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「アラブ式内婚」という革新
ユーラシア大陸中央部では、メソ紀1000年(前2300年)頃のアッカド帝国以降、バビロニア(バビロン第一王朝)、新アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシャなど、多数の「帝国」が生まれました。
ローマ帝国分裂の後も、メソポタミア・エジプト一帯では、アラブ人を中心とするイスラム帝国であるアッバース朝(メソ紀4050年-4558)(750-1258)、イスラム化したトルコ人による王朝の中ではセルジューク朝(メソ紀4338-4494年)(1038-1194)が「帝国」というに値する王朝を築きましたし、メソ紀43-45世紀(13-14世紀)にはモンゴル帝国が、そしてその支配の後には、オスマン帝国が勢力を伸張し、メソポタミアからバルカン、ハンガリー、北アフリカに渡る広大な地域を治めました。
オスマン帝国が弱体化した後では、ロシア帝国がそれに準じるといえるかもしれません。ロシアは、ロシア帝国時代の版図を旧ソ連邦崩壊まで維持し、多文化・広域の支配を成立させていましたから。
こうした「帝国」の樹立および維持は、ひとえに、共同体家族システムの成せる技と考えられます。
繰り返しになりますが、強力な軍事的・文民的組織力を背景に、地域一帯の治安、通行の安全等を確保する強い政権の存在は、ユーラシア大陸中央部の安定には不可欠なものだったでしょう。人類の文明は、共同体家族システムの「権威」のゆえに、大きく発展を遂げたといえるのです。
ただし、標準的な共同体家族(外婚制です)が作る国家には、一つの弱点がありました。その統治期間中の安定にもかかわらず、広域を支配する一つの帝国ないし王朝の寿命は比較的短かったのです。
「史上初の世界帝国」1阿部拓児『アケメネス朝ペルシアー史上初の世界帝国』(中公新書、2021年)アケメネス朝ペルシアの寿命は220年、モンゴル帝国にしても、風のように現れたチンギス・ハンによるモンゴル高原統一から約100年で分裂し、200年と経たないうちに跡形もなく消え去りました。モンゴルが元朝を築いた中国の歴代王朝も同じで、統一と分裂の繰り返しは中国史の特徴となっています。
この、ある意味の「不安定性」が、外婚制共同体家族の特性の現れであることは明らかだと思います。トッドは、直系家族との比較で、つぎのように述べています。
「直系家族の場合、唯一の継承者という規則は、農地(あるいは王国)の不可分性と世代から世代へのそれの伝承とを保証している。つまり、経営(あるいは国家)の継続的改善を可能にするのである。しかし、父方居住共同体家族は、巨大な生産集団の集合を可能にするけれども、努力の安定性と継続性をあまり許容しない。父親の死は、その死後しばらくして、集団の分裂を引き起こす。この集団は、そもそも構造的に緊張を孕んだ脆弱なものなのである。」
起源1・204頁
実をいうと、上に見た「帝国」の一覧表には、比較的長続きしたものも含まれています。アッバース朝(メソ紀4050-4558年(750-1258年))とオスマン朝(メソ紀4599-5222年(1299-1922年))です。
この二つは、いずれもイスラムに拠って立つ王朝です。彼らもまた、共同体家族システムを営んでいたことに違いはないのですが、彼らの文化的祖先であるアラブ人は、共同体家族に、新たな革新を付け加えていました。
アラブの人たちによる「革新」と、帝国の安定性との間には、何か関係があるのではないか。そのような予感を抱きつつ、今回は、内婚制共同体家族の「発明」を中心に、その先の歴史を見ていきます。
外婚制共同体家族の「帝国」が短命であったのに対し、長く安定した統治を実現した「帝国」はいずれも内婚制共同体家族であった
内婚制共同体家族とは?
