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トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(3)内婚制共同体家族とオスマン帝国

目次

「アラブ式内婚」という革新

ユーラシア大陸中央部では、メソ紀1000年(前2300年)頃のアッカド帝国以降、バビロニア(バビロン第一王朝)、新アッシリア帝国アケメネス朝ペルシャなど、多数の「帝国」が生まれました。

ローマ帝国分裂の後も、メソポタミア・エジプト一帯では、アラブ人を中心とするイスラム帝国であるアッバース朝(メソ紀4050年-4558)(750-1258)、イスラム化したトルコ人による王朝の中ではセルジューク朝(メソ紀4338-4494年)(1038-1194)が「帝国」というに値する王朝を築きましたし、メソ紀43-45世紀(13-14世紀)にはモンゴル帝国が、そしてその支配の後には、オスマン帝国が勢力を伸張し、メソポタミアからバルカン、ハンガリー、北アフリカに渡る広大な地域を治めました。

主な帝国年表(雑です。版図はもちろん一致しません)

オスマン帝国が弱体化した後では、ロシア帝国がそれに準じるといえるかもしれません。ロシアは、ロシア帝国時代の版図を旧ソ連邦崩壊まで維持し、多文化・広域の支配を成立させていましたから。

こうした「帝国」の樹立および維持は、ひとえに、共同体家族システムの成せる技と考えられます。

繰り返しになりますが、強力な軍事的・文民的組織力を背景に、地域一帯の治安、通行の安全等を確保する強い政権の存在は、ユーラシア大陸中央部の安定には不可欠なものだったでしょう。人類の文明は、共同体家族システムの「権威」のゆえに、大きく発展を遂げたといえるのです。

ただし、標準的な共同体家族(外婚制です)が作る国家には、一つの弱点がありました。その統治期間中の安定にもかかわらず、広域を支配する一つの帝国ないし王朝の寿命は比較的短かったのです。

「史上初の世界帝国」1阿部拓児『アケメネス朝ペルシアー史上初の世界帝国』(中公新書、2021年)アケメネス朝ペルシアの寿命は220年、モンゴル帝国にしても、風のように現れたチンギス・ハンによるモンゴル高原統一から約100年で分裂し、200年と経たないうちに跡形もなく消え去りました。モンゴルが元朝を築いた中国の歴代王朝も同じで、統一と分裂の繰り返しは中国史の特徴となっています。

この、ある意味の「不安定性」が、外婚制共同体家族の特性の現れであることは明らかだと思います。トッドは、直系家族との比較で、つぎのように述べています。

「直系家族の場合、唯一の継承者という規則は、農地(あるいは王国)の不可分性と世代から世代へのそれの伝承とを保証している。つまり、経営(あるいは国家)の継続的改善を可能にするのである。しかし、父方居住共同体家族は、巨大な生産集団の集合を可能にするけれども、努力の安定性と継続性をあまり許容しない。父親の死は、その死後しばらくして、集団の分裂を引き起こす。この集団は、そもそも構造的に緊張を孕んだ脆弱なものなのである。」

起源1・204頁

実をいうと、上に見た「帝国」の一覧表には、比較的長続きしたものも含まれています。アッバース朝(メソ紀4050-4558年(750-1258年))とオスマン朝(メソ紀4599-5222年(1299-1922年))です。

この二つは、いずれもイスラムに拠って立つ王朝です。彼らもまた、共同体家族システムを営んでいたことに違いはないのですが、彼らの文化的祖先であるアラブ人は、共同体家族に、新たな革新を付け加えていました。

アラブの人たちによる「革新」と、帝国の安定性との間には、何か関係があるのではないか。そのような予感を抱きつつ、今回は、内婚制共同体家族の「発明」を中心に、その先の歴史を見ていきます。

外婚制共同体家族の「帝国」が短命であったのに対し、長く安定した統治を実現した「帝国」はいずれも内婚制共同体家族であった

内婚制共同体家族とは?

(1)イトコ婚の理想

現在の世界に存在している共同体家族は、中東以外の地域では、すべて、外婚の規則と結びついています(外婚制共同体家族)。つまり、配偶者は親族の外から探してくるのが原則で、イトコを含む親族との婚姻は想定されません。

中東のシステムは違います。

中東では、イトコ婚(それより遠い親戚の場合もあるようです)は、単に許容されるというだけでなく、「理想」です。彼らの理想は、男性を基準とした場合、父の兄弟の娘(父方のイトコ)との結婚であり、「父」から見ると「甥」に当たるその男性には、イトコと結婚する(事実上の)「権利」があると想定されているといいます。

内婚の理想は、現在も維持されていて、アラブの中心部(サウジアラビア、イラク、クウェート、イエメン、カタール、オマーン)では、2000年前後の数字でも、本イトコ婚が30%以上を占めています(起源1・下681頁以下)。

起源I 下683頁

婚姻制度一つの違いなのですが、トッドは、外婚制共同体家族と内婚制共同体家族のシステム全体の「雰囲気」に、非常に大きな違いがあることを指摘しています。

彼の言葉を引用しながら、説明していきましょう。

中東以外の共同体家族は外婚を規則とするが、中東では内婚(特に父方イトコとの結婚)が「理想」。甥にはその「権利」があるとされるほどシステマティック

(2)外婚制共同体家族の暴力性

トッドは、外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的な」システムであるといいます。

「なぜなら、それは、男たちを非常に強い父の権威に隷属させ、兄弟に同居を強制し、女たちを出身家族から引きはがして別の家族の中に移転させる」

起源1・下667頁

そのようなシステムだからです。

父親の強い権威の下で、平等に役割を割り振られた兄弟たちは、父親が死ぬまでの長い間、父親の権威へ服従を強いられます。女性として生まれた者たちは、親族の中で、役割も、財産も、敬意も与えられることなく育ち、成人すると直ちに親族関係の外に追いやられ(結婚させられ)、別の抑圧的な家族関係の中に押し込められる。女性たちは、そこでは「子供を産む者」としてのみ、価値を認められるのです。

「ロシアと中国においては、親子関係、夫と妻の関係は、恒常的な心理的暴力の雰囲気に浸っているように見える。近代化の局面に入ると、これらの家族システムは急速に瓦解したが、それはおそらく、住民自身が自分たちの生活様式を加害的なものだと感じ取っていたからなのだ。」

『文明の接近』91頁
「夫婦の心理的暴力」で思い出す中国映画。超絶怖い。

外婚制共同体家族は「厳しく、構造的に暴力的」なため、不安定

(3)内婚制共同体家族の温かさ

内婚制共同体家族の方も、父親の権威に平等な兄弟たちが従うという構造は同じですが、雰囲気はまったく異なります。

内婚制共同体家族は「息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。」(起源1・下669頁)

「アラブ圏各地の共同体内部における生活と感情を記述したモノグラフを読むと、このシステムがどれほど拘束的でないものとして体験されているかが分かる。それは、父系の大家族ではあるが、外婚制の、ロシアや中国の家族とは正反対なのだ。‥‥内婚は、大家族システムが誘発する複雑な人間関係のとげとげしさを和らげてくれる。嫁とは、姑に迫害される余所者の女(あらゆる外婚モデルに共通)でも、舅に強姦される余所者の女(ロシア・モデル)でもなく、生まれた時から親族の中にいる、舅姑の姪というステータスを持って結婚生活を始めるのである。」

『文明の接近』91頁

なぜ、外婚制であると「厳しく暴力的」である共同体家族が、内婚制になると「温かく安心できるもの」に変わるのか。

以下の2点がポイントです。

  1. 内婚は必然的に女性のステータスを高める
  2. 「アラブ式内婚」の慣習は、婚姻に関する決定権を奪うことで父の権威を弱め、同時に、親族内の横のつながりを強化する

(4)内婚と女性のステータス

まず、内婚の場合、「結婚して夫の生家に入る」ことは、「出身家族から引きはがし、別の家族の中に移転する」という粗暴さを意味しません。イトコと結婚するわけですから、女性にとっては、単に子供の頃からよく知る叔父の家に行くだけです。

さらに、彼女がイトコと結婚することは子供の頃から決まっているわけですから、子供時代においても、彼女は、親族の一員として、あるいは将来のお嫁さんとして、健やかな生育への配慮と十分な愛情を受けて育つことになるはずです。

何より、内婚という仕組みは、それ自体、システムが女性の血統にも関心を持っていることを意味します。妻は、健康で子供が産める女であれば誰でもよいのではありません。彼女でなければならないのです。

こうして、内婚制共同体家族は、外婚制の場合とくらべ、女性のステータスが確実に高い、女性にとって優しいシステムとなるのです。

(5)父の権威の緩和と兄弟の絆の強化

イトコ婚の理想は、コーラン以前からの部族的慣習に由来するものだそうですが、単に理想というに止まらない、規則としての強い力を持っています。

既に述べたとおり、甥は、実際上、イトコと結婚する「権利」を持っており、「娘を甥に嫁がせることを望まないオジ」は、その希望を容易に実行することはできません。彼は甥と交渉し、彼を納得させなければならない上に、「大抵の場合、甥に損害賠償をしなければならないのである。」(起源1・下668頁)

「婚姻という最重要の要件を決定することができないということは、父親の権力のすべての側面に重くのしかかる。伝統的なアラブの家族において、上の世代の権威は、形式上は尊重されているが、あたかも慣習によって〔実際上は〕廃されているようなのである。」

イトコとの婚姻が普通である、ということは、親族の中において、イトコたち(複数の世帯の同じ世代の子供たち)の幼少期からの親しいつながりが、成人後にも継続することを意味しているでしょう。このことは、同世代の絆を強めると同時に、一つの世帯の兄弟間の競争的性格を和らげることにもつながるはずです。

「内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。」

起源1・下669頁

内婚制共同体家族は、①女性のステータスの向上、②父の権威の形骸化と兄弟の横の絆の強化により、「温かく安心できる」システムとなる

内婚制共同体家族の起源

すでに述べたとおり、共同体家族に内婚制を取り入れるという「発明」を成し遂げたのはアラブの人々でした。

アラブ人に関する最古の記録は、メソ紀2446年(前854年)のアッシリアの碑文や旧約聖書に現れます(ブリタニカ国際大百科事典 小項目辞典)。中東史の文脈では、比較的新しい民族といえます。

アラブ人の家族システムについては、次の2つのことが分かっています。

①現在のアラブ世界は内婚制共同体家族である。
②初期のアラブ人のシステムは、女性のステータスが高い未分化なシステムであった。

新アッシリア帝国のティグラト・ピレセル3世は、メソ紀26世紀(前8世紀)頃、アラブの「女王」とたびたび戦火を交えたことが、碑文に残されています。

最初のアラブ系国家であるナバテア王国(首都ペトラ。アラビア半島の北限、現在のヨルダン西南部。メソ紀32~34世紀(前2世紀-後106))では、女性たちは、墳墓の建立者や所有者として頻繁に名を残しています。

さらに、アラブ人住民集団の基底を保持していたと考えられる(シリア砂漠の端に位置する)隊商都市パルミラで、メソ紀35-36世紀(2-3世紀)に作られた墓碑の図像の半分は、女性を描いたものでした。

パルミラの女王ゼノビア(ローマ帝国の貨幣)http://www.cngcoins.com/

こうしたことから、少なくともメソ紀35-36世紀(2-3世紀)の頃まで、女性のステータスは十分に高かったことが分かるのです。

長い間、女性のステータスが高いシステムを保持していたアラブの人々は、かなり時間が経ってから、メソポタミア中心部との接触により、共同体家族システムを獲得します。彼らはそのとき、内婚制を付け加えるのです。

何がそうさせたのか。
トッドは次のように述べています。

「そのとき獲得しつつあった父系原則〔=男性優位〕が強力であったということと、内婚の選択との間には何らかの関連があるのではなかろうか。」

起源1・下790頁

アラブ人に共同体家族システムが伝播したと見られる時期、共同体家族は誕生からすでに2000年以上を経過し、「すでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするもの」となっていました。新アッシリアを経て「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」になっていたわけです。

しかし、伝播の波に呑まれたアラブ人たちは、たった今まで、女性が自立して普通に活躍する社会を営んでいたのです。さて、どうしたものか。

「アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための一つのやり方だったのではなかろうか?」

そうです。アラブの人たちは、共同体家族システムの大きな流れに巻き込まれる中、どうにか女性の立場を守り、地位を高く保つための方法として、内婚の理想を編み出したのではないか。

トッドはこのように推理しているのです。

当時のアラブの人たちの「無意識」にとって、それは、熟慮によるものというより、やむにやまれぬ選択であったに違いありません。

しかし、結果的に、彼らの発明は「大ヒット」となりました。共同体家族の組織力をそのままに、厳しさを緩和し、温かさを取り入れた内婚制共同体家族は、中東全体を席巻し、イスラムの興隆とその拡大を通じて、イスラム圏全体に広がっていったのです。

内婚制は、高い女性のステータスを保っていたアラブ人に
「女性のステータスの最大限の低下を伴う共同体家族」が伝播したときに発明された

内婚制共同体家族の可能性オスマン帝国「柔らかい専制」

オスマン帝国です。

オスマン帝国は、メソ紀4599-5222年(1299-1922年)の長きに渡ってその命脈を保ちました。もちろん、彼らの偉大さは「長さ」だけではありません。

最盛期のオスマン帝国の領土は、アナトリア地方(現在のトルコ)、バルカン半島、現在のイランとモロッコを除く中東・アラブ圏の大部分。つまり、この講座で見てきたメソポタミア一体とその周辺はすべて、帝国の版図となりました。

オスマン帝国の領土拡大 https://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン帝国#/media/ファイル:Japanese-Ottoman1683.PNG

私たちは、この地域がのちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化し、大変困難な状態になることを知っています。

しかし、オスマン帝国は、19世紀に西欧の影響下で「トルコ人の国民国家」に生まれ変わるまでの500年間、多民族、多言語、多宗教の人々を統合し、平和と安定を保持し続けたのです。

これは、なかなか、大変なことではないでしょうか。

オスマン帝国に対しては、もしかすると、「宗教国家」(イスラム教の国家)という誤解というか先入観があるかもしれませんが、当時としては、何らかの価値の表明を宗教の名の下に行うのは普通のことでした。

「たしかに、オスマン帝国はイスラムの旗を掲げたが、それは、彼らが、正義や公正などの普遍的価値や戦争での勝利を、「イスラムのため」と表現したからにすぎない。同じく、宗教を旗印にしてキリスト教徒も戦っていたのである。たとえば、オスマン帝国とハプスブルク家オーストリアが行った戦争は、収入をもたらす領土の奪いあいだった。‥‥ ここで、オスマン帝国だけを宗教に関係づけるのは、誤解のもととなるだろう。」

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)21-22頁

キリスト教世界との関係では、イスラム法に基づく統治を行ったオスマン帝国の方が、宗教的にはるかに寛容であったことも指摘しておかなければなりません。やや長くなりますが、鈴木董『オスマン帝国』からの引用です。

「中世西欧がキリスト教によって、厳しくしばられた社会だったことはよく知られていよう。しかも当時のキリスト教は、異教徒に対しても非常に不寛容であった。11世紀末から、十字軍運動の開始と表裏をなして、外でのムスリムへの敵意は、内ではユダヤ教徒に向けられた。キリスト教徒民衆が蜂起してユダヤ教徒を虐殺する事件も見られるようになり、ユダヤ教徒を隔離するゲットーの形成も進んでいった。

 15世紀以降になると、特に、キリスト教徒によるムスリムに対する失地回復運動である、レコンキスタの進んだイベリア半島において、その動きはさらに活性化された。それまではムスリムの支配の下に安全に暮らしてきたスペインのユダヤ教徒(セファルディム)も、厳しく迫害されるようになった。

 この時、迫害に耐えかねたセファルディムが安住の地として大量に移住した先が、オスマン帝国だった。オスマン帝国も、彼らをあたたかく受け入れた。オスマン帝国臣民となったセファルディムたちの期待は、裏切られなかった。彼らは、近代に入るまで、安全な生活を楽しんだ。

 ノーベル文学賞受賞者であるオーストリアのエリアス・カネッティも、彼らの子孫の一人である。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュク(現ルーセ)に生まれ、ユダヤ人差別の存在をまったく知らずに育った。スイスの学校に入ってはじめて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている。」

鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』(講談社現代新書、1992年)19-20頁

もちろん、オスマン帝国が、帝国を拡大発展させ、領域内の治安を維持することができた、その大前提には、強力な組織の力がありました。

再び鈴木先生に解説していただきます。

「この強靭な支配の組織と常備軍は、国内においては、ゆるやかな統合と共存のシステムからの逸脱を抑え、システムを脅かす紛争や反乱を迅速に鎮圧した。16世紀、スレイマン大帝時代のイスタンブルで生じたユダヤ教徒に対するムスリム住民の暴動が、常備軍の出動によってまたたくまに鎮圧された事件は、このメカニズムを象徴している。

 強靭な支配の組織が、対内的には、ゆるやかな統合と共存のシステムにしっかりとした外枠を与え、対外的には、東西からの外敵にそなえ、さらに征服を進めていくように機能していたのである。

 強靭な支配の組織とゆるやかな共存のシステムがあいまって支えあうこの体制は、非常に専制的でありながら、同時に非常に柔軟性をもっている。これは「柔らかい専制」とも呼ぶことができよう。」

同前・23-24頁

内婚制共同体家族のオスマン帝国は、「柔らかい専制」により
多民族多言語多宗教の人々を統合し、500年の平和を実現した

内婚制共同体家族の覇権の終わり
核家族の識字化

では、その「柔らかさ」は、どこから来たのか。

家族システムの変遷を軸に世界史を追う私たちとしては、アッシリア、ササン朝、アケメネス朝ペルシャなどの「硬い」専制と、オスマン朝の「柔らかい」専制との間に、アラブの人々による内婚制共同体家族の発明とその拡大という「事件」があったことを見逃すことはできません。

内婚制の導入は、共同体家族の構造的緊張を緩和し、「温かさ」を付け加えました。これにより、強靭な支配能力に加えて、安定を持続させる柔軟さを備えるようになった共同体家族システムが、ついに実現したのが、「オスマン帝国500年の平和」だったのではないか。

家族システムというものの本質的な重要性を肯定する限り、このような仮説が、自然に導かれるのです。

・ ・ ・

この講座では、文明発祥の地、メソポタミアとその周辺で、家族システムが、核家族から、直系家族、外婚制共同体家族、内婚制共同体家族へと「進化」を遂げた様子を追ってきました。

それに対応するように、国家の形態は、都市国家から、統一国家、多様な民族・言語・宗教を持つ人々を統べる「帝国」へと移り変わり、進化の頂点において、オスマン帝国の繁栄がもたらされた様子が確認されました。

もちろん、オスマン帝国の「平和」は、永遠には続きませんでした。民族や言語を問わない寛容な帝国であったオスマン帝国は、メソ紀51世紀(18世紀)末–52世紀(19世紀)初頭には終焉を迎え、「トルコ人の国」としての「近代オスマン帝国」を経由して、メソ紀5222年(1922)年に滅亡します。

オスマン朝の終焉は、しかし、核家族への逆行により内部崩壊を起こしたローマ帝国のように、内部的な要因を主とするものとはいえません。

帝国の終焉をもたらしたもの、それは、「核家族の識字化」という大事件でした。

共同体家族の5000年をあざ笑うかのように、世界の中心に躍り出てきた「識字化した核家族」(別名「西欧近代」)は、世界をどのように変えたのか。

次回に続きます。

オスマン帝国の平和は「識字化した核家族」(西欧近代)の登場とともに終焉を迎える

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家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(2)都市国家から「帝国」まで

