中東の内婚制共同体家族、中国の外婚制共同体家族の由来が大体分かると(「家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史」をご参照ください)、つぎに気になってくるのはロシアです。ロシアは確固たる外婚制共同体家族地域です。そのせいで、中国と並び、核家族の欧米に執拗に敵視される運命にあるわけですが、彼らは、いつ、どういう経緯で、共同体家族システムを持つようになったのでしょうか。
ヨーロッパの共同体家族地域には、ロシア、バルカン、中部イタリアの三つの極があります(フィンランドとバルト三国の一部にもありますが、これはロシアの影響と見られます)。
この3箇所に、どのようにして共同体家族が伝播したのか、『家族システムの起源1』の記述から、かいつまんでご紹介します。
1 中部イタリア
イタリア中部には、一貫性および同質性においてロシアやバルカンに引けを取らない「極めて純度が高い」共同体家族の地域が存在しています。
この地域は、1960年から1990年にかけて一貫して共産党の得票率が極めて高かった地域であり、外婚制共同体家族=共産主義という定式にもばっちり当てはまっているのです。
地理的に見て、この地域には、古代ローマの初期の共同体性の影響が及んでいることは想定されるのですが、その強度は、ローマの残像という要因だけで説明するには強すぎます(起源1・下486-487頁)。
そこで、ローマ帝国の後期以降にヨーロッパにやってきた民族の中に候補を探ってみると、ゲルマン人はみな起源的な家族システムを持っていたので、彼らが共同体性を持ち込んだとみることはできません。
他方、ステップから到来した民族、フン人、アヴァール人、ブルガル人、ハンガリー人、ペチュネグ人は、「複数の核家族を一つの柔軟な秩序に組織編成する」共同体的家族的な原則を持っていたと考えられ、この人たちが運搬人候補となります。
そして、トッドによると、ゲルマン民族の中に、この遊牧民系の民族との関わりから、共同体性を獲得した民族があるのです。
「ゲルマン諸民族の中には、未分化の集団から抜け出して、こうした‥‥集団に連合したものが一つあった。ランゴバルド人がそれで、アヴァール人と混交して、ステップの出口にしばらく滞在した。大部分の歴史研究者は一致して、ランゴバルド人の中に類型を逸脱した父系制的特徴が検出されると認めている。」
起源1・下 492頁
*元ローマの属州パンノニア(現ハンガリー)が混交の舞台らしく、この地の支配者は、6世紀以降、「ランゴバルド人(530年-568年)、アヴァール人(560年代 – 約800年)、スラヴ人(480年頃からこの地に居住しており、800年頃-900年頃は独立を果たした)」(wiki)と変遷していくのです。ランゴバルド人とスラヴ人(後述)は、変遷の過程で、アヴァール人と接触するわけです。
ランゴバルド人‥‥世界史で習った記憶がうっすらあります。568年に建国され774年にフランク王シャルルマーニュ(カール大帝)に滅ぼされたという(これはもちろん覚えておらずwikiを見ました)。このランゴバルド王国の支配地域は、現在の共同体家族地域に重なっています。
というわけで、イタリア中部については、アヴァール人がランゴバルド人に伝えた共同体家族が、ローマから受け継いだ共同体的基層の上に重なって確固たるものとなった(493頁)、という仮説が導かれました。
そうすると、起源は6世紀ですから、結構古い、といえるでしょう1古いということは通常「強い」ということを意味します。
2 バルカン
次はバルカンです。バルカンの家族システムは、14世紀から20世紀をカバーする豊富な研究資料によると、「全体としては、それは安定した農民の大世帯を伴う正真正銘の‥‥共同体家族モデルである」(440頁)。
そして、オスマン帝国の侵入から間もない時期に実施されたセルビアの人口調査において、はっきりした父系原則の確立が見られることから、トッドは、共同体家族への変化は、オスマンの侵入よりもかなり以前に進行したに違いないと想定します(441-442頁)。
では、具体的には、いつ、誰が、ということで調査を進めると、
「ランゴバルド人に父系制を伝えたアヴァール人は、6世紀初頭にバルカン半島に南下した時に、やはりスラヴ人と連合したことが明らかになった。」
したがって、
「アヴァール人がランゴバルド人とスラブ人に父系の〔共同体家族的な〕組織編成を伝授したという、きわめて単純な歴史的図式を想い描くことができるであろう。これはランゴバルド人がイタリアへ、スラヴ人がバルカン半島へと南下の前進を始める前のことである。」
495頁
先ほどイタリアについてみたように、ここでも舞台はパンノニア、時期は6世紀ということになります。
そしてもちろん、バルカンの地は、オスマン帝国の中心地ですから、帝国支配下において共同体家族性は一層強化されることになったでしょう(496頁)。
あれ、そうすると、オスマン帝国の内婚制共同体家族の影響をバルカンは受けたということになるんでしょうか。キリスト教なのに2キリスト教は明確に内婚を否定しているそうです。出典は後日(発見次第)追加します?
