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デモ指数:カナダ反ワクチン義務化デモに見る家族システムとデモ

 

カナダのトラック運転手による反ワクチン義務化デモ1Freedom Convoy 2020 と呼ぶらしい。1月15日に(アメリカからの)再入国時のワクチンパスポート提示が義務化されたことに抗議して始まった。裁判所の解散命令後も続いていたが2月13日までに警察が強制的に解散させた模様。世界各地に飛び火があったが、一番激しい連帯の動きを見せたのはフランスとベルギーだった。

カナダ、パリ、ブリュッセル。どこも、フランス的な平等主義核家族の匂いを感じさせる地域である。デモの発火点であるオンタリオ州はフランス語話者の多い地域。ブリュッセルは、平等主義核家族ではないが、相続慣習の平等性が確認されている地域である(エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)58頁参照)。大変興味深いので、かねてから温めていた(家族システムに基づく)「デモ指数」を算出してみることにした。

1 算出方法

デモとは、①権威に対する抵抗の意思を、②市民たちが連帯して、③公共の場で表現する行為である。

そこで、家族システムとイデオロギーの相関性に関するトッドの定式を用い、①~③を以下のように数値化した。

①親子関係:自由主義的→1点 権威主義的→0点

親子関係は縦型の権威関係の有無を指示する。この文脈では、親子関係の自由主義は権威に対する異議申し立てが容易であることを示し、権威主義は困難であることを示すと考えられる。

②兄弟関係:平等→1点 不平等または非平等→0点

兄弟関係は市民同士の関係性を指示する。兄弟関係の平等は市民間の平等、この文脈では連帯の形成の容易さを示し、不平等は市民間の不平等すなわち連帯の困難さを示す。

③婚姻システム:外婚制→1点 内婚制→0点

婚姻システム変数のこのような使い方は私の独自解釈であることをお断りしておく。

私の考えでは、婚姻システムの外婚制と内婚制は、感情表現や意思表示の在り方と大いに関わっている(さしあたりこちらを参照)。

外部の人間と関わらなければ婚姻できないシステムの元では強く明確な意思表示・感情表現が一般化し、近親との婚姻が許され比較的狭いコミュニティ内部での婚姻が一般的なシステムでは、強く明確な意思表示・感情表現はむしろ忌避されるという考えに基づき点数化した。

2 デモ指数

絶対核家族:親子関係は自由主義的であり、権威に異議申し立てをする能力は高いが、兄弟関係の平等には関心がなく、連帯はさほど得意ではない。

平等核家族:親子関係は自由主義的、兄弟関係は平等。市民が連帯して権威に物申すという、デモに最適なメンタリティを持つと考えられる。

直系家族(外婚):親子関係の権威主義、兄弟間の不平等から、デモへの指向性は低い。しかし、意思表示の傾向は外向的(外に向けて明確に表現する傾向)なので、内婚直系家族よりはデモ力が高いといえる。

直系家族(内婚):親子関係は権威主義的、兄弟間は不平等である上、意思表示の傾向は内向的(外向きの明確な表現を好まない。というか「しない」)。デモへの指向性は最も低い。

共同体家族(外婚):縦型の権威が非常に強い一方で、兄弟は平等であり、意思表示傾向も外向的。「いざ」というときには連帯して行動できるメンタリティ。

共同体家族(内婚):縦型の権威が強いが、兄弟は平等。意思表示傾向は内向きと思われるので、デモ指数は下から二番目。

3 所感

デモが一番得意なのがフランスで、一番苦手なのが日本という非常に納得できる結論になりました。

ちなみに、直系家族で内婚制(いとこ婚が認められている)なのは、これまで明らかになっている地域の中では日本だけです。

デモが活発でないことが、日本に民主主義の弱さの表れのように言われることがありますが、多分そういうことではない。フランスと日本では、違うシステムの民主主義が通用しているということなのだと思います。

デモが活発になることはよいことだと思います。しかし、この「デモ指数」の低さは、日本社会にとっては所与の前提と考えなければなりません。より自由でより民主的な社会を目指すわれわれとしては、日本社会のシステムを受け入れた上で、多くの人が容易に実行できる方法を考えていくのが建設的だと思います。

私の腹案は後日。

(2022年2月 satokotatsui.com 初出)

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内婚と外婚ー日本と韓国

内婚と外婚

エマニュエル・トッドが家族システムの分析に使う変数の一つに「内婚と外婚」というのがある。

近親婚(いとこ婚)を許容するのが「内婚」、許容しないのが「外婚」だが、キリスト教が近親婚を禁じているので、ヨーロッパには内婚の地域は存在しない。日本はいとこ婚OKの内婚、韓国は外婚である。

婚姻の制度は、人類学が重要視するファクターの一つで、トッドは、近代国家のイデオロギー体系と家族システムの関係を論じた「第三惑星」(『世界の多様性』所収)では、外婚制の共同体家族と内婚制のそれを分けて論じている。イデオロギー体系という文脈では、共産主義世界(外婚制)とアラブ世界(内婚制)を区別しないわけにはいかないからである。

これに対し、直系家族における外婚と内婚については、意識はされているが、立ち入った検討はなされていない。日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった主な対象国は、いずれも、資本主義を採用する(権威主義的な)民主主義国家であり、イデオロギー体系としての区別の必要には乏しいからだろう。

日本と韓国ー類似点と相違点

日本と韓国は、共通の人類学システム(直系家族)を持っている。共通点の多くーー目上への敬意、祖先信仰、歴史意識の強さ、女性の地位の低さ、みんなと一緒が安心、等々ーーは、それによって説明できる。他方で、両国の国民の平均的な態度には、はっきりと目に見える違いもある。

それは、意思表示、感情表現の仕方である。韓国の人たちは、好き嫌いや意見をはっきり大きな声で口に出すし、喜怒哀楽の表現も激しい。日本人とは「正反対」といってもいいほどである。この違いは、いったいどこから来ているのであろうか、と考えたときに、想起されるのは、当然、外婚と内婚の相違である。

「外婚と内婚か、ふうむ‥」と考えてみると、まあ、何となく、外婚だとアウトゴーイングになり、内婚だと消極的になる、というような感じはする。しかし「そんなことで説明していいものかねえ‥」というようにも思われ、「なんかちょっとピンとこない」というところで、長らくほったらかしにしてあった。

それが、この夏(2021年)、オリンピックのバドミントン女子ダブルス準決勝(日本ー韓国戦)を見ていたら急にピンと来て、「おお、そうか!」というところまで行ったので、書き留めておきたい。

オリンピック バドミントン女性ダブルス準決勝 日本ー韓国戦

ナガマツペア(永原和可那、松本麻佑)対 金昭映、孔熙容ペアの試合だったが、どっちが誰だったかは覚えていない。ただ、一人の韓国選手と一人の日本選手の感情表現があまりにも両極端で、非常に強い印象を受けたのだった。(以下、記憶で書くので、勘違いや誇張があるかもしれません。)

韓国選手の二人は、得点するたびに、いちいちびっくりするほどの甲高い声で、「キャー」(とはたぶん言ってない)と叫び声を上げる。とくに一人の選手の闘争心あらわな様子が目についた。一方、日本選手はどちらも一言も発せず淡々とプレーをするのだが、とくに一人の選手は、ストイックと言うか、心の中で自分を責めるようなというか、闘争心を完全に自分の内側に向ける様子は、見ている方が苦しくなるほどだった。

どちらも女性だったので、婚姻にからんだときのふるまいが想像しやすく、「なるほど、たしかにこうなる!」と合点がいったのだ。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」が、養蚕と藍の生産を生業とする狭い地域内でみんなが結婚していく内婚チックな話だったのも、大いに助けになった。

外婚制・内婚制と女性のふるまい

外婚制というのは、結婚相手を自分の親族のネットワークの外から見つけてこなければならない、という仕組みである。農村時代には「見つけてくる」のは基本的に男性側の仕事なので、女性についていうと、外婚制の下では、女性は「ネットワーク外の男に見つけられる」必要があり、「よく知らない土地に嫁に行ってやっていく」のが基本だということである。

他方、内婚制というのは、直系家族の場合、「親族(いとこ)と結婚してもいい」ということであるが、この制度が示唆しているのは、全体として、割と狭い社会の中でやっていくのがスタンダードだということであろう。渋沢栄一は従妹と結婚しているが、長い間、身内に近い者たちで土地を守り、生業を守ってきた村には、まったくの他人なんていないのだ。

さて、このように仕組みが違うと、女性たちのふるまいはどう変わるでしょうか?

外婚制の場合、見知らぬ土地の者(男の親族であることが多いだろう)に見つけてもらわなければならないので、女性はとにかく自分の美点を前面に押し出す必要がある。鮮やかな色の服とメイクで美を強調し、性格のよさを表情や仕草で明瞭に表し、役に立つ人間であることを言葉とふるまいではっきり示す。そうすることで、外部の人間の間で、評判を取ることが肝心だ。

結婚した後も同じである。彼女は、よく知らない者たちと暮らしていくわけなので、何か言いたいことがあれば、自分がはっきり言葉にして伝える必要がある。隣に住んでいる親族がいつも様子をうかがっていて、「もうちょっとあの娘のことも考えてやってくれないかねえ」と仄めかしてくれたりなんかしないのだ。

他方の内婚制の場合である。親族の延長線上にある狭い社会の中で結婚するということは、基本的に、子供の頃から知っている人たちの内部で婚姻関係を結ぶということだ。器量や性格なんて、みんな知り尽くしているのである。

このような社会では、自分の長所をアピールする必要はないし、意見を言うことも好まれない。その反対に、総領息子の嫁に相応しい資質、つまり、華美を好まず、余計なことを言わず、理不尽にも抵抗せず、我慢強く、気が利き、働き者で‥‥といった在り方こそが、求められるはずである。

男性の場合も、直系家族では「息子」というポジションのままで結婚するわけなので、男女に求められる役割の違いを除いては、大体同じようなことが言えると思われる。

ほかに、日本の人が、周囲の目を非常に気にする点(ドイツや韓国はそうでもないように見えますが、どうでしょうか)なども、「内婚」傾向と関係しているような気がする。

おわりに

いかがでしょうか。

私は割と納得しました。

日本人から見ると、韓国の人たちの感情表現には引いてしまうこともあるし、一方で、堂々と意見を言えるのはうらやましくもある。韓国の人は、日本の人が何も言わないのでイラッとする一方、まあ、何かうらやましく感じるようなこともあるかも知れない。

そんな違いは、日本と韓国が、近くて、似ている面もたくさんあるだけに、「何かちょっと‥‥」と思ってしまったりしがちである(韓国の人だともっとはっきり何かを思うのでしょうか‥‥)。

でも、お互いに、「ああ、なるほど、そういうことなのか」と思えれば、だいぶ違うのではないだろうか。ふるまいの違いは、個人の性格とかではなくて、社会のシステムに基づいて、体系的に定まっていることなのだと納得できれば、「へえ」と、単に面白がって眺めることができる(はずである)。なぜなら、それは、日本人である自分がもし韓国に生まれ育ったら、また、韓国人である自分が日本に生まれ育ったら、必ずや、そのようなふるまい方を身につけていたであろう、ということを意味するのだから。

家族システムというのは、配偶者を得て子供を作って育てるということを超えて、「一定の地域で配偶者の交換をするもの」だから、家族システムの概念には最初から地域の概念が含まれている、家族システムとは「地域における家族的価値観」のことなのだ、とトッドは(『不均衡という病』の巻末インタビューの中で)言っている。

地域における配偶者交換システムの重要性を考えれば、内婚か外婚かがその地域の人々のふるまいに大きな影響を与えるというのは、非常にありそうなことだと思われる。

(2021年10月 satokotatsui.com 初出)

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トッド入門講座

ヨーロッパのキリスト教
(4・完)脱宗教化 

 

1 カトリック地域では何が起きたか

プロテスタンティズムが直系家族地域に浸透し、絶対核家族地域では「変形」を被っていた頃、プロテスタンティズムを拒否した地域では何が起こっていたのでしょうか。

第2回で書いたように、ドイツの隣国フランスでは、プロテスタンティズムは、パリ盆地などの平等主義核家族地域には浸透せず、フランス内の共同体家族地域もカトリック側に付きました。

フランスの一部と並び、識字化が進んでいたにもかかわらずプロテスタンティズムを撥ねつけた地域を代表するのは、北部および中部イタリアです(北部は「絶対」ではない核家族だが、ローマは平等主義核家族、それ以外の中部イタリアは共同体家)。

*平等主義核家族と共同体家族はいずれも(ざっくり言うと)「ローマの遺産」なので、両者は地理的に近接しているのが普通です。この件についてはこちらをご参照ください。 
*なお、南イタリアは平等主義核家族ですが、文化的な遅れ(識字率の低さ)のために対抗宗教改革の中心地にはなっていません。

家族システムもさることながら、「当時のイタリアはローマとイコール」(『新ヨーロッパ大全 I』140頁)であり、ヴィッテンベルクがプロテスタンティズムの中心地であるのと同様、イタリアはカトリシズムの中心地なので、プロテスタンティズムが浸透する余地はないのです。

そこで、イタリア、そして、フランススペイン(の識字率の高い部分)は、その文化的な進歩性により、対抗宗教改革の中核を担うことになりました。

北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以って阻止するのである。

『新ヨーロッパ大全 I』150-151頁

彼らは、天上での自由と平等を守るため、ルターの予定説に対抗する教義を練り上げ、教会および聖職者勢力とは妥協して共存する道を選びます。

ところが、この選択は、思わぬ副作用をカトリック地域にもたらすことになりました。文化的進歩のスピードが、目に見えて低落したのです。

プロテスタンティズムは、信徒に自ら聖書を読むことを求めます。そのため、プロテスタンティズムは通常は識字率の高い地域に浸透し、そうでない場合には直ちにその地域の識字率を上げる。