目次

都市文明のはじまり

補講 気候と人類」に、最終氷期が終わり間氷期(温暖で安定)に入った頃に農耕が始まったこと(約12000-11000年前)、巨大氷床の融解による海水面の上昇が終わったことで、長期の定住が可能になったことを書きました(約7000年前)。

定住集落の点在状況から、都市文明の誕生に至る過程にも、気候変動が関係しています。

気候は、間氷期であれば一定というわけではないそうです(当たり前でしょうか)。海水面上昇が終わった頃、地球は「気候最適期」と呼ばれる温暖な期間にあったのですが、約5500年前(メソ紀前200(前3500)年頃)にこれが終わり、寒冷な時期がやってきます。

寒冷化が何をもたらしたかというと、気候の乾燥化です。乾燥のため、周期的な干ばつに見まわれるようになったメソポタミアやエジプトでは、それまで山麓で天水農耕をしていた人々が、大きな河川沿いの低地に集まって住むようになります。こうした生まれたものが、都市であり、都市文明である。とこのように考えられているようです1田家康『気候文明史』(2019年, 日経ビジネス人文庫)147-148頁(同書では松本健「メソポタミア文明の興亡と画期」『講座 文明と環境 第2巻 地球と文明の画期』(朝倉書店, 1996年)91-103頁が参照されています(私は読んでいません)

メソポタミア南部では、メソ紀元年(前3300年)の前後、ちょうど文字が生まれたのと同じ頃に、ティグリス・ユーフラテス川流域のシュメールにウル、ウルクといった都市が生まれ、メソ紀400年頃(前2900年)までには、各都市は王が治める都市国家に成長しました(初期王朝時代)。

気候の寒冷化→乾燥化により人々が河川沿いの低地に集まり、
都市文明の誕生につながった

初期シュメールの家族システム

シュメールの初期、家族システムは、やはり、原初的な核家族であったと考えられます。

文献記録に限りがある時代の家族システムを知るためには、芸術が大きな役割を果たしますが、メソポタミアの場合、男性、女性、夫婦をかたどる彫像が重要です(以下 起源1・下 733頁以下を参照)。

メソポタミアにおける家族システムの変遷を示す一つの鍵は、初期には女性を表象したものが数多く見つかっているのに(一例として、こちらの写真をご覧ください)、その後次第に減少し、古バビロニア王国(メソ紀1300年(前2000年))以降はほとんど存在しなくなるという事実です。

女性への敬意がうかがわれる美しい女性の彫像は失われ、多産性を称えるためのでっぷり太った女性像が少しと、大量の男性像、それも、「様式化された‥多量のあご髭をはやした男」(例えばこちら)の像に置き換わってゆくのです。

文献や芸術、各種先行研究の吟味を経て、トッドは次のように結論しています。

現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの一つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた。

起源1・下736頁

トッドが同書に掲載している図像をネット上で見つけました。メソ紀600-700年(前2700-2500年)頃のシュメールの夫婦像です(イラク国立博物館所蔵)。 

このタイプの夫婦像は多数発掘されているようで、その全体について、トッドは次のように述べています。

古い時代についてもっとも有意的で、女性のステータスとシュメールの親族システムとに関して決定的な判断をもたらすのは、考古学的遺跡の中から見出される夫婦を表す小像である。その姿勢が夫婦の対等の関係を喚起することには、いかなる疑いも容れない。

起源1・下 734頁

そして、シュメールの都市の一つ、ニップルの神殿で発見された上の図像については、

比類ないものという訳ではないが、遺憾なく特徴を示していると思われる …… 信頼と情愛と平等性を結びつけたこのような夫婦のイメージを産み出すことができたのは、唯一、男女両性の関係について平等主義的な考え方をし、当時はまだ未分化の親族システムを持っていた社会だけであると、私は考える。このような型の男女の結びつきがその後、姿を消したことは、全く単に、メソポタミアの歴史の中での父系原則の勢力伸張の証明に他ならないのである。

同・734頁

シュメールの図像が表象する夫婦の対等性は、未分化の親族システム(原初的核家族)の存在を示唆している

つまり、初期シュメールの家族システムは原初的核家族だった

最初の進化
 — 長子相続制の誕生

家族システムの「進化」の第一段階は、すでにシュメールの初期王朝時代に起きていたと見られています。

長子相続制の誕生です。

例えば、シュメールの都市の遺産相続の規則には、長子に二人分の取り分あるいは10%の優先取り分の付与を認めるものが確認されています。また、ギルガメシュ叙事詩2シュメールの物語をまとめたもの。編纂はメソ紀2000年紀の中頃(前3000年紀末頃)に描かれる伝説的なウルクの王ギルガメッシュは、三分の二が神で、三分の一が人間という不思議な設定なのですが、これは、長子に二人分の取り分を認める長子相続制文化が象徴的に現れたものと考えられています(起源1・下725頁)。 

ギルガメッシュのレリーフ A hero taming a lion. Bas-relief from the façade of the throne room, in the Assyrian Palace of Sargon II at Khorsabad (Dur Sharrukin), 713–706 BCE. (public domain) 

では、何が長子相続制を促したのか。

確認できるのは、ここでも「満員の世界」と戦乱という二つの要素が揃っていたことです(この点の説明はこちら)。

この時期、シュメールでは定住民の人口が増加し、すでに「満員の世界」が生じていました。そして、都市国家が分立して対立抗争を繰り返す一種の戦国時代であったことも確実なのです(小林登志子『シュメル―人類最古の文明』(中公新書、2005年))。

*(1)でも述べた通り、「満員の世界」と「戦国」状況が直系家族を促進したのは、日本も全く同じです。「戦国」は説明不要と思いますが、「満員の世界」については、12世紀末には生じていたことが確認されています(「当時の技術水準で開発可能な土地は開発し尽くされていた」(近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207頁)

シュメールは「人口が多すぎるという感情をこれほど明確に形式化する社会」は「」とトッドが言うほど、その文化の中に、人口抑制の志向を含み持っていました。

以下は、シュメールの主題を引き継いで後代に書かれた叙事詩です。

いまだ1200年も過ぎてはいないのに、
国は広がり、人口は増加した。
大地は牡牛のごとく唸り声をあげていた‥‥

叙事詩の中で、神は人口過剰に激しい怒りを表します。
そして、神々は伝染病、干ばつ、洪水を解き放ち、
ある神などは、女性の不妊、乳幼児の死亡、女性が祭司(=一生独身)となるべきことを預言するのです。

以上を総合すると、長子相続制は、定石通り、「男性優位と父系の選好」を促す戦乱を背景に、「満員の世界の中で世襲財産の細分化を妨げようとする努力」(725頁)として、メソポタミアに姿を現したことになります。

なお、シュメールの直系家族は、長子相続制を採用する一方で、世代間の同居を伴わない(=居住は核家族的)、不完全な形態であったとされています。

したがって、ここでは、シュメール期には、未分化の核家族を、一歩、直系家族の方向に進める変化が起きていたという事実を確認しておきましょう。

都市文明が成立すると間もなく満員の時代がやってきて、
小ぶりな都市国家が分立して対立抗争を繰り返す。
このとき、同時に直系家族への傾き(長子相続制)が観測される

統一国家の誕生— 共同体家族の発生と強化

メソポタミアにおける共同体家族システムは、統一国家の誕生と同時期に発生したことが確認されています。いずれも「世界初」の事件です。

共同体家族の生成は、ここでも、「定住民の直系家族+遊牧民の対称原則=共同体家族」という定式によるものと想定することができます。メソポタミア中心部でも遊牧民(とくにアムル人)が活発に活動していたからです。

資料からほぼ確実といえるのは、全メソポタミアを統一したハンムラビ王の時代(バビロン第一王朝)(在位:メソ紀 1508-1550(前1792-1750))には、すでに共同体家族が成立していたという点です。

 

ハンムラビ法典(左がハンムラビ、右は太陽神)

アムル人は、ウル第三王朝(メソ紀1188-1296(前2112-2004))の頃から資料に現れます(wiki)。傭兵、労働者、役人などとしてメソポタミア社会に浸透したということですが、ウル第三王朝崩壊後は一躍メソポタミアの主役に躍り出て、メソポタミア各地の都市に王国を築き、互いに覇権を争いました。ハンムラビ王もその一人、つまり、遊牧民アムルの王でした。

アムル人は、ステップの遊牧民クランと同様に、「穏健な父系原則と‥‥対称化の概念とに立脚した幅広い親族集団」を持っていました。彼らの部族は、「実際にはそれぞれ戦闘単位たる部隊に相当」し、「家畜の飼育に必要な土地を占拠するため、あるいは豊かで文明化された定住民の居住地の中心に侵入するために、行進隊形をとって前進するのである」(748頁)。

こうした事実から、トッドはまず次のような仮説を示します。

対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能になったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第一王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。

起源1・下750頁

このストーリーは、何というか、感動的といえます。メソポタミアではハンムラビ王が、2000年後の中国では、その意識せざる反復者、秦の始皇帝が、それぞれに、共同体家族の誕生と同時に、統一国家の樹立を成し遂げていた、ということになるわけですから。

ただし、中国のケースとは異なり、メソポタミアで統一国家を築いたのは、ハンムラビがはじめてではありません。シュメールでは、都市国家が分立する初期王朝時代の末期に、統一を目指す動きが現れ、アッカドの王サルゴンが、シュメールおよびアッカド一帯の統一に成功しているのです(メソ紀1000年(前2300年)頃)。

詳細は省きますが、結局、トッドは、アムル人は上記資料に登場する以前からメソポタミア中心部に入り込んでいたと考えられること等から、バビロン第一王朝の500年前、サルゴン王による統一直前のアッカドで、不完全な直系家族から、「対称化された父系イデオロギー」を持つ共同体家族的システムへの変化が実現していたと推定するに至りました。

この変換は、サルゴン王によるメソポタミア統一のほとんど直前に、アッカドで実行されていたと想像することすらできるのである。

起源1・下751頁

ただし、中国に大幅に先行して成立したメソポタミアの共同体家族は、「はるかに不明瞭であり、疑わしいものでさえある」と、トッドは述べています。その父系および共同体性の強度はずっと低く、「おそらくその共同体家族は、アラブ人中心の近年の中東の持つ緩和された共同体家族3次回扱いますを先取りしているのであろう」。

ともかく、世界で初めて、メソポタミアに誕生した共同体家族の原型は、この地に定着し、強化され、新アッシリア帝国(メソ紀2400年(前900年)頃-)の時代には、女性のステータスの最大限の低下という局面に到達するのです。

アッシリアでは、女性が芸術で表象されることが全くなくなります。

残存する数多くの見事なレリーフは、たいていの場合、戦争を描いたものであるが、そこでは女性と子供は、流刑に処された者としてか、アッシリアの戦士が行った虐殺の犠牲者として姿を現すにすぎない。

起源1・下743頁
https://blog.britishmuseum.org/3d-imaging-the-assyrian-reliefs-at-the-british-museum-from-the-1850s-to-today/

そして、アッシリア法において初めて、女性のヴェール着用義務が記述されるのです。トッドは言います。

反女性主義の急進化という形で自己流の革新を行うアッシリアという仮説は、その戦士的強迫観念と見事に両立する

統一国家の誕生とともに共同体家族が成立し、父系原則の強化(女性の地位の最大限の低下)とともに帝国が現れる

共同体家族の生成要因を考える

この後、共同体家族の伝播と変形を見ていくのですが、その前に、なぜ、メソポタミアで共同体家族が生成し、定着・拡大するに至ったのかを考えておきたいと思います。

共同体家族の特長は、何よりもまず、その組織力の高さにあるといえます。

親子関係を規律する「権威」はリーダーの統率力を、そして、兄弟の「平等」とくにその初期形態である「対称性」は、組織内の役割への自動的な割り振りを通じて、効率的かつ安定的な秩序を基礎づける。共同体家族システムは、そのような仕組みで成り立っています。

歴史において発揮される共同体家族の威力は、二つの側面で発揮されます。一つは、外敵に対する戦闘力、もう一つは、内側をまとめる統率力の強さです。

共同体家族の組織力:2つの側面
①外敵に対する戦闘力
②内側をまとめる統率力

サルゴンのアッカド統一帝国、ハンムラビのメソポタミア全土統一を可能にしたのは、まずは、共同体家族が支える軍事力であったと思われます。

しかし、軍事力だけで、広い領土を治めることはできません。共同体家族システムの組織力は、多様な民族からなる人々を一つのまとめ、領域内の平和を保つ力としても、大いに機能していると考えるべきでしょう。

前項で見たように、共同体家族システムは、サルゴンによる統一の直前に形成された後、次第に強化され、女性のステータスの最大限の低下という局面を迎えます。その間、メソポタミアの覇権は、アッカド帝国、古バビロニア、新アッシリア帝国、新バビロニアアケメネス朝ペルシャと推移し、時代を進むにつれてその版図を拡大していくのです。

なぜ、共同体家族の行き着く先に、女性のステータスの低下という「進化」が見られるのか。

女性の地位の格下げは、(女性以外の)構成員全員の格上げと、(女性を排除することによる)平等性の強化につながります。それによって組織の統率力ないし凝集力が一層強まり、大帝国の設立・維持に役立った、と考えることは、理にかなっているように思えます。

・ ・ ・

なぜユーラシア大陸中央部で共同体家族システムが生成、定着、拡大、強化したのか、という問いへの答えは、おそらく、非常に単純なものだと思われます。

共同体家族は、その地域の平和と安定のため、つまり地域における人類の生存に適したシステムだったからです。

前回も述べましたが、メソポタミアの人々は、「共同体家族・権威と平等・帝国」の三位一体による地域の安定を歓迎したはずです。単純に考えて、異民族の侵入、略奪、戦乱の絶えない世界と、平和で安定した世界のどちらがよいかといえば、後者に決まっていますから。

肥沃な土壌を持つ交易の中心地、多様な人々が行き交い、侵入し、覇権を争う土地で、平和と安定を保つのは、容易な仕事ではありません。共同体家族システムは、それをどうにか可能にしてくれるシステムであったのです。

共同体家族のイデオロギーおよび国家体制である「権威」「帝国」「専制」といったものは、現代の常識ではネガティブな価値の代表と扱われています。しかし、平和と安定を維持するという理にかなった目的のために、共同体家族の強力な凝集力がどうしても必要な状況というものがあるのだということは、頭に入れておく必要があると思います。

共同体家族・権威(専制)・帝国」の三位一体は、
多様な人々が行き交い、相争う大陸の中心地における平和と安定に大いに役立った

*余談ですが、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の「帝国」の項目を見てちょっと呆れてしまいました。「通常は自国の国境を越えて多数・広大な領土や民族を強大な軍事力を背景に支配する国家をいう(大英帝国,大日本帝国など) 」というところまではよいでしょう(例示には若干疑問があります)。しかし、その次、「その原型は古代ローマ帝国にあるが…‥」というのはいかがでしょうか。古代ローマの帝政開始は紀元前27年。「帝国」一般でいえば、2000年以上遡るアッカド帝国、ハンムラビのバビロニア帝国があり、より広域の「世界帝国」の意味でも、新アッシリア帝国もあれば、アケメネス朝ペルシャ帝国もある。この後確認していくことになりますが、ローマ帝国は明らかに、こうした中東地域の遺産のもとに成り立っているのです。

権威主義の伝播と反転—古代ローマの場合

古代の文明は一貫して「東高西低」です。したがって、家族システムも、東のメソポタミアから、まずは周辺に広がり、それから西へ伝播するという順番で広がります。

具体的には、メソポタミアで「進化」したシステムは、地中海を経由し、まずはギリシャ、つぎにローマに影響を与えることになりました。

古代ローマの最古期(メソ紀2550年-)に「ゲンス」と呼ばれる氏族集団があったことが知られています。

ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。

起源1・下462頁

父親の権威、兄弟の「対称化」の概念、遺産相続に見られる平等原則。古代ローマは、同居に関してはある程度柔軟であったものの4この点はメソポタミアも同じ。トッドはローマの起源において牧畜が重要であったことを記し、同居ではなく近接居住を行う遊牧民的システムを持っていた可能性を示唆している(463頁)、共和制期から帝政初期までのローマの家族システムは、共同体家族に類似するものであり、そのことが、ローマ帝国の版図拡大に寄与したと考えられます。

要するにローマはおそらく、父系制と軍人気質を組み合わせた特殊な文化を持っていたがゆえに、地中海地域の征服に成功したのだろう。

起源1・下 484頁
Detail from the Column of Marcus Aurelius 
by user Barosaurus Lentus from Finnish Wikipedia.

ところが、ローマでは、この後、父系制から双方制へ(男性の系統重視→未分化へ)、共同体性から核家族性への「退化」が起こるのです。

共和制末期から後期ローマ帝国までの、少なくとも6世紀にわたる期間に、家族関係の硬直性は緩和され、女性の自立とステータスは上昇したのである。

起源1・下 478頁

何がこのような現象をもたらしたのか。トッドはローマの地理的かつ文化的な位置に注意を促します。

ローマは確かに共同体的なシステムを持っていましたが、システムの中心地、メソポタミアからは遠く離れています。ローマは、東から押し寄せてくる伝播の波をギリギリで被る位置にあり、その北と西には、未分化の核家族システム地域が鎮座していました。

ローマのもともと脆弱であった共同体家族システムは、征服した西ヨーロッパ、そしてエジプト(古代エジプトは女性のステータスの高さと核家族性を特徴とします)の影響を受けて次第に「退化」し、核家族的なシステムに回帰していくのです。

こうして、晩期ローマに生まれた平等主義核家族システム(自由+平等)は、現在も、フランスに受け継がれています。

権威主義の弱体化がローマに何をもたらしたか。その後の歴史は、共同体家族システムの機能を雄弁に語っているように、私には思われます。

ご存知のように、ローマはメソ紀3695年(395年)に東西に分裂します。間もなく西ローマはゲルマン人の侵入による混乱の中で滅亡し(メソ紀3776年(476年))、私たちのよく知るバラバラのヨーロッパが始まります。一方、東ローマの方は、領土を減らしながらも、4753年(1453年)まで生き残り、覇権をオスマン帝国に譲り渡す。

共同体家族は「退化」したと書きましたが、今度は西から迫ってきた核家族化の波は、ローマの西部において特に強く作用したはずであり、東部には元のシステムが強く残っていたと考えるのが自然です5ローマにおける父系制の残存につき、起源1・下486頁

ローマ帝国は、共同体家族システムの作用によって生まれ、拡大し、「ローマの平和」を謳歌した。そして、核家族システムの浸透により分裂し、とくに核家族性が強かったであろう西ローマは瞬く間に砕け散った。

家族システムの変遷に着目すると、こんな世界史像を描くことができるのです。

Project Gutenberg’s Young Folks’ History of Rome, by Charlotte Mary Yonge Romulus Augustus resigns the Crown before Odoacer

ローマ帝国は東から伝播した共同体家族システムの威力で地域の征服・拡大に成功した

共同体家族は征服した広大な核家族地域の影響で退化。
西ローマ帝国はまもなく崩壊し、国家分立の西ヨーロッパが始まる

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トッド入門講座

家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史 (1)-2 中国の事例 

目次

 

はじめに

この講座では、次回以降、ユーラシア大陸の西の中心(中東)とその周辺を舞台に、家族システムの変遷を見ていくのですが、その予行演習として最適なのが、中国の事例です。

中国では、中東と全く同様に、「原初的核家族→直系家族→共同体家族」という標準系列の進化が起こりました。

中国のシークエンスは、中東よりはコンパクトな領域内でまとまっているので、シンプルで分かりやすく、新しい分資料も豊富です。

典型的な進化の過程はどのようなものであったのか、そして、トッドがどのような事実を根拠に、その過程を跡付けているのか。

今回は、その概要をご紹介し、本編(次回以降)の準備とさせていただきます。

トッド用語の解説:
家族システムの「父系制」と女性の地位

原初的核家族から共同体家族までの「進化」の歴史は、権威が生まれ、組織が強化されていく歴史であると同時に、女性の地位が低下していく歴史でもあります。

それは、夫婦(男女)が対等である原初的状態から、次第に、夫=父親=男性が重視され、男性間の絆の強化とともに、女性の地位が貶められていく過程でもあるのです(私の主張ではなく端的な事実です。なぜこのようなことが起きるのかについては、後で考察します)。

