しかし、研究者としての私は、大いに満足しています。なぜって、この仮説は、私が長年感じていたモヤモヤの全てを払拭して余りあるものであるからです。
人類が、地球上の一生物(いちせいぶつ)として破格の物質的豊かさ(安定した生存環境)を手に入れてもなお、競争に明け暮れ、経済成長を続けなければならないのはなぜなのか。
二度に渡る凄惨な世界大戦を経てアメリカという圧倒的な覇者を得た世界が、少しも平和にならなかったのはなぜなのか。
敵対する相手(大抵自分より弱い)を、挑発して挑発して挑発して挑発して、耐えられなくなった相手が攻撃を仕掛けてくると、鬼の首でも取ったように「権利」を主張し、正義の名の下に、激しい殲滅戦を展開して破滅に追い込む。そんなことを、17世紀から現代まで、ずっと繰り返しているのはなぜなのか。
仕方ありません。だって、「他者は敵」であり、「敵とは戦わなければならない」。そして、そうしなければ、自分たちの生存が危うい、と彼らの無意識は信じているのですから。
*人間は社会(集団)内で生きる生物なので、集団の危機は生存の危機です。
彼らは彼らなりに努力をしたけれど、結局、本物の「帝国」や「世界帝国」のメンタリティを持つことはできなかった。それは、私たちが、努力に努力を重ねても、西欧近代のメンタリティを持つことができなかったのと全く同じです。
戦って、戦って、築いてきた覇権が失われようとしている現在、彼らがその心の奥深くで感じている恐怖のほどは、想像に余りある、といわなければなりません。
新しい世界が顕現する過程で、彼らが見せるであろう狂気と混乱。同じ人類として、しっかりと受け止めましょう。
◉近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である
権利/自由
(1)近代法の本質ー権利とは何か
えーっと、後ろの方で手を挙げている方がいるようです。ご質問、あるいは抗議でしょうか。どうぞ。
「彼らは、自由、基本的人権、民主主義、法の支配といった普遍的価値を世界にもたらしてくれた人々です。そんな彼らを駆動していたメンタリティが「他者は敵である」「敵とは戦わなければならない」だなんて、あり得ない。何かの間違いではないでしょうか。」
質問者は以前の私、あるいは、ひょっとして私の元学生さんかも‥‥貴重な機会を与えていただいてありがとうございます! しっかりとお答えします。
*私はもともとは法学(刑法学)の研究者で、西欧近代がもたらしたこれらの価値の重要性を学生に伝える立場にありました。
最初に申し上げますが、私は、これらの「普遍的価値」が、日本において、また世界において、果たしてきた役割を、否定するつもりも、軽視するつもりもありません。
しかし、これからも、世界の中心で燦然と輝く、特別な存在であり続けるべきなのか、と問われれば、現在の私の答えは「否」です。その点に迷いはありません。
理由を説明させていただきますね。
(2)民主化を指南した「権利」
まず、自由、基本的人権、(欧米流の)民主主義、法の支配。これらすべての「普遍的価値」の根本にあるのが「権利」の観念である、ということはご理解いただけると思います。
*自由と権利は同義といえますし、基本的人権とはすべての人間がただ人間であることの故に当然に有するとされる権利のことです。民主主義は、個々の人間には自身が所属する共同体の意思決定に参画する権利がある、という考え方によるものですし、法の支配は、国家権力の恣意的な発動によって個人の権利が害される事態を防ぐことを主眼とするものです。
一人ひとりの人間には、守られるべき「権利」というものがあり、人民は自ら戦うことで「権利」を勝ち取ることができる。この「権利のための闘争」こそが、自由で民主的な社会における、人民の責務なのだ。
*「権利のための闘争」は一般的な用語として用います。イェーリングの著書を指しているわけではありません。
それまで、「お上には従うもの」とばかり思っていた日本の、そして非西欧世界の若い国民たちは、このロックな(?)考え方に激しい衝撃を受け、自分たちもまた、拳を振り上げる彼らの一員に加わることを決めたわけです。
では、その「闘争」は、誰に対する戦いであったのか、というと、日本、そして非西欧世界の文脈で想定された「敵」は、いうまでもなく、上位者として民衆を支配する権威(政治権力、既得権益層、帝国主義支配を行う宗主国等)でした。その場合、「権利のための闘争」とは、要するに、民主化闘争ですよね?
