カテゴリー
トッド入門講座

アメリカの家族システム

 

はじめに

トッドによれば、現代アメリカの家族システムは「原初的核家族に接近した絶対核家族」です。

その情報だけお持ちいただければ「アメリカ I・II 」をお読みいただくのに支障はありませんが、一応、トッド入門講座なので、イギリスから持ち込んだ絶対核家族がどのように変化していったのか、トッドの理論の概略をご紹介させていただきます。

植民開始時のイギリス

(1)絶対核家族の成立

イギリスが本格的にアメリカへの植民を開始したのはエリザベス1世(在位1558-1603)の時代です。1584年にスタートしたプロジェクトで開拓された土地はVirginiaと命名され、ジェイムズ1世(在位1603-1625)の時代に同地に入った入植団がジェイムズタウンを建設(1607年)。ここから入植が本格化していきます。 

*画像をクリックすると詳細をご覧いただけます(statista.com

トッドは、イギリスに絶対核家族が成立した時期を「1550年から1650年の間」としており、住民リストのデータから「エリザベス1世の治世(1558年-1603年)の終わり頃のイギリスについては絶対核家族が成立していた可能性を具体的に語ることができる」と述べています(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上 298頁、英語版159頁)。

*以下単に「上」「下」という場合この本の引用を指します。また英語版の頁数を併記する場合、引用文は辰井が英語版から訳出したものです(日本語版も参照しています)。

したがって、イギリスからアメリカに植民した人々は、絶対核家族か、少なくともそれが成立しつつあった地域の出身であったと考えてよいでしょう。

(2)イギリスの個人主義

その頃のイギリスの家族が、具体的にどんな風であったかを見ておきましょう。

イギリスにおいて、絶対核家族の成立は、「ルールなし」の原初的核家族から「個人主義」、つまり、親族との絆の最小化を規範とする社会への変化を意味します。

ゆるやかにつながっていた親族集団は解体され、成長した子供は(ほぼ)必ず家を出て自立する。生涯独身者の割合が増大し(1555年頃に生まれた世代と1605年頃に生まれた世代の比較で8%から25%へ)、結婚年齢も上昇する(結婚年齢は1640-49年に女性26歳、男性28歳)。

そう。イギリスではすでにこの段階で、親族集団とのつながりを持たず、単身ないし夫婦二人で暮らす世帯が「標準」となっているのです。

もちろん、誰にでも、病や老い、身近な親族の死といった苦境は訪れます。したがって、これほどの「個人主義」は、何らかの公的な扶助制度がなければ成り立たないでしょう。では、当時のイギリスにそれがあったのか、というと、(何と?)あったのです。

イギリスはもっとも早期に「救貧法」を成立させた国ですが、それ以前から、地域共同体を主体とする給付システムが存在していたと見られています(ちなみにこの地域共同体は古代ローマ時代の遺産です(上・308-314頁))。

偉大な中世史家リチャード・スミスは、エリザベス時代の救貧法に先立って、地域の運営による老齢年金が存在していたことを示唆している。想定されているのは、荘園裁判所の監督下で、引退した小作農とその後継者(親族とは限らない)を関連づけるシステムである。

上・300頁、英語版159頁

*小作用の農地を引き継ぐ人が何らかの形で支払いをするという趣旨かと思います。

大規模農園で一労働者として働き、単身か夫婦(と子供)で暮らして、老後は社会福祉の世話になる、という私たちにはきわめて「現代的」に思える暮らしは、イギリスでは「伝統的」なものでした。

*「昔からそうだった」というだけで「進んでいる」というわけではありません。お間違えのないように!

トッドはイギリスの歴史家 David Thomsonの言葉を引いています(上・300頁、英語版159頁。

チューダー朝やステュアート朝の教区民がなぜか1990年代のイギリスにタイムスリップしたとしたら、分からないことだらけだろうが、社会福祉のあり方をめぐる現代の議論にはまったく違和感を感じないだろう。

上・300頁、英語版159頁

 *チューダー朝は1485-1603年、ステュアート朝は1603-1714年

アメリカにおける変容

(1)植民地時代:原初的核家族への退行

新天地を求めてアメリカに渡った人々が、安定した農村で培われたこうしたライフスタイルを維持できたかといえば、答えはもちろん「NO」でしょう。

さしあたり大規模農場もないしローマ由来の共同体もない。もちろん国による社会保障も望めない。全部自分たちでやっていかなければならないわけですから。

当初のアメリカの核家族は、イギリスの絶対核家族が強化されたバージョンというより、その正反対で、絶対核家族の特徴が著しく弱められたバージョンだったといえる。あらゆる領域で、未分化核家族への退行が見られた。世帯規模は大きくなり、遺産が分割されることが増え、兄弟姉妹の絆が復活した。植民地時代の状況は、親族の絆が最小限であることを特徴とする現代のアメリカモデルとは全くかけ離れていたのである。

上・331頁、英語版176頁

女性の地位という点でも、当時の核家族は「原初的」でした。

女性のステータスという点でも、現代のあり方からはかけ離れていた。トクヴィルを含め、建国期のアメリカを観察した者はみな、女性のステータスの高さに注目している。その始めから、ピューリタン農民の妻たちは宗教生活および社会生活において尊敬され、活動的だった。一方で、いかなる宗派においても、女性は土地と家の相続からは排除されていた。

最初のプロテスタント・アメリカ人の間での経済・社会生活における性の区別は、狩猟採集民のそれと同様に厳格だった。財の分配が当初女性にとって不利だったことは、父系制の初期の導入の例というよりは、ホモ・サピエンスの原初的男女分業の観点から解釈されるべきであるように思われる。T・Ditz が明らかにしたように、男性に有利な処遇に家系の後継指名の意図が見られない以上、これを父系制の第一歩とみなすことはできない。

上・332頁、英語版176頁

(2)20世紀初頭:絶対核家族への回帰

その後、1720-1770年(入植の第3世代から第4世代)の間に絶対核家族の台頭が進んだと推定されていますが(上・334頁)、アメリカ全土にイギリスと同様の絶対核家族が戻ってきたのは20世紀に入る頃です。

結構時間がかかりました。

理由の一つに、開拓が続いたことが挙げられます。フロンティアの消滅(宣言が出されたのは1890年)までは西へ向かう開拓の波が続いたので、その度に「原初的核家族への退行→社会の安定→絶対核家族への回帰」の推移が繰り返されることとなり、全体としての絶対核家族化は進まなかった。

もう一つは、産業革命が遅かったこと。イギリスの産業革命の開始は、1780年とされますが、アメリカは1840年です*。労働人口の大半が小規模の個人事業主であるうちは、親族との絆なしには立ち行きません。賃金生活者が増えてようやく、核家族への回帰に弾みがつくのです。

*トッドが W・W・ロストウ『経済成長の諸段階』(初版1960年。最新の改訂版が1990年)に依拠して用いる数字です。

(3)1950-70 : 絶対核家族の絶頂期

トッドが「絶対核家族の絶頂期」と呼ぶ1950-70年に、ある世代以上の日本人が「アメリカン・ファミリー」として思い描くであろう豊かで呑気な家族の時期がやってきます。

大企業が安定的に給与を支払う。

国家はニューディール政策で社会保障(失業保険、退職金、老齢年金等)を整備する。

16-17世紀のイギリスで大規模農園と救貧法がその役を果たしたように、アメリカでも、大資本と国家が、親族の絆を最小限とする絶対核家族の完成に寄与しました。

ところで、「アメリカン・ファミリー」といえば、郊外の一軒家、夫はサラリーマン、妻は専業主婦、子供が2、3人いて、犬の一匹も飼っている、というイメージですが、この男女の関係はどう理解したらよいのか?

テレビドラマ「奥様は魔女(Bewitched)」(ABC 1964-72)
日本ではもう少し後? 妻の親族がいろいろ出てきた記憶がありますが‥

トッドは次のように述べています。

この時期、男女の関係性は、対等な立場での男女分業という原初的ホモ・サピエンス型に戻っていたように思える。夫は外で働き、妻は家内をやりくりする。最新の家電製品の助けを借りて。

上・336頁、英語版176頁

「子供が2、3人」というのはもしかすると日本の高度成長期のイメージで、アメリカの場合は「3、4人」のレベルに達していたそうです。

この男女の分業体制が戦後のベビーブームを牽引し、合計特殊出生率を1950年には(女性一人当たり)3.1人、1960年には3.65人にまで引き上げた。出生率は1940年には2.30人にまで落ち込んでいたのだ。(上・336頁、英語版178頁)

上・336頁、英語版178頁

しかし、これが「絶頂期」ということは‥‥。そうです。大変意外なことに、アメリカはこの後、「絶対核家族」の凋落期を迎えていきます。

現代:グローバリズムの果て

トッドが繰り返し指摘していることですが、自由貿易は先進国の労働者の給与を押し下げます。その第一の犠牲者となるのは若者と非熟練労働者。彼らは家を出たくてもその余裕がなく、やむなく親と同居します。

そのようにして親族のつながりが復活し、現在のアメリカは「むしろ原初的核家族では?」という様相を呈しているというのです。

25-29歳65-69歳70-74歳
アメリカ−9%+28%+25%
イギリス−2%+62%+66%
ドイツ−5%+5%+9%
フランス−8%+49%+31%
オーストラリア+27%+14%+2%
年代別 世帯あたり可処分所得上昇率の平均との差(1979-2010年のデータ)
下・130頁より

上の表は、1979-2010年における世帯あたり可処分所得の上昇率を、世帯主の年齢別に、平均上昇率との差で示したものです。オーストラリアを除いて、若年層の上昇率が低く、高齢者の上昇率が高いことがわかります。

人口の最若年層の所得減少は、新自由主義革命、とりわけ自由貿易の機械的な結果である。自由貿易は資本を持たない者を一律に、情け容赦なく粉砕する。最初に犠牲に供されたのは若い世代と労働者だった。市場原理主義は高学歴の者を含む若年層の親への経済的依存度を劇的に高めた。中年のエリートがかつてないほど個人の自由を謳歌し称揚していた正にそのとき、若い個人は自立の可能性すら失いつつあったのだ。

下・129頁、英語版258頁

アメリカの調査機関(ビュー研究所)は、2016年5月に、18-34歳の若者の親との同居率が1880年と同じ水準に達したことを示すデータを公表しているそうです(下・130頁)。

トッドはいいます。

いま、アメリカの核家族は、端的に「絶対」核家族の性格を失いつつある。彼らは明らかに、成人した若者の親との一時的同居そして原初的な未分化家族への(部分的な)反転を経験している。‥‥ 新自由主義革命は、雇用へのアクセスを困難にし、国家を弱体化させることで、アメリカの家族に、歴史上二度目となる、原初的ホモ・サピエンス型の未分化核家族への退行をもたらしたのである。

下・130頁、英語版259頁

おわりに 

以上のように、トッドの示す解釈によると、アメリカの家族システムは、「絶対核家族→原初的核家族→絶対核家族→原初的核家族」と推移したことになります。

しかし、読んでいて、こう思った方はおられないでしょうか。

「これ、家族システムっていうか、単なる家族の観察じゃね?」

そうなんですよ!!

アメリカ以外の地域で、家族システムの特定は、近代以前の家族のデータを使用して行われています。「農村時代の方がシステムが見えやすいから」というのがその理由ですが、その前提には、家族システムとは「場所の記憶(the memory of places)」として固着し、人々のメンタリティに永く刻印を残すものであるという認識がありました。

現代日本の家族はたいてい核家族で、アメリカやフランスと大して変わらない。しかし、集合的なメンタリティに見られる確かな違いを、近代以前の家族のありようが説明する、というところに、トッドの理論の驚きというかときめきがあるわけです。

しかし、アメリカ社会は、最初から近代社会として誕生し、それ以前の「場所の記憶」というものを持たない社会です。この点をどう考えたらよいのでしょうか。

*人口が500万人に達したのが1800年頃ですが、その頃識字率はとうに男性50%を超えています(イギリスと同時期として1700年)。

私は、アメリカで観察された「絶対核家族」(20世紀から1950-70)については、次のように問うてみる必要があるのではないかと考えています。

「それって、本当に絶対核家族システムなのか?」

大規模農園や救貧法といった要素はイギリスの絶対核家族を可能にする条件ではありましたが、システムとしての凝固を促した要素は別にあります。長子相続を営むノルマン貴族や、地方組織の縦型の権威構造(ローマの痕跡!)の存在です。イギリス庶民は、それらを横目に見ていたからこそ、核家族を「規範」にまで高めることを選択したのです。

往時のアメリカには、大会社があり、国家による社会保障があった。しかし、直系家族の王侯貴族やローマ帝国の遺産といった、システムの鍵となる「場所の記憶」はない。

ということは、もしかすると、アメリカで見られた「絶対核家族風の暮らし」は、単なる事実状態にすぎず、「絶対核家族システムの成立」を意味するものではないのではないか。

「脳内の記憶」としての絶対核家族のイメージはあったかもしれないが、「場所の記憶」としての家族システムが成立したことはないのではないか。

そのような解釈は十分に成り立つように思えます。

「トッド入門講座」では、トッドの解釈に従い、「アメリカは原初的核家族に近い絶対核家族」ということで話を進めます。

しかし、ひょっとして「システム以前」の純然たる原初的核家族かもしれない、という可能性も捨てないでおくと、よりいっそう興味深い仮説を展開できる気がします。

今日のまとめ

  • アメリカへの植民が始まった頃のイギリスはすでに絶対核家族だった。
  • 植民地時代のアメリカは原初的核家族に回帰した。
  • 絶対核家族は18世紀中盤から台頭し、20世紀初頭に全土に普及、1950-70年に絶頂期を迎える。
  • グローバリズムの進行による経済環境の悪化から、親族との相互扶助の絆が復活している。
  • システム」としての絶対核家族の成立には疑問の余地がある。
カテゴリー
トッド入門講座