そのため、トッドの『家族システムの起源』では、「イデオロギーなし」の原初的状態から、権威が発生し、共同体家族の確立・強化に至る過程を、「父系制の強化」という軸に載せて記述しています。

原初的核家族               ー 父系制レベル0
直系家族                 ー 父系制レベル1
共同体家族                ー 父系制レベル2
女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族 ー 父系制レベル3

「父系制」という表現は、必要以上に専門的な気がするので、この講座では、この父系制レベルによる区分を積極的には用いません。ただ、トッドの文章をそのまま引用するときなどに「父系制」という言葉が出てくる場合があると思います。

そこで、「父系制」とは、父親=男性をより重視する仕組みを指し、父系制レベルの上昇は、父親=男性の権威のレベルが上がり、同時に女性の地位が下がる過程であるということを、何となく頭に置いていただければと思います。

また、家族システムの「進化」と女性の地位に深い関係があることから、ある特定の時代・文化における家族システムを探る際、しばしば、当該文化における女性の扱いが重要な指標となることも、頭に入れておいてください。

出発点:原初的核家族

中国周辺の家族システムを見ると、その中心部(中国の中央)を共同体家族が占める一方で、同心円上には、直系家族(中国南東部、日本、朝鮮、ベトナム北部、中央チベットなど)、同じく同心円上の周縁部に、原初的(「絶対」でない)核家族が配置されています。

『家族システムの起源 I ユーラシア』(上160頁)

これに「周辺地域の保守性原則」を当てはめれば、中国でも、出発点には核家族があり、共同体家族は「革新」である(可能性が高い)、ということが分かるのです。

原初的核家族という出発点、それは「一切の規則がない」という状態です。

絶対核家族などの純粋核家族には、「親子の分離」という規則があり、成人した子供は親と同居しないのが原則です。

しかし、原初的な核家族では、成人した子供も、必要があれば、親と一時的に同居します。同居してもしなくても「どっちでもいい」。それこそが「原初的」であるゆえんなのです。

*トッドは「起源」の中では、私がここで「原初的核家族」と呼んでいる類型について「一時的同居を伴う核家族」という分類を用いています。

そういうわけで、最も原初的な核家族は、同居先に関してもルールを持ちません。つまり、ここでも、夫の親でも妻の親でも「どちらでも構わない」(「双方制」)。

しかし、原初的な核家族の中には、同居先に関するルールを持つものが少なからず存在します。一時的に同居する場合の「標準」があって、「父方居住」ないし「母方居住」のいずれかが原則となっている(多くは父方です)。

この「同居先の標準化」は、原初的家族システムに芽生えた「規則」の萌芽であると考えられています。

未分化な核家族はルールなし。成人した子は必要に応じて親と一時的に同居するが、同居先は夫の親でも妻の親でも構わない(双方制)

直系家族への進化(第一段階)

原初的核家族が直系家族に進化したケースで、共通に観察される現象は、土地の不足です。

農耕文明の中心地で人口が増大し、耕作に適した土地が不足する。直系家族の誕生は、多くの場合、フランスの歴史家ピエール・ショーニュの表現でいう「満員の世界」の時代と同期しているのです。

「満員の世界」と直系家族の間に機能的な連関があることは、つぎのように考えてみると簡単に分かります。

「満員の世界」。それは、成人した子どもたちが家を出ても、新たに開墾する土地がない世界です。その条件の下で、農耕民が生き延び、繁栄していくにはどうしたらいいか。

まずは、土地を分割して子供に分け与えるということが考えられますが、一世代はよくても、何度も分割すれば小さくなりすぎて、土地の利用効率は低下するでしょう。

したがって「満員の世界」では、
 ①土地を分割せずに子孫に伝えること
 ②集約的な農業によって、土地をより効率的に利用すること
の2つが必要になる。

直系家族システムが、このような世界に適合的であることは明らかといえます。直系家族とは、土地を特定の一人(多くは長子)に相続させ、彼に権威を付与することで、家長の下で集約的農業を営むことを可能にするシステムですから。

そういうわけで、中国では、メソ紀2200年(前1100年)頃1なおこの年代の正確性については「過大に受け止めないようにしよう」と特に注意が喚起されています。「これは平均的な年代ではなく、むしろ起源点を示すものである。」(起源1・上185頁)、商王朝末期および周王朝の下で、貴族の間に男性長子相続制が根付き、直系家族システムが定着したと推定されています。

なお、直系家族が生成・定着する時期に、共通に見られる現象がもう一つあります。戦乱です。

封建制中国は、紀元前722から222年〔メソ紀2578-3522〕 までの間の時間の75%を軍事活動が占めており、今日の調査で分かっている限り最も好戦的な文明のうちの一つを経験したわけである。

起源1・上185頁

直系家族、満員の世界、戦乱の3者が揃うのは、2000年後の封建制ヨーロッパ、封建制日本も同様です。

「満員の世界」が戦乱をもたらす要因でもあることは容易に想定できますが、家族システムに関しては、つぎの2つの点が重要です。

  1. 戦乱は、軍事組織の強化の必要性から、直系家族の生成を促進する。
  2. 戦乱は、同じく軍事組織強化の必要性から「長男」(男子)の選好を促す要因となる。

直系家族 誕生の背景
 ①満員の世界(人口増大で土地が不足)
 ②戦乱 

共同体家族への進化(第二段階)

直系家族への移行は、日本人には非常に理解しやすいものですが、共同体家族については、システムそのものがピンと来にくいと思います(私もです)。「進化」の過程を追うことは、システムの理解にも役立つかもしれません。

共同体家族誕生の鍵、それは遊牧民の存在なのです。

中国の場合、遊牧民と定住農耕民が相互に影響を与え合ったことで、共同体家族への発展がもたらされたと考えられています(下図参照)。  

①遊牧民における兄弟の対称性原則の確立(父系制の伝播)

遊牧生活を営む集団においても、初期の家族システムは、原初的な核家族で、「父親の権威」といったものは存在しません。

紀元前4世紀〔メソ紀29世紀〕までか、もしかしたらもう少し後まで、社会の父系的組織編成を喚起するものは何一つない」(起源・上197頁)。

起源・上197頁

しかし、メソ紀30世紀(前3世紀)になると、現在のモンゴル地方にいた匈奴の間に、父親の権威を前提とする家族組織が観測されるようになるのです。

すでに紀元前3世紀には、洗練された政治的構造化が、モンゴル地方の匈奴の許で姿を現わし、次いでトルコ人とその様々な後継者たちの許で姿を現わした。部族の左翼と右翼への割り振りと、‥‥高官たちの複雑な序列が知られている。こうした制度的発達は、より昔の「スキタイ」諸民族においては知られていない。

トッドによるLebedynsky I., Les nomade, p29からの引用(起源・上 198-199頁)

ここでは、兄弟を自動的に左翼と右翼に割り振り、平等に軍事機構(=官僚機構)の一翼を担わせるシステムが確認されているのですが、なぜこれが「父系的組織編成」(父親の権威)の証拠となるのかというと、「子供の族内での地位を自動的に割り振る」ためには、前提として、単系制(通常は父系制)が成立している必要があるからです。

* 子供が父の世帯に属するか母の世帯に属するかが決まっていないシステム(双方制)の下では、まず「どちらに属させるか」を決めなければならないことになり、彼らを自動的に左右に割り振るということはできませんね。

そういうわけで、このシステムは、「父系的組織編成を喚起する」システムです。

では、この遊牧民における「父系制」(男性の権威)はどこから来たのか。トッドは、ここに、すでに直系家族の成立を見ていた中国の影響を想定しています。

もちろん、中国ではなく、中東から来た可能性も考えられるのですが、その上で、トッドが「中国」と結論したのは、ちょうどこの時期に、東方の遊牧民が新たに軍事的優位を獲得したことが検知されているためです。

フン人〔匈奴と同系統とされている〕の出現以来、ステップの力関係は逆転する。それまで西から東へと向かっていた支配的征服の動きは、逆向きの風に取って替わられる。西に向かうウラル・アルタイ語系諸民族の拡大に他ならない。‥‥ 私としては、東の諸民族の新たな軍事的優位は、ステップ東部のクランが中国との接触によって父系変動を起こしたとする仮説によって、かなりうまく説明がつくように思えるのである。

起源・上 200頁

中国の定住民からの影響で、父系と兄弟の平等を組み合わせた遊牧民のシステムが生まれた後、相互影響のベクトルが変わります。次は、遊牧民側が、中国文明に影響を与えるのです。

直系家族の定住民の影響を経て、遊牧民の対称原則が生まれた

②共同体家族の確立(対称性原則の伝播)

中国の定住民が営んでいた直系家族の上に、遊牧民クランの特徴である兄弟の対等性を貼り付けてみて下さい。はい。これが、父親の権威の下に平等な兄弟が横に並ぶ、共同体家族システム誕生の瞬間です。

トッドは、この変化が秦で始まり、秦による中国統一の原動力となったと想定しています。

秦は地図上で全く特殊な地位を占めていた。北西にあって、ステップの遊牧民と直接接触していたのである。

起源・上 207頁

多数の蛮人部族を併合して行ったこれらすべての征服は、歴代の秦伯を北部と北西部の遊牧民…との直接の接触状態に置いた。共通紀元前4世紀の間に行われた秦伯の軍隊の大改革の原因は、おそらくこの事実に帰するべきである。… 歴代の秦伯は、…操作しにくい戦車集団を廃して、騎兵部隊に切り替えた最初の人たちだった。…歴代の秦伯が絶えず勝利を重ねることができたのは、おそらく、鈍重な戦車軍団を翻弄したこの軽装備部隊の軽快さのおかげである

トッドによるアンリ・マスペロ『古代中国』からの引用(起源・上 208頁)

もちろん、共同体家族システムの優位は、軍事的要素だけに止まるものでありません。

父系のクランは、文民社会の中に樹立された軍隊のようなものである。定住システムに投影されるとなると、それは軍隊の再編を引き起こすことになるが、純然たる行政型の合理化も引き起こすかもしれない。

対称(シンメトリー)の概念は、帝国という観念にとって本質的に重要である。国家に適用されれば、それは臣民・地方の平等性となる。土地に固定された農民ないし貴族の家族に採用されるなら、それは兄弟間の平等性として具現する。父系共同体家族の競争力の優位は、その経済的帰結の中に存するのではなく、文民的ないし軍事的な組織編成に関わる含意の中に存するのである。

起源・上 208-209

中国は、メソ紀29世紀(前4世紀)頃の匈奴を皮切りに、46-47(13~14)世紀のモンゴル、50(17)世紀の満州人に至るまで、遊牧民との相互行動を繰り返し経験しています。

これらの集団はみな、同じ家族システムを担っていたわけですから、中国にとって、「クラン的対称という遊牧民の原則は、何度も何度も繰り返し叩き込まれた教訓だったのである」(209頁)。

親子の権威的関係(直系家族)と兄弟の対称性(遊牧民)が合体し、
共同体家族システム(権威と平等)が生まれた

女性の地位の低下(最終形)

システムというものは、「成立すればそれで終わり」ではありません。定着してからの時間の中で、強化されたり、減弱したりするものです。

中国の場合には、メソ紀3100-3200年頃(前200年-100年頃)に共同体家族が登場した後、遊牧民との相互行動の繰り返しなどを経て漸次システムが強化され、メソ紀4200年から4250年(900年から950年)頃には、女性の地位の最大限の低下を伴う、強固な共同体家族システムを持つ社会になりました(この頃、女性の纏足の習慣が生まれます)。

さしあたり、これが、中国における「進化」の最終形です。 

女性の地位の最大限に低下した共同体家族が「進化」の最終形

ユーラシア大陸の西側で展開される世界史は、これよりも少し複雑なものになりますが、このサイクルが基本である点には違いがありません。

したがって、これを頭に置いていただくと、メソポタミアからはじまる世界史がぐっと分かりやすくなるはずです。

それでは、いよいよ、時代をさらに数千年遡り、メソポタミアに移動しましょう。

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トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(1)イントロダクション

 

はじめに

(1)家族システムは「進化」する

家族システムは変化します。しかし、人類が自分の意思で変えられるかというと、変えられない。私たちにできるのは、基本的に、知ること、理解することだけです。

家族システムの変遷は、生物進化の過程とよく似ています。当人たちの意思とは無関係に変化が起こり、環境に適したものが生き残り、数を増やしていく。そして、その「進化」は、人類の無意識を通じて、世界を変えていきます。 

家族システムは、生物進化に似た過程を経て、多様性を獲得した

(2)周辺地域の保守性原則

家族システムとイデオロギーの相関性を発見した当初、トッドは、その多様性や分布は単なる偶然であると考えていたようです。

いかなる規則、いかなる論理とも関係なく地球上に散らばっているように見える諸家族構造の配置が示す地理的一貫性の欠如は、それ自体ひとつの重要な結論なのである。この一貫性の欠如は、社会科学によって疑わしいものとして捉えられているが、遺伝学によって次第に認められてきたあるひとつの概念を想起させるものである。つまり偶然という概念を。

『世界の多様性』292頁(「第三惑星」最終章 「偶然」)

ところが、トッドが友人である言語学者(ローラン・サガール)に「第三惑星」を見せると、彼はつぎのように言ったのです。

他の部分は実に興味深い。しかし、「偶然」の部分で言っていることは、いい加減だ。周縁地域の保守性原則を承知している研究者なら、君の言う共同体型というやつ、ここに赤だかベージュで塗られているのは、一続きの中央部的塊をなしており、濃い緑の直系型や青や薄緑の核家族型は、周縁部に分散しているということを、すぐに見て取るはずだ。これからすると、何らかの時期に、ユーラシアのどこかの中心点で共同体型への転換という革新が起こり、それが周縁部へと広がって行ったが、まだ空間全体をすっかり覆い尽くしてはいない、ということであるのは明白だ 

『家族システムの起源 I ユーラシア 上』31頁 脚注6(以下「起源」で引用します)
ローラン・サガールが見た地図(『世界の多様性』巻末)
 赤が外婚制共同体家族、ベージュが内婚制共同体家族

〔周辺地域の保守性原則とは〕

上が 「周辺地域の保守性原則」の説明図です。

家族システムの分布図でいうと、
  特徴Bー共同体家族システム
  特徴Aー核家族システム(や直系家族システム)

となりますから、その示唆するところは明白です。

中心に広がる共同体家族は「何らかの革新が広がったもの」であり、周縁地域に残る核家族は、「空間全体でかつて支配的であった特徴の残存である可能性が高い」。

そのような事実を明瞭に示しているのです。

トッドは、家族システムの何たるかもまったく知らないサガールが、ただ単に地図上の地域の色と配置だけを見て、トッドの研究主題の核心を言い当てたことにショックを受けつつも、これを受け入れました(「彼の立論は論理的に反論の余地のないものだった」と述べています。)。(同前)1この直後に彼らは共同で論文を執筆している。E. TODD, Laurent SAGARD, Une hypothèse sur I’origine du système familial communautaire, in Diogène, no 160, octobre-décembre 1992.(邦訳は「新人類史序説ー共同体家族システムの起源」(石崎晴己・東松秀雄訳)として『世界像革命』(藤原書店, 2001年)に掲載されている。)

そして、この「ブリコラージュ」のおかげで、そして彼らの友情のおかげで、私たちは、「家族システムとイデオロギーの相関性」という、血液型占い的な(?)世界を大きく超えて、人類学を基礎とした世界史の書き換えという壮大なヴィジョンを見せてもらえることになりました。

ありがたいことですね。

家族システムの分布は、共同体家族システムが「革新」であり、核家族システムが古いシステムの残存であることを示唆している

(3)家族システム、国家、イデオロギー

この講座では、家族システムの変遷が世界史を動かす様を、主に「国家」に着目して見ていきます。

なお、トッド自身は、家族システムと歴史的国家形態との関係を体系的に論じたことはありません。したがって、今回の講座は、「トッドの理論は、誰にでも使える」という謳い文句に従い、トッドの理論の紹介と、講師自身の「使用例」を兼ねたものとしてお読みいただければと思います。

国家の歴史は、世界史の教科書的常識では、神権政治による専制国家から民主主義による近代国家(国民国家)への発展の歴史と捉えられています。

しかし、家族システムが「大家族から核家族へ」ではなく「核家族から共同体家族へ」進化したことを知っている私たちには、このシークエンスは、間違いなく「眉唾物」です。

次のような仮説が芽生えてくるのは、どうしても避けられないと思います。

家族システムの進化が「核家族→共同体家族」であったという事実は、
国家が「自由→専制」に向けて発展したという事実を示唆しているのではないか?