(1)イトコ婚の理想
現在の世界に存在している共同体家族は、中東以外の地域では、すべて、外婚の規則と結びついています(外婚制共同体家族)。つまり、配偶者は親族の外から探してくるのが原則で、イトコを含む親族との婚姻は想定されません。
中東のシステムは違います。
中東では、イトコ婚(それより遠い親戚の場合もあるようです)は、単に許容されるというだけでなく、「理想」です。彼らの理想は、男性を基準とした場合、父の兄弟の娘(父方のイトコ)との結婚であり、「父」から見ると「甥」に当たるその男性には、イトコと結婚する(事実上の)「権利」があると想定されているといいます。
内婚の理想は、現在も維持されていて、アラブの中心部(サウジアラビア、イラク、クウェート、イエメン、カタール、オマーン)では、2000年前後の数字でも、本イトコ婚が30%以上を占めています(起源1・下681頁以下)。
婚姻制度一つの違いなのですが、トッドは、外婚制共同体家族と内婚制共同体家族のシステム全体の「雰囲気」に、非常に大きな違いがあることを指摘しています。
彼の言葉を引用しながら、説明していきましょう。
中東以外の共同体家族は外婚を規則とするが、中東では内婚(特に父方イトコとの結婚)が「理想」。甥にはその「権利」があるとされるほどシステマティック
(2)外婚制共同体家族の暴力性
トッドは、外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的な」システムであるといいます。
「なぜなら、それは、男たちを非常に強い父の権威に隷属させ、兄弟に同居を強制し、女たちを出身家族から引きはがして別の家族の中に移転させる」、
起源1・下667頁
そのようなシステムだからです。
父親の強い権威の下で、平等に役割を割り振られた兄弟たちは、父親が死ぬまでの長い間、父親の権威へ服従を強いられます。女性として生まれた者たちは、親族の中で、役割も、財産も、敬意も与えられることなく育ち、成人すると直ちに親族関係の外に追いやられ(結婚させられ)、別の抑圧的な家族関係の中に押し込められる。女性たちは、そこでは「子供を産む者」としてのみ、価値を認められるのです。
「ロシアと中国においては、親子関係、夫と妻の関係は、恒常的な心理的暴力の雰囲気に浸っているように見える。近代化の局面に入ると、これらの家族システムは急速に瓦解したが、それはおそらく、住民自身が自分たちの生活様式を加害的なものだと感じ取っていたからなのだ。」
『文明の接近』91頁
外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的」なため、不安定
(3)内婚制共同体家族の温かさ
内婚制共同体家族の方も、父親の権威に平等な兄弟たちが従うという構造は同じですが、雰囲気はまったく異なります。
内婚制共同体家族は「息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。」(起源1・下669頁)
「アラブ圏各地の共同体内部における生活と感情を記述したモノグラフを読むと、このシステムがどれほど拘束的でないものとして体験されているかが分かる。それは、父系の大家族ではあるが、外婚制の、ロシアや中国の家族とは正反対なのだ。‥‥内婚は、大家族システムが誘発する複雑な人間関係のとげとげしさを和らげてくれる。嫁とは、姑に迫害される余所者の女(あらゆる外婚モデルに共通)でも、舅に強姦される余所者の女(ロシア・モデル)でもなく、生まれた時から親族の中にいる、舅姑の姪というステータスを持って結婚生活を始めるのである。」
『文明の接近』91頁
なぜ、外婚制であると「厳しく暴力的」である共同体家族が、内婚制になると「温かく安心できるもの」に変わるのか。
以下の2点がポイントです。
- 内婚は必然的に女性のステータスを高める
- 「アラブ式内婚」の慣習は、婚姻に関する決定権を奪うことで父の権威を弱め、同時に、親族内の横のつながりを強化する
(4)内婚と女性のステータス
まず、内婚の場合、「結婚して夫の生家に入る」ことは、「出身家族から引きはがし、別の家族の中に移転する」という粗暴さを意味しません。イトコと結婚するわけですから、女性にとっては、単に子供の頃からよく知る叔父の家に行くだけです。
さらに、彼女がイトコと結婚することは子供の頃から決まっているわけですから、子供時代においても、彼女は、親族の一員として、あるいは将来のお嫁さんとして、健やかな生育への配慮と十分な愛情を受けて育つことになるはずです。
何より、内婚という仕組みは、それ自体、システムが女性の血統にも関心を持っていることを意味します。妻は、健康で子供が産める女であれば誰でもよいのではありません。彼女でなければならないのです。
こうして、内婚制共同体家族は、外婚制の場合とくらべ、女性のステータスが確実に高い、女性にとって優しいシステムとなるのです。
(5)父の権威の緩和と兄弟の絆の強化
イトコ婚の理想は、コーラン以前からの部族的慣習に由来するものだそうですが、単に理想というに止まらない、規則としての強い力を持っています。
既に述べたとおり、甥は、実際上、イトコと結婚する「権利」を持っており、「娘を甥に嫁がせることを望まないオジ」は、その希望を容易に実行することはできません。彼は甥と交渉し、彼を納得させなければならない上に、「大抵の場合、甥に損害賠償をしなければならないのである。」(起源1・下668頁)
「婚姻という最重要の要件を決定することができないということは、父親の権力のすべての側面に重くのしかかる。伝統的なアラブの家族において、上の世代の権威は、形式上は尊重されているが、あたかも慣習によって〔実際上は〕廃されているようなのである。」