この点はのちほど確認します。
3 ロシア
さて、いよいよロシアです。
ロシアは、全土に同質的な共同体家族を持っていますが、女性の地位が比較的高いという特徴があります。女性の地位の高さは、原初的形態の残存を示し、共同体家族が確立した年代が比較的遅いことを推測させます(497頁)。
実際、ロシアの歴史的資料をみると、まず、
「9、10世紀のキエフ・ルーシと呼ばれた最初のロシアは、あまり父系制を喚起することがない」。政治権力はたいてい男性に属していましたが、「イーゴリー大公亡き後、大公妃オリガは、ほぼ945年から962年までの間、この国を治めた」という事例もあり、「彼女がこうした重要な役割を果たしたことは、双方性を推測させる」。
キエフ国家はその後分裂し、ロシアは1251年から1480年までの間、モンゴルの支配下に置かれます。
「ロシア人が本物の父系原則を獲得したのは、モンゴルの宗主権の下で過ごした2世紀半の間であるとするのは、特に大胆な主張とも独創的な主張とも言えない」。
キエフ国家の崩壊の後、
「ロシア文化は、北へ、ステップとは対照的な森林の世界に引きこもる。ノヴゴロドとモスクワの間に広がる空間の中で、構造化のやり直しが行われたに違いない。1251年からはキプチャク・ハン国〔モンゴル帝国の一部〕がロシアを支配するが、ノヴゴロド共和国は例外で、この国だけはバルト海を通してヨーロッパと接触することができていた。やがてロシアの全ての地を己の覇権の下に統合することになるモスクワ大公国は、モンゴルの統制下ないし影響下で発展していく。そこにキエフ・ルーシに欠けていたと思われる組織編成原則が生まれてくるのが感じられるのである。」
起源1・下 497-498頁
要するに、モンゴルの支配を受けつつ、ノヴゴロドを通じてヨーロッパの一部でもあり続けたロシアは、遊牧民の影響下で共同体家族的組織力を基層に組み込み、帝国らしい力を付ける。
その結果、「モスクワ大公国は1478年にノヴゴロド共和国を滅亡させ、次いで1480年にキプチャク・ハン国の宗主権を拒絶する」。
時の大公は、イヴァン3世(大帝)です。モンゴルから共同体家族システムを獲得したと見られるその時期に、イヴァン大帝がロシアを統一し、ロシア帝国の基礎を築いた。話の辻褄が非常によく合います(共同体家族と国家統一、帝国形成との関係についてはこちらおよびこちらをご覧ください)。
ロシアの共同体家族の起源が13世紀だとすると、イタリアやバルカンのそれよりかなり新しいですし、全土への拡大となると、さらに時期は遅くなります。
ロシアでは、16世紀末まで自由であった農民が、17世紀の間に農奴化しており、トッドはここに共同体家族の農村への浸透を見ています。
「農奴制の確立と共同体世帯の採用との間に関連を打ち立てるのは魅力的な試みである。農地の構造と家族の構造は、他のところでもそうだが、ロシアにおいても、一とまとまりの全体をなしており、一つの人類学的システムを定義するのである。これは農奴制・共同体主義という一とまとまりの誕生ということになろう。」(498-499頁)
4 二種の共同体家族—ロシアモデルとイタリア・バルカンモデル
トッドは、イタリアおよびバルカンの共同体家族について、内婚制共同体家族ないしそれに近いものであるという言い方はしていませんが、それと類似した特徴を認めているようです。
まず、ロシアについて。
「中国の家族と同じように、ロシアの農民家族も過酷さの要素を提示しており、それはロシアのケースでは世帯主の過大な権力となって表出される。」
イタリア、バルカンは、
「このような〔ロシアのような〕風は、バルカン半島とトスカナのモデルにはまったく検出されない。この地域では家族は同じように大きいが、権威は拡散しており、兄弟あるいはイトコ間の横の関係が重要であったと思われる。」
イタリアもバルカン(セルビアなどの主要部分)もキリスト教圏ですから、外婚制のはずなのですが、ここでは、共同体家族の性質においては、内婚制共同体家族に近い、ということが指摘されているように思われます。
内婚制ではないことは確かなので、どう取り扱うべきか、結論を出しかねているのかとも思いますが、「内婚制」とは言わないまま、つぎのように続けています。
「ここまで来たら、共同体家族の二つの変異体を区別すべきではなかろうか。一つは縦軸によって支配されたもので、もう一つは横軸によって支配されたものである。」
起源1・下 503-504頁
親子の縦の絆ではなく、兄弟ないしイトコの横の絆が中心になるというのは、内婚制共同体家族についてまさに指摘されていた点ですが(こちらをどうぞ)、これとの関係については、残念ながら、説明されていません。
代わりといってはなんですが、家族システム、国家、イデオロギーの三位一体に関心を持つわれわれにとって、興味深い指摘がされているので、ご紹介させていただきます。
「ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第三インターナショナルの歴史の決まり文句であった。おそらくこれはグラムシ〔イタリア共産党の創設者の一人〕の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである。」
トッドは、共同体家族の「二つの変異体」の区別が、ロシアの共産主義と、イタリアおよびユーゴのそれとの違いを説明すると捉えている。
チトーは「ソ連を反面教師として様々な「実験」を行」い、自主管理、非同盟、連邦制といった「独自の社会主義」を試みたとされているのですが3柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書、2021年)110頁以下、その独自性の基盤には、やはり家族システムの相違があったのではないか、というわけです。
おわりに
こうやって書いてきて感じるのは、やはり、大陸中央部の経験は、島国の日本やヨーロッパの辺境とはかなり違うんだ、ということです。
要素としては、遊牧民の影響というだけなのですが、しかし、ここで特定した民族に限らず、様々な遊牧の民との接触を繰り返し、戦ったり、支配したりされたりする長い歴史の中で、彼らのシステムは形作られている。この点は、中東も、ロシアも、中国も、まったく違いはありません。
歴史的・地理的に全く異なる地域に定着したシステムに基づくイデオロギーや社会体制を彼らに押し付けてもうまくはいかないし、まして、無意識レベルに位置するシステムに対して、倫理の次元で非難をしても仕方がない。私たちとしては、それぞれのシステムの違いを認識し、理解し、尊重し、その上でできることを考えるしかないのです。
権威主義体制は彼らの社会の個性であって悪徳ではない。何回でも強調したい点です。