これに対抗するカトリシズムは、聖職者以外の者に「読む」ことを事実上禁じます。

プロテスタントの文化的進歩主義に対して、カトリシズムは書物への紛う方なき憎悪によって素早く反応する。早くも1559年にローマ教会の異端審問所は、キリスト教徒の宗教的純血を守るために、読むことを禁じた書物を列挙した「禁書目録」の第1版を発表する。「目録」は、知的官僚主義の驚嘆すべき顕現に他ならないが、文字で書かれたものに対するカトリシズムの敵意のほんの一要素にすぎ[ない。]

‥‥実は、教会はあらゆる印刷物を脅威とみなしているのだ。カトリック圏には、ひとりでものを読む人間に対する猜疑の態度が一般に広まっている。聖書を所有するということそれ自体、ほとんど異端の兆候なのである。

181-182頁

1500年以前、文字文化の中核は、ベルギードイツ圏南部北イタリアでした。

このうち、プロテスタンティズムの中心地となったドイツは、さらに精力的に識字化を推し進め、1670年には世界初の男性識字率50%超えを達成します。

ところが、カトリック陣営に残ることを選択したベルギーイタリアの文化的発展は減速し、ヨーロッパの中では中くらいの凡庸なアクターに成り下がってしまう。

スウェーデンスコットランドがプロテスタントを受容したことによって識字先進国となったのと正反対に、ベルギーイタリアは、カトリックにとどまったことによって、先進国であることを止めるのです。

*フランスにもその面がありますが、ドイツ圏に近いことと、国内に直系家族地域があることでイタリアより有利であったと考えられます。「カトリック地域にとっては、文化的発展は、外部からの影響による外因性の過程となるのである。北フランスは、識字化の進んだドイツ圏に近く、地理的にイタリアより有利な立場にあったわけである。」(182頁)

*イギリスはプロテスタントですが、核家族なのが不利な点で、識字においてドイツ、スウェーデンに遅れをとった理由と考えられます。識字における直系家族の寄与についてはこちらをご覧ください。 

対抗宗教改革の中核となった地域は、カトリックにとどまったことにより、文化的先進地域であることを止める

2 脱宗教化の謎

宗教改革の決着が付くと、次のビッグイベントは、信仰そのものの放棄、脱宗教化です。

脱宗教化が近代化に付随する現象であることに疑問の余地はありません。したがって、普通に考えると、脱宗教化の時期は、識字化あるいは産業革命(工業化)等の時期と一致することになりそうです。

しかし、実際はそうではありませんでした。

脱宗教化の時期

第1期(1730-1800)
パリ盆地のフランス、中部・南部スペイン、南部ポルトガル、南イタリア

第2期(1880-1930)
イングランド、ドイツ圏、北欧

第3期(1965-1990)
ベルギー、南ドイツとラインラント、オーストリア、スイス、フランス周縁部、北部・中部イタリア、北部スペイン、北部ポルトガル
 

〔脱宗教化:進行過程の特徴〕

ヨーロッパにおける脱宗教化の進行過程には、2つの特徴が見て取れます。

第一に、その信仰崩壊の過程は、連続的ではありません。集中的に信仰が崩れる3回の「崩壊期」を経て、最終的に脱宗教化が完成する。

第二に、信仰崩壊の速さは、文化的ないし経済的発展とはリンクしていません。

いち早く脱宗教化したのは、識字・工業化のどちらも中程度であったフランスで、これに続くのは、スペイン、ポルトガルといった低開発国です。

これよりだいぶ遅れて、工業化先進国であるイングランド、識字先進国のドイツ北欧が脱宗教化を果たす。そして、この時期を乗り切った地域は20世紀後半まで、脱宗教化を持ち越すのです。

スウェーデン90%
プロイセン80%
スコットランド80%
イングランド65-70%
フランス55-60%
オーストリア・ハンガリー55-60%
ベルギー50-55%
イタリア20-25%
スペイン25%
1850年頃の識字率(『世界の多様性』331頁:資料 C.M.Cipolla, Literacy and Development in the west, London, Penguin, 1969, p115)
*脱宗教化の測定
 地域の住民にとって宗教が重要なものでなくなったという事実をどのように測定するのか。カトリックの場合、教会を通じた宗教実践の熱心さ(日曜のミサへの出席、幼児洗礼の比率、宗教結婚のパーセンテージなど)を基準にすることができます。聖職者の権威を否定するプロテスタントでは、ミサへの出席率の低さ、牧師の数の少なさは、それ自体では、不信仰の証にはなりません。しかし、ミサへの出席率や牧師の数を経年で比較して、急激な低落が見られるとすれば、それは充分な指標となるでしょう。

脱宗教化は3回に分けて断続的に進行。順番は文化的・経済的発展の度合いとは無関係だった

3 脱宗教化の仕組み

脱キリスト教化の過程が複雑な様相を呈するのは、キリスト教信仰の分解要因と抵抗要因とが存在し、その両方が1730年から1990年までに期間、同時に作用したからに他ならない。プラスの要素とマイナスの要素がぶつかり合い、宗教に関するそれぞれの地域の独特の運命が決定されるわけである。

『新ヨーロッパ大全 I』199頁

(1)信仰の解体要因と抵抗要因

脱宗教化の過程は、次の二つの要素を考慮することで、ほぼ説明し尽くすことができます。

1 信仰の解体要因:科学革命
   ①ニュートン革命(17世紀後半)
   ②ダーウィン革命(19世紀後半)
   

2 信仰の抵抗要因:信仰の強度
   ①家族システム
   ②農地制度(大規模農業経営の有無)
 

科学革命は、伝播にかかる時間や、受け手となる識字層の厚みなどによる相違はありますが、ある程度均等な作用を各地に及ぼします。

しかし、科学革命という作用に対する各地の反応は大きく異なる。それは、もともとの信仰の強度が、地域によって異なるためです。

(2)「信仰の強度」の決定要因

信仰の強度は、家族システムによって、第二に、農地制度(大規模農業経営の有無)によって決まります。

〔家族システムと信仰の抵抗力〕

親子関係
(権威 1 / 自由 0)
兄弟関係
(不平等 1/ 平等 0)
信仰の強度
直系家族112
絶対核家族011
共同体家族101
平等主義
核家族
000

神のイメージには、地上における父親のイメージが反映されるため、親子関係が権威的であるシステムでは神も権威的(強いイメージ)となり、自由主義的なシステムでは神も自由主義的(弱いイメージ)となります。

信仰の強度には、兄弟関係も影響します。神の権威を支えるのは、神の超越性(「人間とは異なる」)の感覚です。人間同士が不平等であるシステムは、神の超越性に疑問を持ちませんが、人間同士が平等であるシステムは「なぜ神だけが特別なのか?」という疑問を持ちやすい。その意味で、兄弟関係の不平等は権威を下支えし、平等は権威を掘り崩す作用を持つということができます。

親子関係、兄弟関係の指標を数値化すると、信仰の抵抗力がもっとも強いのが直系家族、もっとも弱いのが平等主義核家族となります。

〔農地システム:大規模農業経営の有無〕

大規模農業経営(直系家族の伝播の話で一度出てきました)とは、農民が自分の土地を持たず、他人の土地を耕して得た賃金で生活する仕組みです。

経済的な独立性の喪失(例えば自作農→工場労働者)が宗教感情の衰退をもたらすというのはウェーバー以来の命題ですが、ウェーバーが経済的自律性と「(地上および彼岸における)運命に対する感受性の強さ」とを結びつけたのに対し、トッドは、家族における父親のイメージの変化に着目した説明を試みます。

経済的独立は、家族を‥‥父親を企業主とする自律的生産単位にする。ところが‥‥賃金制度は家族から生産機能を奪い、‥‥消費単位の役割に押し込めてしまう。父親は家族の主ではあるが企業主ではない。‥‥父親の影響力は、子供の目にも見える日常の経済的決定の中に具体的な形を取って現れることをやめる。‥‥賃金制の下では父親の権威はより遠いものとなり、感情的な分野に限られてしまい、それさえもしばしば、家にいることの多い母親に中継されることとなる。経済的依存は父親の権威を抽象的なものにする‥‥。‥‥要するに賃金制は、工業においてであれ農業においてであれ、父親のイメージを脆弱なものとし、その結果、その反映に他ならない神のイメージを脆弱なものとするのである。

『新ヨーロッパ大全 I』208頁

大規模農業経営はそれ自体家族システムと相関性があり、大抵は核家族と結びついています。したがって、大規模農業経営は、核家族地域の神の「弱さ」に拍車をかけ、宗教を脆弱化させる要因として働くわけです。

信仰の強度が最も弱いのは、平等主義核家族 + 大規模農業経営

4 平等主義核家族の脱宗教化
(1730-1800)

そういうわけで、ヨーロッパにおける最初の脱宗教化が起こるのは、パリ盆地のフランス中部・南部スペイン南部ポルトガル南部イタリア。地図の通り、「平等主義核家族+大規模農業経営」の地域とぴったり重なっています。

1730-1800年という時期は、ごく大雑把にいえば、「ニュートン革命後」の時期にあたります。

「信仰の動揺」に着目すると、17世紀の中頃から、神の存在を合理的に証明しようという試みが増加する。1641年にはデカルト(『形而上学的省察』)、1657-58年にはパスカル(『パンセ』)が、この問題に挑みます。

もちろん論法はデカルトのとは異なっていた。しかし不安は同じだった。神は存在しないかもしれないという不安である。‥‥信仰によってはもはや到達できないものを数学者たちが証明しようとする、というのがこの経緯の特徴なのである。

『新ヨーロッパ大全 I』202頁

イギリス知識人の間で理神論が活発化したのは1690-1740年の間、「この理神論は、その後、万有引力の法則とともに大陸に渡り、フランスで先鋭化され、最終的には何人かの手によって無神論に作り変えられる。

18世紀、啓蒙期のフランスにおいて、伝統的な宗教の破壊は知識人の使命となり、「エリートの無宗教はヨーロッパ中に広がっていく」。

もちろん、ニュートンに代表される科学革命を受けた啓蒙期の理神論・無神論の影響を受けたのは、貴族やエリート層、ブルジョワ、聖職者といった都市の住民だけです。

カトリック陣営に属するこれらの地域では、識字率の上昇も緩慢で、農村の人口が啓蒙思想に感染するおそれはありません。それなのに、なぜ、脱宗教化が完了してしまうのか。

それは、これらの地域では、もともと、都市の住民だけがカトリックの信仰を支えていたからです。

平等主義核家族+大規模農業経営のこの地域では、農村の住民はそもそも信仰に無関心だった。

都市の識字層は対抗宗教改革に燃えたが、実のところ、彼らの抱く神の像は、自由主義的で平等主義的な弱々しいものでしかなかった。

こうして、これらの地域では、科学革命の衝撃によって、あっさり信仰が崩壊することになったのです。

*農村がカトリシズムに無関心であったという事実を、トッドは当時の新任聖職者の採用数のデータから導いています。同じフランスでも非大規模農業経営の地域では中流農民層から多くの聖職者が排出されているのに対し、大規模農業経営の地域では聖職者のほとんどが都市部から排出されている。この構造はスペイン、ポルトガル、イタリアでも同様に見られるそうです(219 頁)。

農民が宗教に無関心な地域(平等主義核家族+大規模農業経営)は、
科学革命の衝撃(→啓蒙思想の流行)であっさり信仰が崩壊

5 プロテスタンティズムの再活性化と
崩壊(1740-1930)

(1)プロテスタンティズムの再活性化

さて、平等主義核家族+大規模農業経営の地域でカトリック信仰が大打撃を被っていた頃、プロテスタンティズムは再活性化の時期を迎えていました。

理神論や無神論が流行したとしても、それはごく一部のインテリの間での現象に止まり、都市の一般市民、とりわけ農村の庶民たちに及ぶものではなかった。

そして、近代化に伴う「不安」は、かえって、信仰の一時的活性化をもたらしました。

イギリスでは産業革命の野蛮な第一局面のせいで、全般的不安が広がり、それが信仰の一時的再生をもたらすことになる。大陸では、イギリスの産業革命の半世紀後に始まったフランス革命が、それとは異なるタイプの恐れ、それとは別の信仰と形而上的安全の保証への欲求を生み出し、それが伝統的信仰の目覚めという同じ解決策に結びつくことになる。

223頁

なお、近代化の過程における伝統的信仰の活性化は一般的な現象で、比較的最近の事例はイスラム圏における原理主義の伸張に見られます。イスラム主義が高らかに掲げられ、女性の抑圧が強まったとしても、そのことは、彼らの近代化を疑う理由にはならない。

宗教の退潮と原理主義の伸張が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。神の疑問視と再確認は、同じ現実の二つの面に他ならない。

『文明の接近』53頁

(2)続・イングランドのプロテスタンティズム

前回イングランドのプロテスタンティズムについてやや詳しく扱ったので、ここでもイングランドの事例で「活性化」の様相を追いたいと思います。

イングランドは、アルミニウス主義による変形を経て、地上でも自由、天上でも自由という最強の自由主義プロテスタンティズムを確立していました。

そのようなところで信仰が活性化すると何が起きるかというと、教団が分裂するのです。

真のプロテスタント信仰は、個人のレベルでは、‥‥回心を経験したという気持ちを持つことを前提とする。選ばれたものの回心は、ほとんど自動的に分裂を促進することになる。特に、組織内の規律に価値を付与しないアルミニウス派的気質の国では、その傾向は一層強まる。

プロテスタント国においては、教団分裂とは生命力が横溢していることを示す生のしるしに他ならない。所属教会から分離するということは、創始者たち、つまりルターとカルヴァンの物語を再び演じ直すこと、要するに自分をもう一度「改革派」として定義し直すことなのである。

223-224頁

そういうわけで、18世紀から19世紀にかけて、イギリスやアメリカでは、プロテスタントの教団が濫立します。

イギリスでは、1739年にメソジストの創始者の一人であるジョン・ウェスレーが説教を始めます。

“John Wesley,” by the English artist George Romney

同じくメソジストの創始者であるジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield)は予定説を巡ってウェスレイと袂を分ち、ウェールズにおけるカルヴァン派メソジストの源流となる。