イトコとの婚姻が普通である、ということは、親族の中において、イトコたち(複数の世帯の同じ世代の子供たち)の幼少期からの親しいつながりが、成人後にも継続することを意味しているでしょう。このことは、同世代の絆を強めると同時に、一つの世帯の兄弟間の競争的性格を和らげることにもつながるはずです。
「内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。」
起源1・下669頁
内婚制共同体家族は、①女性のステータスの向上、②父の権威の形骸化と兄弟の横の絆の強化により、「温かく安心できる」システムとなる
内婚制共同体家族の起源
すでに述べたとおり、共同体家族に内婚制を取り入れるという「発明」を成し遂げたのはアラブの人々でした。
アラブ人に関する最古の記録は、メソ紀2446年(前854年)のアッシリアの碑文や旧約聖書に現れます(ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典)。中東史の文脈では、比較的新しい民族といえます。
アラブ人の家族システムについては、次の2つのことが分かっています。
①現在のアラブ世界は内婚制共同体家族である。
②初期のアラブ人のシステムは、女性のステータスが高い未分化なシステムであった。
新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世は、メソ紀26世紀(前8世紀)頃、アラブの「女王」とたびたび戦火を交えたことが、碑文に残されています。
最初のアラブ系国家であるナバテア王国(首都ペトラ。アラビア半島の北限、現在のヨルダン西南部。メソ紀32~34世紀(前2世紀-後106))では、女性たちは、墳墓の建立者や所有者として頻繁に名を残しています。
さらに、アラブ人住民集団の基底を保持していたと考えられる(シリア砂漠の端に位置する)隊商都市パルミラで、メソ紀35-36世紀(2-3世紀)に作られた墓碑の図像の半分は、女性を描いたものでした。
こうしたことから、少なくともメソ紀35-36世紀(2-3世紀)の頃まで、女性のステータスは十分に高かったことが分かるのです。
長い間、女性のステータスが高いシステムを保持していたアラブの人々は、かなり時間が経ってから、メソポタミア中心部との接触により、共同体家族システムを獲得します。彼らはそのとき、内婚制を付け加えるのです。
何がそうさせたのか。
トッドは次のように述べています。
「そのとき獲得しつつあった父系原則〔=男性優位〕が強力であったということと、内婚の選択との間には何らかの関連があるのではなかろうか。」
起源1・下790頁
アラブ人に共同体家族システムが伝播したと見られる時期、共同体家族は誕生からすでに2000年以上を経過し、「すでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするもの」となっていました。新アッシリアを経て「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」になっていたわけです。
しかし、伝播の波に呑まれたアラブ人たちは、たった今まで、女性が自立して普通に活躍する社会を営んでいたのです。さて、どうしたものか。
「アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための一つのやり方だったのではなかろうか?」
そうです。アラブの人たちは、共同体家族システムの大きな流れに巻き込まれる中、どうにか女性の立場を守り、地位を高く保つための方法として、内婚の理想を編み出したのではないか。
トッドはこのように推理しているのです。
当時のアラブの人たちの「無意識」にとって、それは、熟慮によるものというより、やむにやまれぬ選択であったに違いありません。
しかし、結果的に、彼らの発明は「大ヒット」となりました。共同体家族の組織力をそのままに、厳しさを緩和し、温かさを取り入れた内婚制共同体家族は、中東全体を席巻し、イスラムの興隆とその拡大を通じて、イスラム圏全体に広がっていったのです。
内婚制は、高い女性のステータスを保っていたアラブ人に
「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」が伝播したときに発明された
内婚制共同体家族の可能性—オスマン帝国「柔らかい専制」
オスマン帝国です。
オスマン帝国は、メソ紀4599-5222年(1299-1922年)の長きに渡ってその命脈を保ちました。もちろん、彼らの偉大さは「長さ」だけではありません。
最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリア地方(現在のトルコ)、バルカン半島、現在のイランとモロッコを除く中東・アラブ圏の大部分。つまり、この講座で見てきたメソポタミア一体とその周辺はすべて、帝国の版図となりました。
私たちは、この地域がのちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化し、大変困難な状態になることを知っています。
しかし、オスマン帝国は、19世紀に西欧の影響下で「トルコ人の国民国家」に生まれ変わるまでの500年間、多民族、多言語、多宗教の人々を統合し、平和と安定を保持し続けたのです。
これは、なかなか、大変なことではないでしょうか。
オスマン帝国に対しては、もしかすると、「宗教国家」(イスラム教の国家)という誤解というか先入観があるかもしれませんが、当時としては、何らかの価値の表明を宗教の名の下に行うのは普通のことでした。