西欧から少し遅れて識字率を上げた諸国民にとって、「権利のための闘争」の思想は、先を行く西欧が託してくれた「民主化の指南書」として機能し、彼らを励まし、支えることになったのです。
(3)「敵」とともに「権利」は生まれた
もちろん、西欧でも、識字率の上昇局面(民主化過程)での「闘争」相手が、教会や国王に代表される支配層であったことに違いはありません。
しかし、私たちがあまり意識してこなかった、非常に重要なことは、「権利」の観念は、彼らにとっては、近代よりもずっと前、まだもっともらしい権力など存在しなかった(彼らの)歴史の最初期から、馴染みの観念であった、ということなのです。
*業界内では(ある程度)知られていた事実ですが、「トッド前」の歴史観の下で、「すでに克服されたもの」として軽視されたり、美化=合理化して捉えられていたのではないでしょうか(私自身はそうでした)。
ヨーロッパにやってきた原初的核家族のゲルマン社会は、フェーデの由来である「血の復讐」(blood feud)を行なっていたとき、すでに「権利」の観念を持っていました。
血讐 けっしゅう 古代国家の形成過程に現れた復讐制度をいう。古ゲルマン社会において、氏族(ゲンス、ジッペ)の構成員が他の氏族の構成員から法益(生命、身体、財産、名誉)を侵害された場合、被害者の氏族の構成員には復讐の義務があった。氏族構成員が殺された場合、加害者の属する氏族のだれに対しても血の復讐をしなければならなかった。‥‥ [佐藤篤士] ー日本大百科全書(ニッポニカ)ー より一部を抜粋
上の説明でニュートラルに「法益」と表現されているものが、ここでいう「権利」に当たります。
*「トッド前」の歴史観の下では、血讐もフェーデも、現代人に理解可能な要素を強調して説明される傾向があり、当時の人々の感じ方とは少し違う印象で伝わりがちであると私は見ています。「利益を害された場合に復讐した」といえそれなりに合理的に思えますが、実際には「利益を害された」かどうかは極めて主観的な判断で、まったく不合理なものであることが少なくなかったはずです。『掠奪の法観念史』を再度引用します。「‥‥フェーデはひんぱんに発生した。名誉の観念は非常に主観的であるから、当事者がそう思いさえすれば容易に権利=名誉のための闘争になるからである」(36頁)。
権利は、いつ、どのように発生したのか。実は、私たちは、その瞬間をすでに追体験しています。大事なところなので、少し長めに再掲します(飛ばして読んでください)。
見渡す限り、親族集団以外の人間は存在せず、他の集団とすれ違っても関わりを持たない(他者は存在しない)。万一攻撃をしてくる人間がいたら、そのときは「敵」と見做し、戦って追い払う。
そんな暮らしをしていた人々が、反対に、見渡す限り人が住まない土地はない、人口密度の高い世界に暮らすことになったとき、何が起きるか。
身内以外のすべての人間が、本来存在してはならない幽霊か、牙を向いて向かってくる「敵」に見えてしまう彼らにとって、「満員の世界」はホラーの世界です。
「こんなところでは、生きていけない!」
恐怖に震える彼らは、自分たちの周りを線で囲い「入ってくるな」というでしょう。(→「権利」が発生しました!)
ズカズカと入ってくる(と彼らが感じた)人間は誰であれ「敵」と見做して追い払い、二度と自分たちの領域が侵されることがないよう、全力で戦うでしょう(フェーデの由来です)。
「敵」(≒ 悪)に怯える彼らは、自分たちの領域を、絶対に侵されてはならない「権利」(right)の領域と観念し、戦いによってこれを守り抜くことを誓いました。
そして、彼らが彼らのやり方で戦っても、地獄に落ちたり、お尋ね者になったりしないよう、戦うための「権利」を確保し、制度を整えていきました。
ざっくりいえば、こうして誕生したのが「権利」の観念であり、西欧が世界に誇る「近代法システム」なのです。
◉「権利」は「敵」と同時に誕生した
◉西欧の法体系とは、「敵から権利を守るための戦い」を正当化するための仕組みである
(4)日本の場合ー不当なことは何もない
欧米人は一般に権利意識が高く、裁判を通じてであれ、自らの正義を主張し、権利を守るためには、徹底的に戦う意志を持っている。彼らのそうした態度こそが、自由で民主的で「法の支配」の行き届いた「進んだ」文明の証とされてきました。
それに引き換え、日本の国民は、権利主体としての意識に欠け、お上にいわれるがままで、司法制度の利用率も低くて‥‥ということが、明治期以来、一貫して「問題」とされてきたわけです。
しかし、いまや、日本や非西欧諸国に「権利」という強い観念が生まれなかった理由は明白だと思います。
集団の共存のために進化した(「権威」を伴う)家族システムを持つ人々にとって、他者とは「何とかうまくやっていくべき相手」であり、「敵」ではありません。
利害の対立は、相互の調整によって解決されるべきものであり、相手を「敵」とみなして打ちのめし、自分だけが「権利=利益」を勝ち取ろうなんてもってのほかだ。
このようなメンタリティが、「権利の擁護」よりも「共存のための調整」を重視する法や社会制度をもたらした。この点に、不当なところは何もないと言わなければなりません。
「すべての人間には天から与えられた権利があって、幸福を追求する自由があるなんて、なんて素敵なことだろう‥‥」
こう、うっとりした後、皆さんの多くは、ハタと立ち止まりましたでしょう?
