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トッド入門講座

ヨーロッパのキリスト教
(3)イングランドのプロテスタンティズム

はじめに

「イギリスのプロテスタントってよく分からない」とお思いの方は多いと思います(私がそうでした)。

1534 イングランド国教会の分離(ヘンリー8世)
1547-
プロテスタントの教義を導入(エドワード6世)
1553-
カトリック復活を企てプロテスタントを弾圧(メアリ1世)
1559
カルヴァン主義に基づく国教会体制の確立(エリザベス1世)
    *ピューリタンはカルヴァン主義の徹底を求める
1640 ピューリタン革命
1689  国教徒以外のプロテスタントに信教の自由(寛容法)

こうして教科書的事項を並べてみても「それで、結局、何なの?」という感じが拭えません。

イングランドはいち早くローマから離脱して、カルヴァン主義を採用したというのに、何で満足しないプロテスタントが残って、その後100年以上も争いが続くのか。

宗教上のプロテスト勢力であったピューリタンが、なぜ市民革命で大きな役割を果たすのか。

そして、絶対核家族のイングランドは本当にカルヴァン主義(神の権威への絶対的服従!)で満足できたのか。

疑問を解く鍵は、地上・天上の区別、そして家族システムにあります。

前回見たように、イングランドは「地上の自由」に惹かれてプロテスタンティズムを受容しますが、彼らの家族システムの価値観と正統プロテスタンティズムの天上成分は「部分一致」にとどまります(下表参照)。 

正統プロテスタントイングランド
地上成分聖職者の権威を否定(自由)高い識字率
天上成分予定説
(権威と不平等)
絶対核家族
自由と非平等)

そのため、イングランドでは、カルヴァン派を受け入れた後も、「予定説を緩和して自由を獲得する」という課題が残ります。これは「天上」の話です。

もう一つ、話をややこしくしているのが、イングランド国教会の存在です。

後述しますが、イングランド国教会の分離は、ヘンリー8世が世俗的動機からローマの権威から逃れたかっただけで、プロテスタンティズムとは関係がありません(この点、プロテスタンティズムの受容に伴って設立されたスウェーデン国教会とは異なります)。当初の実態は「イギリス版カトリック教会」であったのです。

しかし、その国教会が、やがてプロテスタンティズムの教義を受け入れる。

そのため、イングランドのプロテスタントは、「ローマの権威からは自由だが、国教会の権威には従属的である」という中途半端な状態に置かれてしまいます。「地上」にも、課題が残っていたわけです。

そういうわけで、イングランドでは、当初の改革の後も何かと騒動が続くことになりました。

英国プロテスタンティズム:改革後の課題
 ①聖職者の権威の残存(地上)
 ②絶対核家族の価値観との不一致(天上)
  →①②が解消されるまで争いは終わらない

そうした騒動のことは、世界史の教科書にも書かれてはいます。しかし、例えば「ピューリタンはカルヴァン派の徹底を求めた」と書かれていたとして、それが、天上成分(予定説)の徹底を求めたものなのか、地上成分(聖職者の権威の否定)の徹底を求めたものなのかによって、その歴史的意味はまったく異なります。

教科書や、歴史の概説書では、そこら辺が曖昧なままなので、結局「なんかよく分からない」で終わってしまうのです。

しかし、地上成分と天上成分を区別しさえすればイングランドの宗教改革はとてもよく分かる。その上、イングランドの宗教改革がきちんと分かると「近代化」の理解が確実に一段深まるのです。

というわけで、以下では、トッドの叙述を基礎に、一般的な知識を適宜付け加えながら、説明を試みてまいります。

カルヴァン主義の確立

(1)イギリス国教会の分離

まず、イングランドでは、1534年にヘンリー8世が離婚問題で教皇と対立しイングランド国教会を作ります。

 

ヘンリー8世

しかし、ヘンリー8世は、ルターを論駁する論文を書いてローマ教皇に褒められたほどのカトリック信仰の持ち主であり、この動きはプロテスタンティズムとは全く関係がありません。

この時点では、イングランドの「国教」は、完全にカトリックの枠内であり、単に、「地上における権威と不平等」の権威の頂点をローマ教会からイングランド国教会に置き換えたにすぎない、といってよいと思います。

ヘンリー8世によるイギリス国教会の分離は
プロテスタンティズムとは無関係

(2)プロテスタント天上成分の浸透ーカルヴァン主義の採用

それはそれとして、識字率が比較的高く、ローマからは遠いという条件の下で、プロテスタンティズムはイングランドの市民(主に貴族)の間に浸透していきます。

それを受けて、国教会の教義も、プロテスタント方向に傾斜していくのですが、その影響は主に「天上成分」に関するものでした。

「地上」の影響も全くないわけではなく、例えば聖書主義は採用されています(聖書主義、英訳聖書の作成は、ローマ教会からの自立の根拠としても有効だったと思われます)。しかし、教会組織や、聖職者の権威を前提とした儀式などは、多くがそのまま(=カトリック的なまま)残されたようです。

 

Frontispiece to the King James’ Bible, 1611

そういうわけで、国教会には、プロテスタントの天上成分(予定説)が浸透します。その教義は、カトリックへの回帰を目指してプロテスタントを弾圧した「ブラディ・メアリ」(メアリ1世)の治世が終わった後、エリザベス1世の時代に確立された体制の中で、(時代的に)カルヴァン主義の採用という形で、国教会の正統教義となりました。

「カルヴァン主義の採用」という形で、
 予定説が国教会の正統教義となる(天上成分)

カルヴァン主義の崩壊とアルミニウス主義の勝利

(1)アルミニウス主義の勝利‥とは?