「たしかに、オスマン帝国はイスラムの旗を掲げたが、それは、彼らが、正義や公正などの普遍的価値や戦争での勝利を、「イスラムのため」と表現したからにすぎない。同じく、宗教を旗印にしてキリスト教徒も戦っていたのである。たとえば、オスマン帝国とハプスブルク家オーストリアが行った戦争は、収入をもたらす領土の奪いあいだった。‥‥ ここで、オスマン帝国だけを宗教に関係づけるのは、誤解のもととなるだろう。」
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)21-22頁
キリスト教世界との関係では、イスラム法に基づく統治を行ったオスマン帝国の方が、宗教的にはるかに寛容であったことも指摘しておかなければなりません。やや長くなりますが、鈴木董『オスマン帝国』からの引用です。
「中世西欧がキリスト教によって、厳しくしばられた社会だったことはよく知られていよう。しかも当時のキリスト教は、異教徒に対しても非常に不寛容であった。11世紀末から、十字軍運動の開始と表裏をなして、外でのムスリムへの敵意は、内ではユダヤ教徒に向けられた。キリスト教徒民衆が蜂起してユダヤ教徒を虐殺する事件も見られるようになり、ユダヤ教徒を隔離するゲットーの形成も進んでいった。
15世紀以降になると、特に、キリスト教徒によるムスリムに対する失地回復運動である、レコンキスタの進んだイベリア半島において、その動きはさらに活性化された。それまではムスリムの支配の下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒(セファルディム)も、厳しく迫害されるようになった。
この時、迫害に耐えかねたセファルディムが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。オスマン帝国も、彼らをあたたかく受け入れた。オスマン帝国臣民となったセファルディムたちの期待は、裏切られなかった。彼らは、近代に入るまで、安全な生活を楽しんだ。ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュク(現ルーセ)に生まれ、ユダヤ人差別の存在をまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。」
鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書、1992年)19-20頁
もちろん、オスマン帝国が、帝国を拡大発展させ、領域内の治安を維持することができた、その大前提には、強力な組織の力がありました。
再び鈴木先生に解説していただきます。
「この強靭な支配の組織と常備軍は、国内においては、ゆるやかな統合と共存のシステムからの逸脱を抑え、システムを脅かす紛争や反乱を迅速に鎮圧した。16世紀、スレイマン大帝時代のイスタンブルで生じたユダヤ教徒に対するムスリム住民の暴動が、常備軍の出動によってまたたくまに鎮圧された事件は、このメカニズムを象徴している。
強靭な支配の組織が、対内的には、ゆるやかな統合と共存のシステムにしっかりとした外枠を与え、対外的には、東西からの外敵にそなえ、さらに征服を進めていくように機能していたのである。
強靭な支配の組織とゆるやかな共存のシステムがあいまって支えあうこの体制は、非常に専制的でありながら、同時に非常に柔軟性をもっている。これは「柔らかい専制」とも呼ぶことができよう。」
同前・23-24頁
内婚制共同体家族のオスマン帝国は、「柔らかい専制」により
多民族多言語多宗教の人々を統合し、500年の平和を実現した
内婚制共同体家族の覇権の終わり
—核家族の識字化
では、その「柔らかさ」は、どこから来たのか。
家族システムの変遷を軸に世界史を追う私たちとしては、アッシリア、ササン朝、アケメネス朝ペルシャなどの「硬い」専制と、オスマン朝の「柔らかい」専制との間に、アラブの人々による内婚制共同体家族の発明とその拡大という「事件」があったことを見逃すことはできません。
内婚制の導入は、共同体家族の構造的緊張を緩和し、「温かさ」を付け加えました。これにより、強靭な支配能力に加えて、安定を持続させる柔軟さを備えるようになった共同体家族システムが、ついに実現したのが、「オスマン帝国500年の平和」だったのではないか。
家族システムというものの本質的な重要性を肯定する限り、このような仮説が、自然に導かれるのです。
・ ・ ・
この講座では、文明発祥の地、メソポタミアとその周辺で、家族システムが、核家族から、直系家族、外婚制共同体家族、内婚制共同体家族へと「進化」を遂げた様子を追ってきました。
それに対応するように、国家の形態は、都市国家から、統一国家、多様な民族・言語・宗教を持つ人々を統べる「帝国」へと移り変わり、進化の頂点において、オスマン帝国の繁栄がもたらされた様子が確認されました。
もちろん、オスマン帝国の「平和」は、永遠には続きませんでした。民族や言語を問わない寛容な帝国であったオスマン帝国は、メソ紀51世紀(18世紀)末–52世紀(19世紀)初頭には終焉を迎え、「トルコ人の国」としての「近代オスマン帝国」を経由して、メソ紀5222年(1922)年に滅亡します。
オスマン朝の終焉は、しかし、核家族への逆行により内部崩壊を起こしたローマ帝国のように、内部的な要因を主とするものとはいえません。
帝国の終焉をもたらしたもの、それは、「核家族の識字化」という大事件でした。
共同体家族の5000年をあざ笑うかのように、世界の中心に躍り出てきた「識字化した核家族」(別名「西欧近代」)は、世界をどのように変えたのか。
次回に続きます。
オスマン帝国の平和は「識字化した核家族」(西欧近代)の登場とともに終焉を迎える