〈特集〉アメリカ
-予告編-

はじめに

21世紀前半を生き、世界の真実に近づくことを目指す私たちにとって、アメリカほど興味深く、重要な研究対象はありません。

私たちがいまどんな世界に生きていて、どうしてこの世界を生きることになったのか。アメリカという国を理解することなしに、その答えに近づくことはできないでしょう。

トッドもそう考えたのだと思います。彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか』(2017年(日本語版は文藝春秋 2022年))の中で、アメリカの人類学的分析に最も多くの紙面と労力を費やしました。

以前にも少し書きましたが、彼の分析は本当に鮮やかで、アメリカに関する部分(とくに11章から14章)の骨子はいつか必ず紹介しなければと思っていました。

しかし、彼の分析によって、アメリカをすっかり理解できるか。私たちの生きるこの世界がなぜこのようになったのかを理解して、その先を考えることができるか。‥‥ ということになると「何かが足りない」と感じることも事実なのです。

そこで、トッドに学んだ日本の私は「何か」を付け足すための準備に勤しんでいたのですが、ようやく準備が整ったので、はじめましょう。

それにしても‥‥ トッド入門講座のくせに「足りない」なんて、いったいどういう了見なんでしょうか。

ご説明させていただきます。

トッドのアメリカ観

アメリカの未来、そしてアメリカが主導する世界の未来についてのトッドの感触は、この20年ほどの間に、悲観→楽観→悲観 と揺れ動いています。順番にご覧いただきましょう。

(1)帝国以後:悲観するトッド

2002年、トッドは、「帝国」としてのアメリカ、つまり世界の覇権国としてのアメリカに焦点を当てたこの本を、次のような言葉ではじめました。

アメリカ合衆国は現在、世界にとって問題となりつつある。これまでわれわれはとかくアメリカ合衆国が問題の解答だと考えるのに慣れて来た。アメリカ合衆国は半世紀もの間、政治的自由と経済的秩序の保証人であったのが、ここに来て不安定と紛争を、それが可能な場所では必ず維持しようとし、国際的秩序崩壊の要因としての様相をますます強めるようになっている。

‥‥「孤高の超大国」はなぜ、第二次世界大戦直後に確立した伝統に従って、基本的に寛大で穏当な態度を保持することをやめたのか?なぜかくも動き回り、安定を揺るがすようなことをするのだろうか?全能だからか?それとも逆に、今まさに生まれつつある世界が自分の手をのがれようとしているのを感じるからか?

『帝国以後ーアメリカ・システムの崩壊』(藤原書店、2003年)19-20頁、25頁

本の中盤では、アメリカにおける民主主義の衰退(≒ 万人を平等に扱う普遍主義の衰退)と軍事的・経済的実力のお粗末さを指摘した上で、「‥‥2050年前後にはアメリカ帝国は存在しないだろうと、確実に予言することができる」(117頁)とまで述べています。

要するに、彼はアメリカに絶望していたのです。ところが、この時期までに行われた分析のほぼすべてを維持したまま、この後、彼のアメリカ観は上向きに転じます。

(2)我々はどこから来て、今どこにいるのか?:「原始的なアメリカ」への期待

理由ははっきりしていて、彼はこの間(2002年から2017年)に、「民主制はすべて原始的である」そして「ホモ・アメリカヌスはほぼ狩猟採集民である」という着想を得たのです。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。核家族というシステムの発生に伴って、柔軟で、原初的なデモクラシーや原初的寡頭制という現象も登場したのです。

エマニュエル・トッド、ピエール・ロザンヴァロン他『世界の未来』(朝日新書 2018年)11-12頁

トッドは、2012年に刊行した『家族システムの起源』(翻訳は2016年)の中で、「大家族(複合家族)から核家族へ」という一般常識と異なり、核家族こそが、太古のすべての人類がもっていた普遍的なシステムであることを明らかにしていました

これを手がかりに、彼は『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、リベラル・デモクラシーの本家と目されるイギリス、アメリカの人類学的分析に取り組みます。

その結果、アメリカのシステムが太古の狩猟採集民のシステムに最も近いことを理解した彼は、「民主制はすべて原始的である」という認識に到達し、「原始の民の活力が停滞する世界を切り開く」というイメージに希望を見出すのです。

例えば、出版直後に当時話題となっていたトランプ大統領選出やイギリスのEU離脱(Brexit)について語るトッドはこんな感じです。

私はトランプ大統領があまり好きではありませんし、英国の大衆層の排外的な部分も好きではありません。けれども、この排外性は民主主義と反対のことではなくて、民主主義の始まり、あるいは再登場の始まりなのです。‥‥

‥‥いずれにしろ家族という次元でも政治の次元でも自由であった方が、社会は創造的です。だから、英米世界はこれからも世界をリードし続けるだろうと思います。

『世界の未来』15-16頁

(3)ウクライナ戦争以後:再び悲観へ

しかし、ウクライナ危機の悪化によって、彼のアメリカ観は、再び下方修正されるのです。

タイミングよく(わるく?)2022年10月に公刊された日本語版『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』のあとがきで、トッドは次のように述べなければなりませんでした。

2017年に刊行した本書に関して、基本的な分析の枠組みや主張は、5年経った今でも妥当すると自負しています。

ただ、当時と比べて自分自身の認識を改めざるを得なかった点があります。それは、本書の主題でもあるアングロサクソン世界に対する見方です。本書の執筆時には、今よりも楽観的な見方をしていて、ブレグジットを決断したイギリスとトランプを大統領にした米国ー他の先進国に先んじて民主主義の失地回復を果たしたアングロサクソン世界ーに期待をかけていたのです。

ところが、その後の両国の動きに、少しずつ不安を感じるようになりました。世界を安定化させるどころか、率先して世界を不安定化させているように見えたからです。そのことが明白になったのが、ウクライナ戦争でした。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』311頁

こうして、私たちは、再び『帝国以後』の冒頭に立ち戻った、といってよいでしょう。つぎの引用は、2023年1月に日本の新聞に掲載されたインタビューの末尾。日本へのメッセージですが、トッドがアメリカの将来に対して暗い見通しを持っていることをはっきりと伝えています。

守ってくれる米国が先につぶれることがあり得ます。ソ連が崩壊したように。日本はまるでソ連を構成した共和国のようですが、幸いなことにその国々よりも多くのリソースを持っている。生き延びていくチャンスは、そこにあるのです。

2023年1月25日 中国新聞(朝刊)

国家とデモクラシー:アメリカの2つの謎

トッドは、なぜ、アメリカの人類学システムを解明したその本で、アメリカの将来について(少なくとも短期的には)誤った見通しを抱くことになってしまったのでしょうか。

ちょっと意地の悪い問いですが、この問いこそが、私たちをより真実に近づけてくれることはまちがいない。

そこで、まず、彼が『我々はどこから来て、今どこにいるのか』の中で、人類学的知見をどのように役立て、どのような問題を解明したのかを確認しましょう。

(1)デモクラシーの成立と衰退ー「平等」の不在

アメリカの家族システムは、母国イギリスに由来する絶対核家族とされます。その表現する価値は、トッドのマトリックスによれば「自由+非平等」、講座版マトリックスによると「権威の不在+平等の不在」です。

*詳しくは「アメリカの家族システム」でご紹介しますが、トッドは、アメリカの核家族は、いったん絶対核家族から原初的(未分化)核家族に近づき、改めて絶対核家族に回帰したあとも(イギリスの絶対核家族と比べ)より柔軟性を保っていることを指摘しています。

この知見を前提に、彼が論じたテーマは「アメリカのデモクラシー」(*トクヴィルと同様、トッドも現地に滞在して執筆したようです)。

中心にある問いは、「デモクラシーはなぜ平等の価値を持たないアメリカで早期に成立し、のちに衰退したのか」です。彼は、「権威と平等」というアメリカに欠如する2つの価値のうち、もっぱら「平等」の方に着目したわけです。

この問いが重要な問いであることは間違いありません。

アメリカのデモクラシーとは「生まれながらにして平等」な人民の合意に基づく政治です。

→独立宣言 https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/

「平等の価値を持たない核家族のアメリカがなぜ ”自由と平等” のフランスよりも早くスムーズにデモクラシーを確立できたのか」は、大いなる謎であり、とりわけ人類学に信を置く者にとっては、絶対に解明しなければならない謎といえます。そして、トッドは確かにその謎を解いたのです。

しかし、それにもかかわらず、トランプ大統領の登場が、アメリカを安定に導く過程の始まりなのか、そうでないのかを見通せなかったのはなぜなのか。

「もう一つの謎が放置されたままになっているからだ」というのが私の考えです。

(2)国家の成立と衰退ー「権威」の不在

もう一つの謎とは何か。それは「「権威」の価値を持たないアメリカが、なぜ国家を成立させることができたのか?」です。

国家の誕生と家族システムにおける「権威」の誕生(=直系家族の誕生)が歴史的に同期するという事実、さらに、原初的(未分化)核家族には国家形成能がないという事実を、私はトッドから教わりました。

「これは決定的だ!」とピンと来て、どんどん仮説を立てているのですが、トッド自身は、国家における「権威」の重要性をあまり真剣に受け止めていないように感じられます(フランス人だからでしょうか‥)。

トッドは、イギリスには過去(古代ローマやノルマン)に由来する「上位の権威」が存在し、アメリカには存在しないことを明記していますし(『我々は‥』上 325頁)、次の部分にもその問題意識が見られます。

米国では、イギリスの社会システムの垂直的要素の大半、すなわち、貴族における長子相続、君主国家とその教会、昔からの支配階級、村落における安定的な寡頭制などが消えた。社会的・精神的システムの中枢を成していた原理そのものが、大西洋の西側では廃止されたのだ。消失したものとして語られるべきものは、超越性、他律性、社会的超自我であろうか。言葉の選択はさほど重要でない。要は、アメリカで姿を現し、拡がったシステムが、地域共同体の数々と連邦を構成する諸州を擁して、イギリスのシステムよりも遥かに水平的であり、原初的人類を構成した原始的集団のシステムに遥かに近いことを確認しておけば充分だ。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

ここまで来たら、つぎの問題は、「それにもかかわらず、アメリカはなぜ国家を形成できたのか」でなければならないはずであり、「アメリカにおいて法、秩序、国民の統合を可能にしているものは何なのか?」でなければならないはずです。

彼がこうした問題に「かすっている」ことは、つぎの文章に見て取れます。

建国の父たちが新たな人民に成文憲法を与えたことはいうまでもない。そのテクストは、しばしば修正を加えられたとはいえ、きっぱりと尊重された。そうして、たちまちのうちにアメリカという国家が存立し、その国家の具備する代表制が素晴らしくよく機能した。それは、高い教育水準のお陰であり、また、社会を不安定にしやすい平等主義的無意識の不在のお陰でもあった。しかし、われわれがすでに見てきたとおり、アメリカという国家はこれまで一度として、正統な暴力の独占を自らに確保し得たためしがない。米国の住民たちはまったく当たり前のように旧式で、武装しており、その他殺率はヨーロッパの水準の5倍から15倍の間で推移している。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下 26頁

アメリカで、憲法が成立し、国家が存立し、代表制が機能した一方で、暴力をコントロールには失敗している。ここまで明瞭に指摘しておきながら、トッドはこれらのすべてを「原初性」に結びつけ、ロマンすら感じてしまい、「それほど水平的で、原初的であるのに、なぜ国家が成立したのか」を(真剣には‥)問わないのです。

「きーっ、もったいない!」と歯噛みをしつつ、日本人の「権威マニア」としては、フランス人トッドは「権威」の何たるかをよく理解していないか、「平等」に集中しすぎて「権威」のことを忘れてしまったと判断せざるを得ません。

しかし「権威の不在」に関する謎を置き去りにしていることが、トランプのアメリカが健全な民主主義のスタートであるというような「ロマン主義的誤謬」の大もとにあることは間違いないと思われ、私たちとしてはこの謎に取り組まないわけにはいかない。

ということで、「もう一つの謎」は、satokotatsui.comの方で探究することとさせていただきます。

〈特集〉アメリカ

以上の次第で、「特集・アメリカ」は、トッド入門講座とsatokotatsui.comの共同企画とし、三部構成でお送りいたします。

アメリカの家族システム
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ I (平等の不在)ーデモクラシーの成立と衰退ー
エマニュエル・トッド入門講座

アメリカ II(権威の不在)ー国家の成立と衰退ーsatokotatsui.com

どうぞお楽しみに。

カテゴリー
独自研究

生き心地の良い町
-核家族の日本-

「生き心地の良い町」海部町

徳島県に海部町という場所がある(あった)のをご存じだろうか。自治体の合併で現在は徳島県海部郡海陽町の一部となっているが、その中の元「海部町」だった地域のことである(以下単に「海部町」と呼ばせていただく)。 

海陽町村役場の位置

シティズンシップ教育(主権者教育といいましょうか)に関心を持っていた頃に読んだ本(↓)で知ったのだが、その町は、周辺町村と何ら違いがないように見えて、突出して自殺率が低く、社会に対する主体性等の点でも顕著な特徴があるというのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)

例えば、本の中では「有能感(自己効力感)の度合い」に関するものとして挙げられているアンケート項目「自分のような者に政府を動かす力はない。YES/NO」。周辺の自殺多発地域であるA町との比較は次の通り。

YESNO
海部町26.341.8
A町51.227.2
『生き心地の良い町』58頁

初めて読んだときから「家族システムに秘密があるに違いない」とにらんでいたが、調べようもないので放置していたところ、先日「近世京都絶対核家族説」と同時にこの本のことを思い出し、改めて読んでみたらばっちりの記述があるではないか。

海部町の成り立ち

江戸時代の初期、海部町は材木の集積地として飛躍的に隆盛した。一説によれば、豊臣家が滅ぼされた大阪夏の陣のあと、焼き払われた城や家々の復興に充てる大量の材木の需要があり、近畿からの買い付けが阿波の海部町にまで及んだという

近隣町村はいずれも豊かな山林を有しているのだが、海部町には山林という資源に加えて、山上からふもとまで丸太を運搬するための大きな河川があり、さらには大型の船が着岸できるだけの築港が整備されているという、理想的な地の利があった。短期間に大勢の働き手が必要となった海部町には、一攫千金を狙っての労働者や職人、商人などが流れ込み、やがて居を定めていく。この町の成り立ちが、周辺の農村型コミュニティと大きく異なる様相を作り上げていったことに関係している。海部町は多くの移住者によって発展してきた、いわば地縁血縁の薄いコミュニティだったのである。

岡檀『生き心地の良い町』(講談社、2013年)87-88頁(太字は筆者)

こうした歴史的背景を調査し著書に記された岡檀さんご自身は、「地縁血縁の薄い人々によって作られたという海部町の歴史が、これまで述べてきた独特のコミュニティ特性の背景にある」というお考えである。「独特のコミュニティ特性」について要約されているので、少し長めに引用させていただく。

町の黎明期には身内もよそ者もない。異質なものをそのつど排除していたのではコミュニティは成立しなかったわけだし、移住者たちは皆一斉にゼロからスタートを切るわけであるから、出自や家柄がどうのと言ってみたところで取り合ってももらえなかっただろう。その人の問題解決能力や人柄など、本質を見極め評価してつきあうという態度を身につけたのも、この町の成り立ちが大いに関係していると思われる。そして、人の出入りの多い土地柄であったことから、人間関係が膠着することなくゆるやかな絆が常態化したと想像できるのである。

89-90頁

分析はいちいちもっともだと思うのだが、家族システムの影響力が深甚であることを知る者からすると、移住者が運んだ家族システムによっては、実際に「異質なものをそのつど排除してしまってロクなコミュニティが成立しない」、という結末も十分にあり得たように思われる。

そのような結果に終わらず、地元に赴任した保健師に「何かがほかと違う」と言わしめる(34-35頁)不思議なコミュニティとして存続できたことの背景には、もちろん歴史、そしてさらに奥に、家族システムがあるに違いないのだ。

「絶対核家族」の痕跡?