ところが、イギリスのカルヴァン主義は、この後すぐ、あっという間に崩壊するのです。

「17世紀イギリスの知的歴史の最も魅惑的な問題の一つは、カルヴァン主義の崩壊である。それはまるで、社会にプロテスタント倫理の支配が行き渡った以上、歴史的使命を果たし終えたとでも言うかのようだった。1640年以前には、カルヴァン主義は賛課派および聖礼派のアルミニウス派による右からの攻撃に曝されていた。ところが革命の間は、ジョン・グッドウィン、ミルトン、クエーカー教徒といった左翼合理主義アルミニウス派に攻撃されたのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』147-148によるChristpher Hill, The World Turned Upside Down, p342の引用

カルヴァン主義は、いろいろなアルミニウス派から「攻撃」されて、結局、アルミニウス派の側が勝利を収めるのですが、いったい、何が何を攻撃して何が実現されたのか。

ここら辺のことは、世界史の教科書を読んでもよくわかりません。というより、かえって混乱が深まります。

「1640年」とは、いわゆるピューリタン革命(イギリス革命)が勃発した年です。クロムウェルは「ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編制し、議会派を勝利に導いた」とありますが、そういえば、なぜピューリタン?

宗教改革と何か関係はあるのでしょうか?

チャールズ1世の処刑

(2)国教会におけるアルミニウス説の勝利(課題②の解決)

ここでも、地上成分と天上成分の区別を意識して、話を整理していきます。

上の引用文における「賛課派および聖礼派のアルミニウス派」というのは、国教会の内部(国教会所属の聖職者など)において、アルミニウス説を支持した人たちのことだと思われます。

彼らは当然、「地上」においては国教会の権威を受け入れている。しかし、絶対核家族の彼らは、カルヴァン派の天上成分(予定説)が気に入らないので、アルミニウス説を支持したのです。

トッドによると「1640年の革命の前夜、英国国教会の主教の大部分はアルミニウス派」でした。彼らは、アルミニウス説に従って、国教会の教義を整えていく。これで、「②絶対核家族のイデオロギーとの不一致(天上)」という課題は解決です。

国教会の教義としてアルミニウス説(予定説の緩和)が浸透し、
天上の課題が解決

(3)ピューリタンと市民革命

では、上の引用の中で「左翼合理主義アルミニウス派」と言われているものは何なのか。

これはいわゆる「ピューリタン」のことを指していると思われます。

*なお「ピューリタン」は高校世界史では「改革を求めるカルヴァン派」という整理になっているようですが、「16―17世紀の英国における改革派プロテスタントの総称」というマイペディアの説明が真実に近いと思われます。具体的には、独立派、長老派(プレスビテリアン)、ジェネラル・バプティスト、クエーカーなどを指します。以下、このサイトでも、こうした様々な改革派全体を指す語として「ピューリタン」を用います。

上の引用文では、この人たちも「カルヴァン派を攻撃した」側に入っていおり、世界史の教科書でも、「ピューリタン」は(宗教改革の過程で)「カルヴァン主義をより徹底することを求めた」人々であると紹介されています。

ということは、この人たちは、アルミニウス説を採用した国教会に対して、予定説を徹底するように求めた人たちなのでしょうか?

もちろん、そうではありません。

彼らが「徹底することを求めた」のは、プロテスタントの地上成分の方なのです。

イングランドでは、先に国教会制度が確立し、その国教会が後でプロテスタンティズムの教義を受け入れたため、「プロテスタンティズム」といいながら、カトリックに近い「地上の権威」が存続しました。

ローマからは離脱したものの、一般の信徒は、国教会の権威の下に置かれたままであったのです。

そのため、ピューリタンたちは、宗教改革の過程では、プロテスタンティズムの地上成分、「信仰の民主化」を求めて戦います(これが「カルヴァン主義の徹底」です)。

そして、次には、ピューリタン革命(イギリス革命)で戦うことになるのですが、宗教の変革を求めた彼らがなぜ市民革命で活躍するのか?