さらに、ウェスレイ・メソジストからは「ホーリネス運動」とともにホーリネス教会が生まれる、というように、どんどん分裂します。

メソジスト運動は16-17世紀にイギリスで生まれていた多数の宗派とともにアメリカに伝わり、宗教心が高揚して「目覚め」を経験した人たちは、さらに新たな宗派・運動を生んでいくのです。

こうした動きは、イギリスオランダスコットランドウェールズでは顕著で、ドイツでは「ほとんど目につかない」。スウェーデンデンマークノルウェーでは「測定可能」ということです。(権威主義の度合いと連動しているように見えますが、どうでしょう。)

(3)プロテスタンティズムの崩壊

しかし、一時的に活況を呈したプロテスタンティズムの信仰は、1880年から1930年の間に崩壊していきます。

この度の「崩壊期」をもたらしたのは、ダーウィン『種の起源』の公刊(1859年)でした。 

 

Charles Darwin (1809-1882)(public domain)

聖職者の権威を否定し、自ら聖書を読むことを大切にしたプロテスタントの人々は、旧約聖書の冒頭に書かれている天地創造の神話を、暗唱できるほど、繰り返し読んでいたはずです。

‥‥聖書を宗教的実践および反省の核心に据えるプロテスタンティズムにとって、自然淘汰説はとりわけ厳しい打撃となった。創世記を論破するというのは、聖書全体に疑惑の種を撒くことだった。プロテスタンティズムをその核心で掘り崩すことだったのである。

227頁

信仰を保持していたカトリック地域にはさしたる影響を与えなかったダーウィンの革命は、聖書を読むことに立脚していたプロテスタンティズムに、即時的かつ壊滅的な影響を与えたのです(どの地域でも、危機は1880年から1910年の間に開始しています)。

近代化にともなう「不安」を糧に再活性化したプロテスタンティズムは、
ダーウィンに天地創造神話を否定され、あえなく崩壊

(4)信仰崩壊の余波

多少の時間差はあったものの、プロテスタンティズムはすべての地域で一様に崩壊します。

しかし、信仰崩壊が社会に与えた影響(心理的ダメージ)は、地域によって大きく異なりました。それは、同じプロテスタントでも、それぞれの地域によって「神」のイメージが全く違ったためです。

ドイツ
(正統派)
イギリス
(アルミニウス説)
予定説
・神への絶対服従
・権威と不平等
予定説を緩和
・自由な行為による救済可能性の導入
・自由と非平等
強大な権威を持ち
理不尽を押し付けてくる神
多少気まぐれだが
自由を尊重する神

〔ピューリタンの「神」〕

プロテスタンティズムを受容した絶対核家族地域が生み出したアルミニウス説。その信仰を持つ人々にとって、神とはどのような存在だったのでしょうか。

正統プロテスタンティズム(ルター派・カルヴァン派)において、神の権威は強大です。神は人間には理解できない理由で一部の人間を予め選択して救済を与え、それ以外の人間には劫罰を下す。人間は、ただひたすらそれに従うだけの、非常に無力な存在として位置づけられます。

アルミニウス説でも、神の「恵み」(恩寵)が、選ばれた者にだけ与えられる、不平等なものである点に違いはありません(この点で「自由平等」のカトリックとは異なります)。

しかし、その「恵み」の作用、つまり、神の人間に対する働きかけの仕方は、大きく異なります。

アルミニウス派の「建白書」によると、「恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない」。

ここでは、「神」は、強大な権威をもって、理不尽を押し付けてくる神ではありません。「恵み」の対象を選択するという点において、多少気まぐれかもしれないが、しかし「不可抗力的に人に圧力をかけることはない」。人々の自由意志を尊重する神なのです。

この傾向は、ピューリタンにおいて一層強まります。

アルミニウス説的傾向のイギリスの各宗派―クエーカー、独立派(ないし会衆派)の大部分、ジェネラル・バプティスト―は、人間の不平等を前提とする神の選択という概念を捨て去るわけではないが、選択とは、永遠者の下す命令の結果というよりは、何らかの自己宣言の結果であると考える。そうした自己宣言の典型的な現れがクエーカーの「内なる光」である。神はもはや外在する権威ではなく、小さな断片となって、選ばれた人間の例の中に臨在するのである。

148頁

多少気まぐれだが、人間の自由意志を尊重する神、それは、絶対核家族における親そのものといえます。彼らは子供の自由を尊重する。しかし、財産の分与に関しては、遺言を使って、自分が選んだ子供に選んだ分だけを相続させる。

絶対核家族は、自由主義的で平等に無関心というそのシステムに合わせるかのように、神の選択を受け容れる一方で、神の権威を弱めます。人間の内にあって、人間の自由にそっと力を添える「光」。こう言ってよければ、とても個人主義的な力に変えるのです。

このような神の概念を持つ集団にとって、神の消滅はほんの一歩前進するだけのことにすぎない。いささかも心を乱すようなことではないのである。

229頁

〔ルター派の神の消滅〕

これに対し、神の強い権威の下にあったルター派地域では、神の消滅は、

解放感をもたらすどころか、本物の不安、取り返しのつかない喪失という気分を醸し出した。

神は死んだ」と述べて(1882年『悦ばしき知識』)狂気に陥ったニーチェは、典型的です。しかし、

これに気づいたのはニーチェひとりに留まらない。この道徳的危機がドイツにどのような劇的な結果を生み出すかは、ナチスの台頭の際に明らかになるだろう。ナチスの台頭は、ルターの神の消滅の直後に起こった現象なのである。 

229頁
Portrait of Friedrich Nietzsche, 1882 (public domain)

ちなみに、ドイツにおける信仰崩壊は、1890年から1910年頃(1895年から1905年の間に聖職志願者の数が50%減少、1900年から1908年の間に神学専攻の学生数が4536人から2228人に低落1K.S.Latourette, Christianity in a Revolutionary Age, t.2, p98(『新ヨーロッパ大全 I』226頁による引用)ドイツ労働者党の結成は、1919年です。

移行期危機は、秩序と安定に価値を見出す直系家族地域において、より強く激しいものとなる傾向があるとされます。直系家族ドイツにおける移行期危機は、ルターの神の死を経由したことで、いっそう激しさを増すことになったと考えられます。

神のイメージが弱い地域の脱宗教化は容易だが、
権威主義的な神を頂く地域では、激しい喪失感と苦悩を伴う経験となる

6 反動的カトリシズムの存続
 (1900-1965)

(1)反動的カトリシズムの持続力

平等主義核家族+大規模農業経営のカトリック圏が崩れ、プロテスタント圏全般が崩れ、最後まで残ったのは、地図上のカトリック地域地域のみとなりました。

細かく見ると、中央にドイツ南部(山岳地帯)、ラインラント西部オーストリア中部スイスイタリアヴェネトロンバルディアの一部、ベルギーオランダ南部フランスの東部を含む塊(「第1ブロック」と呼びます)、フランスのバスク地方からスペイン北部ポルトガル北部に連なる塊(「第2ブロック」、フランス西部ブルターニュアンジューヴァンデ)、アイルランド

第1ブロックはすべて直系家族地域に属しており、「直系家族+カトリック」の組み合わせが信仰の持続力を高めたことがわかります。「父親の権威+聖職者の権威」と言い換えれば、「なるほど」という感じです。

第2ブロック以下の地域は、ぴったり直系家族地図に重なるとはいきません(下に並べてみました)。直系家族以外の部分には、絶対核家族も平等主義核家族も含まれています。

直系家族以外の地域の信仰の持続性を説明する要素として、トッドが指摘するのは、農村地帯であって、かつ、大規模農業経営ではないこと。つまり、経済的独立性です。この地域の場合には、「経済的独立性+カトリック」(父親の権威の具体性+聖職者の権威)が、信仰の強度を高めたということになります。

これらすべての地域で、第二次世界大戦の直後まで強固な宗教実践が残っていた。とはいえ内部的にはかなりの差異がある。最大限の忠実さはアイルランドに見られ、日曜のミサへの出席は90%に達する。最小の実践はドイツで見られ、日曜のミサへの出席率は1951年に50%ちょうどだった。とはいえこれらのすべての地域で、信仰は他の場所よりも長く、科学革命と産業革命との相乗的攻撃をしのいで生き延びたのである。

238頁

1500年、ヨーロッパに存在していたキリスト教は、(対抗宗教改革以前の素朴な)カトリック一つだけでした。そして、1950年、気がついてみれば、ヨーロッパに残るのはカトリックのみという状況に(再び?)なっていた。

ただし、この時点で残っていたカトリックの中身は、往時のカトリックとは大きく異なります。

直系家族が多数を占めるこれらの地域は、宗教改革の時期にプロテスタンティズムを受け容れる地上的条件(識字率)が整わなかったことにより、カトリックにとどまることになった地域です。

彼らの本来の価値観は、平等主義核家族が再定義した「自由と平等」のカトリックよりも、予定説の権威主義の方に親和性がある。

カトリックの世界から対抗宗教改革陣営(平等主義核家族)が消え、直系家族が多数派となったことで、当然のように、カトリックの教義は「変形」していくのです。

19世紀を通して、カトリシズムは権威主義の方向へと漂い続けた。形而上学的体系があからさまに修正されたわけではない。しかし討論の主題の全体が、次第に秩序と服従の原則を称揚する方向に向かって行った。1871年はこの変遷の終着点を示す。この年、教皇不謬説が宣言される。それは教皇をこの地上における神の似姿にしようとすることに他ならない。

240頁

最後に残ったのは、対抗宗教改革のカトリシズム(自由と平等)とは全く異なる、権威主義的なカトリシズムだった

(2)脱宗教化の完成(1965-1985)

最後まで残った「反動的カトリシズム」も1965年−1985年の間には失われ、ついに西ヨーロッパの脱宗教化が完成します。

科学革命も産業革命も乗り越えて持続していたその信仰を、いったい何が崩壊させたのか。その答えを、トッドは中等教育の発達に求めています。

1900年から1965年までは、司祭は文化的水準からして大抵は信者より上であった。一般的には初等教育の段階を越えていなかった世界の中で、司祭は中等教育を代表していたのである。カトリックの教えが守られている地域では、司祭には特別の役割があるとするローマ教会の理論は、客観的な文化的上下関係によってしっかりと補強されていた。

識字化した司祭と文盲の信者という客観的な差異によって守られていた中世のカトリックは、聖職者以外の人々が識字能力を獲得した地域で、宗教改革の波に洗われることになりました。

文化水準の低い地域に残った最後のカトリシズムは、1965年頃、農村と都市の大衆が中等教育レベルに達し、司祭の権威を支える現実的基盤が失われたとき、ついにその役目を終えるのです。

文化的発展が遅れた地域に残った最後のカトリシズムは、中等教育の普及によって姿を消す

おわりに

最後にもう一度、6類型の一覧表を掲載しておきます。宗教の構成要素を地上成分と天上成分に分け、家族システムと文化・教育水準に照らし合わせることですべてが理解できてしまうこの喜びを、ご堪能いただけたら嬉しいです。

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(3)イングランドのプロテスタンティズム

はじめに

「イギリスのプロテスタントってよく分からない」とお思いの方は多いと思います(私がそうでした)。

1534 イングランド国教会の分離(ヘンリー8世)
1547-
プロテスタントの教義を導入(エドワード6世)
1553-
カトリック復活を企てプロテスタントを弾圧(メアリ1世)
1559
カルヴァン主義に基づく国教会体制の確立(エリザベス1世)
    *ピューリタンはカルヴァン主義の徹底を求める
1640 ピューリタン革命
1689  国教徒以外のプロテスタントに信教の自由(寛容法)

こうして教科書的事項を並べてみても「それで、結局、何なの?」という感じが拭えません。

イングランドはいち早くローマから離脱して、カルヴァン主義を採用したというのに、何で満足しないプロテスタントが残って、その後100年以上も争いが続くのか。

宗教上のプロテスト勢力であったピューリタンが、なぜ市民革命で大きな役割を果たすのか。

そして、絶対核家族のイングランドは本当にカルヴァン主義(神の権威への絶対的服従!)で満足できたのか。

疑問を解く鍵は、地上・天上の区別、そして家族システムにあります。

前回見たように、イングランドは「地上の自由」に惹かれてプロテスタンティズムを受容しますが、彼らの家族システムの価値観と正統プロテスタンティズムの天上成分は「部分一致」にとどまります(下表参照)。 

正統プロテスタントイングランド
地上成分聖職者の権威を否定(自由)高い識字率
天上成分予定説
(権威と不平等)
絶対核家族
自由と非平等)

そのため、イングランドでは、カルヴァン派を受け入れた後も、「予定説を緩和して自由を獲得する」という課題が残ります。これは「天上」の話です。

もう一つ、話をややこしくしているのが、イングランド国教会の存在です。

後述しますが、イングランド国教会の分離は、ヘンリー8世が世俗的動機からローマの権威から逃れたかっただけで、プロテスタンティズムとは関係がありません(この点、プロテスタンティズムの受容に伴って設立されたスウェーデン国教会とは異なります)。当初の実態は「イギリス版カトリック教会」であったのです。

しかし、その国教会が、やがてプロテスタンティズムの教義を受け入れる。

そのため、イングランドのプロテスタントは、「ローマの権威からは自由だが、国教会の権威には従属的である」という中途半端な状態に置かれてしまいます。「地上」にも、課題が残っていたわけです。

そういうわけで、イングランドでは、当初の改革の後も何かと騒動が続くことになりました。

英国プロテスタンティズム:改革後の課題
 ①聖職者の権威の残存(地上)
 ②絶対核家族の価値観との不一致(天上)
  →①②が解消されるまで争いは終わらない

そうした騒動のことは、世界史の教科書にも書かれてはいます。しかし、例えば「ピューリタンはカルヴァン派の徹底を求めた」と書かれていたとして、それが、天上成分(予定説)の徹底を求めたものなのか、地上成分(聖職者の権威の否定)の徹底を求めたものなのかによって、その歴史的意味はまったく異なります。