三段論法で説明しよう。

①室町末期から江戸初期にかけての京都周辺は「絶対核家族の都」だった
②その時期に京都周辺から移住した人々の一部が海部町に住み着いた
③ ∴ 海部町は絶対核家族の町となった。

以上が私の立てた仮説である。

まずについて、詳しくは、前回の記事「京都ー核家族の都?」をご覧いただきたい。一言でいうと、京都は古来原初的核家族の都であったが、直系家族の武家政権(足利)が幕府を開いたことへの反発から、室町末期から江戸初期までの町衆主体の京都は絶対核家族の都となっていたのではないか、という説である。

「絶対核家族」というのが一押しの仮説だが、そうでなかったとしても、まだ核家族(原初的核家族)であったことは間違いないと思われる。

については岡檀さんの聞き取りに依拠しているだけだが、歴史的に違和感がないという点は確認しておこう。

まず、近畿と阿波(徳島)の交易は室町時代からそれなりに盛んだったと考えるのが自然である。海路が中心だった当時としては単純に近いし、室町幕府で実権を握った細川氏や三好長胤、松永久秀らはいずれも阿波と縁が深い。

大坂夏の陣(1614)などのきっかけで特に栄えたことが語り継がれるというのもありそうなことだろう。その前後の時期に大勢の人がやってきて、中には住み着いた人もいた、というようなことではないかと思われる。

そこから「∴ 海部町は絶対核家族の町となった」という結論を引き出すにあたって、やや問題なのは「当時の阿波全体の家族システムはどうだったのか?」ということであろう。

とくに、当時の京都周辺が「絶対核家族」ではなく「原初的核家族」だった場合の問題が大きい(両者の違いについてはこちらこちら)。

江戸時代初期に四国がまだ原初的核家族という可能性は小さくなく、その場合、の移住は単に「原初的核家族が原初的核家族地域に移住した」だけとなり、海部町に特別な個性が宿る理由はなさそうだからである。

この件について決定的なことを言うだけの知識も専門性も私にはないが、ただ、四国と近畿では、四国の方が直系家族化が早かったことを伺わせるデータは存在する。

前回も掲載したこの地図だ。

1886年における世帯ごとの夫婦の平均数(『家族システムの起源 I』上 234頁)

これによって、江戸初期の阿波がすでに直系家族であったと推定することは不可能だが、四国と近畿で「差異があった」と述べることは許されるだろう。

直系家族化の過程にあった阿波に核家族度の高い「自由な」人々が移住した。移住した人々と近隣の地元住民とは、「反発」とは言わないまでも、相互に違いを感じ取り、付かず離れずに相互のシステムを保った。

その結果、土地に染み付く形で海部町独自のメンタリティが維持され、数百年の時を経て現在に至る、ということではなかろうか。

「島」

『生き心地の良い町』を改めて読むと、日本の大半は直系家族システムであるとしても、部分的には核家族システムの地域があるのではないか、という気がしてくる。

海部町以外の主な候補地は「島」である。

実は、同書で、海部町は「ある意味、日本でもっとも自殺率の低い町」と表現されている(20頁)。2000年のデータでは、海部町は全国3318の市区町村のうち、8番目に自殺率の低い市区町村となっている。しかし、上位10位に入る市区町村は、海部町以外はすべて「島」なのだ。

「なるほど、島か‥」と考えたとき、思い浮かんだのは、NHKの「列島ニュース」か何かで見た五島の綱引きの光景である(福江島の西端、玉ノ浦町の大宝に伝わるものが一番有名なようだが、他の地域でもある模様)。

正月に豊漁豊作を祈願して行う綱引きだというが、私が驚いたのは「男性 VS 女性」で引き合うという点だ。

2020年に実施された綱引きについて五島市のウェブサイトに記載がある(写真もあるので是非どうぞ)。

年齢も人数も問わない男女対抗の7回戦。太鼓が打ち鳴らされる中、息の合った掛け声と共に懸命に綱を引き合います。

男性が勝つと豊作、女性が勝つと豊漁と言われていますが、去年に引き続き今年も女性の勝利。「ほとんど半農半漁やけんどっちが勝っても嬉しかとよ」やっと新年が始まった気がすると笑うおばあちゃん。

焼き餅入りのぜんざいを安堵した表情で美味しそうにほお張っていた。

勢いのあるタイプの祭といえば男性が主役と決まっている。男性と女性が対等に戦うなんて、いかにも、男女の地位に上下の差がない原初的核家族を思わせるではないか。

上記のウェブサイトの記載の中に「半農半漁」とあるが、歴史的に漁労が主な生業であった地域というのがポイントではないかと思う。

農業が主である地域では、土地の相続(そのための家系の永続)が問題となる結果、いずれ(通常は)男性中心の社会になってしまうが、漁業にはその問題がない。船に乗るのが主に男性だとしても、女性には女性の役割があるし、どちらかを体系的に排除しなければならない理由が生じないのだ。

縦型に組まれた日本にも「原初的自由の痕跡」はポツポツと残っているのかもしれない。ちょっと楽しい。

カテゴリー
独自研究

京都−核家族の都?

 

私は、東京下町の出身なので(?)京都という町にはあまりよい印象を抱いていなかった。古都といっても実際には車がガンガン走る近代的な大都会だし「むかし天皇が住んでいたというだけじゃないか」「権威主義」などと思ったりしていた。

一方で、おいしいごはん屋、弁当屋、暮らしに根ざした喫茶店、和洋の菓子店など、例えるならパリのような都市の雰囲気があることは感じていて、うらやましいのと同時に「どうして京都だけが‥」と不思議に思ってもいた。

要するにやっかんでいたのだが、この度「日本史概観」という記事を書く過程で「花の都」京都の「花」には人類学的な根拠があることに思い至り、「権威主義」というのは大いに誤解であると分かったので、お詫びを兼ねてご紹介したい。

日本の家族システム

日本の家族システムは直系家族である。地域により多少のバリエーションはあるが、直系家族システムの枠内には収まっている。

ついでなのでそのバリエーションを説明しておこう。 

東部 直系家族
(発祥地)
男性長子相続
南西部 直系家族
(伝播 14C-)
末子相続
相続人の自由選択等を含む
 【伝播による分離的反転】
北東部 直系家族
(伝播 17C-?)
  直系家族の純粋性・不純性
   (女性の地位高、兄弟間の不平等)
   (兄弟間の一時的同居)
 【遅い伝播による教条性+未分化性】
 
日本の家族システム(直系家族のバリエーション)

直系家族は関東(鎌倉)で生まれた。同地に生じた男性長子相続が日本の直系家族の典型である。

他方、トッドが「南西部」と記す関西以南には、末子相続や相続人の自由選択を行う共同体が少数ながら観察される。しかし、これは直系家族以外のシステムの存在を示すものとはされず、トッドによれば「長子相続の観念の分離的反転」である。

→原初的核家族では、年齢が上の兄弟から家を出ていく結果、末子が家を継いで親の面倒を見る、ということがよくある(ルールではない)。そのような核家族の世界に長子相続制度が伝播したとき、「長子相続」というルールに刺激され(それを反転させて)末子相続がルール化することがある。ここで「分離的反転」と呼ばれているのはそのことである。

北東部は一見したところ少し複雑である。兄弟姉妹が結婚した後夫婦ごと同じ世帯を構成するケースがあったり(子供が生まれたときに分離)、絶対長子相続(性別に関わらず長子が家督を継ぐ。女性の地位が相対的に高いことを示す)の制度があったりするのである。

こうしたデータ、とくに兄弟姉妹間の連帯という前者のデータからは、共同体家族の可能性が検討されることになるのだが、トッドは結論としてはそれを否定し、「追加的な一時的同居を伴う直系家族」、要するに直系家族の一類型として位置付ける。

トッドは、北東部の家族に見られる直系家族の純粋性(兄弟間の不平等、女性の地位の高さ)と不純性(兄弟間の一時的同居等)は「〔直系家族を〕それほど必要としていなかった社会に直系家族的概念が輸入された結果」と見る。

この遅れて開発された地域では、直系家族はより遅く到来した。しかもとりわけ、前もって作り上げられた概念として、形成されつつある社会に適用すべきモデルとして、到来したのである。人口密度の低さからすると、この地には、不分割の原則〔長子単独相続の前提ー筆者注〕が内発的に生まれる理由は何一つなかったと考えられる。北東部の直系家族が、同時により純粋にもより不純にも見えるのは、そのためである。

『家族システムの起源 I ユーラシア』上 143頁

つまり、上記の「不純な要素」の方は原初的核家族のなごりであり、「純粋」な要素の方は、特段必要のなかった社会が「規範」として学習したことによる教条性のあらわれだ、というわけである。

仮説:「日本のパリ」京都

京都が属する西部には、すでに述べたように末子相続がしばしば見られるといった特徴があるわけだが、トッドによれば、「本州の人口密度の高い部分の西と東の間の違いは、とはいえ、単線的な直系家族類型の中の微妙な差に過ぎない」(243頁)。

ただ、その成り立ちを考えると、京都というまちには、西部、南西部の他の地域とは異なる、固有の特色があってもおかしくないと思われる。

①平安ー鎌倉時代:原初的核家族の都

平安京が造成された頃、家族システムはまだ進化していなかったから、京都は原初的核家族の都として発展していくことになった。

その後、関東で直系家族が生まれるが、その段階で京都はすでに都会であり、「碁盤の目」の合間を縫って農地を開拓したりはしていない。

どういうことかというと、直系家族(長子相続)は、王位などの地位を相続する必要のある王侯貴族か、土地を継承する必要がある農民にとってのみ意味がある制度なので、最初から都市の民であった京都人にはこれを受容する理由がないのである。

したがって、関東から全国に直系家族が広がっていった後も、京都だけは(原初的)核家族の都として維持された可能性が高いと思われる。

②室町時代:武家文化との融合、しかし町衆は?

室町時代になると、武家の足利政権が京都に移り住んだので、人口の15-20%を武家が占めるようになり(15世紀中期)、伝統的な王侯貴族の文化と武家文化の融合が進んだ(高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)150頁)、ということになっている。

そうなのだろう。そして、足利政権が全国統治の必要上京都に拠点をおいたという事情から考えると、とくに、幕政に関わりのある上層の人々の間では、文化の一体化が進んだと考えられる。

しかし、町衆はどうだろう。

核家族の都に、直系家族の武家がやってくる。

それも、天子様の住まう古来の都に無骨な(?)関東の武士がやってくる、という状況で、町の人々が大喜びで武家のスタイルを受け容れたとは思えない。

日本史の教科書(『詳説 日本史B 改訂版』(山川出版社、2020年))に、鎌倉時代末期の関東と室町時代の京都の「女性の地位」について、対照的な記載がある。

→「女性の地位」は直系家族の成立を示す指標の一つ。
原初的核家族では男女は対等で、直系家族システムに進化すると女性の地位の体系的な低下が起こる。

‥‥御家人たちの多くは、分割相続の繰り返しによって所領が細分化されたうえ、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏化していった。この動きにともなって、女性の地位も低下の傾向をみせ始めた。女性に与えられる財産が少なくなり、また本人一代限りでその死後は惣領に返す約束つきの相続(一期分)が多くなった。

112頁

北条政子の活躍などにも見られるように、鎌倉幕府の初期は比較的女性の地位が高かったと考えられるが、その地位は、直系家族の生成が進むにつれて低下していくわけである。

一方、室町時代の京都については、「商工業の発達」という項目で、地方の特産品を売却する市が活発化したという記載の後、次のように書かれているのである。

また、連雀商人や振売と呼ばれた行商人の数も増加していった。これらの行商人には、京都の大原女・桂女はじめ女性の活躍がめだった。

136-137頁

続けて、脚注にはこうある。

大原女は炭や薪を売る商人、桂女は鵜飼集団の女性で鮎売りの商人として早くから活躍した。そのほか、魚売り・扇売り・布売り・豆腐売りなどには女性が多く、また女性の金融業への進出も著しかった。