イングランドのプロテスタントにとって、「信仰の民主化」を求める戦いの敵はローマ教会ではなく、イングランド国教会です。

国教会の首長はイングランド国王であり、宗教的権威は王権の権威の源でもありました。当人たちの関心があくまで信仰にあったとしても、客観的に見れば、その戦いは政治的プロテストと紙一重です。

宗教改革の過程で、ピューリタンたちは、「信仰の民主化」を求めて戦い、十分な成果を得られずに終わる。

その彼らは、数十年後、識字率50%に近づいたイングランドで、今度は市民的自由を求めて立ち上がるのです。

宗教改革には「プレ民主化運動」の側面があると述べました(こちら)。

貴族を中心とする「信仰の民主化運動」が終わると、その次に、一般の市民を中心とする政治の民主化運動が始まる。

イングランドの歴史を見ると、宗教改革と市民革命は近代化の一連の過程なのだということがよく分かります。

ピューリタンは、まずは「信仰の民主化」(地上の自由)を求めて国教会と戦い、数十年後、今度は市民的自由を求めて国王と戦う

(4)ピューリタン的アルミニウス主義の定着

では、ピューリタンの求めた「地上の自由」はどうなっていくのか。

ピューリタンの敵は「国教会=王権」なので、その後の彼らの勢力は、王権のそれと反比例して進んでいきます。

ピューリタン革命の間に伸張した「地上の自由」は、王政復古によって弱まり、彼らは再び非国教徒として迫害を受ける立場に逆戻りする。

安定した地位を得るのは、名誉革命(1689年)後のことです。名誉革命と(少なくともほぼ)同時に制定された「寛容法」により、非国教徒のプロテスタントの信仰の自由が認められる。

ここにおいて、ようやく、課題①(地上の権威からの自由)が解決され、ピューリタンたちは大いにその信仰を活性化させていくことになるのです。

その「活性化」の内容は次回まわしとさせていただいて、ここでは、イングランドのプロテスタンティズムとアメリカの信仰との関係を、ちらと見ておきたいと思います。

ピューリタンたちは、王政復古で迫害を受けていた期間に、新天地を求めてアメリカに向かいます。最初のものは「ピルグリム・ファーザーズ」として有名ですが、その後も同様の動きは続きます。

さらに、イギリスで宗教的寛容が実現し、プロテスタントの信仰が活性化した後も、その渦中にある人たちはよくアメリカに渡り、説教を繰り広げたりするのです。

イギリスにおける信仰の再活性化(1740-1880)は、アメリカの国家建設の時期と重なっており、アメリカの信仰はイギリスのプロテスタントの動きに大きな影響を受けて形成されていきます。

したがって、アメリカのプロテスタンティズムについては、おおよそ、「急進的自由主義」であるイギリスのピューリタン(非国教徒のアルミニウス主義)と同様と考えていただいてよいと思います。

(次回見ますが)この超自由主義のプロテスタンティズムは活性化すると分裂を繰り返す。みんなが自分流のやり方で信仰運動を展開していくのです。

名誉革命に伴う宗教的寛容の実現で
ようやく地上の課題(聖職者の権威からの自由)が解決

 

スコットランド、ウェールズ、フランス —少数派直系家族地域のプロテスタンティズム

さて、ここまで、イングランドにおけるアルミニウス主義の定着を、「絶対核家族の価値観に合わせた変形」と決めつけて書いてきましたが、「本当にそうなの?」とお思いの方もおられるかもしれません。

アルミニウス主義は、地上の自由に加えて天上でも自由を実現しようとするものですから、従来の(トッド以前の(!))歴史理解からは「近代化に伴う普遍的な現象ではある」という仮説を立てることもできそうです。

これが絶対核家族地域にのみ起こった現象なのかを確めるめるため、周辺地域におけるプロテスタンティズムの展開を見ておきましょう。

まず、スコットランド。スコットランドは直系家族と絶対核家族がほぼ半々ですが、絶対核家族が多数派であるイングランドとの関係で、「相対的に直系家族的」という感じを持つ地域です。

スコットランドはイングランドと同時期にプロテスタンティズムを受容しますが、その後、アルミニウス説の影響が及ぶことはありません。

むしろ、直系家族地域を中心にカルヴァン主義の強化の動きを見せたりしつつ、全体としては、正統派のカルヴァン主義(予定説)を守り続ける。この安定性の原因を、トッドは「直系家族の比重が相対的に高い」点に求めています。

同じく直系家族が支配的なウェールズも同様です。ウェールズへのプロテスタンティズムの浸透は遅く(トッドは「言語的に孤立しているため」という)、イングランドでアルミニウス説が有力になった後であったので、何かにつけて「アルミニウス派か、予定説か」の選択を迫られます(17世紀にはバプティスト派の分裂、18世紀にはメソジスト派の分裂)。

ウェールズはその度に予定説を守り抜くのです。

ちなみに、この点は、フランスのカルヴァン派(ユグノー)も全く同じです。フランス南西部に根を下ろしたフランスのプロテスタンティズムは、イングランドがアルミニウス説に変わったその後も、「予定説にしがみつく強硬なカルヴァン主義者のままである」。

フランス南部、オクシタニア(Occitania オック語地方)と呼ばれるこの地域は(この地図の青で囲んだ部分です)直系家族地域、トッドによれば「ヨーロッパ有数の純粋かつ強硬な直系型家族構造」の地域です。

アルミニウス主義への変形は絶対核家族地域のみ。
直系家族地域は予定説を守り続ける