教科書や、歴史の概説書では、そこら辺が曖昧なままなので、結局「なんかよく分からない」で終わってしまうのです。

しかし、地上成分と天上成分を区別しさえすればイングランドの宗教改革はとてもよく分かる。その上、イングランドの宗教改革がきちんと分かると「近代化」の理解が確実に一段深まるのです。

というわけで、以下では、トッドの叙述を基礎に、一般的な知識を適宜付け加えながら、説明を試みてまいります。

カルヴァン主義の確立

(1)イギリス国教会の分離

まず、イングランドでは、1534年にヘンリー8世が離婚問題で教皇と対立しイングランド国教会を作ります。

 

ヘンリー8世

しかし、ヘンリー8世は、ルターを論駁する論文を書いてローマ教皇に褒められたほどのカトリック信仰の持ち主であり、この動きはプロテスタンティズムとは全く関係がありません。

この時点では、イングランドの「国教」は、完全にカトリックの枠内であり、単に、「地上における権威と不平等」の権威の頂点をローマ教会からイングランド国教会に置き換えたにすぎない、といってよいと思います。

ヘンリー8世によるイギリス国教会の分離は
プロテスタンティズムとは無関係

(2)プロテスタント天上成分の浸透ーカルヴァン主義の採用

それはそれとして、識字率が比較的高く、ローマからは遠いという条件の下で、プロテスタンティズムはイングランドの市民(主に貴族)の間に浸透していきます。

それを受けて、国教会の教義も、プロテスタント方向に傾斜していくのですが、その影響は主に「天上成分」に関するものでした。

「地上」の影響も全くないわけではなく、例えば聖書主義は採用されています(聖書主義、英訳聖書の作成は、ローマ教会からの自立の根拠としても有効だったと思われます)。しかし、教会組織や、聖職者の権威を前提とした儀式などは、多くがそのまま(=カトリック的なまま)残されたようです。

 

Frontispiece to the King James’ Bible, 1611

そういうわけで、国教会には、プロテスタントの天上成分(予定説)が浸透します。その教義は、カトリックへの回帰を目指してプロテスタントを弾圧した「ブラディ・メアリ」(メアリ1世)の治世が終わった後、エリザベス1世の時代に確立された体制の中で、(時代的に)カルヴァン主義の採用という形で、国教会の正統教義となりました。

「カルヴァン主義の採用」という形で、
 予定説が国教会の正統教義となる(天上成分)

カルヴァン主義の崩壊とアルミニウス主義の勝利

(1)アルミニウス主義の勝利‥とは?

ところが、イギリスのカルヴァン主義は、この後すぐ、あっという間に崩壊するのです。

「17世紀イギリスの知的歴史の最も魅惑的な問題の一つは、カルヴァン主義の崩壊である。それはまるで、社会にプロテスタント倫理の支配が行き渡った以上、歴史的使命を果たし終えたとでも言うかのようだった。1640年以前には、カルヴァン主義は賛課派および聖礼派のアルミニウス派による右からの攻撃に曝されていた。ところが革命の間は、ジョン・グッドウィン、ミルトン、クエーカー教徒といった左翼合理主義アルミニウス派に攻撃されたのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』147-148によるChristpher Hill, The World Turned Upside Down, p342の引用

カルヴァン主義は、いろいろなアルミニウス派から「攻撃」されて、結局、アルミニウス派の側が勝利を収めるのですが、いったい、何が何を攻撃して何が実現されたのか。

ここら辺のことは、世界史の教科書を読んでもよくわかりません。というより、かえって混乱が深まります。

「1640年」とは、いわゆるピューリタン革命(イギリス革命)が勃発した年です。クロムウェルは「ピューリタンを中心によく統率された鉄騎隊を編制し、議会派を勝利に導いた」とありますが、そういえば、なぜピューリタン?

宗教改革と何か関係はあるのでしょうか?

チャールズ1世の処刑

(2)国教会におけるアルミニウス説の勝利(課題②の解決)

ここでも、地上成分と天上成分の区別を意識して、話を整理していきます。

上の引用文における「賛課派および聖礼派のアルミニウス派」というのは、国教会の内部(国教会所属の聖職者など)において、アルミニウス説を支持した人たちのことだと思われます。

彼らは当然、「地上」においては国教会の権威を受け入れている。しかし、絶対核家族の彼らは、カルヴァン派の天上成分(予定説)が気に入らないので、アルミニウス説を支持したのです。

トッドによると「1640年の革命の前夜、英国国教会の主教の大部分はアルミニウス派」でした。彼らは、アルミニウス説に従って、国教会の教義を整えていく。これで、「②絶対核家族のイデオロギーとの不一致(天上)」という課題は解決です。

国教会の教義としてアルミニウス説(予定説の緩和)が浸透し、
天上の課題が解決

(3)ピューリタンと市民革命

では、上の引用の中で「左翼合理主義アルミニウス派」と言われているものは何なのか。

これはいわゆる「ピューリタン」のことを指していると思われます。

*なお「ピューリタン」は高校世界史では「改革を求めるカルヴァン派」という整理になっているようですが、「16―17世紀の英国における改革派プロテスタントの総称」というマイペディアの説明が真実に近いと思われます。具体的には、独立派、長老派(プレスビテリアン)、ジェネラル・バプティスト、クエーカーなどを指します。以下、このサイトでも、こうした様々な改革派全体を指す語として「ピューリタン」を用います。

上の引用文では、この人たちも「カルヴァン派を攻撃した」側に入っていおり、世界史の教科書でも、「ピューリタン」は(宗教改革の過程で)「カルヴァン主義をより徹底することを求めた」人々であると紹介されています。

ということは、この人たちは、アルミニウス説を採用した国教会に対して、予定説を徹底するように求めた人たちなのでしょうか?

もちろん、そうではありません。

彼らが「徹底することを求めた」のは、プロテスタントの地上成分の方なのです。

イングランドでは、先に国教会制度が確立し、その国教会が後でプロテスタンティズムの教義を受け入れたため、「プロテスタンティズム」といいながら、カトリックに近い「地上の権威」が存続しました。

ローマからは離脱したものの、一般の信徒は、国教会の権威の下に置かれたままであったのです。

そのため、ピューリタンたちは、宗教改革の過程では、プロテスタンティズムの地上成分、「信仰の民主化」を求めて戦います(これが「カルヴァン主義の徹底」です)。

そして、次には、ピューリタン革命(イギリス革命)で戦うことになるのですが、宗教の変革を求めた彼らがなぜ市民革命で活躍するのか?

イングランドのプロテスタントにとって、「信仰の民主化」を求める戦いの敵はローマ教会ではなく、イングランド国教会です。

国教会の首長はイングランド国王であり、宗教的権威は王権の権威の源でもありました。当人たちの関心があくまで信仰にあったとしても、客観的に見れば、その戦いは政治的プロテストと紙一重です。

宗教改革の過程で、ピューリタンたちは、「信仰の民主化」を求めて戦い、十分な成果を得られずに終わる。

その彼らは、数十年後、識字率50%に近づいたイングランドで、今度は市民的自由を求めて立ち上がるのです。

宗教改革には「プレ民主化運動」の側面があると述べました(こちら)。

貴族を中心とする「信仰の民主化運動」が終わると、その次に、一般の市民を中心とする政治の民主化運動が始まる。

イングランドの歴史を見ると、宗教改革と市民革命は近代化の一連の過程なのだということがよく分かります。

ピューリタンは、まずは「信仰の民主化」(地上の自由)を求めて国教会と戦い、数十年後、今度は市民的自由を求めて国王と戦う

(4)ピューリタン的アルミニウス主義の定着

では、ピューリタンの求めた「地上の自由」はどうなっていくのか。

ピューリタンの敵は「国教会=王権」なので、その後の彼らの勢力は、王権のそれと反比例して進んでいきます。

ピューリタン革命の間に伸張した「地上の自由」は、王政復古によって弱まり、彼らは再び非国教徒として迫害を受ける立場に逆戻りする。

安定した地位を得るのは、名誉革命(1689年)後のことです。名誉革命と(少なくともほぼ)同時に制定された「寛容法」により、非国教徒のプロテスタントの信仰の自由が認められる。

ここにおいて、ようやく、課題①(地上の権威からの自由)が解決され、ピューリタンたちは大いにその信仰を活性化させていくことになるのです。

その「活性化」の内容は次回まわしとさせていただいて、ここでは、イングランドのプロテスタンティズムとアメリカの信仰との関係を、ちらと見ておきたいと思います。

ピューリタンたちは、王政復古で迫害を受けていた期間に、新天地を求めてアメリカに向かいます。最初のものは「ピルグリム・ファーザーズ」として有名ですが、その後も同様の動きは続きます。

さらに、イギリスで宗教的寛容が実現し、プロテスタントの信仰が活性化した後も、その渦中にある人たちはよくアメリカに渡り、説教を繰り広げたりするのです。

イギリスにおける信仰の再活性化(1740-1880)は、アメリカの国家建設の時期と重なっており、アメリカの信仰はイギリスのプロテスタントの動きに大きな影響を受けて形成されていきます。

したがって、アメリカのプロテスタンティズムについては、おおよそ、「急進的自由主義」であるイギリスのピューリタン(非国教徒のアルミニウス主義)と同様と考えていただいてよいと思います。

(次回見ますが)この超自由主義のプロテスタンティズムは活性化すると分裂を繰り返す。みんなが自分流のやり方で信仰運動を展開していくのです。

名誉革命に伴う宗教的寛容の実現で
ようやく地上の課題(聖職者の権威からの自由)が解決

 

スコットランド、ウェールズ、フランス —少数派直系家族地域のプロテスタンティズム

さて、ここまで、イングランドにおけるアルミニウス主義の定着を、「絶対核家族の価値観に合わせた変形」と決めつけて書いてきましたが、「本当にそうなの?」とお思いの方もおられるかもしれません。

アルミニウス主義は、地上の自由に加えて天上でも自由を実現しようとするものですから、従来の(トッド以前の(!))歴史理解からは「近代化に伴う普遍的な現象ではある」という仮説を立てることもできそうです。

これが絶対核家族地域にのみ起こった現象なのかを確めるめるため、周辺地域におけるプロテスタンティズムの展開を見ておきましょう。

まず、スコットランド。スコットランドは直系家族と絶対核家族がほぼ半々ですが、絶対核家族が多数派であるイングランドとの関係で、「相対的に直系家族的」という感じを持つ地域です。

スコットランドはイングランドと同時期にプロテスタンティズムを受容しますが、その後、アルミニウス説の影響が及ぶことはありません。

むしろ、直系家族地域を中心にカルヴァン主義の強化の動きを見せたりしつつ、全体としては、正統派のカルヴァン主義(予定説)を守り続ける。この安定性の原因を、トッドは「直系家族の比重が相対的に高い」点に求めています。

同じく直系家族が支配的なウェールズも同様です。ウェールズへのプロテスタンティズムの浸透は遅く(トッドは「言語的に孤立しているため」という)、イングランドでアルミニウス説が有力になった後であったので、何かにつけて「アルミニウス派か、予定説か」の選択を迫られます(17世紀にはバプティスト派の分裂、18世紀にはメソジスト派の分裂)。

ウェールズはその度に予定説を守り抜くのです。

ちなみに、この点は、フランスのカルヴァン派(ユグノー)も全く同じです。フランス南西部に根を下ろしたフランスのプロテスタンティズムは、イングランドがアルミニウス説に変わったその後も、「予定説にしがみつく強硬なカルヴァン主義者のままである」。

フランス南部、オクシタニア(Occitania オック語地方)と呼ばれるこの地域は(この地図の青で囲んだ部分です)直系家族地域、トッドによれば「ヨーロッパ有数の純粋かつ強硬な直系型家族構造」の地域です。

アルミニウス主義への変形は絶対核家族地域のみ。
直系家族地域は予定説を守り続ける

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(2)プロテスタンティズムの普及と変形

 

はじめにー教育、家族システム、宗教システム

プロテスタンティズムに対する各地の反応は、基本的に、①文化レベル(識字率)、②家族システム によって決まります。

地上・天上成分の内容と適合条件

プロテスタンティズムは、「聖職者に対する異議申立」であり、「信仰の民主化運動」であり、要するに「自分で聖書読むから神父なんかいらない!」というものですから、一定の識字率は不可欠です。

しかし、識字率が高ければ、どこでもプロテスタンティズムを受容するというわけではありません。

プロテスタンティズムの天上成分である予定説(神の権威への服従、人間の不平等)には、直系家族の価値観がそのまま反映されています。

そのため、家族システムに異なる価値観が刻まれている地域は、聖職者には文句があったとしても、天上成分が障害となり、プロテスタンティズムを受け容れることができないのです。 

ルターの予定説権威不平等適合性
①直系家族権威不平等
②絶対核家族自由非平等
③共同体家族権威平等
④平等主義核家族自由平等×
正統プロテスタンティズムの天上成分との適合性(赤字は不適合部分)

そういうわけで、プロテスタンティズムは、直系家族地域には順調に普及しますが、平等主義核家族地域にははっきり拒絶されます(共同体家族の地域もカトリック側に付いたようです)。

部分一致の絶対核家族地域は、地上での「自由」に心を奪われてプロテスタンティズムを受容しますが、やがて天上の「権威」に耐えられなくなり、教義を修正していく。

トッドの歴史理論は、社会の表層で起きているあらゆる事象は、教育および家族システムが作る集合的心性に規定されていると考えます(下の図のような感じです)。 

トッドがヨーロッパの宗教改革の分析において示して見せたのは、宗教現象も例外ではない、ということに他なりません。

以下では、まず、西ヨーロッパにおけるプロテスタンティズムの受容と拒絶の過程をざっと確認した後、イングランドにおける「変形」の過程を見ていきたいと思います。

プロテスタンティズムの受容と拒絶

(1)第1局面 直系家族への浸透(ドイツ、スイス)

ドイツ(ヴィッテンベルク)から発したプロテスタンティズムは、まず、ドイツおよび隣国スイスに浸透します。この両地域は、識字率、ヴィッテンベルクとの近さ、家族システム(ドイツは全体が直系家族スイス約88%直系家族)が揃い、プロテスタンティズムの浸透を妨げる要素は一つもありません。