137頁

こうした記述は、武家の直系家族的文化との接触にも関わらず、京都の庶民が核家族を保っていたことを示唆している。

この事実をどのように解釈するべきか。一つの可能性は、「まだ」直系家族化が進んでいなかった(直系家族化の遅れ)とする解釈であるが、もう一つ、魅力的な可能性がある。

「反発」である。

イギリスやフランスに核家族システム(絶対核家族・平等主義核家族)が生まれたのは、直系家族の支配層に押し付けられた権威への反発からだった(詳細はこちら)。

彼らの核家族とは、ルールなしの原初的自由をそのまま反映したものではなく、直系家族に反発して「自由」をルール化したことで生まれたものである。

室町時代の京都で、これと同じことが起きたと考えることはできないだろうか。

室町時代に京都の庶民が置かれた状況は、絶対核家族を生むのに最適である。

彼らは平安京の昔から核家族の都市の民として生きてきた。
そこへ関東から武士がやってきて、天子様に代わって国を治めるという。

「けっ、何様?」と当然思うだろう。(違いますか?)
その上、都市に暮らす彼らには、直系家族(長子相続)を取り入れる必要性など一つもないのだ。

京都の庶民たちが、このとき、武家文化への対抗意識から、核家族をシステム化したとしても、まったく不思議はないと思われる。

③応仁の乱後:絶対核家族の「市民」誕生か

室町時代に絶対核家族の芽が生じたと仮定すると、応仁の乱後の状況は、それを育成強化する格好の培地であったはずである。

応仁の乱と頻発した大火で町の大半が焼け落ち、疫病も流行って大勢の人間が死亡する。乱に参加していた武士や幕府の関係者はみな姿を消し、経済は崩壊。

幕府は衰亡、天皇の所領も略奪され、天皇は崩御や即位の儀式すらままならない状況に追い込まれたという(笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版』(中公新書、2021年)236頁以下)。

京都の人は「先の戦争」というと応仁の乱を指すという(おそらくかなり誇張された)伝説があるが、その「伝説」の存在に、京都の人々の室町武家政権への反感を読み取ることは可能であろう。

「武家とかいって偉そうにしていたくせに・・」
「なんなの、この体たらくは!」

(各々京都の言葉に翻訳してお読みください)

以上の考察より、本稿は、室町後期から江戸時代の初期にかけての京都は、押し付けられた直系家族への反発によって絶対核家族の都と化していた、という仮説を提案したい。

「検証」といっては大げさだが、その時期の京都が示す「核家族らしさ」を見ていこう。

京都の「パリ」時代
ー 町衆の文化

応仁の乱で荒廃した京都は、商業都市として再建される。とくに秀吉の功績が言われるが、それ以前の権力の空白状態の中で、復興の主役となったのは町衆だ。

①法華一揆

まず注目したいのは法華一揆である。
林家辰三郎先生にお出ましいただこう。

天文という時代の京都は、天文元年(1532)から5年(1536)までに間に、法華一揆とよばれる町の人々の大きなうごきがあって、その歴史のうえでも一時期を画するときにあたっていた。

林屋辰三郎『天下一統』日本の歴史12(中公文庫、2005(初版1974))55頁

法華一揆については教科書にも記載がある。こんな感じである。

京都で財力を蓄えた商工業者には日蓮宗の信者が多く、彼らは1532(天文元)年、法華一揆を結んで、一向一揆と対決し、町政を自治的に運営した。

林屋先生によると、一向一揆が、「農民を主体とし、土一揆と基盤を同じくして発展した」のに対し、法華一揆は町衆を主体としていた。

商人や手工業者を主体とする町衆は、「土倉衆〔幕府の財政に関与し同時に高利貸業を営んでいた〕の擁する巨大な富力と公家衆のもつ豊富な教養の影響をうけながら、経済力と文化性をもった「市民」的人間に成長して」いた、という。

その町衆たちが法華の信仰に導かれて、京都に法華の世界、町衆の国をつくったのがすなわち法華一揆である。

同前・56頁

なのである。

京都の「旦那衆」というのは、法華一揆の過程で形成された自治組織の中で支配層を占めた富商たちの呼称なのだという。

彼らはみな法華寺院の「檀那衆」(僧侶側から見た施主を意味する仏教用語→「檀家」の対個人バージョンですよね!?)であって、なんといえばよいであろうか、市民階級の上層(フランス革命の当初の主役だ)に属する人たちが自治組織の中心となって町を治める、ということがこのとき行われ、復興の基礎を築いたわけである。

こうした旦那衆の中には、狩野永徳を出した狩野家の人たちもいれば、のちに本阿弥光悦を出す本阿弥家の人たちもいた。永徳と肩を並べた絵師、長谷川等伯も法華宗徒の家に育った町衆だった。

農民を主体とした一向宗の信仰と、町衆に支持された法華の信仰は中身も違う。

一向宗の信仰はいうまでもなく厭離穢土(おんりえど)の考えのもとに彼岸的な極楽往生を説く点でも、ふかい諦念をもった農民の間に主として普及していたのであった。

同前・56頁

これに対し、法華の信仰は、

娑婆即寂光土を説くきわめて現実的な現世利益の主張であって、その点で商・手工業者の功利主義と一致した

56頁

のである。

イメージ重視で申し訳ないが、法華一揆に見られる功利主義的かつ(≒)個人主義的で自立的な市民の雰囲気は、とても核家族的である。

②桃山文化

桃山文化の斬新な華やかさも、自由の活力に溢れた核家族の都を思わせる要素といえる。

「旦那衆」狩野永徳の唐獅子図屏風に、長谷川等伯のモダンな襖絵。

狩野永徳・唐獅子図屏風(public domain)
長谷川等伯・松林図(public domain)

雄大・華麗とされる城郭建築(京都ばかりではないが、安土城、大坂城、伏見城、姫路城)

姫路城(https://himejion.jp/

女性の活躍も見逃せない。教科書によれば、

庶民の娯楽としては、室町時代からの能に加え、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都でかぶき踊りを始めて人びとにもてはやされ(阿国歌舞伎)、やがてこれをもとに女歌舞伎が生まれた。 

168頁
阿国歌舞伎図屏風(public domain)

とある。これが直系家族の文化「らしくない」ことは、脚注の記述でもわかる。

女歌舞伎はのち江戸幕府によって禁止され、ついで少年が演じる若衆歌舞伎がさかんになったが、これも禁じられ、17世紀半ばからは成人男性だけの野郎歌舞伎になった。

168頁(脚注)

③変わる町並みー徳川幕府の統制

しかし、この核家族的文化は、長くは続かなかった。

女歌舞伎や若衆歌舞伎が禁じられたのと同様に、町並みも、幕府の統制によって変わっていく。少し長くなるが、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』から引用させていただこう。

近世初頭、17世紀前半までの町並みは、豊臣政権の経済活性化策を反映して華やかになった。本二階建が増加し、高くなった屋根には石置板葺のほか、こけら葺や本瓦葺が現れ、風除けのウダツが増加、両妻壁に通柱(とおしばしら)がならぶ。壁は柱を外面に見せた真壁が大勢であるが、本瓦葺の町家には白亜の漆喰で塗り籠める塗屋もあった。二階座敷の生活習慣が定着し、通りに面した表蔵のなかには四階建てすら現れる。

それが17世紀後半になると、二階座敷から人影が消え、つづいて低層・均質化がはじまった。天井が低いので費用がかからない厨子二階が街並みの大勢を占める。二階表は多様なデザインを失い、壁や土塗格子(ムシコ)で閉鎖的になった。四階蔵や蔵内にしつらえた座敷も消え、表蔵は敷地奥へ、本瓦や塗屋も減少する。町家は板葺にウダツを上げ、一階は開放的な店構えで揃った。所司代の建築規制の結果であり、町人側の自主判断で厨子二階や土塗格子が生まれたわけではない。

高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)(太字は筆者)223-224頁

現在に残る京都の古い町並みは決して派手ではなく、京都の人たちもその質素な美しさを自慢しているように思えるが、それは、本来の京都らしさとは少し違うものなのだ。

さらに、次の引用は、押し付けられた「地味好み」への「抵抗」のエピソードである。

‥‥京都支配の進展は、朝廷・公家をはじめとする京都側の、無意識のそれを含めた反発、抵抗を生んだ。その結果が寛永文化、すなわち寛永年間(1624-44)を中心に、天皇・公家・僧侶・武家・上層町人が結んだ清新な文化の創造である

 桂離宮・修学院離宮・曼殊院に代表される建築・造園、小堀遠州の大名茶、松永貞徳の俳諧、松永尺五らの儒学、石川丈山の漢詩文、烏丸光広の文学、近衛信尹・松花堂昭乗の書、角倉素庵の嵯峨本、俵屋宗達・本阿弥光悦・野々村仁清の美術など、格調高い作品が数多く生み出され、漢学と和学が重層する近世都市文化の源流になった。

 その顕著な特徴の一つに、王朝以来の伝統ないし美意識への回帰がある。代表例は桂離宮だろう。‥‥

同前・224-225頁

京都でフランス革命を?

もし京都がその後も「核家族の都」であり続けたとしたら、幕末のシナリオも少し変わっていたかもしれない。

京都、それから薩長土肥の辺りに、関東の武家政権に対する反感から、絶対核家族地域が形成されていたとする(あくまで仮定です)。

薩長土肥は京都勢力と結んで徳川幕府を倒す。ここまでは実際に起きたことと同じである。しかし彼らが核家族であった場合、このクーデターは核家族 VS 直系家族の内戦となり、前者の勝利によって生まれる政権は、核家族に立脚した、正真正銘の自由主義政権となるのだ(*その方がよかったと言っているわけではありません)。

この場合、薩長土肥は天皇を表に立てるであろうから、新体制はイギリス的な立憲君主制となる。しかし、家族システムの配置ということでいうと、この内戦はフランス革命である。

フランスは、大雑把に言うと、パリ盆地を中心とする核家族(平等主義核家族)地域と周囲を取り巻く直系家族の地域に分かれているが、宗教戦争(ユグノー戦争)、フランス革命という内戦を経て、勝利を収めた核家族地域のメンタリティが国家の基礎となった。

日本の場合も、人口の半分以上が直系家族であったとしても、京都・薩長土肥の核家族(仮定です)を基礎とした核家族国家が形成される、ということは理論的には十分に考えられるのだ。

もちろん、現実にはそのようなことは起こらなかった。薩長土肥はもちろん、京都にも直系家族システムが浸透していたからである。

おわりに

それでも、日本の中でもっとも核家族的な色彩を残す地域が、京都であり、その周辺の都市であるということは間違いないと思われる。

下の図をご覧いただきたい。

1886年における世帯ごとの夫婦の平均数(『家族システムの起源 I』上 234頁)

1886年の国勢調査における世帯ごとの夫婦の平均数を示したもので、色が濃いほど夫婦の数が多い。

東北の場合には(先ほど書いたように)兄弟の夫婦が一時的に同居するというケースがあって世帯数が多くなっていると考えられるが、一般的には、世帯ごとの夫婦の平均数は二世帯同居の頻度を示す指標であり、数が多いほど直系家族度合いが高く、小さいほど低いということになる。

京都、大阪、奈良、兵庫のいわゆる畿内の周辺は真っ白。もっとも夫婦の平均数が少ない地域であり、それだけ直系家族度合いが低く「核家族的」であることが示されている。

京都といえば、伝統文化を体現する、もっとも「日本的」な都市であるというのが一般の認識であろう。

しかし、今に息づく日本文化の原型は鎌倉の直系家族(権威)であって、京都の核家族ではない。

京都に特別な雰囲気を与えているのは、日本が(日本らしい)日本になる以前の原初的核家族(ルールなし)の痕跡であり、あるいはまた、直系家族への反感によって桃山時代に花開いた(かもしれない)絶対核家族(自由)の伝統である。日本の中の異国、日本に残る「(原始的)西欧」と言ってもいい。

つまり、京都は、日本の中でもっとも権威主義の度合いが低く、「自由」な都市なのだった。

お詫びして、(私の脳内を)訂正いたします。

カテゴリー
独自研究

自殺と他殺
ー権威の作用ー

 

はじめに

トッドは自殺率と他殺率が「反比例する相関関係」にあることを指摘している(『世界の多様性』182頁)。要するに、概して言うと、自殺率が高いところは他殺率が低く、他殺率が高いところは自殺率が低いということだ(下の方に表があります)。

最近たまたまこの記述を再読してピンときた。これは「権威」の作用の問題だと。説明させていただこう。

殺人率と自殺率

まず、下の表をご覧いただきたい。日本とブラジルを比べてもらうと一目瞭然だが、他殺と自殺のバランスは国によってかなり違う。

社会情勢によって数の増減はもちろんあるが、両者のバランスの傾向には大きな変動はないと考えていただいてよい。

*中国とイランは2018年

仮説

何が他殺/自殺比率の違いをもたらしているのか。それは「国家の中に権威の軸が確立されているか否か」の違いだというのが私の仮説である。

確固とした「権威」の軸があるところでは自殺の比率が上がり、ないところで他殺の比率が上がる。

なぜそうなるのか。「権威」の誕生に遡って、「権威」の機能と作用を検討してみよう。

権威誕生以前の人類

人類は約70000年前に死者を弔うことを始めた。遅くともそのときには、「正しさ」の観念(倫理観念)を持っていたと考えられる。

当初、それは「痛い」「甘い」といった感覚と同じで、自分自身の感じた「正しさ」が絶対であっただろう。

とはいえ、だからといって直ぐに、個人と個人の間で「正しさ」をめぐる対立が起きたかといえば、おそらくそういうことはない。

倫理観念は、人間の社会性の基礎、人間が「社会内生物」として生きることを可能にした感覚であり、集団の中で共有されなければ意味はない。したがって、日々の生活を共にする社会集団内では、人々は基本的に共通の倫理観念を持っていたと考えるのが自然である。