そこで、この講座では、社会の基底における「核家族から共同体家族へ」の進化を追いながら、その上部で「国家」がどのような変化を遂げたのかを確かめてまいります。

この探究の旅は、必ずや、「専制主義から自由主義へ」という単純な(あるいは偏狭な)近代主義とは異なる、複合的で、より公平な、世界の見方を可能にしてくれる旅となるでしょう。

家族システムの進化に関するトッドの理論は、国家の歴史が「専制から自由へ」ではなく「自由から専制へ」発展したという仮説を導く

「進化」の概要

(1)6000年の歴史—メソポタミア紀の導入

家族システムの歴史は、メソポタミアから始まります。

実際のところ、「進化」の大部分は(すべてではありません)、紀元前4000年紀から1000年紀の間に、完了しているのです。

現在の「西側」諸国(核家族か直系家族です)と、中東やロシア、中国(すべて共同体家族)が分かり合えないこと、とりわけ、前者が後者を全く理解できない理由の一つは、おそらく、この時期の歴史が「常識」から抜け落ちていることにあります。

多様な家族システム同士の相互理解を可能にするためには、西欧が活躍を始めたここ数百年の歴史を切り取るのではなく、約6000年の文明の歴史を視野に入れて、それぞれのシステムを捉える必要があるのです。

そこで、この講座では、視野を広げるための一つの方法として、「メソポタミア紀」という新しい暦を導入することにしました(「メソ紀」と略します)。

紀元は、紀元前3300年、メソポタミアにおいて文字が生まれたとされる年とします(年代は諸説あります)。

 メソ紀   元年  楔形文字誕生
 メソ紀 2000年    中国で文字誕生
 メソ紀 3300年    イエス生誕
 メソ紀 3870年  ムハンマド生誕
 メソ紀 4817年  ルター 95箇条の論題(宗教改革開始)
 メソ紀 4940年  イギリス革命開始
 メソ紀 5214年  第一次世界大戦勃発
 メソ紀 5245年  第二次世界大戦終了

私がこれを書いている西暦2022年はメソ紀5322年となります(本文では西暦を併記します)。

多様な家族システムが織りなす歴史を理解するには、6000年を視野に入れることが欠かせない

(2)家族システム、イデオロギー、国家の対応関係(標準系列)

(表1)をご覧ください。進化の方向は上から下です。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

出発点は、原初的な核家族です。文字や国家の誕生以前、社会の基礎単位は夫婦(+子供)であったと考えられています。

この家族の特色は何よりも柔軟性にあります。子どもが成人した後も親子は必要があれば同居し、同居先は母方でも父方でも、兄弟でも構わない。規則がないのです。

この家族システムは、イデオロギーの未分化状態(まだ生まれていない状態)に対応しています。対応する価値を探せば「自由」が一番近いと言えますが、イデオロギーとしての「自由」とは異なる、野放図な自由です。

関係性を律する規則を持たないこの家族システムは、国家を生み出すことはありません。

原初的核家族からの最初の進化は、通常、直系家族をもたらします(メカニズムは次回ご紹介します)。

直系家族システムの誕生とは、一言で言うと、「世代をつなぐ一本の線」の誕生です。一本の縦のラインが親と子をつなぐことで「権威」が発生し、兄弟姉妹から一人だけが跡継ぎとなることで「不平等」が生まれる。そういう構造です。

歴史は、関係性が一本の線で構造化されたこの段階で、小規模の国家が可能になることを教えます。しかし、縦のラインが林立するこのシステムの上に、それほど大きな国家が形成されることはありません。

メソポタミアや中国といった文明の中心地では、直系家族は、まもなく、共同体家族に進化を遂げました。

親世代と子の世代をつなぐ縦のライン(権威)を直系家族から受け継ぎ、下半分に子どもたちを対称に配置する(平等)騎馬戦隊構造を持つこのシステムは、その基層の上に、統一国家や「帝国」の誕生を可能にします。そして、システムの強化とともに、帝国の版図は広がっていくのです。

*この講座では、帝国を「一つのシステムによって多民族・多言語・多宗教の人々を統合する版図の大きな国家」と定義します。
(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(講談社学術文庫、2016年)の定義を参考にしました。ただし、同書は「一つのシステム」ではなく「大きな原理」です)。

こうしてみると、家族システムの「進化」の過程とは、「権威」という価値が生まれ、強化されていく過程であることが分かります。「権威」の発生により、初めて、文字が生まれ、国家が生まれる。そして「権威」の強化によって初めて、「帝国」が可能になるのです。

近代主義の洗礼を受けている私たちに、「権威」や「帝国」を価値として認めるのは難しいかもしれません。しかし、メソポタミアに暮らしていた人々にとって、「帝国」の誕生は、福音以外の何ものでもなかったはずです。

多様な民族が行き交い、さまざまな宗教や言語、文化を生んだこの地域では、中央の権力が強まり、帝国の版図が広がることは、その分だけ、庶民の生活が安定し、平和になることを意味します。中央の統制が効く範囲が広ければ広いほど、交通の自由と安全が確保される範囲が広がり、異民族による侵略や略奪の危険性は減るわけですから。

それを可能にしたものが、共同体家族の「権威」であり、権威を頂く人々の「平等」にほかなりません。後でご紹介するように、ローマ帝国やオスマン帝国の長い平和も、共同体家族なしにはあり得なかったといえるのです。

さて、ここまでが、家族システムの「進化」の基本です。‥‥あれ、何か足りませんか。

はい、そうです。ここには、近代の主役であるイギリス、アメリカなどの絶対核家族システムが入っていません。

なぜかといいますと、実は、絶対核家族(平等主義核家族もこの点は大体同じです)の発生は、通常の進化系列からは外れた、ちょっと特殊なものなのです。

*以下、絶対核家族と平等核家族を合わせて「純粋核家族」の語を用いることがあります(トッドが「起源」で用いている用語です)。「ひたすら柔軟な原初的核家族」とは異なり、「核家族であることをイデオロギー化した核家族」(イデオロギーとして純化した核家族)という意味です。 

家族システムの進化の基本は、原初的核家族→直系家族→共同体家族。
権威が誕生し強化されていく過程である

純粋核家族の発生は、通常の進化系列から外れた特殊な事例

(3)家族システム、イデオロギー、国家の対応関係(+純粋核家族)

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
純粋核家族(+直系家族)自由非平等(絶対)
平等(平等)
国民国家
(表2)家族システムの「進化」と国家+α

先ほどご説明した通り、イデオロギーの未分化状態である原初的核家族は、国家を生み出しません。

しかし、彼らがバラバラに暮らしているところに、直系家族がやってきて、国を作ったとすると、どうなるか。

核家族は国家的統合の核を作り出さないので、直系家族の国家との覇権争いや小国の分立状態を生じさせることはありません。彼らは単に、直系家族が作る領邦(小国)の領民になるわけです。

イデオロギーを持たなかった彼らは、しかし、初めて直系家族が持つ価値体系に触れ、それに対抗する形で、自らの価値体系を作り出すのです。

直系家族の支配下に入った原初的核家族が、
直系家族に対抗する形で作り出したのが絶対核家族システム

〔純粋核家族の国家〕 

純粋核家族に対応する国家は、国民国家(=近代国家)である、と私は理解しています。

以下のような「国民国家」の特徴には、明らかに、「直系家族によって国家の形を与えられた純粋核家族の国家」という特殊性が反映されていると考えられるからです。

(1)手頃なサイズ 直系家族が作る小国家に核家族が組み込まれることで、都市国家や領邦国家ほど小さくないが「帝国」ほど大きくない、手頃なサイズが実現

(2)「国民」概念 「直系家族+純粋核家族」が作る国家は(細かいことを言うと)単一民族ではないが、あえて「多民族」というほど、言語や宗教、文化の多様性があるわけでもない。「国民」概念にちょうどよくフィットする

(3)反権威イデオロギー 近代国家の最大の特徴である「国家権力への敵意の構造化」(「権力からの自由」としての基本的人権、権力を拘束するための法の支配)は、「支配を受ける側」のイデオロギーを構造化したものとして理解可能

現代の「西側」諸国の価値観は、基本的に、純粋核家族のイデオロギーを反映しています。「国民国家」のスタンダードもそうです。

しかし、それは果たして、普遍性を持ちうるのか。将来にわたって、世界の中心に位置し続けることができるものなのか。

そのようなことも考えながら、続きをお読みいただければと思います。

「国民国家」(近代国家)の基礎にあるのは、純粋核家族のイデオロギー(≒ 支配層への敵意)

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家族システムについてのよくある誤解

 

*この文章は、家族システムの概念に関する「やや立ち入った解説」です。概要についてはこちらをご覧ください。

「家族システムとは?」

家族システムの分析は、20世紀初頭から、非西欧、非先進社会の成り立ちを知るための人類学研究として開始されました(人類学では「親族構造」「親族システム」と総称されることが多いようです)。

20世紀中頃になると、歴史学もこれを用いるようになり、「歴史家」エマニュエル・トッドも、その流れの中で、家族構造の研究をすることになったわけですが、彼が家族システムと現代のイデオロギーとの関連性を「発見」するに及び、改めて、本質的な問いが浮かび上がってくることとなりました。

「家族システムって、何なんだ?」

人々の絆の中心に家族関係、親族関係がある未開社会では、家族システムの分析がイコール社会システムの分析になるのは当然です。

しかし、現代はそうではありませんね。古い家族の構造は壊れ、ほとんどの国で、現実の家族は(少なくとも都市部では)核家族がスタンダードになりました。

それでもなお、家族システムが機能しているとしたら、家族システムとは、一体、何なのでしょうか?

家族システムは「家族」のシステムではない

トッドの理論に対するよくある誤解の一つに、「トッドの理論は家族を重視している」というものがあります。当初の「保守反動」といった反発の背景には、おそらく、この誤解があったと考えられます。

私も、日常会話の延長で軽くトッドの理論に触れたときなどに、「やっぱり、家族は大事だから、そういう影響力があっても当然だよね」といった感想を受け取ることがあります。

しかし、トッドのいう「家族システム」は、現実の家族のあり様を指しているわけではない。これは重要な点です。

「家庭生活のあり方が社会のイデオロギーを決定している」とか、「過去の親族関係や家庭生活の記憶が社会のイデオロギーとなって残っている」とか、そういうことを言っているのではないのです。

では、何なのか。

人類は、配偶者を得て、子供を作り、育てる。食料を確保し、外敵から身を守り、生き延びるために、協力し合う。そのようなやり方で、種をつないでいく生物です。

そのために、人類が形成する相互扶助のネットワークが「社会」であるとすると、家族システムは、その「社会」の設計図に相当する機能を果たすものといえます。人間と人間、世代と世代をどうつなぐかを定義する。そして、そのことによって、社会の基層に一定の価値観を埋め込む。それが家族システムである、といってよいでしょう。(家族システムについての講師(私)の解釈については、こちらもご覧ください)。

近代化によって伝統的な家族が壊れても、家族システムは変わらず、社会の基盤を支え続けます。だからこそ、近代化後の社会に住む私たちは、イデオロギーという形で、それを感知することができるのです。

農村の家族によって「人類学システム」を可視化する

トッドが「日本の家族システムは直系家族である」というとき、その判断の根拠とされているのは、近代化以前の日本の家族に関するデータです。他の地域の場合も、彼は、農村時代の家族についての情報を集めることで、その社会の家族システムを検知するという手法を用います。

これが「家族を重視する理論である」という誤解のもとになっているわけですね。しかし、彼が伝統的家族を研究対象とするのは、伝統的家族を重視しているからではありません。

彼が、現代ではなく農村時代を研究対象とするのは、単に、農村という場所が、社会の設計図(家族システム)が一番見えやすく、分析しやすい場所であるからです。

「‥‥農村世界を観察現場にするという選択は、ヨーロッパのさまざまな地域の家族制度の中から、平等と不平等、権威と自由主義という諸価値を同一の方法で突きとめるための単純な指標を決定しなければならないという、技術的必要からなされたものである。」

新ヨーロッパ大全 I 47頁

近代化以前、社会の中心にあり、相互扶助のすべての機能を担っていたのは、家族であり、親族のネットワークでした。人々をどう繋ぎ、社会をどう組織するか、その基礎となる価値観は、すべて、家族のつながりの中に表れていたわけです。

一方、現代の多くの社会では、人類の生存、生殖、種の繁栄に必要な相互扶助機能の中心には、国家があり、国家の枠に包摂された様々な組織があります。

しかし、トッドが農村世界を観察して検知する「非物質的だが不動の諸価値の総体」(前掲書47頁)としての家族システムは、こうした目に見える社会形態の変化にかかわらず、現代の社会においても「設計図」として機能し続けているようなのです。

こうなると、「家族システム」という名称が、ややミスリーディングだという感じすらしてきます。

実際、トッドも、つぎのように述べているのです。

「フランス、アメリカ合衆国、イングランド、ドイツ、もしくは日本のような、同じような発展水準を見せる諸社会の間に、風俗慣習の差異が存続しているのはなぜかを説明するために、必ずやいつの日か、家族システムという観念を廃して、代わりに人類学的システムという観念を採用することが必要になるであろう。」

『デモクラシー以後』 277頁

私は、家族システムとして特定された人類学的差異が、現代においても変わらず作用していることを確信しています。かつて現実の家族を統率していたシステムは、現在、社会を統率しているシステムと同じものであり、「人類学的システム」と呼ぶに相応しいものであると確信しています。

しかし、ここでは、「厳密に実証できないことはあまり価値がないのであり、結論を出すには、今後の歴史の推移を待たなければならないだろう」(同前)というトッドの研究者としての慎重な立場を尊重し、「家族システム」の語を使い続けることにしようと思います(そういいつつ、トッドも「人類学」の語を使っている場合があるので、引用部分では混ざります)。

家族システムは、無意識のレベルで作用する

すでに何度か述べたことですが、家族システムは、社会の集合的心性の無意識レベルで作用し、「上部構造」をもっとも根本的なところで規定しています。

トッド自身の言葉で説明してもらいましょう。

「表層部には、意識的なもの、つまり経済〔等〕がある。」

「そのすぐ下には、教育上の階層組織とその動きによって規定される社会的下意識とも言うべきものが見出されるが、これは、経済より強い決定作用を発揮する。大衆識字化は、社会に平等主義的下意識を付与し、民主制を招来した。今日では新たな教育上の階層組織が形成され、不平等主義的下意識を育む傾向を見せている。」

「さらにその下に行くと、全く無意識的な深層部となるが、そこでは人類学的システムが作用している。このシステムは、過去に遡って、昔の家族構造を探ることによって把握することができるが、今日では拡散している。この人類学的システムは、変化することがあり得るのであり、その変化は、決定的だが非常に制御不可能である。」

デモクラシー以後 278頁

エマニュエル・トッドの道具箱ー家族システム、教育、人口動態」でご説明したように、家族システムは、現代の社会の政治的イデオロギー、経済システム、教育のあり方、人口の再生産、差別の態様など、あらゆる事柄を説明します。

そうすると、次に来る問いは、当然、「家族システムは、変化しないの?」というものでしょう。

家族システムの変化ー予告編

「道具箱」では、社会の「進歩」の動因として、教育が重要であることを述べました。家族システムについては、「核家族から共同体家族へ発展した」「核家族がもっとも原始的なシステムである」旨を、比較的あっさりと記述していました。

しかし、それほど本源的なものである家族システムが、もし変化するのだとしたら、そして、その変化を跡付けることができるのだとしたら、それこそが、歴史の流れを、根底から説明するものになるはずではないでしょうか。

私はしばらくの間、直系家族日本と欧米核家族地域の人類学的相違を理解し、咀嚼することでいっぱいいっぱいで(それだけで満足だったという面もあります)、メソポタミアおよび中国における共同体家族の誕生が、世界の歴史にとってどのように重要か、といったことまでは、理解が行き届いていませんでした。

しかし、最近、いくつかの偶然のおかげで、急にスイッチが切り替わり、改めて『家族システムの起源』を読んだところ、頭の中に大変スケールの大きい歴史像が描かれた上、その先に、現在の様々な事象がつながっている様が、ありありと理解できるようになりました。

興奮を呼ぶ(?)その内容は、次回、「家族システムの変遷―国家とイデオロギーの世界史―」で、ご紹介させていただきます。

 

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エマニュエル・トッドの道具箱
ー家族システム、教育、人口動態

はじめに

エマニュエル・トッドは1976年の著書でソ連崩壊(1991年)を予言して、その名を世に知られるようになりました。

予言はその後も続き、2007年の著書では「アラブの春」(2009年~)を、2014年のインタビューではイギリスのEU離脱(国民投票は2016年)を、2002年以降の一連の著書では金融危機(2008年)からトランプ大統領選出に至るアメリカの危機を予測しています。

トッドは好んで自らを「ブリコラージュ屋」と称します。「ブリコラージュ(bricolage)」の原義は「日曜大工」。素人がガラクタでも何でも使って器用に物を作る、といったニュアンスの言葉です。

一見、自身を卑下するようなこの言い回しには、大袈裟な理論体系を打ち立てながら現実に触れることができないアカデミズムへの皮肉が込められているのだと私は理解しています。

実際、トッドが世界を観察するのに使っている道具は、比較的簡単なものです(以下に「予言」の根拠をまとめました)。しかし、その簡素な道具立てから驚きの「予言」が生まれ、真実に触れる命題の数々が発掘されるのですから、私たちも是非それを手に入れて使ってみたいではないですか。

予想した事象根拠とした指標
ソ連崩壊人口動態(乳児死亡率の上昇)
アラブの春識字率、人口動態(出生率低下)
BREXIT家族システム
アメリカの危機人口動態(白人45~54歳の死亡率上昇)

今回は、トッドの理論の概要をお伝えしつつ、道具箱の中身を一挙にご紹介させていただきます。

 

概要3種の道具

トッドの社会科学に対する功績は、以下の3点にまとめることができます。(トッドの功績についてはこちらもぜひご覧ください。)

①家族システムとイデオロギーの相関関係を発見・解明した。
②教育の進展を基礎とした発展モデルを構築した。
③家族システムの発展過程を跡付け、人間理性を中心とした啓蒙主義的歴史観や経済を中心とする歴史観に代わる人類学的歴史観を構築した。

こう書くと、体系的に物を考える思想家の仕事のようですが、実際はたぶんこんな感じです。

「家族システムの威力、すごくない?」

『第三惑星』執筆時

「これに識字率と人口動態のデータを組み合わせたら、近代化の過程が手にとるように分かるじゃないか」
    

『世界の幼少期』執筆時

「家族システムの分布は偶然かと思ったが違うのか。共同体家族が「革新」で、核家族が原型? えっ? これって、全世界史の流れを書き換える大発見かも‥」

「新人類史序説」(『世界像革命』所収)から『家族システムの起源』

と、このようにして、トッドがその価値を発見し、使用法を確立していったのが、家族システム、教育、人口動態 の三種類のデータです。

この3つは、大まかに言うと下の図のような感じで、社会の診断に役立てられます。

 

上記の「予言」についていうと、トッドは、人口動態のデータ(乳児死亡率・成人死亡率の上昇)を見て、ソ連、アメリカの社会の健全性が損なわれていることを察知しました。識字率の上昇人口動態(出生率の低下)からアラブの近代化を確認し、イギリスの家族システム(絶対核家族)が、EUの多数および中核を占めるシステム(ドイツなどの直系家族)と異なることから「体質的に耐えられない」と判断したのです。

 

家族システム

(1)家族システムとは何か

トッド自身は定義をしていませんが、「概要」としてお伝えする都合上、私の言葉で説明させていただきます。

人類は、配偶者を得て、子供を作り、育て、知恵なり財産なりの価値あるものを伝承することで、種として生存します。この一連の過程、つまり、人類の婚姻と世代継起のあり方に関する慣習的なルールの体系、それが家族システムである、とお考えください。

人類学による家族システムの研究は主に未開社会の研究で発達したものですが、トッドはこれを近代社会の分析に応用して大きな成果を上げました。彼の「ブリコラージュ」の最高傑作の一つといえます。

なお、以下でいう「家族システム」」は、近代化する前の社会で観察されたシステムであることをお断りしておきます。家族システムは人類の社会を統合するシステムであり、現代でも機能を続けていると考えられるのですが、近代化後の社会ではその機能の中心は家族から公共空間に移行し、家族という場での観察は難しくなっているからです。

 

(2)家族システムとイデオロギー

①家族システムの定義

家族システムとイデオロギーの相関関係を示す際に用いられる主な項目は親子関係と兄弟関係の2つです。それぞれが2つに分かれ、4種の家族システムを定義します。

 

表現される価値判断基準
親子関係自由 / 権威同居の規則(三世代同居の有無)
兄弟関係平等 / 非平等相続慣習

ルールは次の通りです。

1)親子関係は社会の縦の関係を規律する

  • 自由主義的か権威主義的かの二択
  • 判断基準は同居の規則
    • 親子の分離(子どもが成人すると直ちに別世帯を作る)→自由主義
    • 親子の同居(成人後も親世帯にとどまる)→権威主義

2)兄弟関係は、社会の横の関係を規律する

  • 平等か非平等(不平等)か
  • 判断基準は相続慣習
    • 兄弟に平等に遺産を配分 → 平等主義
    • 長子相続、末子相続など特定の一人を優遇 → 不平等(差異を固定)
    • ルールが存在せず、親が恣意的に決定 → 非平等(平等に無関心)

 

親子関係兄弟関係
①絶対核家族(英、米)自由非平等
②平等主義核家族(仏、西)自由平等
③直系家族(日、韓、独)権威不平等
④共同体家族(アラブ、中、露)権威平等

②4つの家族システム

1) 絶対核家族:自由 (イギリス他のアングロサクソン諸国、オランダ、デンマーク等)

子どもたちは早期に独立し(親子関係が自由主義的)、厳密な相続規範がなく遺言が使用される(兄弟間の平等に無関心)。親子の自由、兄弟間の連帯の不存在によって、家族システムの中でもっとも個人主義的。

2) 平等主義核家族:自由と平等 (フランス、スペイン、南米問等)

親子関係の自由は絶対核家族と同様だが、厳密な相続規則が兄弟の平等を保証している。成人後も(少なくとも親が死ぬまでは)兄弟間の関係が続く分、絶対核家族より個人主義の度合いが低い。