スイスではツヴィングリが活躍しました(写真)

 Hans Asper – Winterthur KunstmuseumPortrait of Ulrich Zwingli (1484-1531)

1517   ルターの95ヵ条
1520  ルター 教皇の破門状を焼く
1523-31 ドイツ:北部諸侯と帝国都市の3分の2が改革派に
1523-29 スイス:チューリヒ、ベルン、バーゼルが改革派に
1524-25 ドイツ農民戦争

プロテスタンティズムは、識字率の高い直系家族地域に順調に浸透

(2)第2局面 続・直系家族への浸透(北欧)

プロテスタンティズムの波は、次に、北欧に向かいます。中核はスウェーデンとデンマークです。

スウェーデン79%直系家族なので、プロテスタンティズムの受容能力において理想的です。デンマークの直系家族は13%に過ぎませんが、残りの人口は絶対核家族(自由と非平等)であり、天上の「不平等」は受け入れ可能です。

この時点では、北欧の識字率は決して高くありませんでしたが、「ハンザ同盟によってドイツにぴったりと密着した地域である」(138頁)こと、そして家族システムの価値観が合致している(または「矛盾しない」)ことによってプロテスタンティズムが浸透する。すると今度は、プロテスタンティズムが、スウェーデンを識字先進国に変えていくのです(こちらの表では「適応反応」と表現しました)。

*なお、プロテスタンティズムはノルウェー(直系家族率50%)、フィンランド(25%)にも浸透していますが、トッドはこれを「デンマークとスウェーデンに遠隔誘導されたもの」としつつ、当時の両国の人口の少なさから「自律性を持った宗教現象とみなすことはできない」としています。

1527-1544 スウェーデン 内戦を経てプロテスタント国家に
1530-1539 デンマーク 内戦を経てプロテスタント国家に

プロテスタンティズムは、ドイツに近い直系家族地域に浸透し、識字率を上昇させる

3)第3局面 カルヴァン主義の展開

第3局面で、プロテスタンティズムは西へ進みます。

ジュネーヴを席巻したカルヴァン主義は、フランドル、アルトワ(フランス北部)、アルザスでかなり有力になります。しかし、パリ盆地にはどうしても浸透できない。パリ盆地は平等主義核家族地域です(下の地図のグレーの部分です)。

*なお、カルヴァン派も予定説であることに違いはないので、ここではルター派・カルヴァン派を「正統プロテスタンティズム」として一緒くたに扱います。

そこでパリ盆地を迂回し、スイスからフランス南部のオック語地域(オクシタニア)に根を下ろす。この地域は80%直系家族です(下の地図の青で囲んだ部分がそのフランス国内の部分)。

『不均衡という病』67頁

他方で、地中海沿岸のラングドックプロヴァンス(右下のグレーの部分)には定着しない。これらの地域は共同体家族平等主義核家族(いずれも「平等」)です。この地域は、パリ盆地を含む北部フランスと並んで、カトリック同盟の要塞地帯になっていきます。

ネーデルラント(直系家族率45%)、スコットランド(50%)、イングランド(ウェールズと合わせて25%)は、プロテスタンティズムを受け入れます。しかし、ネーデルラントイングランドでは多数を占める絶対核家族が、やがて、教義の変形をもたらすことになるのです。

*どうも、地上成分における条件の不一致は適応反応(自らを変える)を呼び、天上成分における不一致は教義の修正(教義の方を変える)をもたらすようです。家族システムの価値観の強固さを示す例証の一つといえそうです。

1534 イギリス国教会の成立
1536 カルヴァン、バーゼルで「キリスト教綱要」を出版 
ジュネーヴの宗教改革に協力 市当局に追放される
1541 ジュネーヴに戻り宗教改革を指導
1559  フランス南部で初の改革宗教会議
1559-1560 スコットランド 内戦を経てカルヴァン派教会樹立
1559-1572 イングランド カルヴァン派に転換
1566 ネーデルラント プロテスタントによる対スペイン民衆蜂起

平等主義核家族地域はプロテスタンティズムを拒絶する

絶対核家族地域はプロテスタンティズムを受け容れるが、やがて天上成分を変形させる

プロテスタンティズムの変形
—絶対核家族の「自由」への適応

(1)アルミニウス説の登場

プロテスタンティズムの変形は、1603年から1609年までライデン大学の神学教授を務めたアルミニウスが、カルヴァン派の正統教義である予定説に疑問を投げかけたことに始まります。

 

Portrait of Jacobus Arminius;

アルミニウスの死後、彼を支持するネーデルラントの牧師たちがまとめた「建白書」(Remonstrantie)によると、その立場は次のようなものでした。

(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.
(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.
(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.
(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.
(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.
   

『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991[藤本満]

アルミニウスは、救済における人間の自由意志の力を完全に否定するルターやカルヴァンを退け、神の「予定」の存在は認めつつ、その決定の力を弱め、自由意志に基づく人間の行いによる救済(および転落)の可能性を認める説を唱えたわけです。

(2)アルミニウス説のイデオロギー

予定説を緩和し、自由意志の理想と本人の行いによる救済の可能性を再導入することで、アルミニウスの「天上成分」は、カトリックのそれに限りなく近づきます。

しかし、プロテスタントの牧師であるアルミニウスにとって、「地上」における自由と平等(ローマ教会、聖職者の権威の否定)は大前提です。

その結果、アルミニウス説は、地上と天上の両方で自由を求める、もっとも急進的な自由主義に到達するのです。

「ルター派あるいはカルヴァン派の古典的プロテスタンティズムは、神への服従と教会に対する自由とを望んだ。対抗宗教改革のカトリシズムは、神の前での自由と教会への服従を要求した。ピューリタン的アルミニウス主義は、神に対しての、かつ教会に対しての人間の自由を主張する。この自由主義的急進主義は、ネーデルラントもさることながら、とりわけイングランドにおいて、まず初めに諸宗派の乱立を招来するが、ほどなくして宗教的寛容へと至ることになるのである。」

『新ヨーロッパ大全 I』150頁
正統プロテスタントカトリックアルミニウス説
地上成分自由と平等
・聖職者の権威を否定
・「われわれは皆聖職者だ」
権威と不平等
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める
自由と平等
(正統プロテスタントと同じ)
天上成分権威と不平等
・救済を決めるのは神である
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
自由(と非平等)
・予定説を緩和
・本人の行いによる救済の可能性を認める

(3)アルミニウス説の定着と勝利

キリスト教信仰における急進的自由主義であるアルミニウス説のプロテスタンティズムは、「宗教的形而上学と家族構造の連合の仮説からすればまことに論理的に」、ヨーロッパの絶対核家族地域に現れ、定着していきます。

ネーデルラントでは、アルミニウス派は、一度は公権力により追放されますが(1618-19のドルドレヒト宗教会議で断罪)1625年には布教を許されます。

ライデンで生まれたアルミニウス主義は、アムステルダムを含む西部地域に根を下ろし、「非常に少数派ではあるが‥‥ネーデルラント・プロテスタンティズムに‥‥カルヴァン派やルター派から極めてかけ離れた色彩」を付け加えていくことになる。

なお、ネーデルラント絶対核家族率は55%ですが、ライデン、アムステルダムのある西部地域はまさにその中心地域です。

一方、全土の70%絶対核家族が占めるイングランドでは、アルミニウス派は、単に存在を許されるというだけでなく、全面的に勝利を収めることになっていきます。

イングランドについては、「国教会との関係は?」など、整理しなければならないことが多いので、回を改めてお送りします。

絶対核家族地域には、地上・天上の自由を説く急進的自由主義(アルミニウス主義)のプロテスタンティズムが広がる

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ヨーロッパのキリスト教
(1)プロテスタンティズムの登場

はじめにー宗教と家族システム

社会の最基層に位置し、歴史に最も永く深い影響を及ぼすものは家族システムである、というトッドの理論に対しては、「宗教は?」と疑問を持たれる方がいると思います。

人間を最も深い部分で動かしてきたのは宗教ではないの?」と。

トッドは、宗教が、経済や政治的イデオロギーよりも深い部分で社会を動かす重要な因子であることを認めます(たぶん、教育と同じ層です)。しかし、宗教自身もまた、家族システムの決定力から自由ではありません。

以下は、マックス・ウェーバ的な議論を念頭に置いたトッドのコメントです。

家族的決定因の存在を知らずに、宗教の死とイデオロギーの誕生、そして宗教とイデオロギーの間に存在する構造の類似性に気付く観察者はだれでも、諸価値が宗教的次元から政治的次元へと直接移動したという印象を持つだろう。そして、宗教的要素が政治的要素の形を決める‥‥と考えてしまうだろう。しかしそこに観察された移動は実は錯覚であって、それは家族制度という根本的決定因子の恒常性のなせるわざに他ならない。

『新ヨーロッパ大全 I』250頁

ウェーバーは、「心の動きの型」のようなものに着目した点で、心性を重視する歴史人類学の先駆者の一人といえますが、その彼が、人間の行動を通じて社会を動かす力としての「世界観」の出元として注目したのは、宗教でした。

よく知られているように、ウェーバーは、資本主義(あるいはまた、合理主義の精神を基礎とする西欧近代そのもの)をもたらしたのは、プロテスタンティズムが培った心性であると考えました。

また、彼に着想を与えた一人であるイェリネクは、基本的人権の思想に、宗教的な起源を見出していたといいます。

個人の、譲渡できない、生得的で、神聖な諸権利を法的に確定しようとする理念は、政治的ではなく、宗教的な起源をもつ。これまで革命の産物であると思われていたものは、実は、宗教改革およびその闘争の果実なのである。

野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書、2020年)74頁(ゲオルグ・イェリネック『人権宣言論争ーイェリネック対プトミー』(初宿正典訳)(みすず書房、1995年)99頁からの引用)

最近でも、世界のさまざまな事象について、根本的な原因は宗教である、という議論をする人は結構います。

こうした議論は、もちろん有効ではあります。宗教は、政治経済よりも深層で人間の心性に作用していますから、宗教を参照することが、社会をより深く理解することにつながることは間違いない。

しかし、今やわれわれは、宗教よりももっと深い部分にある家族システムに関する知識を手にしているのですから、それで満足するわけにはいかないのです。

・ ・ ・

『新ヨーロッパ大全』において、トッドは、宗教改革以降(すなわち近代化の過程)のヨーロッパにおける宗教的変遷を、家族システムを梃子に説明し尽くしました。

初めて読んだ時の驚きと興奮は忘れられません1忘れられないといえば、マルティン・ルターについて調べようと初めて英語で検索してみたときの衝撃も忘れられません(余談です)。何となく持ち続け、ときどき調べてみてもよく分からずに終わる疑問の数々(例えば下記のような)が、数ページの中で見事に解消されていく。口をぽかんと開けて読み進めると、ヨーロッパのいろいろへ理解が深まるだけでなく、「宗教という現象を等身大で捉えられるようになる」というおまけまでついてくる。

・カトリックとプロテスタントってどう違うのか。神父と牧師とか教会組織とかだけでなく、教義も違うのか。
・「プロテスタント」にもいろいろあるようだが、どこがどう同じで、どこがどう違うのか。
・イギリス国教会は結局何なのか。
・アメリカのプロテスタントがやたら細分化して、個性の立った牧師が激しい説教を繰り広げて熱狂を巻き起こしたりするのは何なのか。
・そもそもなぜ「自由・平等」のフランスがカトリックなのか
・性的放縦の代表のようなフランスと、アイルランドが同じカトリックってどういうことなのか。等々‥‥

そういうわけなので、皆さんには、基本的には『新ヨーロッパ大全』をお読みになることをお勧めします。とはいえ、読むにはそれなりに骨が折れ、時間もかかる。そこで、今回は、その「宗教」に関する部分のエッセンスを、歴史やキリスト教に関する基礎知識を付け加えつつ、ご紹介させていただきます。

トッドは宗教の形を決めているのも家族システムであることを明らかにした

宗教改革直前の状況(1500年)

話は宗教改革が起こる直前の1500年から始まります。

西暦1500年、西ヨーロッパのキリスト教は一つです。「イタリアからスウェーデン、ポルトガルからザクセンまで」、ローマ・カトリック教会の権威を認め、同一の信仰と同一の典礼を持ち、宗教的エリートはみなラテン語という一つの言語を用いていました。

とはいえ、キリスト教への改宗時期や、社会の中での重みはそれぞれに違います。

当時の文化的先進地域であった南部(フランス、イタリア、スペイン等)では、キリスト教の歴史は古く、1500年の段階で、1200年以上が経過していました。

しかし、その分だけ重みがあったかというと、そうではない。この地域には、キリスト教以前の古典古代の記憶が残っています。キリスト教は、もともと存在していた文明の中に、後からつけ加わった一要素にすぎません。

その意味で、この地域のキリスト教は、「長いけど軽い」。

他方、北部地域(フィンランド、スウェーデン、デンマーク、スコットランド、アイルランド、北部ネーデルラント、北部・中部ドイツ等)では、キリスト教の歴史は浅く、もっとも遅いフィンランドの改宗は13世紀末です。

それにもかかわらず、これらの地域のキリスト教は「重い」。それは、これらの地域では、「キリスト教への改宗」は、それ自体が、「文明への到達」あるいは「歴史時代のはじまり」(!)を意味するものであったからです。

無文字社会であったこの地域に、文字を持ち込んだのは教会です。教会がもたらしたラテン・アルファベットを、それぞれの言語の表記にも使うようになって、ヨーロッパ北部は初めて歴史時代に到達した。これらの地域にとって、キリスト教の存在感は、その分だけ大きく重いのです。

西暦1500年の西ヨーロッパは、古さと軽さ、新しさと重さがバランスを取る形で、単一のキリスト教を奉じる。そのような世界でした。

しかし、まもなく、ルターの口火により、宗教改革がヨーロッパを二分することになります。

以下で素描するのは、単一の信仰で覆われていたヨーロッパ世界にプロテスタンティズムが生まれ、ある地域では浸透し、ある地域では拒絶され、ある地域では変化した結果、宗教上の多様性がヨーロッパを満たした後、時間差を伴いながら、すべての地域で信仰が崩壊していく。その過程です。