「でも、そのためには、裁判で戦ったり、選挙に打って出たり、声高に意見を主張したり、デモ行進をしたり、議論を戦わせたりしないといけないんですよね?」(そんなこと、ちょっと、私にはできないな‥‥)
真面目な方なら、そんな自分に罪悪感を感じ、自分自身を責めたり、一所懸命に努力して攻撃性を身につけたり(!)したかもしれません。
*皆さん、ごめんなさい! 私も長い間どっちかといえば責める側にいました。私が間違っていました。
しかし、そのメンタリティは、明らかに、他者との平和的共存のために進化した家族システムから来るものであり、断じて「遅れている」わけではない。
このことは、はっきりさせておきたいと思います。
◉日本に「権利」の観念が生まれなかったのは、他者は「敵」でなく、平和的共存の対象だからである
(5)権利と自由 ー「戦い」以外の方法を探そう
西欧近代は、私たちに、人間は、文明国家の国民である以前に、狩猟採集時代と変わらぬ一個の人間であることを教えてくれました。
人間には、一個の生物として、自らに関わることを自分で決めたいという自然な願望がある。この自由の観念こそが、世界中の人々の共感を呼んだのです。
しかし、その自由を得るためには、私たちも、権利意識を高め、徹底的に戦う姿勢を身につけなければ‥‥いけないのでしょうか?
「自由」はなぜつねに戦いや競争を要求するのか。これは、私が法学の研究者であった頃から、いつも何となく疑問に思っていたことなのですが、いま、ようやく、その理由がわかりました。
*ちょっと抽象的ですみませんが、自由のために理論を整備すると、競争を促進したり、闘争を煽ったりすることになることが多いのです。「規制しない=競争原理に委ねる」になるとか、理論上は容易に自由を主張できるが現実に自由を謳歌するには訴訟に打って出て裁判に勝たなければならないとか(後者の場合、誰も裁判など起こさないので結局誰も自由を謳歌できない)。
原初的核家族は、自分たちが狩猟採集社会において持っていた単純な自由(事実状態としての自由、とでもいいましょうか)を、「権利としての自由」に変えてしまった。
*(3)の再掲部分「→「権利」が発生しました!」は「→自由が「権利」に変わりました!」といいかえることが可能です。彼らは、単純な自由を、敵から囲い込むことによって「権利」に変えたのです。
そのせいで、「自由」は、個人や集団が「権利のための(敵との!)闘争」によって死守しなければならない対象に変わってしまったのです。
もちろん、この顛末は、まったく必然的ではありません。
私たちにとって、他者は敵ではありません。他者との共存のためには、人類が狩猟採集時代に持っていた自由を(一定程度)制限する必要があることだって、百も承知している。
*なお、確たる権威が存在している社会で、全体の都合のために、個人の自由(利益)が(しばしば必要以上に)侵されがちであるというのはある程度事実だと思いますが、権威が存在しない社会では、戦わない、あるいは、戦いに敗れた側の利益(自由)が軽視されがちであることも明白なので、全体としてどちらの社会が、個人の利益(自由)をより尊重する社会かは、簡単には比較できないと思います。
そうしたメンタリティの社会において、「もう少し自由の領域を広げた方が‥」とか「私たちにこういう自由を認めてほしいんですけど‥」といった意見は、「社会をよりよくするための建設的な提案」にすぎません。戦いなんか、必要ない。
*日本の場合、どういうやり方で話を通すと提案が実現されやすいかを考えてみると面白いと思います。たぶん、それが日本が公式に採用すべき意思決定の方法です。
ああ、それなのに、私たちの社会は、「自由=権利を守るために敵と戦う」ことを基本仕様とする法・政治制度を(公式には)採用しているのです。
「なんで、戦わなければならないの?」
「戦うくらいなら、自分ががまんした方が100倍まし」
となるのは、当然ではないでしょうか。
私は、日本の人たちが、社会に対する関心が薄いとはまったく思いません。多くの人は、社会に関心もあるし、社会の役に立ちたいと願っている。
政治や司法や言論が「戦いの場」となっているから、一般の人たちは関わろうとしない。それを、欧米基準の指標で測って「日本人は政治に関心が低い」「社会正義に関する意識が弱い」「社会に対する主体性が低い」などとレッテルを貼り、当人たちもそう思い込んでしまう。
何と馬鹿げたことでしょう!!