3) 直系家族:権威と不平等 (日本、韓国、ドイツ、スウェーデン等)

跡取りとなる子(多くは長男だが末子の場合も女子の場合もある)は結婚しても親と同居(長期に渡り親の権威の下に置かれる)。土地や主要な財産は全て跡取りのものであり、他の兄弟姉妹は下位に位置付けられる(安定的な継承のために兄弟関係の不平等が規範となる)。家系の継続を眼目とするシステム。

4) 共同体家族:権威と平等 (アラブ諸国、ロシア、中国、ベトナム等)

親子間の権威主義と兄弟の平等の組合わせ。兄弟は結婚後も全員妻とともに親と同居する。兄弟世帯の同居による横の広がりと三世代同居の縦の広がりによる大規模な家族構造の頂点に父親が君臨する形であり、親の権威は絶大。兄弟に序列がないため、父親の死が直ちに集団の危機につながる不安定性を持つ。

*二種類の共同体家族

共同体家族は、アラブ圏と中国・ロシアの家族システムですが、両者の間には重要な違いがあります。婚姻制度です。

中国・ロシアは多くの国と同様に外婚制(いとこ婚を認めない)です(共産主義はこちらに対応します)。これに対し、アラブ圏ではいとこ同士の結婚が好んで行われます。この内婚の規則が、共同体家族の苛烈さを和らげる機能を果たしているとトッドは指摘しています。

一つは、大規模家族の頂点に君臨する父親の絶大な権威の性質です。アラブ的内婚には「理想」があり、それは父の兄弟の娘(叔父方のいとこ)との結婚です。このような理想の存在は、子どもの結婚という重大事を決めるのが父親個人というよりは慣習であることを示しています。つまり、内婚制共同体家族では、強大な権威の源は父親の人格というより「慣習」である。その分だけ、現実の父親(リーダー)が行使する権威の力は緩和されているといえます。

もう一つは女性の立場です。共同体家族では(ただでさえ地位の低い)女性は男性優位の大家族の中に後から一人で入っていかなければならないという厳しい立場にあります。しかし、いとこ同士なら、女性は子どもの頃からよく知っている叔父の家に嫁ぐわけで、温かみのある家族の絆のうちにとどまることができる。同じ大家族でも、雰囲気はずいぶんと異なるのです。

権威の源が慣習であること、女性を家族の絆から排除しない仕組みは、集団の安定性にも寄与しているように思えます。その意味では、家族システムの「発達」の頂点といえるのは、内婚制共同体家族の方なのかもしれません。

(3)家族システムの使い道

家族システムは、教育の進展や人口動態という他の指標と合わせて使うことで絶大な威力を発揮しますが、単体でもかなりの役をこなします。

例えば、アメリカは共産主義の拡大を防ぐという名目で数多くの戦争を戦いました。ベトナム戦争のときには、ベトナムだけでなく、カンボジアやラオスにまで戦線を広げ大量の爆弾を投下しましたが、家族システムを見れば、ベトナムの共産主義化が必然的である一方で、カンボジアやラオスに共産主義が定着するおそれはないということが分かります(北ベトナムは外婚制共同体家族、カンボジア、ラオスは核家族です)。

また、バイデン大統領は、「自由と専制主義の戦い」を強調し、「民主主義サミット」などというものまで開催して自由主義陣営の拡大を図っています。しかし、アメリカがどれだけ頑張っても、ロシアや中国が権威主義的な体制を放棄することはないし、中東が、やはりある種の権威主義的システムを保ち続けるであろうことも間違いないと思われます。

ロシアや中国(程度の差はあれ日本もですが)が権威的な社会しか作ることができないのは、アメリカやイギリスが自由な社会しか作れないのと全く同じ理由です。だとしたら、私たちにできることは一つしかない。異なる価値観の存在を受け入れることです。

人間は社会に属さなければ生きられない動物です。したがって、私たちは、自分の所属する社会の「体質」を引き受けるしかないし、世界に多様な家族システムがある以上、世界の多様性を引き受けるしかない。自分の社会を愛し、誇りに思うのは自然なことですが、それは同時に、他のシステムの価値観を尊重しなければならないということでもあるのです。

 

キーワード教育人口の再生産民主主義の形経済差別
絶対核家族自由、個人主義、社会的移動△(規律のなさ+女性の地位)リベラルデモクラシー(政権交代型)超自由主義、流動性、革新、短期的利益差異に無頓着(差別を温存)
平等主義核家族自由と平等、個人主義、連帯△(規律の無さ+女性の地位)リベラルデモクラシー平等志向の自由主義差異を否認(一時的に激しい差別)
直系家族秩序、規律、序列、家族的集団主義、歴史意識○(規律+女性への一定の敬意)×(教育熱心+女性の抑圧)安定志向のデモクラシー(政権交代稀)保護主義、継続性、技術の完成、高品質、貯蓄差異による秩序(差別を創出・固定化)
共同体家族統制、強い権威と人民の平等△〜○(規律+女性蔑視〜規律+女性の地位(ロシア))権力集中型デモクラシー中央による統制差異を否認(一時的に激しい差別、

*なお、市民間の平等の指標である「兄弟」は、男の兄弟だけを指す場合もあるので、性差別の指標にはなりません。核家族から共同体家族に至る過程は、父親の権威を高める過程であると同時に、体系的に女性の地位を下げる過程です。したがって性差別の指標となるのは親子関係の方であることになります(ロシアの例外は北欧の影響だということです)。

(4)家族システムの原型ー未分化の核家族と絶対核家族

 

①核家族から共同体家族へ

現存する(あるいは比較的最近まで現存した)狩猟採集民族集団の研究によって、家族システムの原型がどんなものであったかはおおよそ分かっています。

基礎的な単位は婚姻したカップルの二人。つまり、核家族です。この原初的な核家族の周りに、緩やかにつながる親族集団がある、というのが、原初的な集団の基本のあり方だそうです。

トッドの研究は、家族システムは、このような核家族から、直系家族等を経て、最も発達した形態である共同体家族に展開していったことを明らかにしています(『家族システムの起源』)。

つまり、もっとも近代的で発達した家族システムであると考えられている核家族が、実はもっとも原始的なシステムであった。この逆説こそが、単純な西欧中心主義的な進歩史観に代わる新しい歴史観の基礎となる、重要な命題です。

とはいえ、イギリスの核家族と原初的な核家族が同じものなのかといえば、そうではありません。トッドの著書でもあまり丁寧な説明はされていないのですが、家族システムの理論を使いこなすためには重要な点なので、最初に説明をさせていただきます。

 

②未分化の核家族と絶対核家族柔軟性と形式性

未分化の核家族と絶対核家族(および平等主義核家族)は、基本単位が夫婦であること、女性のステータスが高いこと、(個人と集団の)移動性が高いことなどの共通の特徴を持ちます。したがって「自由」のイデオロギーは共通です。

違いは「型」の有無にあります。

未分化の核家族の場合、基本の単位は夫婦なのですが、カップルは二人で暮らして子どもを育てることもあるし、妻の家族の誰か、あるいは夫の家族の誰かと同居する場合もある。状況に応じていかようにもなる柔軟性、「型」の不存在こそが、「未分化の核家族」とも呼ばれる原初的家族の特徴です。

これに対し、絶対核家族の方は、核家族であることを「絶対」、つまりルールとします。もちろん現実には例外がありますが、絶対核家族には、子どもは成人すれば家を出て、別世帯を営む「べき」という規範があり、できるだけこれを守ろうとする。「親子関係の自由」は彼らにとっての規範であり、相互に拘束する自由はないのです。

イギリスの絶対核家族が確立したのは16世紀から17世紀頃、つまり、特別に「古い」というわけではありません。絶対核家族は、貴族階級に定着しつつあった直系家族(貴族階級はその地位や財産を安定的に継承するために直系家族を営む理由があります)への反動としてでき上がったもので、だからこそ「こうでなければならない」という形式性があるのです。

③「柔軟」の弱点秩序も重要だ

イギリスがいち早く近代化の道を歩み始めたのは、核家族というシステムの(直系家族や共同体家族と比較した場合の)柔軟性と関係があります。では、家族システムは柔軟なら柔軟なほどよいのかというと、少なくとも現代の社会のあり方を前提とする限り、そうとはいえません。

世界には、未分化な核家族システムを持つ地域も存在していますが、それらの地域には共通の弱点が観察されています。未分化な核家族システムは、おそらくその過度の柔軟性のゆえに、安定的な中央集権国家を機能させることができないようなのです。

例えば、ベルギー、そしてポーランド、ルーマニア、ウクライナという「中間ヨーロッパ」(トッドが用いる言葉ですが、西と東の「中間」という意味でしょう)。西欧中心主義的な価値観は自由を絶対視しますが、未分化の核家族システムのあり方は、秩序の重要性を教えてくれます。西側諸国がウクライナの自由独立を謳いあげても、同国の安定にロシアが貢献してきた事実を否定することはできない(ウクライナはソ連解体による独立後に大幅に人口を減らし、政治的な一体性も危うくなっています)。ウクライナとロシアの問題を考えるには、この辺りのことも視野にいれる必要があると思われます。

 

教育

(1)ストーンの法則

男性識字率50% → 民主化革命(ストーンの法則)

エマニュエル・トッドは、普遍的な(「家族システム等を問わない」という意味です)社会の進歩の指標として、教育を重視します。「経済が先ではない。教育が先であり、経済の発展はその結果である」というのが、彼の歴史観の最重要命題の一つです。

「トッド・クロニクル(2・完)」でご紹介したように、トッドは、男性識字率の上昇と近代化革命の関連性についてのローレンス・ストーンの指摘を定式化し、「ストーンの法則」と名づけました。

各地域の識字率上昇と近代化過程の関連性は後でより詳しく紹介しますが、代表的な近代化革命および産業革命の開始時期との相関はこのような感じです。

 

 

(2)近代化のモデル

トッドは「ストーンの法則」を出発点として、近代化のモデル理論を確立します。このようなものです。

 

なお、近代化の過程には、もう一つ、付随するものがあります。トッドが「移行期危機」と呼ぶ現象です。これについては、彼の雄弁な説明を聞きましょう。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。別の言い方をするなら、識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる。この過程の典型的な例を、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命は供給している。」

エマニュエル・トッド  ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。

なお、近代化の過程が完了し社会が安定するまでには100年から数百年の時間がかかります。そして、移行期における住民の不安定化の度合いは、強固な権威構造を持つ「発展した」家族システムを持つ社会ではより強いと考えられます。

絶対核家族イングランドの革命でも大勢の人が死にましたが、「平等主義」フランスの革命はより激しく凄惨でした。ドイツの直系家族は早期の識字化にもかかわらず長期に渡って近代化に抵抗し、移行期にはホロコーストの惨劇をもたらしました。ロシア革命や文化大革命(中国)の死者数は諸説あるものの間違いなく最大級でした。

*興味深いことに、家族システムは危機の態様にも影響します。平等の観念を持たないシステムは異民族を殺戮し(とりわけ直系家族はジェノサイドに走る傾向があり)、平等主義は無差別に粛清するのです。

現在、シリアでは内戦が続き、ミャンマーでも軍事政権による政権奪取を機に内戦に近い状態が生じていると言われています。「一体何なの?」と疑問に思った時、識字率や出生率の推移を調べると(英語の大まかな情報であればインターネット上で非常に容易に入手できます)、彼らは今まさに近代化の過程にあることがわかる。これは移行期危機であり、全ての先進国がくぐり抜けてきた過程を、彼らもまた通り抜けているだけなのだということがわかるのです。  

近代化の過程には「移行期危機」が付随し、大勢の人が死ぬ

 

(3)人口学との接合:人口転換論、ユースバルジ論

①近代化モデル

トッドの近代化モデルも、ブリコラージュの産物といえます。彼が使った道具の一つはストーンの法則、もう一つは、人口転換論(demographic transition)という、人口学が提示する近代化モデルです。

「人口転換」とは、近代化を経て、社会が「多産多死」社会から「少産少死」社会に移行する現象のことをいいます。

人口に着目すると、近代化の過程は、通常以下のように進みます。

多産多死(前近代:高い出生率 + 高い死亡率)
  ↓
死亡率低下(高出生率+低死亡率となり人口が増大。ときに「人口爆発」といわれる事態となる)
  ↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
  ↓
少産少死(人口が安定し、近代化完了)

 

トッドのモデルは、識字率上昇を決定的徴候と見るストーンの法則の中に人口転換モデルを組み込み、死亡率低下と出生率低下の時差の原因を識字率上昇時期の男女差によって説明することで、人口転換論をより総合的(かつ、歴史観として見るとより本質に即した)な近代化モデルに作り替えたものと見ることができます。

②移行期危機

人口学の議論の中には、「移行期危機」に対応すると考えられるものもあります。「ユースバルジ」の議論です。

人口学の研究者は、内戦における虐殺や革命期の大粛清といった暴力が若者人口の極大期に発生していることを指摘し「ユースバルジ」と名づけました(日本語でいう(若者の)「団塊」と同趣旨)。

近代化の過程で発生する「人口爆発」は、通常「若年人口の爆発」という形を取ります(おそらく死亡率低下の際にもっとも顕著に下がるのが乳児死亡率であるため)。「ユースバルジ」は、近代化に必ず付随する現象ということになりますので、トッドがこれを参考にして「移行期危機」の理論を立てたと考えることは一応可能です。

しかし、私は、トッドがこれを参考にして理論を組み立てたとは考えていません。おそらく、トッドは識字率から出発し、人口学は人口動態から出発して、両者がほぼ同様の現象を特定するに至った、ということなのではないかと思います。

トッドは、『第三惑星』(1983年)の時点で、近代化への移行期における精神の動揺がナチスドイツやスターリン主義をもたらしたことを明確に述べています。

1984年(『世界の幼少期』)には、識字率上昇に出生率を組み込んだ近代化のモデルを構築し、識字率上昇との関係で移行期の危機に言及しています。つまり、この段階ですでに「移行期危機の理論」は確立しているのです。

一方、政治学や人口学が「ユースバルジ」への言及を始めるのは1995年以降(政治学者Gary Fullerが民族紛争における残虐行為の分析という文脈で「ユースバルジ」の語を用いたのが最初という。https://second.wiki/wiki/youth_bulge)なのです。

ただし、「ユースバルジ」の理論にはトッドの理論を補う利点があります。識字率上昇から近代化を経て社会が安定に達するまでにかかる時間は数百年に及びます。「ユースバルジ」は、その期間内のどの時点で危機が発生するかを説明するのです。トッドの「ブリコラージュ」精神に共鳴する私としては、移行期危機の理論の補完的理論として「ユースバルジ」を組み合わせて使うのがいいのではないか、と考えています(実際に使ってみた事例として、こちら(「昭和の戦争について」)をご参照ください)。

 

人口動態

トッドは、自分の言っていることは人口学者にとっては常識であり、とくに独創的なことを述べているわけではない、というようなことをよく言います。

しかし、人口学の入門書や教科書を見てみても、人口転換の記載はあっても、識字率の上昇が近代化の指標であるとか、乳児死亡率の増大は社会の後退を告げる徴候である等の記述はありません。

つねに人口という尺度で物を見ている人々にとっては、社会の何らかの変化が人口動態に現れるということは「常識」なのかもしれませんが、私がちらと調べた限りでは、判断基準として確立され、共有されているということはなさそうです。そのような人口動態の用い方も、トッドによる「ブリコラージュ」なのかもしれません。

トッド自身による体系的な解説もないので、残念ながら、人口動態に関する事項を「確かな道具」として提示することはできません。しかし、そういいながら、私自身は、トッドを読むようになって以来、そのときどきの関心に応じて人口動態を調べ、ちょっとした見立てに役立てているのです。

というわけで、ここでは、そのいくつか(出生率はもちろん重要ですがここではそれ以外のもの)を、なるべくトッド自身の言葉に依拠しながら、共有させていただこうと思います(彼の言葉がないところは私が適当に書いているのだとご理解ください)。

①乳児死亡率(1歳未満の乳児の死亡率)

トッドは、乳児死亡率を社会システムの健全性の指標として重視しています。

乳児死亡率はまず近代化の際に(識字率上昇に伴って)低下します。社会がうまくいっていれば、乳児死亡率は下がるところまで下がり、低い数値が維持される。再度上昇傾向を見せた場合、それは社会が機能不全に陥っている証拠です。

「1976年に、私はソ連で乳児死亡率が再上昇しつつあることを発見しました。

その現象はソ連の当局者たちを相当面食らわせたらしく、当時彼らは最新の統計を発表するのをやめました。というのも、乳児死亡率の再上昇は社会システムの一般的劣化の証拠なのです。私はそこから、ソビエト体制の崩壊が間近だという結論を引き出したのです。」

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』81頁

「乳児死亡率は、おそらく現実の社会状態の最も重要な指標である」とトッドは言います。この数値は、医療的・福祉的ケアのシステム、社会のインフラ、母子に与えられる食料や住居、女性の教育水準など、社会の重要な機能のすべてが関わる、総合的な指標であるためです。

乳児死亡率は現実の社会状態を表す最も重要な指標である

 

乳児死亡率について詳しくはこちらをご覧ください

②その他死亡率

乳児死亡率が「総合点」だとして、それ以外の死亡率にも社会の何かが現れます。

アメリカでは1999年から2013年に45歳-54歳の白人男性の死亡率が増加しました(このようなことは「これまで世界のどこの先進国でも起こったことがない現象」だそうです)。その主な原因は薬物、アルコール中毒、自殺でした。トッドはここから、グローバリズムがアメリカの中産階級の生活に破壊的な影響を及ぼしている徴候を読み取りました(この話は別途詳しく扱う予定です)。

トッドは「ソビエト崩壊における「乳児死亡率の上昇」にあたるのは、トランプ大統領の選出においては、この成人死亡率の上昇である」とも述べています。(Lineages of Modernity, p243)。

③人口

人口の増減も一般的には社会が機能しているかどうかを表す指標のようです。人口爆発の時期を終えた社会では穏やかに増えていくというのが望ましい状態で、減少は社会の停滞なり、何らかの機能不全の徴候であるといえます。

先進国の中でもとくに日本や韓国、ドイツという直系家族地域は人口の再生産に問題を抱えていて、まもなく減少局面に入ることが予想されています。

これはこれで問題ですが、まだ発展途上であるはずの地域で人口が減少している場合には、何か問題が起こっている徴候と考えられます。

④年齢

平均年齢とか年齢の中央値といった指標も、私はよくチェックするようになりました。単純に、社会の若さとか、活力を示す指標です。先程見た「ユースバルジ」的状況の可能性を判別する簡易的な指標にもなるような気がします(適当ですみません)。

・ ・ ・

なお、人口動態には、社会の状態を表す指標としてきわめて優れている、ということに加え、もう一つ、非常に重要な利点があります。トッド自身に語ってもらいましょう。

「人口学的なデータはきわめて捏造しにくいのです。内的な整合性を持っていますからね。
 ある日、誕生を登録された個々人は、死亡証明書に辿り着くまで、彼らの人生の節目節目で統計に現れてこなければなりません。だからこそソビエト政府は、かつて乳児死亡率が芳しくなくなった時、それを発表するのをやめたのです。
 経済や会計のデータの場合とは全然違うのです。経済や会計のデータは易々と捏造できます。
 何十年もの間、ソビエト政府がやったように、あるいは、ゴールドマン・サックスのエキスパートたちが、ギリシャがユーロ圏に入れるようにその政府会計の証明書を作らなければならなかったときにやったようにね‥‥。」 

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』82頁以下

   

   人口動態データはほぼ捏造できない

おわりに

これがトッドの道具箱のすべてです。「これだけ?」と思われるでしょうか。そうです。これだけです。

この道具たちを使いこなすことで、どれほどのことがわかり、どれほど豊かな世界像を描くことができるのか。

この先の講座で少しずつご紹介させていただきます。

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トッド入門講座

 「異端認定」がもたらしたもの ー 若者の楽観から歴史家の楽観へ

 