西暦1500年、宗教改革がヨーロッパを二分する直前、ヨーロッパは単一のキリスト教で結ばれていた。

宗教改革と対抗宗教改革
ー直系家族 VS 平等主義核家族

(1)宗教システムの二面性地上成分と天上成分

現世において彼岸を問うのが「宗教」です。その必然的な帰結として、すべての宗教システムは、現世的成分(地上成分)と彼岸的成分(天上成分)を合わせ持っています。

この二つは、信仰を行う人の頭の中では一つに混じり合っているのですが、この二つを切り離すことが、トッドの分析の鍵となっています。この作業によって、各地域の異なる反応の意味を、正確に分析することが可能になるのです。

①地上成分:現世における宗教実践(教会の権威、聖書の位置付け等)
②天上成分:彼岸に関する教義

(2)プロテスタンティズムの登場

では、ルターのプロテスタンティズムを例に、「二面性」を説明してまいります。

Lucas Cranach workshop – Martin Luther (Uffizi)
*先に存在していたのはカトリックですが、宗教改革以降のカトリックは、プロテスタントの登場を受けて再定義されたものなので、プロテスタントを先に説明します。 

(宗教改革の始まり—世界史の教科書から)

ご関心のある方のために、宗教改革が起こる以前のキリスト教の状況について、世界史の教科書からの情報を抜粋します(山川出版社『詳説 世界史B』改訂版、2016年)。

「カトリック教会への批判はすでに14世紀ごろからみられたが、1517年、ドイツ中部ザクセンのヴィッテンベルク大学神学教授マルティン=ルターは、魂の救いは善行にはよらず、キリストの福音を信じること(福音信仰)のみによるとの確信から、贖宥状(免罪符)の悪弊を攻撃する95カ条の論題を発表した。当時、メディチ家出身の教皇レオ10世は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の新築資金を調達するために、教会への喜捨などの善行を積めば、その功績によって過去におかした罪の赦されると説明して、贖宥状を売り出していた*。 ( *ドイツは政治的に分裂していたため、教皇による政治的干渉や財政上の搾取をうけやすく、「ローマの牝牛」といわれた。)」

だそうです。

もう少し遡りますと、ローマ帝国末期には五本山(ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)の一つであったローマ教会は、帝国分裂、西ローマ帝国滅亡の後に、それらから分離して独自の活動を展開するようになり、ゲルマン人への布教などを通じて西ヨーロッパにおいて権威を確立していきました。

しかし、その権威は、各国の王権の伸張によって弱まり、フランス王による「教皇のバビロン捕囚」、ローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ教会大分裂により、教皇と教会の権威は決定的に失墜します。

その後、コンスタンツ公会議(1414-1418)で大分裂を解消、教皇・教会の堕落や腐敗を批判して改革運動を起こしたウィクリフやフスを異端とする(フスは処刑)などしましたが、教義の形骸化や聖職者の腐敗を改めることはできず、権威は回復しなかった。

という辺りが、宗教改革以前に関する教科書知識です。

(プロテスタンティズムの地上成分)

ルターの「地上」における目標は、聖職者による宗教生活の独占の廃止です。

教皇、司教、司祭、修道院の者たちは聖職身分と呼ばれ、諸侯、領主、職人、農民は俗人と呼ばれる、などということになっているが、これはまさしく巧妙な企みにして見事な偽善である。しかし何ぴともこのような区別に脅かされてはならない。何となれば、実はすべてのキリスト者は聖職身分に属するのであり、キリスト者の間には、役目の違いを除いて、いかなる違いも存在しないという正当な理由があるのである。このことはパウロが次のように述べて示したところである。すなわち、われわれは単一の集団をなすものであるが、その成員はそれぞれ固有の役目を持っている、と。

『ヨーロッパ大全 I』123頁による『ドイツ民族のキリスト教貴族に告ぐ』(1520年)からの引用

ルターは、聖職者の権威を否定してキリスト者の自由を謳い、聖職身分と俗人身分の区別を否定してキリスト者の平等を訴える。信仰における「自由と平等」、いわば、信仰の民主化運動を展開するのです。

聖書のみを拠り所とする福音主義、聖書と典礼の民衆の言葉への翻訳、聖職者の結婚を認めるべきこと、修道会の廃止、教皇の権威の拒否といったプロテスタントの綱領は、概ね、聖職者の権威の否定=キリスト者の自由・平等の要請から派生したものといえます。

プロテスタンティズムの地上成分は、聖職者の権威の否定

(プロテスタンティズムの天上成分)

他方、ルターの解釈による救済の条件、すなわち彼岸における「罪の贖いと永遠の生の獲得の条件」に見られるイデオロギーはこれと大きく異なります。

「神の全能」という命題(これ自体はキリスト教徒全員が理論上は認める)から、ルターは次のように解釈を進めます。

「しかしもしわれわれが神に前知と全能を認めるならば、その当然にして不可避の帰結として、われわれがわれわれ自身によって作られたのではなく、また、われわれが生き、行動するのは、われわれ自身によってではなく、ただ神の全能の力によってである、ということになる。もし神が永遠の昔より、われわれが如何なるものになるのかを知っており、もし神がわれわれを動かし、導くのであるのなら、われわれの裡に何らかの自由が存在するとか、神が予想したのとは別のことが起こり得るとかいうことは、想像もできないのである。神の前知と全能は、われわれの自由意志と完全に対立する。」

神はわれわれが如何なる者であるかを予め知っている。ということは、神はその「前知」に基づき、ある者を救い、他の者を劫罰に処することを、予め選択していることになる。これは、言い換えれば、現世の人間は、彼自身の意思とは全く無関係に、救済される者と、劫罰に処される者の二種類に分かれている、ということでもある。

聖アウグスティヌスから受け継がれた救霊予定説は、ルターによる解釈、カルヴァンによる明確化を経て、正統プロテスタンティズムの核心部分を構成することになります。

こうして「権威と不平等」すなわち以下の二つの命題が、「天上」を司る根本命題となるのです。

1 救済を決めるのは神である。人間は自らの力で救済を得ることはできない(神の権威への隷属

2 人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる(人間の不平等

プロテスタンティズムの天上成分は、権威と不平等

(なぜドイツ北部でプロテスタンティズムが発生したのか)

「地上における自由と平等」「天上における権威と不平等」を内容とする正統派のプロテンスタンティズムの運動は、なぜ、ドイツで始まったのでしょうか。

ドイツ北部正統プロテスタンティズム
地上成分高い識字率信仰の民主化(聖職者への異議申立)
・聖職者の権威を否定。
・「われわれは皆聖職者だ」
天上成分直系家族
・親の権威
・兄弟の不平等
権威と不平等
・救済を決めるのは神である
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
表1 ドイツ北部の心性と正統プロテスタンティズムの対応関係

①地上成分

宗教改革には、「プレ民主化運動」という側面が濃厚にあります。1500年当時、識字能力を獲得しつつあったのは、貴族や商人。彼らが聖職者の支配から脱し、自律性を確保するための運動、それが宗教改革であったのです(識字化と民主化の関係についてはこちらをご覧ください)。

教会を攻撃し、その財産と土地を奪い取り、その組織を破壊したのは、貴族に他ならない。一千年近くも続いた教会への服従ののちに、聖職者の後見から身を解き放つ俗人とは、だれよりもまず、そしてとりわけ貴族である。‥‥

読み書きのできない中世の貴族ないし騎士は、最後の審判と地獄を予想しては恐怖に駆られ、天国における席を聖職者から買い取るのに汲々としていた。‥‥ ブルジョワや職人や農民以前に、貴族が聖職者に搾取されていたのだ。

163頁

信仰の民主化を要求するには、前提として、住民の識字率が一定程度に達していることが必要となります。聖書を読めなければ、聖職者なしに神の教えに触れることはできませんから。

下の地図は、1480年前後に1台以上の印刷機が稼働していた州(県)を示しています。文字文化の普及の証です。ドイツの密度はフランスよりもイギリスよりも高い。ドイツ北部は「高い識字率」という「地上」の条件を満たしていました。

②天上成分

正統プロテスタンティズムの天上成分、「権威と不平等」(神の権威と人間の不平等)は、ドイツの家族システムである直系家族の価値観にピッタリ合致しています。

家族制度は、子供たちの父に対する関係と兄弟間の関係をコード化したものである。宗教的形而上学は、人間の神に対する関係と人間相互の関係についての言及である。しかし権威もしくは自由という価値、平等もしくは不平等という価値は、概念的には大きな困難を伴わずに、家族に関する次元から形而上的次元へと乗り移ることができる。父の権威主義(もしくは自由主義)は、神のそれとなり、兄弟間の不平等(もしくは平等)は人間間のそれとなる。

141頁

のちに識字率50%を超えた地域が、それぞれ自らの家族システムに合致した政治イデオロギーを選択したように、識字化したドイツの貴族たちは直系家族の価値観に見合った教義(予定説)を選んだ。このように考えることができるのです。

高い識字率が地上成分(権威への異議申立て)を可能にし、
直系家族システムが天上成分(予定説:権威と不平等)を作った

(3)対抗宗教改革カトリックの再定義

直系家族と正反対の価値観を持つ家族システムは、平等主義核家族自由平等)です。

果たして、プロテスタントの攻勢に対してカトリックを守る対抗宗教改革の牙城となったのは、パリ盆地のフランス、北部および中部イタリア、スペイン。いずれも、平等主義核家族の地域だったのです。

「北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以て阻止するのである。」

150-152頁

これらの地域は、いずれも、当時としては文化的に発達した地域でした。したがって、地上成分に関していえば、聖職者の権威を退け、信仰の自由のために立ち上がっても決しておかしくはない。

しかし、「自由と平等」の基層の上に立つ彼らは、天上におけるルターの教義を受け入れることができません。

ローマとの心理的距離の近さも相まって、彼らはとりあえず聖職者の権威とは妥協を図ります。そして、対抗宗教改革の支柱として、カトリックを再定義していくのです。

 

フランス北部、イタリア、スペイン正統カトリシズム

地上成分
高い識字率聖職者と妥協
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める

天上成分
平等主義核家族
・親子関係の自由
・兄弟間の平等
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
表2 対抗宗教改革の中心地と正統カトリシズムの対応関係

*カトリシズムの再定義

(地上)対抗宗教改革の中心地域の「妥協」の前提は、聖職者の資質の向上です。カトリシズムは、聖職者養成のシステムを整え、権威を担うに相応しい(清廉潔白で教養のある)聖職者を育てる努力を始めます。
 他方で、俗人に対しては、聖書はもちろん、書物全般への接触を禁じる。教育の独占を通じて聖職者の権威を強化すること、それが対抗宗教改革の最大の目標でした。

(天上)ルターの予定説は聖アウグスティヌスも述べていたものであり、ルターの独自説というわけではありません。それだけに、カトリック側には難しい対応が迫られましたが、結局、トリエント公会議(1545-63)において、「神の恩寵も人間の意志もどちらも必要」という立場を明示して、「自由と平等」の方向性を明確にすることになりました。(上の表の説明もご覧ください)  

 

プロテスタントカトリック
地上成分自由と平等
・聖職者の権威を否定。
・「われわれは皆聖職者だ」
権威と不平等
・聖職者の権威を肯定
・聖職身分と俗人身分の区別を認める
天上成分権威と不平等
・救済を決めるのは神
・人間は救済される者と劫罰に処される者に分かれる
自由と平等
・洗礼を受けた全ての者は原罪から洗い浄められる(救済の機会平等)
・救済か劫罰かは本人の行いによる
表3 プロテスタントと再定義されたカトリック

文化的に発展した地域の平等主義核家族がプロテスタントからカトリックを守る対抗宗教改革の牙城となった

宗教改革への反応(6類型)

さて、この辺まで来ると、ヨーロッパで、どういう条件の地域がどういう信仰を持つようになったかを、類型化して示すことができます(詳しい説明は次回)。

  ○プロテスタンティズムに適した成分
   地上:高い識字率、ヴィッテンベルクとの相対的近距離
   天上:直系家族(権威と不平等)

 ○カトリシズムに適した成分
   地上:低い識字率、ローマとの相対的近距離
   天上:平等主義核家族(自由と平等)

①ドイツ型(正統派プロテスタンティズム)

地上成分天上成分信仰神の権威
ドイツ識字率高
→聖職者の権威否定(自由と平等)
直系家族
→予定説(権威と不平等)
正統派プロテスタンティズム

ドイツでは、識字率を高めた貴族階級が、聖職者からの自由を勝ち取り(地上)、自らの価値観(直系家族)に見合った教義として、「権威と不平等」の予定説を選びました(天上)。

なお、表に「神のイメージ」の項目を設けたのは、それが信仰の持続力(脱宗教化の容易性)と関係するためです。

家族システムと宗教システムの相関というトッドの仮説は、(家族における)父親のイメージが(信仰における)神のイメージに投影されると考えます。

父親の権威が強いところでは神も強い権威を担い、親子関係が自由主義的であるところでは、神もまた自由主義的で、その権威は弱い。

ドイツは、早期に識字率を上げた貴族が、おそらくカトリックの教えが彼らの好みに合わなかったことも関係して、どこよりも早く宗教改革を実現しました。

しかし、彼らは自ら、強い権威を持った神を戴き、その権威の下に従属する道を選んだ。そのために、ドイツは、脱キリスト教化においては遅れを取り、最終的な脱宗教化の過程で、深い心理的不安に陥るのです。

②スウェーデン型(正統派プロテスタンティズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
スウェーデン識字率低・ドイツ寄り
→聖職者の権威否定(自由と平等)
直系家族
→予定説(権威と不平等) 
正統派プロテスタンティズム

なお、早期にプロテスタンティズムを受容した地域の中には、スウェーデンのように、ドイツへの心理的近距離、直系家族という要素を備えるが、識字率は高くなかった、という地域もあります。