問題が起こるのは、集団と集団の間である。

権威が生まれる前の原初の世界で、集団と集団が接触し、もめごとがおきたらどうなるか。

それぞれの集団に属する人々は、自分たちの「正しさ」を疑うことを知らない。したがって、紛争の解決策は、離れるか、戦うかのどちらかということになるだろう。

世界にスペースが有り余っているならば、負けた方はどこかに移動すればよい。人間が自らの「正しさ」を絶対視していても、さして深刻な問題は発生しない。

権威の誕生ー目的は「正しさ」の制御

問題が起きるのは、農耕民の定住が進んで人口密度が増し、開拓できる土地がなくなってきたときである。

この状態になると、集団の内外で紛争が頻発する。しかしもはや新規開拓に適した土地はない。人々はともかくその領域で共存していかなければならないのだから、「戦う」以外の紛争解決手段を編み出す必要がある。

人類の社会がこの段階に至ったとき、誕生するのが権威である。

権威は意見の異なる集団が住む地域の真ん中に神殿を建て(比喩です)「汝ら、これにしたがえ」と命令する。

権威の誕生とともに、社会を支える「正しさ」の根拠は、人々の心の中から、社会が「中心」と定めた場所に移動するのである。

原初的核家族は他者を責め、直系家族は自己を責める

人間が他者との関係で退っ引きならない状況に陥ったとき、自殺を選ぶか、他殺を選ぶかを(傾向として)決めるのは、この意味での権威が確立されているか否かであると考えられる。

権威の軸が確立された社会に適応した人々は、他者を責める前に自己を責める。「正しさ」の基準は外側にある。社会と自分が両立できないなら「間違っているのは自分」であり「自分が消えればよい」。そう考えがちになる。

他方、権威が確立されていない社会の人々は、自分の「正しさ」を疑わないという太古からのメンタリティを色濃く残しているので、困った時はとりあえず他人を殺すのである。

検証 

上に示したグラフは、①殺人率、②自殺率、③殺人と自殺の総数、④総数に占める自殺の比率を示したものである(いずれも10万人あたりの件数)。

一目瞭然で、殺人に対して自殺の比率が高いのは、直系家族の日本、韓国である。

自殺の比率は、問題の責任を自己に帰する傾向を示すと考えられるので、「自責指数」とか「自己規律指数」とか言い換えることもできるだろう。

中国は外婚制共同体家族だが、伝播によって共同体家族となったロシアとは異なり、領域内で原初的核家族→直系家族→共同体家族の自律的進化を経験しており、現在も直系家族度合いの高い地域がある。そのために、直系家族地域に近い数字になっているのではないかと思われる。

つぎに自殺比率が高いグループはヨーロッパである。ここに挙げた3カ国はドイツを除いて純粋核家族(絶対・平等)だが、純粋核家族とは直系家族に対抗して形成された核家族であり、その国家は隠れた直系家族の軸の上に成り立っている。システムに内在する直系家族の軸が、この数字をもたらしていると考えられる(実際の住民も「少数派の直系家族+多数派の純粋核家族」という構成)。

アメリカはイギリス由来の核家族だが、イギリスよりも自殺比率が低い。これは、イギリスにおける核家族の部分だけを大いなる大地に移植したことによるものと考えられる。アメリカの純粋核家族は、イギリスのそれから「隠れた直系家族」を取り除き、さらに広大な土地に移植したことによってより原初的な形態に近づいた核家族なのだ。

さらに極端なのは南米である。ここにはブラジルだけを挙げたが、ほかの国も同じ傾向でブラジルがとくに突出しているわけではない。南米は基本的にスペインの平等主義核家族を広大な大地に移植した形態であるわけだが、この結果は、平等主義核家族のひょっとすると絶対核家族以上の自由さというか規律のなさ(権威の不在)を示しているのかもしれない。

ただし、キューバだけははっきりと傾向が異なる。キューバはロシアと同じような傾向を示していて、さすがの外婚制共同体家族である。

ところで、ここまで私は、直系家族地域で自殺比率(自責指数)が高いのを当然のことのように語ってきたが、「外婚制共同体家族地域の方が権威の強度は強いはずでは?」と思った方がおられるかもしれない。

仮説度がぐんと上がるが、私はこう考えている。

この世界における最もスタンダードな国家=家族システムは直系家族、比較的コンパクトな領域の中に秩序を打ち立て、成員一人一人が自発的にそれに従うことで成り立つシステムである。

共同体家族は、この直系家族に軍事上の強い圧力と刺激が加わることで生まれたシステムである。このシステムでは、兄弟全員に軍事組織の隊長として活躍してもらわなければならないので、全員に平等な地位と自律性が与えられる。しかし、そうは言っても、最終的にはトップの指示に従ってもらわなければならない。そのために、トップには法外に強い権威性が与えられるわけだが、その下に服する人々は、一人一人を見ると案外自由で放縦なのである。

いろいろな指標でロシアとアメリカが意外に近いというのは、核家族と共同体家族の隠れた近接性を示しているようで、いずれもう少し突き詰めて検討してみたいと思っている。

内婚制共同体家族は、近代化がほぼ完了していて政情が比較的安定した国ということでトルコとイランを取り上げた。

いずれも自殺比率は低めであるが、それ以上に、どちらの数も少ないことが印象的である。

「家族システムの変遷ー国家とイデオロギーの世界史」では内婚制共同体家族を偉大なる完成形として描いたが、この数字を見ても、その安定性というか底力のようなものを感じずにはいられない。

おわりに

この論考は単純に自殺比率と権威の軸との関連性に興味を惹かれて書いたものであり、取り立てて何か教訓を引き出すつもりはないが、感想はあるので述べよう。

日本や韓国についていうと、全体の数の削減に取り組むことは重要だと思うが、「自殺比率」に関しては納得するしかないと思われる。

南米は圧倒的に自殺比率が低く羨ましい。しかしその分はしっかり殺人率で補われているし、アメリカやロシアの自殺比率の低さ=他殺率の高さも、おそらくは彼らの国家の不安定性と関わっている。どちらがよいとかよくないとかいっても仕方のないことだろう。

また、一定以上の人口密度を前提とする限り、人類が自殺や殺人(や戦争)を克服するのはおそらく無理である。しかし、何が私たちを追い詰めるのかを知ることで、自分自身による自殺や他殺は防げるかもしれない。

私たちが感じてしまう自責・他責の念は、国家や社会を成り立たせるためのフィクションに基づくものである。

全く縁を切ることは難しいとしても、そんなもののために死ぬことはないし、他人を殺すこともない。

<資料> 
https://dataunodc.un.org/dp-intentional-homicide-victims(殺人率)

https://www.who.int/data/gho/data/themes/mental-health/suicide-rates(自殺率)

カテゴリー
独自研究

家族システムとイデオロギーの再解釈

フランス人トッドと日本人の私ー平等マニアと権威マニア

トッドはフランスの平等主義核家族地域出身である。「平等」という価値が具体的にどのような形で社会で作用しているのかを肌で理解しているためなのだろう。私から見ると、トッドは「平等」の価値に敏感で、平等の観点から社会を分析するときに際立った冴えを見せる。

例えば、「平等不在(絶対核家族)のアメリカが民主主義を早期に確立できたのは黒人と先住民の存在が「白人の平等」の観念を可能にしたからである」という仮説に基づくアメリカ現代史の分析などは本当に秀逸で、何度読んでも驚かされる(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』 に詳しいが『移民の運命』『帝国以後』にも関連する記述がある)。

それと比較すると、日本人である私は「権威」の価値に敏感であるといえ、「権威」を軸にした分析を付け加えることで、トッドが始めた「歴史の書き換えプロジェクト」に独自の貢献ができると感じている。

今回は、家族システムとイデオロギーの関係性について、トッドと少し異なる視点から再解釈を施してみたい。

トッドのマトリックス

『世界の多様性』等におけるトッド版マトリックスはこのようなものである。 

『世界の多様性』47頁参照。ただし同書では左に45度傾いた✖️形状になっている。

これはトッドが家族システムの歴史的変遷の概要を解明する前、世界における家族システムの分布を単なる「偶然」と考えていた時期にすでに作成されていたものである。

もちろんこれはこれでよいのだ。シンプルで、現実の理解に非常に役立つものであることは間違いない。

しかし、家族システムの変遷に関する知見を手に入れ、家族システムの進化と国家形成の深い関連性を知り、とりわけ国家形成において「権威」が果たした役割の重要性を理解すると、この図に少し手を入れたいという気持ちがムクムクと湧いてくるのだ。

マトリックス・講座版

というわけで作ってみたのが下の図である。

変遷過程を示す矢印も入れてみました。

主な変更点は

  • 権威を上に持ってきたこと、
  • イデオロギーを「自由と権威」「平等と不平等(非平等)」の対立ではなく「権威と権威の不在」「平等と平等の不在」として表現したこと、

の2点である。

トッドの研究に依拠すると、各家族システムの形成過程はつぎのように整理できる。

  • 初めに「権威」が発生したことで家族のシステム化=国家形成がスタート(権威+平等なしの直系家族)。
  • 遊牧民の「平等」が付加され、共同体家族に発展。
  • その後、直系家族の権威への反動として絶対核家族が、共同体家族の権威の退化および直系家族の権威への反動として平等主義核家族が登場。

以上の歴史的経緯から見ると、システム化の過程で、一番最初に発生し、国家を可能にしたのが「権威」であること、そして、積極的な価値として発生したのは「権威」と「平等」の二つであることがわかる。

「自由」とされるものは「権威の不在」あるいは「権威の否定」、「不平等」「非平等」とされるものは、「平等の不在」という方が、実態に近いのではないかと思われるのである。

例えば、直系家族の「権威と不平等」は、世代を越えて受け継がれる家長の権威が発生したことの単純な結果である。誰かを次世代の家長に指名するということは、必然的にそれ以外の者との間に差異が生まれるということなのだから。

絶対核家族の場合も同じで、「自由と非平等」は、平等を持たない社会が縦型(世代間)の権威を否定したことの結果である。平等を持たないから、異なる取り扱いには頓着しない。しかし、縦型の権威も持たないから、結果的に、取扱の差異に規則は発生しない。

直系家族と絶対核家族の「不平等」と「非平等」を分けているのは、権威の有無であり、平等についての積極的な考え方の違いというわけではない。

そういうわけで、権威を上に置いて直系家族が国家の原型であることを示し、かつ、4つの価値をそれぞれ積極的な価値とするのではなく、2つの価値とその不在として表現した。

トッドのマトリックスだとどうしても「自由と平等の方が偉い」という感じがしてしまうが(被害妄想でしょうか)、その点が緩和できるのも利点だと思う。

おわりにー「権威」の価値を認める

直系家族システムが成立する以前の人類は核家族を基礎とする柔軟な絆の中で暮らしており、その時代の基本的な意思決定システムは話し合いーつまり民主主義であった。トッドは次のようにいう。

ホモ・サピエンスの人類学的な最初のシステムは核家族であり、重要な親族との関係でできた小さなグループの社会なのです。この核家族の個人主義的な価値観は、リベラル・デモクラシーの基本的な思想につながっていると考えられます。そのことを考えていくうちに、こういう見方にたどり着きました。ならばリベラル・デモクラシー自体も古いものなのだ、と。

エマニュエル・トッドほか『世界の未来』(朝日新書、2018年)11-12頁

私は彼のこのような見方から誰よりも強い影響を受けた者の一人だと思うが、この説明はちょっと甘いというかミスリーディングだと感じる。

これだと、結局「自由こそが人類の本来の姿だ」という感じがしてしまうではないか。単純な進歩史観ではないとしても、ロマンティシズムの対象として自由が美化されている点は近代主義そのものである。

原初的核家族から直系家族への進化(家族のシステム化)は、人口密度の高まった世界への適応であり、共同体家族への進化は、集団の利害が複雑に対立する状況において、平和を維持するために生じたものである。

その現実は受け入れなければならない。

「権威」には確かに抑圧的な面があるから、「システム以前」の感受性を受け継ぐリベラル・デモクラシーは、誰の目にも明るくよいものに見える。

しかし、リベラル・デモクラシーに憧れたところで、狩猟採集時代の人口密度に戻れるわけではないのである。

実際、世界には人間が溢れかえっていて、まもなくその全員が識字化した時代を迎えようとしている。その全ての人たちが「自由」に自己利益を追求したらどうなるか。その結果の一端は、すでに、環境破壊や、不安定なアメリカの動きによる世界の混乱などに現れているといえる。

何かちょっと話が大袈裟になってきたが、「権威」の価値を正しく理解することは、20世紀をきちんと終わらせ、この先の世界を構想する(というか適応する)ために不可欠なことだと思うので、このような再解釈を試みてみた次第です。

カテゴリー
独自研究

連載「社会のしくみ」のご案内

 

姉妹サイトsatokotatsui.comの方で、連載「社会のしくみ」をはじめました。

トッドの人類学を頭に入れると、国家の誕生、国家の意思決定システム(政治ですね)、政治と宗教の関係、世界情勢‥など、さまざまなことが構造化して見えてきます。

自分としては、社会についての謎がどんどん解けていって面白くて仕方がなく、同じように社会に関心がある方たちにも、驚きと喜び、そしてさらなる探究のきっかけになるに違いないと思い、頭に溜まった仮説たちを共有させていただくことにしました。

もとより仮説にすぎませんし、かっちりまとめるのは読む方も書く方も大変なので、エッセイ的にゆるめに綴らせていただきます。

‥‥

この連載を「トッド入門講座」のサイトに載せるか、satokotatsui.comに載せるかは少し迷いました。すべての出発点がトッドの人類学にあることは間違いないので「独自研究」として当サイトに掲載するのがよいかとも思いましたが、私が立てる仮説の骨子には、(書かれたものを読む限り)トッドの考えと相容れない要素がいくつか含まれていると思われるので、ミスリードを避けるため、個人サイトにアップすることにしました。

トッドが自身の学説から導いた(世界の)解釈のほとんどを私は手放しで支持していますが、うっすらと疑問を感じていたことが2つありました。

①「脱宗教化」の意味づけ

トッドは、先進国の「危機」において、宗教というファクターをかなり重視しています。信仰の内容ではありませんが、「脱宗教化」すなわち「信仰が失われたこと」が根本にあるという見方です。