世の中から受けた攻撃について、トッドは、率直に、まだ何も成し遂げていない若い研究者だった自分にとっては、「かなり辛いこと」だったと述べています(『問題は英国ではない、EUなのだ』95-97頁)。

いったいこの本が何を引き起こしてしまったのか、まだ若かった私は理解するのに時間がかかった」とも(『エマニュエル・トッドの思考地図』190頁)。

それはそうだろう、と思う一方で、その後の展開を知る者からみると、このとき以降トッドが被り続けた拒否反応や反感が、社会を見るトッドの視線をいっそう研ぎ澄ませ、虚飾なしの真実をつぎつぎと映し出す「魔法の鏡」的に機能したこともじじつであるように思えます。

これ以前、トッドは、「しっかり勉強し、賢ければその努力は報われる」(『エマニュエル・トッドの思考地図』189頁で「母の教訓」として述べている)。つまり努力して、学術的な成果を上げれば(=真実を発見すれば)、社会は正当に評価してくれると考える、純朴な若者であったのです。

彼の「アンガジュマン」の前提にも、社会とりわけエリートに対する素朴な信頼感があったはずです。

しかし、それらは裏切られ続けます。学術界には無視され、曲解される。政治の世界でも、人々は聴く耳を持たないか、理解を示す人々がいても現実は何も変わらない。そのような経験が、何度も何度も、何度も何度も、繰り返されることによって、彼は、自らが発見した事実の重みを、より深く理解するようになっただろうと思います。

フランスやイギリスでの人々の反応を見て、トッドは、明らかな証拠とともに提示された自らの仮説を拒否しているのが、彼らの知性ではなく、核家族システムに由来する「自由」の価値観であったり、アカデミアのグループシンク(集団浅慮)であることを知ったはずです。EUの通貨統合、反イスラム主義、自由主義経済への幻想と闘ってみれば、一人一人の漠然とした思い込みが集まって集団的心性となったときの、その岩盤のような強さを思い知ったはずです。このようにして、トッドは、人間の集合的心性、つまり、社会というもののままならなさを、身を持って体験していくのです。

トッドは、つねに、楽観的な構えを崩さない学者です。それは現在も変わりません。しかし、楽観の「質」は、異なってきていることが感じ取れます。

『第三惑星』や『新ヨーロッパ大全』で彼の発見を世に問うていた頃、トッドは、「家族システムの決定作用を知ることは、真の自由に近づくことである」という趣旨のことを述べていました。

より具体的に、『第三惑星』の段階でこの仮説が広く受け入れられていたなら、ユーゴスラビアやルワンダでの悲劇を予見し、被害を軽減するための手立てを打つことができたのではないか、と述べたこともあります(『世界の多様性』20頁)。

つまり、この段階では、「人間とは、正しく理解すれば、正しい行動が取れるものである」と考えていたわけです。

しかし、数々のアンガジュマンを経て、彼は、科学者として必要な情報を提供すれば、指導層がしかるべき行動を取ってくれるだろうと期待したことを、大きな間違いだったと、はっきりと述べるようになりました。

エリートについての経験主義的な研究が不足していたことで、しばしば彼らの知性や責任感、道徳性を過大評価していました。

だから私は、何度も何度もフランスの指導層が結局はユーロの失敗を認めて、自分たちが引きずり込んだ通貨の泥沼から、社会を引き出してくれるだろうと思ってしまいました。


結局、違った。ユーロは機能していない。けれども消えていません。若者がひどい扱いを受け、とくに移民系で最も弱い人たちのグループがのけ者になる事態は続きました。

『グローバリズム以後』10-11頁

こうして、彼はエリートに対する漠然とした期待や、世の中が彼の望む方向に進歩するという意味での楽観とは縁を切ります。

「彼はあきらめたのだ」と言う人は言うかもしれませんが、事実は違います。市民としてのトッドが怒り、がっかりする一方で、研究者トッドは「真実」に目を見張ります。「そうだったのか」と嘆息した後、彼はエリートを観察し、記録することを始めるのです。

1999年の『経済幻想』の頃から、学界やエリートは「期待をむける対象」であるより「研究対象」としての比重が重くなり、その研究は、教育水準の上昇がもたらす社会の変化をよりよく理解することに役立てられていきました。

人類学についてはフィールドワークをしていないというのが欠点です。私の唯一のフィールドはもしかしたら大学というフィールドかもしれませんが。というのも、私は長年、大学や学術界、そこに安住する人々としばしば対立してきました。ですから、その内部で何が起きているかは、客観的な観察者として知り尽くしているのです。

『エマニュエル・トッドの思考地図』53頁

現在、彼がどんな風な「楽観」を抱いているのか。
私の好きなトッドの発言をいくつかご紹介します。

政治指導者は歴史上、誤りが想像しうるときに、必ずその誤りを犯してきました。だから私は、人類の真の力は、誤りを犯さない判断力ではなく、誤っても生き延びる生命力だと考えています。

『自由貿易という幻想』265頁 (初出『毎日新聞』2011年1月13日)

アメリカ合衆国とロシアの衝突の根強い存続、イランとシリアの解体と、イスラム国の出現という恐怖にもかかわらず、私は未来に対する根本的な楽観の姿勢を保持せずにはいられない‥(略)‥。いずれにせよ人類史は、これまでつねに混沌状態にあったのであり、人口学者として死者の数を数えてみるなら、現在は人類史の中でとりたてて暴力的な局面にあるわけではないということが分かるのである。ヨーロッパや中国の全体主義の時代になされたことを尺度にとるなら、現在の世界全体の暴力の水準は、いささか口にするのが憚られるが、どちらかと言えば低い。

『トッド 自身を語る』2-3頁(2015年)

私は自分の好みを打ち出すのをやめてしまいました。政治的な戦いでは、私はつねに負けてきました。私が望んだことが選ばれることはありませんでした。だから、私は好まないでいることを好むようになりました。あるいは、自分の好みはそっと秘密にしておく。


今はなにかを予測しようということにそんなに心を砕きません。むしろ今起きている重要なことに敏感でありたいと思うのです。それを察知すること、それだけで大きな仕事です。

 『グローバリズム以後』52頁、61頁(発言は2016年)

トッドは、人間についての極めて現実的な見方に到達したにもかかわらず、同時に、その生命力に魅せられ、人類の歴史を眺め、底流の真実を感知することに喜びを感じている。なんか、すばらしいなことだな、と思ってしまいます。

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トッドとマルクス

 

「トッド・クロニクル(1)」の最後で「マルクスのように」という比喩を使ったのは、トッドには「次代のマルクス」的な面が大いにあるからです。学説は(ある意味では)正反対ですし、トッドは活動家ではない。しかし、二人が歴史(=社会)を見つめる仕方、社会と学問に臨む姿勢にはたしかに共通性があり、トッド自身も、マルクスを尊敬していると公言しています。そこで、両者の違い、共通点がどのあたりにあるのかを、まとめておきたいと思います。

(1)経済か心性か

以下は、マルクス『ドイツ・イデオロギー』の序文です。

人間はこれまで、自分自身について、自分たちがなんでありまたなんであるべきかについて、いつもまちがった観念をいだいてきた。神とか規範的人間とかについての自分達の観念にしたがって、自分達の諸関係をつくってきた。‥‥人間を萎縮させているこうした夢想、理念、教条、空想というくびきから、われわれは人間を解放しようではないか。われわれは、思想のこのような支配に反逆しようではないか。ある者は、こうした思い込みを人間の本質にふさわしい思想にとりかえることを人間に教えようと言い、他の者は、こうした思い込みにたいして批判的な態度をとることを教えようと言い、また別の者は、そうしうたものを頭のなかから追い出そうと言う。そうすれば、今ある現実は崩れさるであろう、というのだ。‥中略‥
 かつて、あるけなげな男が、人間が水におぼれるのはたんに重力の思想にとりつかれているからにすぎないと思いこんだ。だから‥‥この観念〔重力の思想〕を‥‥頭から追放してしまえば、人間はどんな水難からもまぬかれるというのだ。この男は、生涯をかけて重力という幻想‥‥とたたかった。このけなげな男こそ、ドイツの新しい革命的な哲学者たちの典型だったのである。

新訳刊行委員会『新訳 ドイツ・イデオロギー』(現代文化研究所 2000年)8-10頁

この文章で、マルクスは彼の出身国ドイツの知識人を批判しているのですが‥‥これを初めて読んだとき、私は「なんだ。まるでトッドが書いたみたいじゃないか」と感じました。

最後の「ドイツの新しい革命的な哲学者」の部分を、「フランスの典型的知識人」に変えてみて下さい。彼らの観念論、思想ばかりを重大視して現実を見ず、思想を変革すれば現実が変わると信じている愚かしさを笑い物にするこの姿勢、トッドとマルクスはまるで双子のように似ています。

マルクスとトッドは、現実に対する感受性を共有しているのです。彼らは「何かが現実を動かしている」ことを感じ取っています。知識人が論じる思想や哲学とは無関係の「何か」。彼らが揃って行ったのは、その探究だと思います。

出した結論は異なりました。

マルクスは、現実の土台にあるのは、物質=経済だと考えた。マルクスは「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と述べていますが、階級闘争をもたらすのは資本家による労働者の搾取などの、経済上の矛盾であると考えました。

マルクスにおける「経済」の部分を(家族システムや教育が規定する)「心性」に変えたのがトッドです。

画像1

両者の違いについて、トッドは次のように語ります。

論理的に言えば、イデオロギーは社会・経済的階層構造に一致するとの立場から出てくる説明モデルと、イデオロギーは家族構造に一致するとの立場から出てくる説明モデルとの間には、たしかに違いはない。マルクス主義的モデルと人類学的モデルの真の違いは、前者は観察された事実を説明できないのに対して、後者はそれを説明するという点なのである。共産主義型の革命は、大量の労働者階級を抱えた進んだ工業国には起こらず、伝統的農民文化が共同体型であった国に起こった。別の言葉で言えば、歴史的な事実のデータは、マルクス主義的仮説の無効を証明し、人類学的仮説の正しさを証明するのである

『新ヨーロッパ大全 I 』2頁(『世界の多様性』にもほぼ同じ文章がある)

ちょっと不遜に聞こえるでしょうか。トッドは「マルクスの説は間違っていたが自分の説は正しい。そこが違う」と言っている。実際、トッドとマルクスは、「マルクスが見誤った真実をトッドが見出した」といってよい関係にあります。

しかし、トッドは、マルクスよりも自分の方が優れているとは思っていないと思います。単に、マルクスには十分なデータがなく、自分にはあった。そう考えていると思います。「科学者」としてのこのような姿勢も、トッドとマルクスの共通点といえると思います(私はマルクスのことはそれほどよく知りませんが)。

歴史を動かすものは何か?-- 啓蒙、マルクス、トッド

   マルクス以前の主流、啓蒙主義の伝統を汲む哲学者たち(ヘーゲルとか)は、歴史の中心に当然のように「人間精神」を置いていました。これに対し、マルクスは「人間精神(思想やイデオロギー)を規定しているのは物質的基盤(経済構造)である」と考えた。マルクスは「人間精神の進歩 → 経済(その他もろもろの)発展」と考える啓蒙主義の伝統を打ち捨てて、経済それ自体を発展をもたらす自律的な要素と捉えたわけです。

   なぜマルクスはこのように考えるに至ったのか。その一因として、トッドは、マルクス・エンゲルスが見た19世紀中葉のヨーロッパにおける「教育と経済の分離」を指摘しています。当時、いち早く産業革命を達成していたのは、より識字化が進んでいたドイツ、スウェーデン、スイスではなく、教育面では凡庸なイギリスでした。トッドによれば、これは一時的なもの、それも単純な工場労働者のみを必要とした第一次産業革命の間だけのことで(+イギリスの先行は家族システムから説明ができる)、発展が多様化をもたらす第二次産業革命の局面では、教育水準と経済発展の軌道は再び一致するのですが、ともかく19世紀の一時期には両者は分離していた。この状況において、イギリスの「工業的テイクオフと、それに引き替えてのドイツの遅れに仰天したマルクスとエンゲルスは、経済発展の自律性を主張する解釈モデルを作り上げた」のだとトッドは述べています(『新ヨーロッパ大全  I』189頁)。

   トッドは再び人間精神を歴史の中心に据えましたので、その点では啓蒙の伝統を受け継いでいるといえます。しかし、その中身は、「思想やイデオロギー」ではなく、無意識的なメンタリティである。啓蒙からマルクス、トッドへの流れは、下の図のように整理することが可能です。
画像2

(2)「アカデミズムなどクソ喰らえ」

トッドは国立の研究機関に定年まで勤めたカタギの研究者ですが、研究成果の発表の仕方、アカデミアとの距離感など、研究者としての奔放さは相当なものです。この点について、トッドはマルクスへの共感を隠しません。

私の生涯のすべての時期にわたって、マルクスという人物、マルクスが体現する思想家としての型、それに、全面的に己の作品の中にアンガジュマンを行いながら、大学等が要求する約束事からは全面的に自由であったそのあり方は、一種、実存的モデルであった

『トッド 自身を語る』92頁(発言は2012年)

『シャルリとは誰か?』のアカデミックではない、攻撃的な書き方は、マルクスを意識しています。少なくとも私としては、あの本は、マルクスへのオマージュのつもりです。大学アカデミズムなどクソ喰らえ、というマルクスの姿勢への共鳴です

『問題は英国ではない、EUなのだ』101-102頁(発言は2016年)

トッド・クロニクル 1951~1976 の中で、家系における非フランス的要素などから、トッドは、フランス社会を「外部者」として見ていると自認していることを書きましたが、その点でも、マルクスとの共通点を感じているようです。

「彼はドイツ系ユダヤ人でした。そして父親はルター派に改宗した人間です。その後、フランスに渡り、イギリスへの行きます。彼はドイツ語で書いていましたが、ドイツの思想を批判し、またフランスの階級社会を外からの視点で批判しました。さらに、イギリスの政治経済状況をも批判しています。なぜこうしたことが可能だったかというと、彼自身が宗教的なマイノリティ出身だったのみならず、その家系がその宗教から抜け出していたからでしょう。また、そのころ支配的であったヨーロッパの三か国を見たというのも重要な点だと思います。」

『エマニュエル・トッドの思考地図』127頁

「私にとってマルクスは重要な存在です。マルクスは、ドイツ、イギリス、フランスというヨーロッパ文化の三代潮流の交差点に位置し、ヨーロッパ・ユダヤ人の典型です。「マルクス主義」ではなく、そのような存在としてのマルクスが私にとっては大事なのです。」

『問題は英国ではない、EUなのだ』101-102頁(発言は2016年)『エマニュエル・トッドの思考地図』127頁にも類似の発言がある。

トッドは、マルクスが発見できなかった真実をついに発見したにもかかわらず、学界からは拒絶され、政治的なアンガジュマンにおいても、エリートたちから無視されて終わります。その過程で、トッドはマルクスへの敬慕を一層深めていったことでしょう。

そうこうするうちに、資本主義はマルクスの時代のそれのように「獰猛」な様を見せ、「利潤率に取り憑かれた人たち、資本の蓄積の虜になった人たちが再び姿を現」すようになった。

ここに至って、トッドは、かつては「形而上学だ」と思った1「読もうとしたができなかった」とも(『トッド 自身を語る』29頁)という『資本論』を「ついに真剣に」読む態勢になっている、と述べています(『最後の転落』21−22頁(発言は2012年))。

この先、トッドとマルクスの関係にはもう一段、新たな展開があるのかもしれません(フランス語ではすでに『21世紀フランスの階級闘争』(2020年)という本が出ているようです)。

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トッド・クロニクル(2)ー大発見とその後

発見前夜 ー 経済中心思想との決別 (1979)

1976年の『最後の転落』の後、トッドは、「ル・モンド」の記者として歴史関係の書評やインタビューなどをこなしながら(『トッド 自身を語る』26頁等)、自由に研究を続けていました。

この時期の著作(1979年の『狂人とプロレタリア』、1981年の『フランスの創出』)は、どちらも邦訳書が出ていないのですが(英訳も出ていないので私は読んでいないのですが)、仄聞する限り、どちらも、その後完成する理論の準備段階に位置づけられるもののようです。

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まず、『狂人とプロレタリア』。第一次世界大戦を取り上げたこの本で、トッドはは、歴史をメンタリティの観点から分析するという方法を正面から採用します。

この頃、「精神分析に関心を持ち、人間の非合理的な面を重視するように」なっていたトッドは、デュルケム(社会学者)の『自殺論』に倣って、西欧諸国のアルコール依存症や精神疾患の患者数といった指標を用いた分析を行い、第一次世界大戦を中産階級の集団的狂気」として描きました。

この本の執筆の過程で、トッドは、心性に関連する指標の説明力の高さを実感し、「経済主義」の不毛さに確信を抱いたものと思われます(読んでません!)。

また、第一次世界大戦という(とくに)バルカン諸国の近代化の過程における「集団的狂気」の分析は、「大発見」を機にトッドの脳内情報が一気に整理されたそのときに、近代化理論の一部に組み込まれていったと考えられます

この本を振り返って、トッドは「若書きを恥ずかしいと思うと同時に、誇らしい」。なぜなら「マルクス主義的もしくは自由主義的な「経済主義」と決別するきっかけとなった本だから」、と語っています。

フランスの創出L’Invention de la France)』の方は、人口学者であるエルヴェ・ル・ブラーズと共に、フランスの人類学的多様性を分析した著書のようです(それ以外にも重要な要素があるかもしれませんが、わかりません)。そうだとすると、これ以降のトッドによるフランスに関する分析の基盤をなす研究業績だということになるでしょう。

なお、ル・ブラーズは、この頃トッドが就職した国立人口学研究所の同僚で、これ以降も共著(『不均衡という病』(2013年)(邦訳は2014年))を出しています。『文明の接近』(2007年)(邦訳は2008年)の共著者ユセフ・クルバージュも研究所人脈ですから、人口学の専門家との交流はトッドにとってよい刺激となったようです。

  • 『狂人とプロレタリア』でマルクス主義的 or 自由主義的「経済主義」と決別
  • 国立人口学研究所に就職し人口学人脈を得る

大発見を世に問う ー 『第三惑星』 出版(1983)

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トッドが「大発見」にみまわれたのは、そんなある日のことでした。

ある日、後に母から相続することになるアパルトマンのソファーに寝転がっていたところ、「外婚制共同体家族の分布図」と「共産圏の地図」とが突如、重なったのです!まさに啓示でした!私は何らかの目論見からこの二つを重ねようとしたのではありません。とにかく「二つが一致する」ことを突如、発見したのです

『問題は英国ではない、EUなのだ』91頁

トッドはこの「啓示」をきっかけに、家族システムとイデオロギーの関係性に思い至った、とあちこちで述べているのですが、これはやや眉唾、というか誇張があるのではないか、と私は見ています。

先ほど、トッドのケンブリッジ時代、トッドとラスレットの「根本的不一致」について書きましたが、この件について、トッドはこうも語っているのです。

私は家族制度と政治的イデオロギーの間には関連がある、過去の農民の中に18世紀から20世紀にかけてイデオロギー化されたものを観察することができる、フランスが自由と平等の理念を信じるのは、パリ盆地の農民たちが自由と平等を信じていたからだ、ロシアが共産主義になったのは、ロシアの農民が一種の権威主義的かつ平等主義的な大家族の中で生きていたからだ、と考えましたが、ラスレットはそうした命題全体に反対でした。