しかし、「新しくて重い」(勢いのある?)キリスト教信仰を持つそれらの地域は、プロテスタンティズムに適合させるために自らを変えていきます。教育を普及させ、あっという間に識字先進国に変身するのです。

③フランス型(正統派カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
フランス北部識字率高・ドイツに近い
→聖職者との妥協
平等主義核家族
→自由と平等     
正統派カトリシズム

フランス(パリ盆地のある北部)の場合、識字率は高く、地理的にはむしろヴィッテンベルクに近い。つまり、地上的条件においては、プロテスタンティズム(聖職者の権威の否定(自由と平等))に適しています。

しかし、平等主義核家族である彼らは、正統プロテスタンティズムが説く天上の「権威と不平等」に耐えられない。

そのため、彼らはカトリック陣営に残って対抗宗教改革の拠点となります。地上では聖職者の資質向上を条件に聖職者の権威と折り合い、天上での自由と平等を守る、正統派カトリックの担い手となるのです。

*トッドによると「教育のない放蕩者の人間的な中世の聖職者」の時代が終わり、「おそらくキリスト教の歴史で初めて、理想に合致した村の司祭、すなわち教育があり、かつ童貞の司祭が大量生産されることになる」(130-131頁)。つまり、カトリックは、現実の方を理論に近づけることで、「聖職者による独占」を守ろうとしたわけです。

しかし、ルター派への対抗上、熱心にカトリックを支持してはみたものの、彼らが戴く神のイメージは弱い。そのため、本格的な近代化局面に入ると、彼らは信仰そのものをあっけなく捨てていくことになります。

なお、文化的に発展していたにもかかわらずカトリック陣営に残ったこの地域は、発展途上であったにもかかわらずプロテスタントを受容したスウェーデン型と逆のコースを辿ります。識字率の上昇を抑え、文化の発展を抑制することによって、信者が聖書を読むことを嫌う正統カトリシズムの教義に自らを適合させていくのです。

④南イタリア型(正統派カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
南イタリア識字率低・ローマに近い
→聖職者の権威を肯定
平等主義核家族
→自由と平等    
正統派カトリシズム

なお、平等主義核家族地域のうち、識字率が低い地域(中部・南部スペイン、南イタリア)は、当然のように、カトリシズムを維持します。しかし、彼らにおいても神のイメージは弱いので、近代化の過程では、比較的簡単に信仰を手放します。

⑤イギリス(修正プロテスタンティズム〔急進的自由主義〕)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
イギリス識字率高・ローマから遠い
→聖職者の権威否定(自由と平等)
絶対核家族
 (自由と非平等)

→予定説を修正(アルミニウス説)    
修正
プロテスタンティズム
(急進的自由主義)

識字率が高く、ローマとの心理的距離が遠い彼らは、プロテスタンティズムの伝播をまずは喜んで受け入れます。最初の時点では、「天上の自由と平等」すなわち聖職者への異議申立という要素が彼らを魅了するのです。

しかし、導入の局面が過ぎると、やがて、彼らの基層にある「自由」が、天上の「権威」に耐えられなくなる。そこで彼らは、ルター・カルヴァンの正統プロテスタンティズムの教義に修正を加え、自由意志による救済可能性(アルミニウス説)を導入します。

地上の「自由と平等」に天上の「自由」を組み合わせたこの急進的自由主義のキリスト教は、宗派の乱立を招き、宗教的寛容を実現した後、信仰を捨てていきますが、その際、とり立てて大きな心の不安を感じることはありません。

⑥アイルランド型(反動的カトリシズム)

地上成分天上成分信仰神のイメージ
アイルランド識字率低
→聖職者への権威肯定(権威と不平等)
直系家族
→非公式に教義を修正(権威と不平等)
  
反動的カトリシズム

こちらは、正統派プロテスタンティズムに適した天上的条件(直系家族システム)を持ちながら、地上的条件が満たされずにカトリックにとどまることとなったケースです。

彼らは聖職者への異議申立の機縁を持たず、ローマカトリック教会の下にとどまることになります。しかし、彼らの心の中の神は、対抗宗教改革を経て再定義された「自由と平等」の神ではなく、それ以前、いわば、ルターとカルヴァンが典拠としたところの聖アウグスティヌスの予定説における神に近い。

そのように心の中で教義を「修正」し、地上では聖職者の権威、天上では神の権威に従属する、中世のカトリシズム同様の反動的な信仰を持ち続けたのがこの地域です。

当然のことながら、この地域では、脱キリスト教化は遅れ、第二次世界大戦直後に至るまで強固な宗教実践を保ち続けることになります。

(続く)

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ロシアの外婚制共同体家族はどこから来たのか?ーヨーロッパの共同体家族

中東の内婚制共同体家族、中国の外婚制共同体家族の由来が大体分かると(「家族システムの変遷-国家とイデオロギーの世界史」をご参照ください)、つぎに気になってくるのはロシアです。ロシアは確固たる外婚制共同体家族地域です。そのせいで、中国と並び、核家族の欧米に執拗に敵視される運命にあるわけですが、彼らは、いつ、どういう経緯で、共同体家族システムを持つようになったのでしょうか。

ヨーロッパの共同体家族地域には、ロシア、バルカン、中部イタリアの三つの極があります(フィンランドとバルト三国の一部にもありますが、これはロシアの影響と見られます)。

この3箇所に、どのようにして共同体家族が伝播したのか、『家族システムの起源1』の記述から、かいつまんでご紹介します。

1 中部イタリア

イタリア中部には、一貫性および同質性においてロシアやバルカンに引けを取らない「極めて純度が高い」共同体家族の地域が存在しています。

この地域は、1960年から1990年にかけて一貫して共産党の得票率が極めて高かった地域であり、外婚制共同体家族=共産主義という定式にもばっちり当てはまっているのです。

地理的に見て、この地域には、古代ローマの初期の共同体性の影響が及んでいることは想定されるのですが、その強度は、ローマの残像という要因だけで説明するには強すぎます(起源1・下486-487頁)。

そこで、ローマ帝国の後期以降にヨーロッパにやってきた民族の中に候補を探ってみると、ゲルマン人はみな起源的な家族システムを持っていたので、彼らが共同体性を持ち込んだとみることはできません。

他方、ステップから到来した民族、フン人、アヴァール人、ブルガル人、ハンガリー人、ペチュネグ人は、「複数の核家族を一つの柔軟な秩序に組織編成する」共同体的家族的な原則を持っていたと考えられ、この人たちが運搬人候補となります。

そして、トッドによると、ゲルマン民族の中に、この遊牧民系の民族との関わりから、共同体性を獲得した民族があるのです。

ゲルマン諸民族の中には、未分化の集団から抜け出して、こうした‥‥集団に連合したものが一つあった。ランゴバルド人がそれで、アヴァール人と混交して、ステップの出口にしばらく滞在した。大部分の歴史研究者は一致して、ランゴバルド人の中に類型を逸脱した父系制的特徴が検出されると認めている。

起源1・下 492頁
*元ローマの属州パンノニア(現ハンガリー)が混交の舞台らしく、この地の支配者は、6世紀以降、「ランゴバルド人(530年-568年)、アヴァール人(560年代 – 約800年)、スラヴ人(480年頃からこの地に居住しており、800年頃-900年頃は独立を果たした)」(wiki)と変遷していくのです。ランゴバルド人とスラヴ人(後述)は、変遷の過程で、アヴァール人と接触するわけです。

ランゴバルド人‥‥世界史で習った記憶がうっすらあります。568年に建国され774年にフランク王シャルルマーニュ(カール大帝)に滅ぼされたという(これはもちろん覚えておらずwikiを見ました)。このランゴバルド王国の支配地域は、現在の共同体家族地域に重なっています。

というわけで、イタリア中部については、アヴァール人がランゴバルド人に伝えた共同体家族が、ローマから受け継いだ共同体的基層の上に重なって確固たるものとなった(493頁)、という仮説が導かれました。

そうすると、起源は6世紀ですから、結構古い、といえるでしょう1古いということは通常「強い」ということを意味します

2 バルカン

次はバルカンです。バルカンの家族システムは、14世紀から20世紀をカバーする豊富な研究資料によると、「全体としては、それは安定した農民の大世帯を伴う正真正銘の‥‥共同体家族モデルである」(440頁)。

そして、オスマン帝国の侵入から間もない時期に実施されたセルビアの人口調査において、はっきりした父系原則の確立が見られることから、トッドは、共同体家族への変化は、オスマンの侵入よりもかなり以前に進行したに違いないと想定します(441-442頁)。

では、具体的には、いつ、誰が、ということで調査を進めると、

ランゴバルド人に父系制を伝えたアヴァール人は、6世紀初頭にバルカン半島に南下した時に、やはりスラヴ人と連合したことが明らかになった。

したがって、

アヴァール人がランゴバルド人とスラブ人に父系の〔共同体家族的な〕組織編成を伝授したという、きわめて単純な歴史的図式を想い描くことができるであろう。これはランゴバルド人がイタリアへ、スラヴ人がバルカン半島へと南下の前進を始める前のことである。

495頁

先ほどイタリアについてみたように、ここでも舞台はパンノニア、時期は6世紀ということになります。

そしてもちろん、バルカンの地は、オスマン帝国の中心地ですから、帝国支配下において共同体家族性は一層強化されることになったでしょう(496頁)。

あれ、そうすると、オスマン帝国の内婚制共同体家族の影響をバルカンは受けたということになるんでしょうか。キリスト教なのに2キリスト教は明確に内婚を否定しているそうです。出典は後日(発見次第)追加します

この点はのちほど確認します。

3 ロシア

さて、いよいよロシアです。

ロシアは、全土に同質的な共同体家族を持っていますが、女性の地位が比較的高いという特徴があります。女性の地位の高さは、原初的形態の残存を示し、共同体家族が確立した年代が比較的遅いことを推測させます(497頁)。

実際、ロシアの歴史的資料をみると、まず、

9、10世紀のキエフ・ルーシと呼ばれた最初のロシアは、あまり父系制を喚起することがない」。政治権力はたいてい男性に属していましたが、「イーゴリー大公亡き後、大公妃オリガは、ほぼ945年から962年までの間、この国を治めた」という事例もあり、「彼女がこうした重要な役割を果たしたことは、双方性を推測させる」。

キエフ国家はその後分裂し、ロシアは1251年から1480年までの間、モンゴルの支配下に置かれます。

ロシア人が本物の父系原則を獲得したのは、モンゴルの宗主権の下で過ごした2世紀半の間であるとするのは、特に大胆な主張とも独創的な主張とも言えない」。

キエフ国家の崩壊の後、

「ロシア文化は、北へ、ステップとは対照的な森林の世界に引きこもる。ノヴゴロドとモスクワの間に広がる空間の中で、構造化のやり直しが行われたに違いない。1251年からはキプチャク・ハン国〔モンゴル帝国の一部〕がロシアを支配するが、ノヴゴロド共和国は例外で、この国だけはバルト海を通してヨーロッパと接触することができていた。やがてロシアの全ての地を己の覇権の下に統合することになるモスクワ大公国は、モンゴルの統制下ないし影響下で発展していく。そこにキエフ・ルーシに欠けていたと思われる組織編成原則が生まれてくるのが感じられるのである。」

起源1・下 497-498頁

要するに、モンゴルの支配を受けつつ、ノヴゴロドを通じてヨーロッパの一部でもあり続けたロシアは、遊牧民の影響下で共同体家族的組織力を基層に組み込み、帝国らしい力を付ける。

その結果、「モスクワ大公国は1478年にノヴゴロド共和国を滅亡させ、次いで1480年にキプチャク・ハン国の宗主権を拒絶する」。

時の大公は、イヴァン3世(大帝)です。モンゴルから共同体家族システムを獲得したと見られるその時期に、イヴァン大帝がロシアを統一し、ロシア帝国の基礎を築いた。話の辻褄が非常によく合います(共同体家族と国家統一、帝国形成との関係についてはこちらおよびこちらをご覧ください)。

ロシアの共同体家族の起源が13世紀だとすると、イタリアやバルカンのそれよりかなり新しいですし、全土への拡大となると、さらに時期は遅くなります。

ロシアでは、16世紀末まで自由であった農民が、17世紀の間に農奴化しており、トッドはここに共同体家族の農村への浸透を見ています。

「農奴制の確立と共同体世帯の採用との間に関連を打ち立てるのは魅力的な試みである。農地の構造と家族の構造は、他のところでもそうだが、ロシアにおいても、一とまとまりの全体をなしており、一つの人類学的システムを定義するのである。これは農奴制・共同体主義という一とまとまりの誕生ということになろう。」(498-499頁)

4 二種の共同体家族ロシアモデルとイタリア・バルカンモデル

トッドは、イタリアおよびバルカンの共同体家族について、内婚制共同体家族ないしそれに近いものであるという言い方はしていませんが、それと類似した特徴を認めているようです。

まず、ロシアについて。

「中国の家族と同じように、ロシアの農民家族も過酷さの要素を提示しており、それはロシアのケースでは世帯主の過大な権力となって表出される。」

イタリア、バルカンは、

「このような〔ロシアのような〕風は、バルカン半島とトスカナのモデルにはまったく検出されない。この地域では家族は同じように大きいが、権威は拡散しており、兄弟あるいはイトコ間の横の関係が重要であったと思われる。」

イタリアもバルカン(セルビアなどの主要部分)もキリスト教圏ですから、外婚制のはずなのですが、ここでは、共同体家族の性質においては、内婚制共同体家族に近い、ということが指摘されているように思われます。

内婚制ではないことは確かなので、どう取り扱うべきか、結論を出しかねているのかとも思いますが、「内婚制」とは言わないまま、つぎのように続けています。

「ここまで来たら、共同体家族の二つの変異体を区別すべきではなかろうか。一つは縦軸によって支配されたもので、もう一つは横軸によって支配されたものである。」

起源1・下 503-504頁

親子の縦の絆ではなく、兄弟ないしイトコの横の絆が中心になるというのは、内婚制共同体家族についてまさに指摘されていた点ですが(こちらをどうぞ)、これとの関係については、残念ながら、説明されていません。