*なお、ここでいう「危機」とは、エリートたちがグローバリズムに踊らされ、自分たちの経済的特権を守るために若年層を犠牲にし、さらには(ヨーロッパではとくに)イスラムをスケープゴートに仕立てて社会の分断を煽り立てるような事態のことを指します。

「現在の混乱の起源には宗教的危機があるのだ。あたかも、1965年から2007年までの間に、宗教的信仰の最後の拠点が崩壊したことが、全国的な政治的解体を産み出すことになったかのようなのである。」

デモクラシー以後・52頁

この断定に至るフランスのデータ分析は行き届いたもので、私は、ヨーロッパの「危機」の根幹に宗教的空白を認めるトッドの立場にはいささかの異論も持ちません。

でも、日本ではどうか。

「日本のことはよく知らないから」と遠慮を見せつつ、トッドは明らかに宗教心の喪失は日本でも(ヨーロッパと同様に)何らかの破壊的影響をもたらしたはずだと考えたがっています(『シャルリとは誰か』の日本向けはしがきなど)。

しかし、彼のこの見立てに対しては、私は直感的に「違う」と感じます。日本人にも信仰心はあった(る)しそれが減弱していることは事実でしょうが、信仰の喪失そのものは、日本社会にはそれほど大きなダメージにはなっていないと感じるのです。

それは多分、ヨーロッパにおけるキリスト教の立ち位置と日本社会における宗教の立ち位置が少し違うからであり、そこには必ずや家族システムの相違が関係しているというのが、確信に近い私の直感です。

②「権威」の本質的重要性

もう一つは、社会における「権威」の機能です。

トッドは、われわれ人類は皆(とりわけ集団としては)家族システムの規定力から自由ではないことを明らかにし、ロシアや中国、中東の権威主義体制を敵視する英米仏の人々に対し、彼らのシステムを理解する必要があることを伝えます。

これは本当に(普及すれば)ノーベル平和賞級の偉大な功績で、だからこそ私はこうして普及のために微力を尽くしているわけですが、しかし、トッドが「権威」というものの存在意義というか客観的価値を正当に評価しているかというと、それはちょっと疑問であるとも感じます。

理由の一つとしては、トッドが政治哲学のような議論は好まず、ごく一般的なフランス市民の価値観を持つ「科学者」としてふるまっているということがあるでしょう。

科学者トッドはどのシステムがよいとかよくないとかいう立場にはなく、一市民として、自由主義体制を好むということを時折表明する。ただそれだけのことにすぎないのかもしれません。

しかし、この点についてのトッドの抑制的態度は、結果的に、核家族システムの徹底した相対化、つまり、ヨーロッパの特殊性の理解を妨げている面があるように思われます(①の私の疑問も多分この点と関係しています)。私のような社会科学者から見ると、非常にもったいないのです。

「ここにこそ、西欧近代が作り上げたモデルから逃れて、本当に世界史を書き換える鍵があるのに!」と。

そういうわけで、漠然と抱いていたこれらの疑問を掘り下げて、社会について考えてみたら「何かがわかった!」という気がしたもので、はじめるのが今回の連載です。

トッドの理論を受け止めた日本の社会科学者による社会の基礎論的考察(?)、

どうぞお楽しみ下さい。

カテゴリー
トッド用語事典

移行期危機

 

1 移行期危機とは

移行期危機とは、社会が前近代から近代に移行する際に発生する危機的現象のことを指す用語です。

トッドの理論では、近代化の引き金を引くのは識字化です。男性の半数以上が識字化し、物を考え、社会に参加する主体が増えることで、社会が変わる。

 →ストーンの法則(識字率と民主化革命を結びつける)
 →近代化のモデル

一方で、人間は、男性識字率50%がもたらす急激な変化を、当たり前のようにやり過ごすことができる生物ではありません。

人々は、期待とともに、強い不安を感じる。人々の精神の動揺は、社会を不安定化させます。その社会の不安定化こそが、移行期危機の原因である、というのが、トッドの仮説です。

文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。

エマニュエル・トッド  ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。

2 典型的な過程 

移行期危機を経て社会が安定化に至る過程では、通常、上のようなシークエンスが観察されます。

近代化の過程においては、出生率低下は受胎調節(避妊)の普及の証であり、受胎調節の普及は、脱宗教化の証です。

*ただし、出生率低下の促進要因として宗教を重視する見方は、トッドが(主に)ヨーロッパのデータから導いたものであることには注意が必要だと思います。

宗教というファクターは、男性識字化(50%)から出生率低下までに170年を要したドイツ、識字化(50%)に先んじて出生率が低下したフランスの例を効果的に説明します(ヨーロッパの脱宗教化について詳しくはこちらをご覧ください)。

しかし、キリスト教システムが国家に準じるような大きな役割を果たしてきたヨーロッパと同じことが、他の地域(とくに日本やイスラム圏以外のアジア)にも当てはまるかは、まだ充分に検証されているとはいえません。

より普遍性を持たせるなら、「信仰心の喪失」ではなく、「伝統への忠誠心の消失」などと言い換える方が適切かもしれない、と私自身は考えています

3 具体例

識字率50%(男性/女性)出生率低下移行期危機を示す現象とその時期
イギリス1700/18351890第一次世界大戦(74万人が死亡)(1914-1918)
ドイツ 1725/18301895第一次世界大戦-ナチスドイツ(1914-1945)
フランス1830/18601780フランス革命-ナポレオン
(1789-1814)
日本1870/19001920満州事変-第二次世界大戦
(1931-1945)
韓国1895/19401960朴正煕クーデター-光州事件
(1961-1980)
ロシア1900/19201928ロシア革命-スターリン
(1917-1953)
トルコ1932/19691950政治的混乱、テロ、クーデター、イスラム主義(1960-2000)
インドネシア1938/19621970インドネシア大虐殺
(1965-1966)
中国1942/19631970文化大革命
(1966-76)
カンボジア1960以前クメール・ルージュ(大虐殺)
(1975-79)
ルワンダ1961/19801990ルワンダ大虐殺
(1994)
イラン1964/19811985イラン革命(1979)
ネパール1973/19971995毛沢東主義ゲリラ
(1996)

<注釈>

・男性識字率50%と相関する民主化革命は、それ自体が高度に暴力的である場合(フランス革命、ロシア革命)もありますが、そうでない場合(イギリス革命)もあります。

・トッドはイギリス革命の暴力性が低かった理由を、識字率上昇が全国的でなかったことに求めていますが、出生率低下(脱宗教化)がまだだったことに求める仮説も成り立つかもしれません。

・イギリスについては、第一次大戦時の被害の大きさ(ナショナリズムに基づく戦闘意欲の高さを示す)が移行期と関連するというのがトッドの見立てです。

・フランスの識字率上昇はパリ盆地と周辺の都市部だけを取るともっと早いです(1700-1790)

・中国の移行期危機はもっと長く取る方が妥当かもしれません(1950年前後?)

・上記以外のイスラム諸国の数字をいくつか紹介しておきます(男性識字率50%、女性識字率50%、出生率低下)。

シリア194619711985
サウジアラビア195719761985
イラク195920051985
エジプト196019881965
パキスタン197220021990

・いずれも20-24歳の男性・女性の識字率が50%を超えた年です。

4 ユースバルジ論との関係

トッドは人口学の専門家でもあり、近代化に関する彼の理論は、人口学の人口転換の理論を基礎の一つとしています。

多産多死 (出生率・死亡率ともに高い) 前近代
  ↓
死亡率低下 (高出生率+低死亡率→人口増大 「人口爆発」も)
  ↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
  ↓
少産少死 (人口が安定) 近代化完了

また、人口学および政治学の仮説に、激しい武力紛争や大量虐殺の原因を人口に占める若年人口割合の高さから説明する「ユースバルジ論」があり、これはトッドの移行期危機の理論とよく似ているので、両者の関係が問題となります(両者の関係についてはこちらでも論じています)。

両者は、それぞれかなり異なるエリア・関心から紡ぎ出されたもので、どちらかがどちらかを参照したという関係にはおそらくありません。つまり、それぞれが独立した理論であって、当人たちの間に、相互影響関係はないと考えられる。

しかし、人口転換論を前提にすると、トッドが重視する「出生率低下」の開始時期は、若年人口が極大化している時期に当たります。

ユースバルジ論は、極端に暴力的な紛争の発生原因に関心を寄せ、歴史家トッドは、近代化という現象の総体を捉えることに注力する。

このような力点の違いはありますが、移行期危機の理論とユースバルジ論は、基本的に同じ現象を捉える理論だといってよいと思います。

5 参考文献

  • Emmanuel Todd, Lineages of Modernity, Polity Press, 2019, p132, p139-152
  • エマニュエル・トッド(萩野文隆訳)『世界の多様性』(藤原書店、2008年)452-459頁
  • エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己訳)『文明の接近ー「イスラームVS西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)
  • エマニュエル・トッド(石崎晴己訳・解説)『アラブ革命はなぜ起きたか』(藤原書店、2011年)

カテゴリー
独自研究

キューバの謎

キューバは、外婚制共同体家族グループの一員である。ロシア、イタリア中部、中国、ベトナム(の一部)と、見事に共産圏(イタリア中部は共産党が非常に強かった)の地図と重なり、トッドに「家族システムとイデオロギーの相関性」に関する「啓示」をもたらしたグループだ。

共同体家族の成立の鍵となったのは、騎馬遊牧民の存在であることが分かっている。中国もロシアも、そしてイタリア中部も、匈奴やモンゴル、アヴァールなどの遊牧民との接触を経てそのシステムを形成した。ベトナムの場合は、中国からの伝播であろう。(以上については、こちらこちらをご覧ください)

でも、キューバは?

ということで、調査を開始した。

キューバはクリストファー・コロンブスが「発見」、上陸し、航海のスポンサーであったスペインの領土と宣言した土地だ。

「その後は主にスペイン人が入植したはずだから、スペインの一部に共同体家族地域があって、それが移植されたのかもしれない」と思って調べてみたが、トッドの本によると、スペインには共同体家族の地域はない。

そこで、「ポルトガルは?」と思って調べてみると、いろいろと興味深いことが分かった。

ポルトガルの南部には、共同体家族「的」な家族システムの地域がある。同居の規則は共同体的ではないので、共同体家族とはいえない。しかし、「親子関係の特殊な権威主義」と「兄弟間の極めて厳格な平等主義」の組み合わせであり、イデオロギーは完全に共同体家族のそれと一致する。果たしてこの地域は共産党の得票率が極めて高かったことで知られている。

『新ヨーロッパ大全II』164頁

そして、この地域には「キューバ」という町があるのである。

Imagem criada por Rei-artur, em Janeiro de 2005, a partir do mapa Image:Mapa de Portugal.svg.

中南米の国名「キューバ」の語源は、原住民のインディオの言葉から来ているというのが通説のようだが(wiki英語版によると大した証拠はない模様)、ポルトガルの「キューバ」から来たとする説も存在する。その説は、イタリア出身とされているコロンブスは実はポルトガル人であり、出身地である「キューバ」に因んで、新たに発見した土地を「キューバ」と名づけたのだ、とするのである(ポルトガルのキューバにはコロンブスの銅像があるらしい)。

Estátua de Cristóvão Colombo, Cuba, Alentejo

コロンブスがキューバ(ポルトガル)出身なのかどうかは私には分からないが、コロンブスの後、ポルトガル出身の人々がキューバに入植してキューバを作ったと考えることはさほど不自然ではないように思われる。

何しろ、キューバ(ポルトガル)を含むポルトガル南部はイベリア半島で唯一の共同体家族的システムの土地であり、キューバ(国)は、スペインとポルトガルが分け合った南米において唯一の外婚制共同体家族の国なのだから。

ちなみにポルトガルの方の「キューバ」は、アラビア語のqubba(墓廟)が語源とされているらしい。イベリア半島は長らくイスラム王朝の支配地域であったから、その痕跡がポルトガルに残っていてもおかしくはないだろう。ポルトガル南部の共同体「的」システムが、母系制であるというのも、初期のアラブ文化との関係を思わせないでもない。

ともかく、アメリカ合衆国の直近の島が強固な共産主義国家になるといった事態は、こんな風なことによって生じたに違いないのだ。

カテゴリー
独自研究

ロシアとウクライナのこと

 

はじめに ー 家族システムの理論が教えること

神よ 変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、 それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。 

ラインホールド・ニーバーの祈りの言葉(大木英夫 訳)学校法人 聖学院 ウェブサイト

トッドの理論は、社会について、「変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さ」そして「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵」を私たちに与える。

さらに進んで「変えることのできるものをどう変えるかを考える知恵」そして「変えるだけの勇気」を持ちうるかどうかは、受け手次第と思う。それを持ちたいと願う者として、それを持ちたいと願う人に向けて書きたい。

家族システムの理論は、自由主義、共産主義、イスラム(慣習的権威主義)その他のイデオロギーは、人間の自由意思の所産というより、社会の基礎にある家族システムが担う価値観の表出であること、したがって、事実上「変えることのできないもの」に属することを教える(こちらのサイトこの連載をご覧ください)。

ここでいう「イデオロギー」は思想信条というより、個人と集団の関係、集団の機能の仕方、リーダーシップのあり方など、社会の基本的な秩序の作り方を規定する無意識的な価値観の総体である。直系家族システムを持つ私たちも「自由主義」の理念を掲げることはできるが、イギリスやアメリカと同じような社会(例えば、訴訟が活発で、選挙のたびに政権交代が起こり、天文学的な所得の格差を許すような社会)を営むことはできない。そういうことである。

平和な世界に向けて、私たちにできることは何か。社会の根底に横たわる家族システム=イデオロギー体系は変えられない。したがって「自由と民主主義」を掲げて徒党を組み、「専制主義」に圧力をかけても、平和に近づくことはできない。