『世界像革命』108頁

つまり、ケンブリッジでヨーロッパの家族システムの研究をしていたトッドは、その段階から、ヨーロッパの家族システムとイデオロギーの間には関連性があるという感触を持っていた。

アパルトマンでの「啓示」は、家族システムとイデオロギーの関係を「ヨーロッパの現象」として捉えていたトッドの目を、世界全体に開くものだったのではないでしょうか。

外婚制共同体家族の分布図には、ロシアだけではなく、ユーゴスラヴィア、中国、ベトナム、キューバといった国々が含まれます。この全てが、共産主義が成功した国々であると気づいたときの驚き。

「!」

ヨーロッパについて漠然と抱いていた感覚が、世界全体の謎に接続した瞬間です。

この発見の後、半年かけて、パリの人類博物館の図書室に閉じこもり、地球上の家族構造を分類し、自分の直感が正しいかどうかを検証しました。「農村社会の家族構造によって近代以降の各社会のイデオロギーを説明できる」という仮説が本当に妥当するのかどうか、神秘を前にするような不安のなかで、一つ一つ検証していったのです。私の仮説を無効にしてしまう家族構造が、いつどこから現れてきても不思議ではありませんでした。けれども、ヨーロッパの中心部から南部へ、アジアからラテン・アメリカへと解読作業を進めるに連れて、この仮説が強力に機能していると確信していったのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ』92頁

トッドはこの発見を大急ぎで論文にまとめ、1983年『第三惑星ー家族構造とイデオロギー・システム』というタイトルで出版しました(邦訳は『世界の多様性』に所収)。

なぜそんなに大急ぎだったかというと、トッドは「先を越される」ことを恐れていたからです。共産主義と外婚性共同体家族の一致は、トッドにとっては四の五の言う必要のない「明白な」事実であって、単に気づくかどうかだけの問題だった。彼と同じようなデータを扱っている研究者たちの顔も目に浮かびました。

出版しさえすれば、他の研究者たちにも「明白なものとして速やかに受け入れられると」、ごく楽観的に構えていた彼は、博士論文に言及して自分が家族システムの専門家であることを知らしめることも、彼がラスレットやマクファーレンの系譜の中にあることを明記することもせず、「イデオロギー的な幻想に対して‥‥喜々としてまた残酷なまでの批判を突きつけ」るこの本を、いわば「丸腰で」、世の中に送り出したのでした(以上につき『世界の多様性』22-23頁)。

*なお、トッドの仮説の形成においては、アラン・マクファーレン『イギリス個人主義の起源』(1978年)の影響も重要です。トッドは「仮説を立てた時点では‥‥すっかり忘れていた」らしいのですが、「ル・モンド」の記者時代に、イギリスの古い核家族と個人主義イデオロギーの関係を指摘したこの本を絶賛する書評まで書いているのです。マクファーレンはケンブリッジの人類学教授でもありましたから、同書出版以前に彼の着想を知る機会もあったかもしれません。彼の影響を思い出して以降は、トッド自身、家族システムとイデオロギーに関する彼の理論の系譜は「ラスレット→マクファーレン→トッド」であると明言しています(『トッド 自身を語る』19頁、『家族システムの起源I 上』20-23頁)。

近代化理論の完成 ー 『世界の幼少期』 (1984)

トッドは、翌1984年には『世界の幼少期』という本を出版しています(邦訳は『世界の多様性』に所収)。

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『第三惑星』で、トッドは、世界の主要な国々に見られる家族システムを類型化し、政治経済に関わるイデオロギーとの関係を示しました。

『世界の幼少期』では、識字率のほか、婚姻、出生に関わる人口動態データを用いて、家族システムの影響を組み込んだ「近代化理論」を打ち出し、成長に関する現状(ある地域はなぜ高度に成長していてある地域はそうでないのか、ある地域では女性の地位が高くある地域ではそうでないのはなぜか、等)の説明と近未来の予測を提示してみせました。

この本で、トッドは、成長を主に経済的現象と見る社会通念を否定し、成長とは文化的(心的)現象、とりわけ教育に関わる現象であるという事実を明らかにしたのです。

近代化のメカニズムの解明を通じて、社会の表層で起きる現象に対して、家族システム、教育という指標が、経済的指標などその他の指標をはるかに凌駕する説明力を持っていることを証明した。これがトッドの社会科学に対する基本的な貢献です。つまり、『第三惑星』『世界の幼少期』の2冊で、トッドの理論は、ほぼ完成しているのです。

「啓示」を受けたトッドがあっという間に2冊の著書をまとめるこの手際の良さを見ると、やはり、「啓示」は、ある程度の青写真をすでに持っていたトッドのところに訪れて、ブレイクスルーをもたらしたと考えるのが自然だと思います。

すでに見たように『第三惑星』の青写真は、ケンブリッジ時代に、ラスレットやマクファーレンの影響下で、トッドの脳裏に浮かんでいたものでした。では『世界の幼少期』の方は、どこから来たのか?

この着想をトッドにもたらしたのは、ローレンス・ストーン(Lawrence Stone)というイギリスの歴史学者でした。

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もし識字化に関するわれわれの数値が正しいなら、それは大まかではあっても、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命という、西洋の三大近代化革命は、男性の識字率が三分の一と三分の二の間にあり、それ以上でもそれ以下でもない、そうした時に起こっているということを示唆している。

Literacy and Education in England 1640-1900, Past Present, Volume 42, Issue 1, February 1969, p.138 (翻訳は『デモクラシー以後』105頁をそのままお借りしました)

トッドは1964年および1969年に公刊されたストーンの論文(The Educational Revolution in England, 1560-1640, Past and Present, Vol.28, 1964, pp.41-80)を(おそらく学生時代に)読み、強い印象を受けました。

識字化が民主制の伸張に主導的な役割を果たしたことは、もう何年も前にストーンの論文を読んで以来、私には自明のことのように見えた。

『デモクラシー以後』107頁

それにも関わらず、識字化の指標が学術界で十分に生かされていないことを知り、トッドは「男性識字率50%超過→政治的民主化」という命題を「ストーンの法則」と命名し、自身の理論の中で大いに活用していくのです。

「それでも地球は動く」 ー トッド、異端者となる

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なぜ近代化の牽引役となったのがヨーロッパの端っこの島国イギリスだったのか。市民革命を起こしたフランスがヴィシー政権でナチスドイツに屈したのはなぜか。他のどの工業先進国でもなく後進のロシアで共産主義革命が起こったのはなぜか。ベトナム、キューバのように共産主義化する国が他にも現れるのか。ロシアや中国はいつか西側諸国と同じ民主主義国家となるのか。中東や中東アジアはどうか。彼の地やアフリカ各地、アジアの後進地域で現在起きている動乱はいったい何なのか。彼らはこの先安定した近代国家を構築できるのか。できるとすればそれはいつなのか。‥‥

こういったことを全て一定の蓋然性の下で説明・予測できる理論を見出したとしたら、それは「大発見」というほかありません。

トッドは、(おそらく)DNAの二重らせん構造を発見したワトソン、クリックが大急ぎで論文をまとめたときのような気分で、超特急で本を執筆・出版しました(『エマニュエル・トッドの思考地図』94-95頁、『問題は英国ではない、EUなのだ』95頁)。

もちろん、彼は、ワトソン、クリックが受けたような賞賛が自らを待っていると期待していたでしょう。「思想に関する幻想から解放してくれたと多くの人々から感謝されるだろうとすら」思っていた、と後に語っています(『エマニュエル・トッドの思考地図』189頁、192頁)。

ところが、実際に彼を待っていたのは、曲解、敵意、酷評。つまり、新しい理論に対する拒否反応でした。

私はこの刊行によって、偉大な研究者として認めてもらえることを夢見ていたのに、まるでガリレオのような状態に陥ったのです。

『エマニュエル・トッドの思考地図』192頁

1983年に刊行された『第三惑星』の主な読者はフランスの知識人でした(英訳が出るのは1985年です)。彼らはこの本の何を拒絶したのか。

彼らが拒否したのは、この本の「思想」でした。フランスの知識人たちは、この本に、決定論の思想、人間の自由を否定する思想を読み取り、拒否反応を示したのです。

1980年代前半、知識人たちは、マルクス主義の「経済決定論」を葬り去り、自由の勝利を謳歌しようとしていました。「実際、単純な説明で理解することができるという考えそのものが、信念の単純さから開放されたと感じ、世界と生命に複雑さを発見しようとしていた人々にとっては耐え難いものと映ったのである。この時代の思想の流行は、‥‥「複雑性」であり、「システミック」であったのだ」(『世界の多様性』16頁)。そのような時代背景が一つ。

より本質的な要因は、彼らの人間観であり、世界観だと思います。フランスやイギリスの人々は、自分たちの精神は自由であると信じ、誇りに思っています。その自由を最大限に使って、民主主義を発明し、「自由、平等、博愛」のスローガンで世界を鼓舞し、自由で民主的で豊かな世界の実現に貢献してきたと自負しています。

「それなのに、トッドという奴は何だ? 家族がイデオロギーを決定するだと?保守反動もいい加減にしろ。人間の自由への冒涜だ!」

「せっかく階級から解放されたと思ったら、今度は家族だと?冗談じゃない!」

とまあ、そういうわけで、トッドは、保守反動の差別主義者という訳のわからないレッテルを貼られ、知識人世界の反発を一身に受けることになるのです。

念のため、確認しておきますが、トッドが世に問うたのは「思想」ではありません。事実です。トッドは家族システムとイデオロギーの間に相関関係があるという「事実」を発見し、それを公表した。しかし、人々は、その事実としての妥当性を評価する前に「自分の世界観に合致しない」という思想上の理由でそれを拒絶したのです。

トッドはつぎのように述べています。

重力は人間の自由を束縛するから、重力を発見した科学者はファシストだとでもいうのだろうか。重力は存在しないと宣言すれば、人間は自由になれるとでもいうのだろうか。重力を否定する科学者は確実に重大な事故を引き起こすだろう。しかし重力の存在を認めてモデル化するなら、飛行機を発明することも、月に到達することもできるのである。(『世界の多様性』19-20頁を趣旨はそのまま改変)

*「トッドとマルクス」でご紹介したマルクスの文章にも、重力の例が使われていました。

 

リベンジ! ー 1990 『新ヨーロッパ大全』刊行

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『第三惑星』『世界の幼少期』の出版という胸躍るイベントは、正当な評価を受けないまま終わりました。しかし、何にしろ、偉大な発見を、このままで終わりにするわけにはいきません。

トッドは、その後、7年間を費やして、範囲をヨーロッパに絞って、家族システムとイデオロギーについての仮説をより丁寧に綿密に検証する作業を行い、彼の理論をより学術的で説得力の高い著書として完成させました(『新ヨーロッパ大全 I・II』フランスでの刊行は1990年)。

*「トッドの学術的な著作をどれか一つ読んでみたい」という読者には、私はこれをお勧めします。読むたびにその説明力に唖然としてしまう。すごいの一言です。 

トッドのアンガジュマン(社会参加)

そうこうしているうちに、楽観的な80年代を生きる浮かれた若者だったトッドは40歳を過ぎ、フランス、というか 、先進国はみな、深刻な景気後退局面を迎えていました。

自らの理論への一層の確信と、より練り上げられた理論を手にする彼の目の前には、経済的格差の増大、排外主義の高まりの中で、希望を見出せずにいる庶民、若者、移民出身者たちがいて、他方に目を移すと、そこには、危機に対して何ら意味のある行動を取ることができず、自己利益のために国民の大半を犠牲にして恥じない政治家、エリートたちがいた。

‥‥科学者として、政治家たちがその国に暮らす人びとの内でも最も弱くて脆い立場にいる人びとを無益に苦しめつつ、全体を災厄へと引っ張っていくのを目の当たりにして激しく苛立つことがあるのです。

『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』4-5頁

トッドは、家族システムを中心とした歴史人類学研究を深化させていく一方で、「アンガジュマン」を開始することになります。

トッドは基本的に、フランス市民として、フランス人の科学者として、フランスのエリートに論争を仕掛けていくというやり方を取るのですけど、フランスが抱えていた(る)問題のほとんどは、程度や現れ方の違いはあっても、日本と共通です。景気の低迷、グローバル経済の中での格差の増大、排外主義の活性化、アメリカのプレゼンスの低下や各種(国際的)地域情勢への対応、等々。

しかも、それらは何も解決していないので‥‥この「入門講座」の中では、トッドの基礎理論の部分だけでなく、「アンガジュマン系」の議論についても、ご紹介していく予定です。

近未来への展望 ー 非西欧文明の若者たち

家族システムとイデオロギー、そして「成長」に関するトッドの理論は、「第三惑星」の出版から40年になろうとする現在も、正当な評価を受けているとはいえません。

トッドの言によれば、学者としてのトッドは、「どちらかというと国外の、アメリカの経済学者やオランダの学術界で少しずつ認められてきてはいますが、フランスでは一部の若者層を除き、認められていない」(『エマニュエル・トッドの思考地図』187頁)。トッドには悪いですが「学術界」ということでいえば、日本でも状況は同じです。

*フランスのウェブ(テレビ)番組から生まれた本『アラブ革命はなぜ起きたか』(2011)を読むと、「一部の若者層に」認められているという雰囲気が少し感じられる気がします。それはそれとして、トッドの理論の入門書としては、この本をお勧めします。

トッドは今年で72歳になります。この間、ずっと活発に執筆活動、社会的発言を続け、それでもこの程度の認知しか得られなかった。彼の理論は、このままフェイドアウトしていく運命にあるのでしょうか?

私には、一つ、確信していることがあります。

それは、この先、そう遠くない将来に、中東や中央アジア、アフリカなどの若者たちが、トッドあるいはその精神的後継者の理論を発掘し、役立てていくだろう、ということです。

上述の地域は、現在、近代化の過程の只中にあるか、これからそれを迎えようという地域です。そこでは、非常に若い人口が(例えばアフガニスタンの2020年の年齢中央値は18.4歳です(日本は48.4歳))、人口を大幅に増やしつつ、今から民主化を達成し、自分たちに見合った社会を作ろうとしている。

先進国がトッドを拒絶した(あるいは少なくとも歓迎しなかった)理由というか背景の一つは「人口の老化」であると私は見ています。老いた文化圏には「新しい真実」など、煩わしいだけですから。

しかし、今から成長しようとしている地域は違います。

数々の問題を抱え、停滞している西欧文明を横目に見ながら、新しい社会を作っていく彼らには、真新しい真実こそが必要です。

そして、先進国によって長らく「遅れた」というレッテルを貼り付けられてきた彼らには、自分たちは何者なのかを知りたい。知らなければならないという強い願望があるはずです。

彼らは、西欧社会が描いた歴史地図から抜け出して、新しい社会の設計図を描くため格好の道具として、トッドの理論を発見するでしょう。夢中になって読み漁り、西欧文明とは何だったのか、自分たちに今何が起きているのか、自分たちは何者でありうるのか。その全てを知り、未来を作るために、彼の理論を役立てていくでしょう。

・ ・ ・

私は、ただ自分のために、自分がどんな世界に生きているのかを知るために、トッドの理論を学びました。今、こうして「講座」を開いているのは、この理論が、それぞれの人の「自分のため」の探究に役立つ道具であることを確信しているからです。

それでも、私自身の探究が彼らのそれと重なって、どこかで協力しあえたらと思わずにいられないし、「老いた社会」に暮らす若い人たちの探究が、彼らのそれと重なって、停滞の中でのサバイバルなんかではない、新しい社会を作る作業に連なっていくようにということも、願わずにはいられません。

トッドはどこかで「この理論を国連に採用してほしいのだが‥」と冗談めかして語っていたことがあります(どの本で読んだか思い出せないのですが)。「私もそう思う!」と言いたい。冗談ではなく。

考えられる限りフラットなこの鏡(=歴史観)を手にしていれば、進歩とは競争ではないことがわかるし、違いは怖れる対象ではないことがわかる。自分と彼らは同じ世界に住んでいることがわかり、「自分のため」の探究が、必ずや、彼らのそれと重なっていくであろう、ということもわかるのです。

今、私が社会科学者としてできる一番の貢献は、この理論を伝えることだと思うので、この先、彼の理論を明快に分かりやすくお届けするために、できる限りのことをするつもりです。

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トッド入門講座

トッド・クロニクル(1) 1951ー1976 ー修業時代のトッドー

エマニュエル・トッドは、不思議な研究者です。歴史家、歴史人口学者、家族人類学者などいろいろな肩書きがあって、権威ある出版社から何冊も学術書を出している著名な研究者なのに、大学に所属していない。

同じ知識人でも、思想家やジャーナリストであれば、大学人でないのは普通です。しかしトッドは学術研究者なのです。17世紀や18世紀ならともかく、学問の制度化が進み、大学が学術全般を統括するのが当たり前となったこの時代において、彼のような学者の存在は、かなり珍しいことといえます1トッドの肩書きが定まらないのも、彼が大学という制度に属していないためと考えられます。

しかし、この自由な立ち位置があってこそ、トッドはトッドになり得たのだと私は思うので、いったいどうやるとこういう研究者ができあがるのか。その成り立ちを追ってみました。

1951  「パリ盆地のフランス」 と 非フランス的要素

エマニュエル・トッドは、1951年、パリ郊外のサンジェルマン・アン・レー(Saint-Germain-en-Laye)というコミューンで生まれました。行政単位でいうと、イル・ド・フランス地域圏(首府はパリ)イヴリーヌ県に属します。

トッドの本には「パリ盆地のフランス」という言葉が出てきます。後でご説明する家族システムによる分類では、フランスは大きく2つに分かれるのです。自由主義的で平等主義的な核家族のフランスと、権威主義的な直系家族のフランス。このうち、前者、自由主義的で平等主義的な価値観を代表するのが、「パリ盆地のフランス」です。

トッドは、その「パリ盆地」で生まれ育った人であるということは、記憶にとどめていただくとよいかもしれません。

一方で、彼は、自らの家系の中にある「非フランス的要素」にもよく言及します。母方にユダヤ系の知識人の系譜があること(『シャルリとは誰か?』239頁以下、『エマニュエル・トッドの思考地図』121頁以下等)、父方はイギリス出身の家系であること(『思考地図』122頁等)、等々。

トッドがこれらに「よく言及する」のは、彼の学問にとって重要な(と彼が考える)2つの要素を象徴しているためです。

1つは、彼が、フランス社会のど真ん中にいる知識人とは少し異なり、「外側から」フランス社会を見る視点を持っているということ、もう1つは、彼はイギリス的な経験主義(実証主義)をよしとする「アンチ観念論」の伝統に与しているということです。

後者について、少し続けます。

彼の父、オリヴィエは、ジャーナリストとして成功した人ですが、すでに述べたようにイギリス系の家系で、自身も、大学教育はイギリスで受けています。観念的な大陸哲学に批判的なバートランド・ラッセルヴィトゲンシュタインが活躍していたその時代に、ケンブリッジで哲学を学んだ人です。

また、トッドが「とても知的で、厳格な知性の持ち主であった」と語る母アンヌ・マリーは、彼に「ただ言葉を羅列するだけの無意味なおしゃべり」をしないよう厳しく躾けたといいます。アンヌ・マリーの父ポール・ニザン(文学者、ジャーナリスト、共産主義の活動家)は、やはりフランスの大学における哲学に批判的な人でした。

トッドは、くだけたおしゃべりの中で、私は自分自身の家系からフランスとドイツの哲学に対する敵愾心を引き継いだ(『問題は英国ではない、EUなのだ』86頁)、と語っていますが、「家系」の影響かどうかはともかく、彼が、哲学や思想を概して「無意味なおしゃべり」と考えていること、事実に基づく分析こそが真実への道であると考えるタイプの知識人であることはじじつであり、重要な点といえます。