「権利」という観念の根っこにある「他者は敵」という世界観が、毎日毎日、絶えることなく、抗争と掠奪、暴力と殺戮、そして凄まじい破壊を生じ続けている現状を見るにつけ、この期に及んで(欧米流の)「普遍的価値」の称揚を続けるのは、ちょっと非常識だし、無責任である、と思われてなりません。
私たちに必要なのは「戦い」以外の方法だし、たぶん、世界も、「戦い」以外の方法を必要としている(平和のためです!)。
私たちが、「普遍的価値」の無批判な称揚をやめ、足元を見つめ直し、これまで目を向けて来なかった文化圏のあり方を真剣に学ぶことを始めれば、その方法は、案外簡単に見つかるのではないでしょうか。
◉「自由」に「戦い」が付き物なのは、文明と遭遇した核家族が単純な自由を(敵との戦いによって死守するべき)「権利」に変えたためである
◉私たちに必要なのは、権利意識を高めて戦いに臨むことではなく、「戦い」以外の方法を見つけることである
おわりに
ふう‥‥ ようやく終わりましたね。
まずは、探究にご同行いただいた皆さんに、心からお礼を申し上げます。どうもありがとう!
なかなか激しい旅であったと思うので、もしよければ、感想などお聞かせくださいね。
ところで、今回の探究は、「抗争と掠奪の500年と和解する」というミッションを帯びていました。
私自身は「なるほど、まあ仕方なかったんだな」と感じ、それなりに納得感を得ましたが、皆さんはいかがでしょうか。
きっと、「和解はまだ無理」という方もおられると思います。それはそれでもっともなので、「こんなめちゃめちゃな世界にしたのは、あんたたちだ!」と、彼らを非難してみてもいいと思います。
しかし、想像してみると‥‥
彼らは、多分、こう答えるのでは。
「私たちは、何も間違ったことをしていません。私たちは、ただ、神のお造りになったまま、全き人間であっただけです。あなた方が、文明とやらを打ち立て、無闇に人間の数を増やしたから、こんなことになったのではないですか?」
西アジアの惨状を横目に、宇宙からこのやりとりを眺めている生命体がいたら、泣きながら爆笑してしまうのではないでしょうか‥‥
・ ・ ・
最後に一つ、誤解があってはいけないので、ずっと空欄であった右下のマスを埋めておきましょう。
識字化した核家族の基幹的価値には、何と書き込めばよいでしょう。「敵」それとも「敵と戦う」?
本講座は、正解は(原初的核家族と同じ)「自己保存」であると考えています。
「自己保存」という価値は、すべての生物の基本であって、何ら不穏当なものではありませんね。
*より多くの人間の「自己保存」への配慮が、家系永続、国家安寧、世界平和への発展をもたらしたと考えられるので、すべての家族システムは「自己保存」の価値を包含しているといってよいと思います。
それなのに、なぜ、近現代は「抗争と掠奪」「暴力と殺戮」の時代になってしまったのか。
本講座の仮説によると、それは、彼らが「満員の世界」への適応(=権威)を持たないまま、文明社会を生きる羽目になったためにほかなりません。それ以上でも、それ以下でもないのです。
*家族システムにおける「権威」は(副次的には「平等」も)、他者との共存を容易にするための自己抑制のツールです。
この先、この世界をどう生きるかは、全面的に、私たちの創意工夫に委ねられている。私は、以前にも増して、強くそう感じています。
だって、決まりきった正しさなんて、もう、本当に、どこにもないでしょう?
今日のまとめ
- 17世紀ヨーロッパの戦争では民間人に膨大な死者が出た
- ヨーロッパの法観念の基礎には「利害が対立する他者は敵であり、敵と戦うことは正義である」という観念があった
- 当時の戦争は「敵」から自分たちの権利を守るための戦い(フェーデ)であり、人々は「敵を懲らしめ、敵の戦闘力を奪う」べく、倫理的義務として、熾烈な掠奪(+往々にして虐殺)を遂行した
- ヨーロッパは「満員の世界」に投げ込まれた狩猟採集民の恐怖が生み出した「敵」の観念を持ち続けた
- 識字化した核家族は、「身内の拡大」によって「敵との戦い」の対象範囲を縮減し、欧米世界内部の戦争を克服したが、「敵との戦い」を集団をまとめる唯一の手段とする集合的メンタリティは克服していない
- 「敵」の観念と同時に「権利」の観念が生まれ(=自由が「権利」に変わり)、やがて「敵から権利を守るための戦い」を正当化する仕組みとして近代法体系が生成した
- 近代の基礎にあるのは、原初的核家族が文明と接触したことで生成した「他者は敵」「敵とは戦わなければならない」という強迫観念である
- 識字化した核家族の基幹的価値は「自己保存」。それが「敵との戦い」に転じたのは、彼らが「満員の世界」に適応するためのツール(権威)を持たないためである