私たちにできる最善は、世界に多様な価値体系が存在していることを認め、尊重し、共存の道を探ることである。

以上を前提として、ロシアとウクライナの戦争について、どのように向き合えばよいかを考えたい。

ロシアの家族システムとプーチン大統領

「西側」の人々は、現在のロシアの「専制主義」を作っているのはプーチン個人の権威主義的な人柄であると信じているように見える(英米の個人主義から見ればそうなることは理解できる)。しかし、現実はそうではない。

ロシアの家族システムは外婚制共同体家族である。共同体家族は親子の縦の権威関係に兄弟の平等が結びついたもので、遊牧民の影響を受けて成立したと考えられている。ロシアの場合、モンゴル宗主権下にあった約2世紀半(13世紀-15世紀)の間に同システムが確立したというのがトッドの仮説である(『家族システムの起源 I 下』498頁)。

すべての子供たちが婚姻後も親の世帯に残り、兄弟とその妻子が作る大きな共同体のトップに父親が君臨する。外婚制共同体家族の父親の権威は全システムの中で最大である。

一方で、外婚制共同体家族の秩序には、継続性を欠くという特徴がある。統率力の源泉は生身の人間の人格であり、後継者となるべき子供たちには序列がない。そのため、父親の死によって家族は分裂し、次の秩序が確立するまでの間、必然的に混乱に陥るのである。

トッドは、農村の外婚制共同体家族が(近代化の過程で)爆発的に崩壊した後、その空白を埋める形で成立したのが共産主義であることを指摘している。

「爆発的解体→革新的新秩序」という推移が、家族システムの特性によるものであることを裏付けるように、ロシア政治史の下斗米伸夫は、ソ連崩壊後の新体制樹立の際にも、これと全く同じ力学が働いていたことを見出している。

崩壊する旧秩序、分極化する社会、ひ弱な穏健改革派指導部、地方の革命的自立、これに反発する保守派クーデターの切迫、新しい革命派、とくに指導者の人気……。

 1917年の政治過程は、91年ソ連崩壊の過程とそっくりではないか。すくなくとも政治力学に関する限りは。

下斗米伸夫『ソビエト連邦史 1917-1991』(講談社学術文庫、2017年)46頁

一つの秩序の崩壊は、共同体家族システムの崩壊を意味しない。秩序が爆発的に崩れ、つぎの新たな秩序が生まれるという力学そのものが、共同体家族システムが機能していることの表れである。

したがって、共産主義ソ連崩壊の後に再建されたロシアが、やはり一人のリーダーに権力が集中する政治体制を持つ国になったのは、プーチン大統領個人の強権的体質のためではないと考えるべきである。ロシアの「土地の記憶」、すなわち外婚性共同体家族という家族システムは、つねに専制的な指導者を必要とするのである。

プーチン大統領は、ソ連崩壊の過程で壊滅的な状況に陥っていたロシア社会を安定させ、その活力を取り戻し、経済を再建した。

新生ロシアは、依然として権力集中型の社会ではあるが、ソ連時代と比べればはるかに自由で民主的である。

このことは、プーチン大統領が、ロシア社会の「変えることのできない」体質を引き受け、「変えることのできるもの」を変えることで復興を成し遂げた、偉大な指導者であることを示している。いったい、政治指導者にそれ以上の何を求めることができるだろうか。

20年以上の長期政権は「西側」の尺度では普通でなく、「権力にしがみついている」ように見えてしまう。

しかし、有能な政治家であるプーチンは、ロシアがどのような性格の社会かを知っているはずだという前提に立つならば、解釈は変わってくる。

国民に安定的な豊かさと繁栄をもたらし、国際社会において名誉ある地位を得るという目標(なんと崇高な目標であろうか)において道半ばであるロシアにとって、政権の交替がもたらす混乱はマイナスにしかならない。

その意味で、可能な限り長く権力の座にとどまろうとする彼の選択は、ロシア国民の利益にかなう、合理的な選択であるといえるのである。

プーチンは天使ではないが(天使に政治家など務まらない)悪魔でもない。このような前提に立つだけで、「西側」の報道とはかなり違う世界が見えてくると思う。

ロシアとウクライナ

ロシアとウクライナの関係、ウクライナの現在を考えるとき、私たちがまず理解する必要があると思われるのは、ウクライナという統一的な国家が古くから存在していたわけではないという事実である。

現在ウクライナの領土となっている地域は、モンゴル支配の後、ポーランド・リトアニア共和国、オスマン帝国などの支配下にあった。これらの国が衰退した後は、オーストリア・ハンガリー帝国領となった西端(リヴィウの辺り?)を除き、全土がロシア帝国の領土となった。

「分割統治されていた」と記載する文献を見かけるが、「分割」の表現はミスリーディングである。それ以前に「ウクライナ」という政治的統一体は存在しなかったのだから。

そういうわけで、ウクライナは確かにロシア帝国の領土であったが、ロシアがウクライナと戦って征服したというわけではない。他の政治権力が衰退し、ロシアが伸張した結果、ウクライナの地がロシアの領土となっただけである。

一般的なロシア史の叙述では、国家としてのロシアの発祥は、9世紀の民族大移動(第二波)の際にノルマン人が作ったキエフ国家に求められている。したがって、ロシアの人々にとって、ロシア帝国が勢力を伸ばし、キエフの地を領土として「回復」したことは、喜ばしく、誇らしいことであったと思われる。

これ以降、ロシア帝国およびソ連邦の歴史を通じて、ロシアとウクライナは同胞として長い時間を共にすることになる。ロシアの人々が、言語の異なるウクライナを「兄弟」と呼ぶのは、こうした歴史的経験に基づくものであり、決してロシア側だけの勝手な言い分ではない。

また、こうした歴史的経緯から、ウクライナにとって最も重要な隣国がロシアであることも強調しておかなければならない。ウクライナにとっては、文明はつねに東からやってきた(そのことは、「東高西低」の傾向を示す同国の経済状態にも現れている)。「西の方が進歩的」という固定観念は、ウクライナには当てはまらないのである。

ウクライナの民族意識と家族システム

ウクライナで独立の機運が生じるのは20世紀に入る頃であり、18-19世紀に(周辺地域と同様に)民族的自覚が高まった結果である(識字率上昇による人々の主体性の高まりは、まずはナショナリズムの高揚をもたらすと決まっています)。

独立の動きは、東部と西部で同時期に発生したが、どちらも成就はしなかった。

  1. ウクライナ人民共和国 1917年(ロシア革命と同時期)に樹立された社会主義国家(首都キエフ)。独立を宣言したが、ロシア赤軍との戦いに敗れ、1920年にはソビエトの支配下に入った。
  2. 西ウクライナ人民共和国 オーストリア・ハンガリー帝国に属していた西部地域で1918年10月に樹立。まもなくポーランドの支配下に入り、第二次大戦後にはこの地域を含む全土がソビエト連邦の一部となる。

同盟を結ぶ動きはあったものの、統一的な独立運動にならなかったことには理由があると思われる。ウクライナは、外婚制共同体家族の地域と核家族の地域に分かれているのである。

1の動きに関しては、民族意識の発露があったことは間違いないとして、社会主義国家の樹立に向かう流れそのものはロシア国内のそれと軌を一にしていたと考えられる。ウクライナ東部は共同体家族の地域であり、東ウクライナにはロシアと全く同様の「ソビエト」自然発生の動きがあった(下斗米・前掲書45頁)。

一方、2は、正真正銘の「反ロシア」の動きと考えられる。ウクライナ西部はポーランドなどと同様の核家族であり、専制主義的な統制は性に合わない。

ウクライナ史の叙述には、「ソ連共産主義の苛烈な支配の下で不満を募らせた」という趣旨が書かれていることがあり、真実と思われるが、そこに一様の「反ロシア感情」を読み取るのは妥当でないと思われる。ソ連共産主義の苛烈な支配に不満を募らせたのはロシアの人々も同じだからである。

ある程度の民族感情が付随するとしても、東部ウクライナ人の「不満」はこれと同質のものである可能性が高い。他方、西部の人々にとっては、ソ連共産主義への不満は「反ロシア」とイコールであっただろう。

独立ウクライナの苦境

ウクライナが独立を達成したのは1991年、ソ連崩壊の際の国民投票で独立が選択されたことによる。その意義を低く見るつもりはないが、歴史的事実として、ウクライナを「統一」に導いたのはロシアであったこと、統一ウクライナの「独立」が、ソ連崩壊による「棚ぼた」であったことは、確認しておく必要がある。

1991年に至るまで、ウクライナの領土がつねに外側の大国の支配下にあったことは偶然ではない。核家族システムは中央集権的国家の形成に不適であり、島国のような自然な国境に恵まれない大陸で、多民族を統べる能力には恵まれていない。他方、ウクライナの共同体家族はロシアやベラルーシと地続きであり、独立の必然性には乏しい。

つまり、ウクライナの独立は、歴史上一度も独立国家の運営を経験したことのないウクライナの人々に、分裂傾向を抱え込む領土をまとめながら、共産主義政権によって疲弊した国力を回復させるという難しい課題を与えるものだったのである。

結論からいうと、ウクライナの国家経営はうまくいかなかった。その事実は、トッドが「規模の大きい国では類例がない」というほどの人口減少に現れているといえる(1990年から2020年の間に5200万人→4400万人)。

人口学が教えてくれること、それはウクライナ社会の静かな解体が進行しているということです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(2015年)99頁

西部ウクライナの台頭と「西側」

東にはロシアにシンパシーを抱く人々がいて、西にはそれに不満を持つ人々がいて、中間にどちらとも決めかねている人々がいる、というのがウクライナの状況である(多数派は中間であるという)。したがって、ウクライナの安定のためには、ロシア寄りでも反ロシアでもない、中部ウクライナの人々が力をつけ、ロシアからも西側からも支援を受けながら国を作っていくのが理想であったと思われる。

しかし、現実はそのようには動かなかった。

独立後、歴代の政権は、概ねロシアとの関係を重視する政策を取ってきた。しかし貧しさから脱却できない西部地域では不満だけが高まり、「親EU」「反ロシア」の政治勢力が台頭した。

「親EU」と聞けば、進歩的な民主派であると考えるのが「西側」の慣わしであり、「西側」は(少なくとも当初は)そう信じた。しかし、トッドの見立ては違う。

彼らはEUの旗を打ち振りますが、あれは、われわれの民主主義的価値との親和性よりも、ポーランド人の従兄弟たちへのシンパシーや、ソ連兵相手に一緒に戦ったドイツ人たちの思い出に突き動かされてのことなのです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』100頁

2004年の大統領選挙をめぐる騒動(西部勢力が親ロシア派大統領の勝利を「不正」として抗議→西側の介入もあり再投票→野党大統領へ)、2013年のユーロマイダン(親ロシア派大統領を追放)も、こうした流れの中で起きた事件である(なお、ロシアがクリミアを併合したのはこの直後である)。

「ユーロマイダンの革命と2014年5月25日の大統領選挙では、ウクライナの混濁したもう一つの側面が表面化しました。すなわち、それと比べると〈国民戦線〉〔フランスの極右政党〕がまるで中道左派のように見えてしまうほど超過激な、極右勢力の存在です。
 その極右勢力が特に激烈なのは、国の中の最も貧しい地域の一つである西部地域においてですが、その地域こそ、ヨーロッパ人に好感を持たれている地域‥なのです。」

前掲書 99頁

過激化した西部の台頭という状況において「西側」がやるべきことは、ウクライナに中道を保つよう促すことであったと思われる。すなわち、ロシアとの関係を適切に維持するよう助言し、その上で、必要な助力を提供することであったと思われる。

しかし実際には、彼らは自分たちの勢力争いのためにウクライナを利用した、と言わざるを得ない(どのくらい意図的であったのかは、私には分からない)。

「西側」は、西部勢力を誘惑してEU加盟の夢を見せ、NATO加盟を持ちかけるということまでしたのだから(2019年の憲法改正によりウクライナ憲法にはNATOおよびEU加盟に向けた首相の努力義務が定められた)。

「ウクライナNATO加盟」のインパクト

今回の開戦に至るまでの交渉でロシアが一貫して要求していたのはウクライナのNATO加盟の阻止であり、それだけだった。この要求は不当な要求であっただろうか。

NATOは旧ソ連を敵と名指しして結成され、冷戦終結後も迷わず存続を決めた軍事同盟である。

ウクライナがNATO加盟に前のめりになった経緯が前項で見た通りであるとすると、ロシアがこれを許容できないのは当然であるように思われる。

兄弟であるウクライナ、そして多大な犠牲を払った独ソ戦によってナチス・ドイツから奪還したウクライナが、ハーケンクロイツを胸に抱いた西部地域の若者たちの希望通りにEU(≒ドイツ)の手に落ち、アメリカの軍事力に支えられるなどということを、ロシアが許容できるはずはない。

しかし、「西側」は、そのロシアのリーズナブルな要求に対して、一切の譲歩を見せなかった。

一度、フランスのマクロン大統領との交渉の際に「20年間(だったと思う)はNATO加盟を認めない」という案が出たという報道があり、ロシア側も満足気に見えたが、続報はなかった。アメリカが認めなかったのだと私は理解している。

戦争が始まった直後、先ほど著書を引用した下斗米伸夫さんがNHKのニュース番組で非常に分かりにくいが的を射ていると思われる解説をしてくれたが、それきり二度と出なくなった。「コソヴォ…」と口走ったのがよくなかったのかもしれない。しかしおかげで「コソヴォが鍵か」と知って勉強し、分かったことがある。

ウクライナのNATO加盟は一般論としてもあり得ない。しかし、コソヴォ紛争のときのNATOの動きを注視していたプーチン大統領から見れば、一層あり得ないと思う。この文脈では、ウクライナへのNATO軍の配備は、アメリカからロシアへの宣戦布告のようなものなのだ。

コソヴォとウクライナ ー コソヴォでNATOが何をしたか

ウクライナ問題とコソヴォ問題は構造がよく似ている。「強権的」な大統領として西側に嫌われていたミロシェヴィッチ率いるセルビア共和国(共同体家族である)の自治州で、ユーゴ内の最貧地域であったコソヴォ(アルバニア人は核家族である)。この地域で何が起こり、NATOが何をしたのか。