  • 「パリ盆地のフランス」で生まれ育つ 
  • 家系の「非フランス的要素」が外部者の視点を育んだ
  • 観念的な哲学・思想を嫌い、イギリス的経験主義(実証主義)を好む

1961 トッド10歳の夢 歴史と科学的発見

少年トッドは将来に何を夢見ていたのか。
彼は2つのことを語っています。

1つは、歴史家になりたかったということ(『エマニュエル・トッドの思考地図』23頁、『問題は英国ではない、EUなのだ』78頁等)、もう1つは、偉大な学者になりたかった、それも、パスツールやニュートンのように新しいことを発見する人になりたかった(『世界像革命』122頁)、ということです。

とにかく私は、10歳のとき、「歴史家になりたい」と思いました。なぜかはよく分かりません。
                                                   

『問題は英国ではない、EUなのだ』78頁

「歴史家」というのは、彼の中では「歴史を観察する」人間のことで、「歴史を哲学する」人間のことではありません。この点は一貫しています。考古学の本やら、古代文明の本やらを読んで、「こうだったのか、ああだったのか」と想像し、自ら地図を描いたりしてみる。歴史上の戦争に胸をときめかせ、スパルタの強さ、カルタゴの将軍ハンニバルに魅了される。少年トッドの情熱は、ひたすら歴史の本を読み漁り、歴史上の事実に触れることにありました。

一方で、彼は、偉大な学者になりたいと夢見ていた。

いずれも自身による回想ですから、割り引いて聞く必要があるかもしれませんが、歴史に魅了され、かつ、パスツールニュートンのような大発見をなすことを夢見ていた少年は、その後20年の間に、まさにその通りのことを成し遂げます。

彼がどれほどの興奮と喜びでその日を迎えたか。
ちょっと想像もつかないほどのことだと思います。
ところが。

少し予告しておきます。実際には、彼の発見はまったく理解されず、受け入れられません。そして、世間の反発や無理解に立ち向かうところから、彼の本当の学者人生が始まることになるのです。

  • 歴史家になりたかった
  • パスツールやニュートンのような大発見を夢見ていた
  • 20年後、歴史学上の大発見を成し遂げた

1968 パリ 五月革命の精神

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1951年生まれのトッドは、世界中で巻き起こった大学紛争を当事者として経験した世代です(日本だと高橋源一郎さんが同じ1951年、内田樹さんが50年の生まれです)。フランスのそれはとくに激しく、学生と労働者が結集、内戦や革命が起きることが危惧されるほどでした(日本語では五月革命、フランス語ではMai 68として知られます)。

私は1968年5月(パリ五月革命)を経験しました。パリの街頭に出て、走り回って、舗道の石をはがして警官に向かって投げました。下手なので他のデモ参加者の上に落ちてしまったけれど。
                    

『グローバリズム以後』101頁

このとき、トッドは高校生で、活動家としてフランス共産党に所属していました(戦後のフランスは社会全体の共産党支持率がかなり高い社会でしたので、若者のフランス共産党所属はそれほど珍しいことではないと思われます)(『トッド自身を語る』61頁等)。

フランス的知識人の典型というものがあります。哲学者や思想家を名乗り、自らの思想を基盤に、現在進行中の社会的・政治的事象に対して積極的に態度表明することを役割と自認する。古くはジャン・ジャック・ルソージャン=ポール・サルトル、比較的最近ではジャック=デリダとか、ジャック=アタリのような人びとでしょうか。

トッドはすでに述べたように「哲学嫌い」であり、自分はこのような知識人とは違うと繰り返し述べています。

パリ型またはフランス型の知識人の役割を、私はあまり好きではないということです。‥‥私という存在を、職業的、心理的、知的なレベルで基本的に支えているのは、研究である。つまり、現実の分析であり、現実の観察、現実の描写そして現実とその多様性を理解するために努力することです。

『世界像革命』116頁

しかし、彼が、研究室に引きこもり、論文を書く以外の社会的発言を一切しない学者であったかといえば、全くそうではないのです。その研究者人生において、彼はしばしば政治的・社会的問題について公に発言し、討論に参加しました。それも、ときには人を寄せ付けないほどに断固とした態度で、敢然とそれを行ったのです。

彼が自らが科学者として得た専門的知見をどんなときに、どんなふうに使ったか。そのアンガジュマン(engagement(仏)社会参加)の仕方は、彼の中に「1968年5月」の時代精神が、最良のかたちで生き延びていることを見せつけます。少し下の世代である私から見ると「知的なものごとの価値に対する信頼感」と「社会変革への意思」というようなものが、煌めいているのです。

ただし、こちらに関しても、彼が勝利を収めることは決してありませんでした。つまり、政治的論争に参加して、彼の思い通りに事が運んだことは一度もない。

しかし、政治的敗北は、研究者としてのトッドにとっては、祝福であったように私には思えます。ままならなさに直面したことで、社会(とくに人々の心)の真実を見る彼の目線は、いっそう曇りなく磨かれることになりましたから(後でもう少し詳しく述べますね)。

  • 大学紛争世代
  • 社会に積極的に意見表明するフランス型知識人の典型を嫌う
  • 科学者として言うべきことがあれば果敢にアンガジュマン(社会参加)

1968〜1975 パリ、ケンブリッジ、フランス帰国

トッドの研究歴は、パリ・ソルボンヌ大学から始まります(彼は同時に名門グランゼコール(テクノクラート養成校)であるパリ政治学院にも通っており(修了証も取得)、得意な数学を生かして統計学の授業を取ったことを語っています(『エマニュエル・トッドの思考地図』152-3頁))。

*「けっ、エリートめ」と感じさせる学歴ですが、「エリートコースではない」というのが本人の言です。パリ大学の歴史学部というのは大した学歴ではなく(文系なら高等師範学校を目指すのがエリートだとか)、将来を案じた父親の勧めでパリ政治学院にも入学するということになったのだそうです(同前)。当時のトッドは「理系がちょっと得意というだけのまったく凡庸な生徒」であったため、「入学したものの授業についていけず、‥‥途中で退学しようとすら考え」るなど、「政治学院時代は本当に苦労した」(前掲111−112頁)と語っています。

歴史家になるために入ったソルボンヌで、トッドは、彼の歴史研究者としての方向性を定める、(便宜的に分けると)2つの潮流に出会っています。彼の理論の骨子を作り上げたものでもあるので、整理してご紹介しておきたいと思います(下の図は彼の理論のイメージです。参考までに載せておくだけなので、ここでは「へー」という感じでご覧ください)。

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(1)「心性(メンタリティ)」に出会う

1つは、この頃盛んになっていた「新しい歴史学」の潮流です。

この時代の若い歴史家たちは、歴史の記述が、一般に、著名人、大事件、政治経済に偏りすぎであることに問題意識を持っていました。

例えば、「明治維新によって日本は近代化した」というと、坂本龍馬や西郷隆盛のような「偉い人たち」が活躍したから日本は近代化することができた、という話になりますね(「大河ドラマ史観」といいましょうか)。でも、本当にそうなのか。

坂本や西郷のいた日本には同時代だけで1500万近くの人間が住み、社会を形成していました。坂本や西郷が日本を作ったというよりは、その時代そしてそれより前の時代の全ての人々の暮らしとそれらが織りなす「うねり」が坂本や西郷を生み、日本に近代化を経験させた、というのが真実のはずである。そうであるなら、歴史学は、個々の事件よりも、その「うねり」に着目するべきなのではないか。

そう考えて、それまでの歴史学があまり取り上げてこなかったものごと2要するに「ありとあらゆること」、例えば「気候、死、医学、病気、恐れ、子供、家族、性愛、父性、女性、魔女、周縁性、狂気、夢、におい、書物、民衆文化、祭りなど」(小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)(米田潔弘)を取り上げ、そこから社会を作り上げていたメンタリティ(心性)を浮かび上がらせようとした。それがこの「新しい歴史学」でした。

*「新しい歴史学」について
日本に定着した学問の名称としては「社会史」が一番普及していると思います。自身もその代表的な研究者の一人である阿部謹也さんによる解説がこちらにありますので、ぜひご覧ください。https://kotobank.jp/word/社会史-162062)

フランスの動きは「アナール学派」として有名です。「歴史人類学」という名称も用いられますが、これはおそらく「人類に関するありとあらゆることを扱う総合的な学問」として歴史学を行うという宣言なのだろうと思います。   

この「新しい歴史学」は時代の潮流でもありましたし、ソルボンヌ大学でトッドを指導したエマニュエル・ル=ロワ=ラデュリはその中心人物でした(トッドは彼の元で修士論文を書いています)。

トッドが確立した理論は、家族システムや教育の普及度から社会の現実を説明するものですが、前者(家族システムや教育の普及度)と後者(社会)を媒介するものはつねにメンタリティ(心性)です。なぜ家族システムが政治経済システムと関連し、教育の普及度が近代化の度合いに関わるのか。その答えは「それらがメンタリティ(心性)を左右するから」なのです。

トッドは、歴史の根本にあるのは経済(物質)でも思想でもなく社会の深層にあるメンタリティ(心性)であるという感覚を、この「新しい歴史学」から受け継いでいます。この感覚があればこそ、トッドは、経済中心思想(19〜20世紀の時代精神!マルクスの唯物史観はその代表だがそれだけに限りません)から抜け出し、歴史学上のブレイクスルーを達成することができたのですから、彼の歴史家としての基礎を築いたという意味で、ソルボンヌ時代の学びが及ぼした影響は甚大といえます。

(2)家族研究と出会う

もう一つ、重要なことは、歴史人口学との出会いです。

* なお、歴史人口学も「新しい歴史学」の潮流の中にある、その1ジャンルといってよい学問分野ですが、トッドの理論形成史においてとくに重要なので、区別して扱います。

ソルボンヌ大学の学部生の頃、単位を取る必要から、たまたま「歴史人口学」という科目に登録しました。
 そこで出会ったのが、ジャック・デュパキエ (1922-2010) という非常に才能豊かな先生でした。フランスの偉大な歴史人口学者の一人で、非常に授業がうまかった。彼はさまざまな資料を配布してくれました。私はそれに釘づけになりました。たとえば、18世紀フランスの農民の生活を具体的に想起させるような資料です。
 とにかく、歴史人口学の授業が面白くて仕方がなかった。歴史人口学は統計を扱う学問ですから、数学好きだったということも手伝ったのだと思います。
                                                     

『問題は英国ではない、EUなのだ』82頁

さらに、トッドは、ソルボンヌで修士号を取得した後、「家系の伝統に則っ(て)」(同前83頁)留学したイギリス・ケンブリッジ大学で、ピーター・ラスレットと出会います。

ラスレットはその頃、研究グループを立ち上げ(the Cambridge Group for the History of Population & Social Structure)、歴史人口学、中でも統計的な手法による家族や世帯の研究に熱中していました。

ここで、トッドは家族研究に出会うのです。これで、トッドの理論の核となる3要素、①心性、②家族、③教育のうちの2つが揃いました。

トッドはラスレットの下で学び、博士号を取得します(1976年。論文タイトルは「工業化以前の欧州における七つの農民共同体。フランス、イタリア及びスウェーデンの地方小教区の比較研究 (Seven peasant communities in pre-industrial Europe. A comparative study of French, Italian and Swedish rural parishes) 」)。

一方で、トッドとラスレットの間には当初から「根本的な不一致」(『世界像革命』108頁)があったこともじじつのようで、博士論文も反ラスレット的探究の産物です。

ラスレットは当時、イギリスの家族が17世紀にはすでに個人主義的で核家族であったことを発見したところでした(同前)。歴史学および一般の常識は、家族制度は「農村時代の大家族→工業化→近代的核家族」という過程で「発展」すると考えていたので(マルクスやヴェーバーが作り上げた歴史観のようです)、「工業化以前の核家族」は大きな発見でした。

「イギリスでは農村時代から核家族が普通だった」という発見の後で、何を構想するか。ここに、ラスレットとトッドの「不一致」がありました。ラスレットの方は、「ヨーロッパ中で(工業化以前から)主要な家族形態は核家族であったに違いない」と考えたそうです。「彼は一時、過去の農民大家族というのは全くの神話であると宣言し、核家族をあらゆる時代、あらゆる場所に支配的な普遍的組織様式の地位にまで高めようとしたのである。」(『家族システムの起源1上』22頁)

これに対し、トッドの方は、「ヨーロッパには多様な家族制度があったに違いない」と考え、ヨーロッパ各地を探し回った。

この点に関してはトッドの勝利(?)で、彼は実際に多様な家族制度を発見し、上記の論文を書きました(私は未読です)。これがのちの「発見」の基礎の一つとなるのですが、それはまだ少し先の話です。

  • ソルボンヌで「心性史」に触れる。
  • ケンブリッジで「家族研究」に出会う。

エドマンド・リーチの「酷評」ーアカデミアとの不和のはじまり

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ところで、トッドは、博士号を取得した後、研究者としてケンブリッジに残ることを希望していたようです。もし希望が叶っていれば、トッドは大学で研究職につき、アカデミアの一員としてキャリアを重ねていたかもしれません。しかし、大学に残る第一歩、研究員となるための審査の過程でエドマンド・リーチ(写真。人類学の大御所です)に論文を酷評され、その道は絶たれます(トッドは「これがその後も続くことになる私と大学機関との衝突の始まり」だったと述べています。(事実関係を含め『エマニュエル・トッドの思考地図』113頁))。

審査委員の三人のうち、リーチ以外の二人はトッドの論文を高く評価したということですから、彼の論文のクオリティに大きな問題があったわけではないでしょう。しかし、リーチは「酷評」し、「こんな研究を続けるのであれば博士号を授けてはダメだ」とまで言った。

トッドはリーチを「非常に尊敬していた」と言っていますが、その後のトッドの研究を知る者から見ると、リーチがトッドの研究に対して感情的に反応した理由はわかるような気がします(もちろん「気がする」だけです。人類学の専門の方に意見を聞いてみたい)。

トッドとリーチはどちらも家族システムや政治システムに関心を持っていますが、方向性はまったく違います。

研究の中で家族システムを用いるときのトッドの態度は基本的に「統計学者」のものです。教会に残る古い資料を集計して往時の家族システムを蘇らせることに喜びを見出したり、リーチのような人類学者が書いた文献をもとに家族システムを分析・分類し、家族システムと政治的イデオロギーとの関連性を解析したり。もちろん、彼は「事実」に関心を持っているのですが、この領域での彼の情熱は、深層にある真実を、統計データから探り出すことにあるのです。

統計学者として人類学データを扱うトッドの手つき、枝葉を削ぎ落としたデータから政治的イデオロギーを論じ、今すぐ歴史の書き換えにすら乗り出しかねない。そんな青年トッドの姿勢が、フィールド・ワークを事とし、慎重で粘り強い調査から社会の構造を見出し変化を跡づけようとしてきた、定年間際のリーチにどう映るか。

「何も分かってない」「こんな研究を続けるなら辞めてしまえ」とムカっ腹を立て、申請を却下する。大いにありそうなことではないでしょうか。

ともかく、トッドは、リーチによって大学に残る道を断たれ、フランスに帰国することになるのです。

エドマンド・リーチに否定され、大学に残る道を絶たれる 

1976 「最後の転落」出版 ー奔放な学問が始まった

1976年は、トッドの最初の著書「最後の転落」(La Chute Finale)が出版された年です(日本での出版は2013年)。

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これはトッドの「大発見」以前の著書であり、分析手法も「発見後」のものとはいくらか異なりますが、ともかく、冷戦の真っただ中、西欧諸国がソヴィエト連邦を超大国と見ていたそのときに、共産主義体制が崩壊の過程にあることを論じ、のちに「予言者」の名声とともに彼の名を世界に知らしめることになった本です。

大変面白い本ではありますが、中身は本講座にとっては重要ではありません。しかし、出版をめぐる経緯は、トッドのフランス社会での立ち位置を理解するという目的のために興味深いものです。

この本は、トッドの博士論文とは基本的に無関係です。彼は博士論文を書き上げた後、ハンガリーを旅行しました。そこで「現実の共産主義の物質的貧弱さ」を眼前にした後、パリに戻り、「偶然」ソ連で乳児死亡率が増加に転じていることを示すデータを目にする。かつて共産党の党員であり、共産主義の行く末に大いに関心を持つ彼は、「ソ連邦と共産主義が崩壊に向かっている」という直感を形にしたいという欲求を抱き、唐突に「最後の転落」の原稿を書き上げるのです(『最後の転落』10頁以下)。

問題はここからです。

まだ何者でもない、25歳の若者が書いた本が出版され、評判を取るというのは普通のことではありません。トッドの非凡な能力のゆえであることはもちろんとしても、もう一つの要素を指摘しないわけにはいかないでしょう。

トッドは手ぶらで書いたその原稿をどうしたか。
ケンブリッジの指導教員に見せたらお蔵入りになったに違いないこの原稿を、トッドは、ジャーナリストである父オリヴィエに見せるのです。

原稿を読んだオリヴィエと彼の友人(ジャン=フランソワ・ルヴェル(哲学者・政治批評家))が「面白い」と評価し、話をつないだことで、この本は権威ある出版社から出版されます。本は話題となり(「トッド自身を語る」74-76頁)、トッドはテレビ出演もしたそうです(『最後の転落』11頁)。つまり、本の出版(と、おそらくは「成功」)には、トッドが、知的エスタブリッシュメントの世界の子息であったという事実が大きく関わっているのです。

この辺りのことを、トッドの恩師の一人であるル=ロワ=ラデュリは「最後の転落」の批評の中で次のように書いています。

若き歴史学者が、その出発点において、かくも鋭敏で、かくも広大で、かくも大胆な本をものするのは稀である。「大御所たち」はそのことで、トッドに苦言を呈するだろうか。おそらくそんなことはすまい。有り難いことに、いまは1950年ではない。あの頃は、歴史研究者が40歳を過ぎるより前に最初の本を出版するのは、フランスの大学では時として良く見られなかったものだ。トッドは毛並みが良いから、すでに15年も得をしたわけである。
                                    『ル・モンド』1976年12月10日                    
                                                                                             

『最後の転落』439頁

この本は大変よく売れ、毀誉褒貶の渦を巻き起こしますが、やがて(多くの話題書と同様に)忘れられます。彼が「予言者」の名声を得るのは、現実にソ連が崩壊し、この本が再販された1991年以降のことです。

しかし、この本の商業的成功により、トッドは「売れる著者」としての地位を手にします。専門主義と形式主義(査読誌への論文掲載数や引用数が評価の指標となるような事態を指しています)が蔓延る、20世紀後半以降のこの学問世界において、25歳のトッドは、一人で執筆した学術的作品をいきなり著書として出版するという途方もない権利を我がものにするのです

実際、これ以降の彼の研究の成果物は、学術誌への掲載というステップを経ることなく、つねに著書として出版されていきます(トッドは大学に残ることこそできませんでしたが、博士号を取った研究者であり、まもなく国立人口学研究所という研究機関の研究員となるのですから、論文を学術誌に掲載することは可能であったはずです)。

このことは、おそらく、アカデミズムの世界で彼が受けた冷遇と無関係ではないでしょう。上述のル=ロワ=ラデュリのコメントには、「大御所たち」を牽制することで若きトッドが経験するであろう苦労を和らげようとする老婆心が見て取れますが、果たしてそれが功を奏したかどうか。

しかし、トッドが得たこのポジションが、アカデミズムの枠に囚われない、自由で奔放な学問を可能にした大きな要因であることは疑いありません。これ以降、トッドは、まるでエンゲルスの支援を得たマルクスのように、次々と問題作を世に問うていくことになるのです。

  • 『最後の転落』の成功で「学術的著作をいきなり本として出版する権利」を手にしたことが、アカデミズムの枠に囚われない活躍の大きな要因となった。