なお、コソヴォがセルビア共和国に属する自治州であったのは、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(1943-1992)の時代である。既に述べた通り、セルビア人は外婚制共同体家族、コソヴォに多く住むアルバニア人は核家族である(1981年の国勢調査によるとコソヴォの人口はアルバニア人72%、セルビア人13%、モンテネグロ人2%)。

ウクライナにおける西部同様、ユーゴの中で最も貧しい地域であったコソヴォでは、経済的不満を背景とした「コソヴォ事件」(1981年に起きたアルバニア系住民による暴動)以降、アルバニア系住民によるセルビア人・モンテネグロ人への差別が強まり、後者のセルビア共和国への移住が続くなどの混乱状態が続いていた。

セルビア共和国は憲法上の制約からこの問題に手を出せずにいたが、1980年代後半、ミロシェヴィッチが登場しセルビアで権力基盤を固めると(チトー死後の混乱を収めた辣腕大統領(1990年-97年までセルビア、1997年からユーゴ大統領)。プーチンと同じで、西側からは悪魔のように思われていたがセルビア国民には大人気だった)、憲法を修正してコソヴォへのセルビアの権限を強める試みに乗り出した。

セルビア人・モンテネグロ人の圧倒的支持を受け、憲法修正案が可決(1989年3月)されると、アルバニア人との衝突は激化。自治権回復を求めるアルバニア人の動きが活発化していく。

ボスニア内戦

なお、コソヴォ紛争の重要なファクターの一つは、西側の一方的な「ミロシェヴィッチ悪玉史観」である(「プーチン悪玉史観」と全く同じ構造だ)が、その契機となったのはボスニア内戦である。

この頃、ユーゴは解体の危機を迎えていた。各共和国で独立派の動きが活発化し、91年にはクロアチア内戦、92年からはボスニア内戦が始まった。歴史的にはロシアとのつながりが深い地域だが、ちょうどソ連が解体する時期であったため、アメリカが深く関与することになった。

ボスニア内戦では、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人がそれぞれ領域拡大に奔走し、それぞれの側にこうした戦争に付き物の残虐行為が見られたが、「西側」はミロシェヴィッチおよびセルビアのみを一方的に悪者と決めつけ、そのイメージを流布した(ユーゴスラヴィア史の専門家 柴宣弘はミロシェヴィッチ悪玉説の確立に「クロアチアとヴァチカンというカトリック勢力の戦略‥‥が功を奏した」ことを指摘し、内戦に関する報道は「あまりにも一方的であった」と述べている)。

その背景には、やはり、核家族アメリカ(が主導する国際社会)の共同体家族への無理解があったと思われる。自由独立をよいこととしか考えられない彼らは、多様な民族が微妙なバランスをとりながら永らく同じ土地に共存していた歴史、そしてそのためにセルビア(共同体家族)が果たしていた役割を顧みることもなく、「セルビア=悪」「民族自律=正義」という短絡的な図式を描いた。そうして、地域をバラバラにしてしまったのである(なおセルビアはユーゴ内の最強国で最後まで各国の独立に反対していた)。

ボスニア内戦が終わり、1997年秋頃になると、コソヴォ独立を目指すアルバニア人の武装勢力(コソヴォ解放軍、KLA)の活動が激化した。「セルビア=悪」「コソヴォ独立派=正義」と決めつけたアメリカが彼らを支持したためである。

ウクライナにロシア系住民が大勢いるのと同様に、コソヴォにはセルビア人やモンテネグロ人がいる。アルバニア人の暴力の高まりは、コソヴォの治安全般を悪化させると同時に、セルビア人などをターゲットとした攻撃の激化に直結する。当然のこととして、セルビアは治安部隊をコソヴォに送り、掃討作戦を行った。

大量のアルバニア人が難民となって流出したことで国際社会の関心が高まり、1999年2月、NATOの仲介でセルビア代表団とコソヴォ代表団の交渉が行われた(パリ郊外のランブイエ)。

NATOは「ランブイエ文書」と呼ばれる合意文書を提示。両者にこれを認めるよう促したが、セルビアはこれを拒否した。NATO軍をセルビア領内に自由に展開できるようにする旨の条項が含まれていたためである。

既に述べたように、ボスニア内戦において西側は一方的にセルビアを悪者扱いし、セルビアの人々はこれに不満を抱いていた(当然だ)。

れっきとした主権国家であり、戦争に負けたわけでもないセルビアが、なぜその領土に、自分たちを一方的に悪と決めつける軍事勢力を受け入れなければならないのか。「意味が分からない」とセルビアは感じたはずである。

そういうわけで、当然のようにセルビアが承認を拒否すると、直後の1999年3月、NATOはなんと「ベオグラード市民の誰もが目を疑ったという」(柴・後掲書213頁)セルビアの首都ベオグラードの爆撃を開始したのである。

この謎の空爆は78日間(6月初めまで)続き、セルビア各地に多大な被害をもたらした。同時に、これを受けたセルビア治安部隊の攻撃によりコソヴォのアルバニア人難民・避難民が80万人も発生した。

プーチンの立場に立てば‥‥

話をウクライナに戻して、プーチンの立場に立って考えてみよう。西部ウクライナはコソヴォである。

「西側」はウクライナ西部(≒ コソヴォのアルバニア人)に接近し、彼らの反ロシア感情(≒ アルバニア人の反セルビア感情)を煽る。

「ロシア(≒セルビア)=悪」「反ロシア(≒独立派or反セルビア)=正義」と決めつけているNATO軍がウクライナに展開したら、次に何が予想されるであろうか。

先に述べた次第で、ウクライナ西部ではすでに反ロシア感情が高まっている。その勢いに火がつけば、全土の治安が悪化するだけでなく、ロシア系住民には直接的な危険が及ぶ(コソヴォでセルビア人に起きたことである)。それはいつ起きてもおかしくない、「今そこにある危機」である。

そして、ウクライナとロシアの関係性からして、ロシア系住民が危険にさらされた場合、ロシアは決してそれを放置できない。

では、ロシアが治安部隊をウクライナに送ったらどうなるか。そう。NATOはコソヴォでベオグラードを爆撃したのと同様に、ロシアの都市を爆撃するに違いない。そう考えるのが普通である。

つまり、プーチンから見れば、ウクライナのNATO加盟は「ロシアが動いたらNATOはモスクワを攻撃する」という脅迫に他ならないのである。

誇り高いロシア国民の代表として、そのような脅迫がロシアに対してなされることを許容できるはずはないであろう。

そこで、プーチンはウクライナ周辺に軍を配備し、ウクライナの中立化を求めた。「西側」はその当然の要求を呑まなかった。

さて、このような場合、戦争をしかけたのはどちらと見るべきでしょうか。

追記:開戦の直前の状況についてもう少し具体的に知ることができました。こちらの記事をご覧ください。

・ ・ ・

それでも、軍事侵攻はダメだ、と多くの人は言うのだろう。軍を配備したのがいけない、とか。私は「反戦平和」をお花畑とは思わないけれども、「西側」の一員である日本の国民として、自分にプーチンを批判する資格があるとは思えない。

我らがリーダー、アメリカは、アフガニスタンやイラクといった明らかにアメリカより「弱い」敵を選んで、理屈に合わない戦争を繰り広げ、多大な被害をもたらしたが、私たちは最初から最後までそれを支持した。

実質的にはミロシェヴィッチへの一方的な「懲罰」であったセルビア空爆は、「人道的介入」であったとされ、謝罪の一つもされていないどころか、「西側」はセルビアのみを処罰して平然としているのだが、私たちは「西側」を「悪魔」と非難したりはしない。

ロシアはそれなりの利害関係があり必要がある場合にしか軍事行動を起こしていない(そんな余裕はないのだから当たり前だ)。相応に非道なこともしているだろうが、素人の私でも「アメリカほどに非道ではない」ことは断言できる。

それでも、私たちはロシアだけを叩き、アメリカを叩かない。

ソ連崩壊後の新生ロシアにおいて、プーチン大統領は、一定の民主化と経済危機からの脱出を成し遂げた。

復活を遂げたロシアは「西側」に対し、自国の安全、周辺国の安定、そして国際社会からの敬意というごく当然のことを要求した。しかし、「西側」はそのすべてを拒絶し、ロシアを一方的に悪玉視することを止めなかった。

長年このような仕打ちを受けてきたロシアにとって、西側はもはや「話が通じる」相手ではないだろう。話の通じない相手、それも「いじめ」に近い組織的な差別を展開してきた「敵」から脅迫を受けた者が、自らも暴力を散らつかせながら最後の交渉に及び、交渉決裂を受けてついに軍事行動に出たとして、その行為を非難することなどできるであろうか。

できるわけない、と私は思う。

おわりに ー 「西側」の覇権のおわり

ウクライナに平和をもたらす方法、それは「西側」がいわれのないロシア差別を止め、敬意をもってロシアに接すること以外にはないと思われる。

もっとも、それが「西側」にとって可能なのか、「変えることのできるもの」に属するのか、私は確信が持てない。

「敵」と定めたものに対する徹底的な攻撃、一方的な価値判断に基づく「正義」の押し付け。「西側」世界のやり方に核家族システムの発現を見ないでいることは難しい。

「権威」の価値を持たない核家族にとって「正義」とは実力そのものであり、「平等」の価値を持たない絶対核家族は力の差に基づく不公平に頓着しない。

たぶん、「自由と不平等」を特徴とする核家族は、実力で争う以外の秩序の形成方法を持たないのだと思う。その方法が彼らのスタンダードであることは、二大政党が罵り合い手段を選ばず争って雌雄を決する選挙のあり方や、当事者を戦わせて「正義」を決める司法制度に、如実に表れている。

それ以外の方法を知らないので、彼らは国際社会の秩序も同じやり方で保とうとする。アメリカが覇権を握った途端に冷戦が始まり、共産圏の凋落によって終わったはずが、非「西側」諸国の国力が回復したと見えた瞬間、あっという間に復活したのは、そのためとしか考えられない。

第二次大戦直後、アメリカが圧倒的な実力を誇っていた時期には機能した「実力による正義」(パックス・アメリカーナはこれである)は、その力に陰りが見えると同時に、不正の度合いを増した。

アメリカは弱そうな敵を選んで見せしめに攻撃したり、「敵」と戦う勢力を無条件で支援することで地域をバラバラにし、何とか保たれてきた秩序を粉々に打ち砕いた(コソヴォもウクライナもこのパターンである)。

不公平で、暴力的なものに成り果てた「西側」の覇権が、今なお維持されているのはなぜか。これにも、家族システムの観点から説明を与えることが可能である。

長い間、国際社会を率いてきた「先進国」すなわち「西側」勢力には、核家族と直系家族しかいない。

核家族であるが「平等」の要素を持つフランスは、英米のやり方に違和感を持つことがあるはずだが、十分な発言力を持たない。

直系家族のドイツと日本も、「権威」の観点から、過度の実力主義には眉を顰めるはずだが、正義よりも家系存続を重視する傾向、差異による秩序を好む傾向(「先進国と途上国」「西側とそれ以外」といった差異があると安心するのだ)から抵抗しない。

しかし、最も進化した家族システム(共同体家族)を持つ人々が、残らず近代化の過程を完了し、安定した実力を備えた暁にはどうであろうか。

ユーラシア大陸で多様性を引き受けつつ秩序を保つ術を身につけてきた彼らは、決して西側のやり方に満足しないだろう。

そういうわけで、もし「西側」がそのやり方を変えない(変えられない)なら、核家族システムの覇権は間もなく(10年後か100年後かは知らない)終わる。その次に、共同体家族の人々がどんな秩序を作ってくれるのか、現在の私には想像がつかない。しかし、共同体家族システムの意義については今回ずいぶん考えたので、後日書きたいと思っている。

最後に念のため。私は決して核家族システムが倫理的に問題があるとか徳がないとかそういうことを言っているのではない。ただ、国際社会を統べるシステムには適していないと言っているだけである。

[付]コソヴォのその後

コソヴォは2008年にアメリカとの密接な協議の下でセルビアから一方的に独立を宣言する。日本を含む西側諸国はこれを直ちに承認したが、承認を拒否する国も多く(wikiによると承認国は93カ国、承認拒否は85カ国)、「将来的に国際社会から一致した承認を得られるかどうかは未だ不透明」とされている(wiki)。

独立を果たした(というかバラバラになった)旧ユーゴ加盟国の状況は、何とかまとまっていた時代と比べ、どこも悪化ないし停滞しているが、コソヴォの状況はとりわけ厳しい(人口の指標はこちら。https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Kosovo

詳しい分析をする能力はないが、歴史的つながりの深い周辺の大国との絆を絶たれ、多数の国が承認を拒否する中で、一度も国家として機能したことがない小国が繁栄していくのが困難であろうということは分かる。西側との絆は、教育水準の高い若者のEUへの吸収を促すだけなので、地域にとってはマイナスの方が大きいように思われる。

コソヴォの運命は、西側に過度に接近した場合のウクライナの運命である。

しかし、私は思うのだが、ウクライナが本当に壊滅的な状況になったとき、無理をしても手を差し伸べるのはロシアである。歴史的な関係もあるし、共同体家族にはそのメンタリティがある。その辺りのことも、私たちはもう少し理解した方がいいと思う。

情報ソース

○ウクライナ情勢およびウクライナとロシアの関係に関する事実とその評価については以下の文献に基本的に依拠し、教科書的な書籍、wikiなどの辞書的なサイトを補完的に用いました。

 Maciej Nowicki, We Live in a World of Ailing Powers, An Interview with Emmanuel Todd, 2017

 エマニュエル・トッド「「ドイツ帝国」が世界を破滅させる」(文春新書、2015年)

○コソヴォ問題およびボスニア内戦に関する事実とその評価については以下の文献に基本的に依拠し、教科書的な書籍、wikiなどの辞書的なサイトを補完的に用いました。

 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書、2021年)

 (写真は Helga KattingerによるPixabayからの画像)

(2022年3月15日 satokotatsui.com 初出)