代わりといってはなんですが、家族システム、国家、イデオロギーの三位一体に関心を持つわれわれにとって、興味深い指摘がされているので、ご紹介させていただきます。

「ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第三インターナショナルの歴史の決まり文句であった。おそらくこれはグラムシ〔イタリア共産党の創設者の一人〕の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである。」

トッドは、共同体家族の「二つの変異体」の区別が、ロシアの共産主義と、イタリアおよびユーゴのそれとの違いを説明すると捉えている。

チトーは「ソ連を反面教師として様々な「実験」を行」い、自主管理、非同盟、連邦制といった「独自の社会主義」を試みたとされているのですが3柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』(岩波新書、2021年)110頁以下、その独自性の基盤には、やはり家族システムの相違があったのではないか、というわけです。

おわりに

こうやって書いてきて感じるのは、やはり、大陸中央部の経験は、島国の日本やヨーロッパの辺境とはかなり違うんだ、ということです。

要素としては、遊牧民の影響というだけなのですが、しかし、ここで特定した民族に限らず、様々な遊牧の民との接触を繰り返し、戦ったり、支配したりされたりする長い歴史の中で、彼らのシステムは形作られている。この点は、中東も、ロシアも、中国も、まったく違いはありません。

歴史的・地理的に全く異なる地域に定着したシステムに基づくイデオロギーや社会体制を彼らに押し付けてもうまくはいかないし、まして、無意識レベルに位置するシステムに対して、倫理の次元で非難をしても仕方がない。私たちとしては、それぞれのシステムの違いを認識し、理解し、尊重し、その上でできることを考えるしかないのです。

権威主義体制は彼らの社会の個性であって悪徳ではない。何回でも強調したい点です。

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家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(6・完)世界の未来 

 

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内婚制共同体家族の近代化

(1)アラブの移行期危機

Celebrations in Tahrir Square after Omar Soliman’s statement that concerns Mubarak’s resignation. February 11, 2011 – 10:15 PM

中東には、イランやトルコのように、識字化に始まる近代化の過程をほぼ完了したと見られる地域もありますが、アラブ圏の多くはまだその最中にあります。

したがって、メソ紀53世紀(20世紀)後半から続くイスラム諸国、アラブ世界の危機―宗教的原理主義の台頭や各種暴力―は、世界のどの地域の近代化にも等しく付随した「移行期危機」の現れと見ることが可能です。

「今日イスラーム圏を揺るがしている暴力を説明するために、イスラーム固有の本質などに思いを巡らす必要はいささかもない。イスラーム圏は混乱のただ中にあるが、それは識字化の進展と出生調節の一般化に結びつく心性の革命の衝撃にさらされているからに他ならない。‥‥

 イスラーム諸国の場合もルワンダやネパールの場合も、根本的な誤りは、実はイデオロギー的ないし宗教的危機を退行現象と考えることにあるのだ。

 実際は逆に、そのどれもが移行期危機なのであって、その間、近代化が住民を混乱に陥れ、政治体制を不安定化するのである。」

『文明の接近』69-70頁

20世紀後半から続くアラブ世界の危機(宗教的原理主義や暴力)は移行期危機の現れであり、近代化の正常な過程である

(2)移行過程の困難

社会の「識字化=近代化」は、家族システムの進化を逆行するように、核家族→直系家族→共同体家族の順で継起しました(例外はあります)。そして、移行期危機の強度は後のものほど高い傾向にあります。

変化への耐性は、システムが柔軟かつ単純であるほど高いと考えられますので、もっとも進化したシステムである共同体家族にとって、近代化がより困難な経験であることは理解できます。

外婚制共同体家族の近代化は、激烈な移行期危機を伴う一方で、「伝統的家族の解体→近代国家の生成」のプロセスは迅速でした。こちらでご説明したように、構造的に不安定なシステムである外婚制共同体家族は、近代化に際して(現実の家族の中では)爆発的に解体することとなり、その代替物として、近代国家(共産主義的な権力集中型国家)が直ちに必要となったからです。

この点について、トッドは、外婚制共同体家族の「厳しく、暴力的」な性格が伝統的家族の解体を促進したの反対に、内婚制共同体家族が「温かく安心できるもの」であることが、上記のプロセスを遅らせ、困難なものにするであろうことを指摘しています。

「近代化はアラブとイランの伝統的家族を揺るがせた。おそらくは最後には破壊するであろう。しかしこの動きは、解放者的として受け入れられるいかなる理由も持たないのである。というのもこの地の住民は、自分たちの家族システムを愛しており、保護者的で自然なものとしてそれを経験していたからである。‥‥アラブ諸国やイランでは、移行期危機はとりわけ、激しい過去への執着を現出した。これは愛するシステムにしがみつきたいという欲求に他ならない。」

『文明の接近』97-98頁

それでも、「危機」そのものは、いずれは収束を迎えるはずです。しかし、「危機」を乗り越えた後、彼らがどこに向かい、世界をどのような場所に変えていくのかは、現在のところ、かなり不透明であるように思えます。

内婚制共同体家族の近代化はより困難な過程であることが推測されるが、「危機」はいずれは収束する

(3)内婚制共同体家族の「国民国家」?

これまでのところ、近代化の過程を(ほぼ)完了したと見られる地域では、下図のような形で、それぞれの家族システム(=イデオロギー)に対応した国家が、一応「国民国家」の範囲に収まる形で形成されています。

内婚制共同体家族も、これと同じように、「柔軟な専制」の仕組みを持つ国民国家を形成することになるのでしょうか。

正直、ちょっと想像しにくいですね。

絶対核家族自由主義の国民国家
平等核家族自由・平等を謳う国民国家
直系家族秩序志向の強い国民国家
外婚制共同体家族権力集中型の国民国家
内婚制共同体家族

内婚制共同体家族の「国民国家」適性について、トッドは次のように指摘しています。

中東は、国家が弱い地域です。国家建設が困難であることが、アラブ世界の本質的特徴なのです。アラブ世界の家族システム、つまり内婚制共同体家族はまさに「アンチ国家」です。

 内婚制共同体家族の社会システムでは、兄弟間の連帯が軸になり、実質的に、父権的部族社会が構成されます。曲がりなりにも国家が形成する場合でも、フセインのイラクのように独裁国家になってしまうのです。‥‥


 要するに、ある範囲の地域を統一し、その中で人々を平等に扱うのが本来の国家ですが、アラブ世界では、そうした中央集権的な国家を生み出そうとしてもなかなかうまくいかないのです。そういう状況のなかで、アメリカ軍がイラクに侵攻し、かろうじて「国家」として残っていた要素まで破壊してしまいました。その結果、「国家なき空白地帯」が生まれ、そこに「イスラム国」が居座ったのは、皆さんがご存知の通りです。」

『問題は英国ではない、EUなのだ』145-147頁

『家族システムの起源』では次のように整理されています(大体同じですが)。

「官僚的組織編成というものは、己れの支配空間の住人全てを非人格的かつ同等な態度で扱わなくてはならない。中央部的アラブ圏では、兄弟とイトコたちの横の連帯が、官僚機構の台頭に抵抗し、その中に入り込み、浸透し、遂には麻痺させてしまう。権力は、そこではしばしば、一つのクランの所有物、もしくは親族によって構造化された少数派的集団の所有物にすぎない。サダム・フセインのイラクにおけるティクリートのスンニ派、あるいはアサド一族の支配するシリアを統御するアラウィー派のケースというのは、まさにそうしたものであった。」

起源・下 679頁

兄弟間の横の連帯を軸とする内婚制共同体家族は
国民国家の形成に適していない

(4)トルコとイラン 

トルコとイランがあるじゃないか、とお思いの方がおられるかもしれません。たしかに、両者が安定した国家を形成していることは間違いありません。

しかし、この二つの事例を、内婚制共同体家族の国家形成の事例に数えてよいかどうか。なぜかというと、トッドの研究は、トルコ、イランの家族システムがアラブ地域と異なっていることを示しているからです。

まずトルコの場合、トルコの西部と南部には「ローマ帝国末期の、次いでビザンツ帝国時代のギリシャ・ローマ的家族の残像」(「起源I」下678頁)と見られる、核家族的傾向の強い地域があり、それ以外の内婚制共同体家族地域でも、内婚率は比較的低い。

また、イランの中央部には世帯人数の少ない核家族的地域があり、北部には女性の地位が相対的に高い地域がある。

要するに、トルコとイランは、中東においては異例に「核家族的」な地域であり、そのことが「国民国家」の形成を可能にした要因であったと考えられるのです。

トルコとイランは中東の中では異例に「核家族的」な地域

(5)「国民国家」以外の可能性を探る

トッドは、内婚制共同体家族の「国家」(国民国家)形成能力に疑問を呈する一方で、アラブ世界の「近代化」には一切の疑問の余地を否定しています。

アラブ世界は今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中であり、いずれはそれを完了する。そのことは、出生率低下という事実に明確に表れている、と。

しかし、「国民国家」の形成が困難であるとすると、彼らに待っているのはどのような将来なのか。

私の知る限り、トッドはその展望を語ったことはありません。でも、ここまで、家族システムと国家、イデオロギーの歴史を追ってきた私たちには、うっすら、浮かんで見えてくるものがあるような気がしませんか。

この先はトッドの言葉がないので、妄想を広げてみましょう。

国民国家とは異なる新たな秩序の形成?

世界の未来

(1)世界史の流れ

この講座で描いてきた世界史は、大体こんな感じで整理できると思います。

原初的核家族の時代(7万年前- ):人間が「社会」の中に住み始める。世界にスペースは無限にあるので、規律は必要ない。

○直系家族の誕生(メソ紀元(前3300)年-):中心部が「満員の世界」の時代を迎え、縦型の秩序が必要になる。文字と国家が生まれる。

○共同体家族の誕生と拡大(メソ紀1000(前2300)年-):「帝国」が生まれ、多民族、多言語、多文化の中心部の平和と安定に貢献する。一方で「帝国」はあまり長続きしない。

○共同体家族の強化(メソ紀2400(前900)年-):中心部で女性の地位が顕著に低下。版図は広がるが、やはり長続きしない。

○内婚制共同体家族の時代(メソ紀3800?-5000(後500?-1700)年):「温かさ」「柔軟さ」の導入により長続きする「帝国」が可能に。オスマン帝国500年の平和に結実。

○純粋核家族ver.2(識字化した核家族)の勃興(メソ紀5000年(1700)年-):辺境で小規模に国家を営んでいた純粋核家族がいち早く近代化。直系家族がこれに続く。技術力、経済力、軍事力を高め、中央部との勢力逆転を視野に入れる。

○純粋核家族ver.2の勝利(メソ紀52-53(19-20)世紀):オスマン帝国滅亡。純粋核家族の覇権が定まり、世界全体が純粋核家族サイズ(国民国家)への組み替えを要請される。内婚制共同体家族地域は大混乱。比較的早期に近代化を果たした外婚性共同体家族ver.2が持ちこたえる。

○純粋核家族ver.2 の覇権(メソ紀53-54(20-21)世紀):「反権威」イデオロギーを体現する純粋核家族ver.2 が覇権を確立。共同体家族の「権威」を敵視し、世界を敵と味方に二分する。外婚制共同体家族ver.2は受けて立ち、正面から対立。直系家族ver.2は自身の「権威」をひた隠しにして純粋核家族に追随する。

○内婚制共同体家族ver.2の完成(メソ紀54-55(21-22)世紀): ?????  

(2)内婚制共同体家族の「未来」

内婚制共同体家族ver.2が完成したとき、どんな世界がもたらされるのか。現在の中東情勢をよく知る人ほど、あまり楽観的にはなれないかもしれません。

しかし、バルカンについて述べたのと同様に、中東の現在の苦境には、かなり明確な理由があるといえます。

内婚制共同体家族の困難は、おそらく、近代化の準備が整う前に「帝国」を奪われ、純粋核家族サイズの国家をあてがわれた点にあるのです。

「核家族への回帰」という事態は、進化した家族システムを基盤に民族や言語や宗教の違いを克服してきた彼らにとっては、5000年の進歩を否定され、その以前にタイムスリップさせられることに他なりません。

西側の先進国の干渉によって手足を縛られ、5000年前の「振り出し」に戻され、想定ルート上にたくさんの地雷を仕掛けられたところで、近代への「移行期」が始まったのだとしたら、それが、困難なものにならないはずはありません。

とはいえ、近代化の過程は着実に進展しており、近い将来に完了することが確実です。歴史的に関係の深いアフリカ大陸を含むアラブ文化圏の大きな人口が、教育水準を上げ、心性の一定の安定を見たときに、何が起こるのか。

オスマン帝国について教えて下さった林佳代子先生は、旧オスマン帝国地域の現在の混迷を前に、以下のように書かれました。

「「民族の時代」を生きる現代のバルカン、アナトリア、中東の人々が、オスマン帝国の末裔である事実は揺るがない。もしも、過去の記憶に、「未来」をつくり出す力が本当にあるとするならば、バルカン、アナトリア、中東の人々が、かつてオスマン帝国を共有した記憶は、意味のないことではないだろう。その時間は500年にも及ぶ。その事実がバルカン、アナトリア、中東の人々の共通の記憶として、誇りを持って語られる時代の到来を願いたい。」

『オスマン帝国500年の平和』375-376頁

まるで祈りのような言葉です。いろいろ教えていただいたお礼を込めて、もし機会があるなら、次のようにお伝えしたい。

「先生、大丈夫です。彼らは内婚制共同体家族システムを共有していますから!」

彼らが意識の上でオスマン帝国を否定しようがしまいが、彼らの無意識には内婚制共同体家族の心性が刻まれています。したがって、彼らが近代化の過程をくぐり抜けた暁には、彼らの一挙手一投足が、しかるべき「未来」を作り出すに違いない。

その萌芽が、もしかしたら、アフガニスタンの若者たちの手で、今まさに作られているということも、考えられないことではないのです。

現在どれほどの苦境にあるとしても、そしてまた、今しばらくは大きな混乱が続くことが明確に予測できるとしても、決して悲観するには値しないと私は思います。

おわりに(想定される近未来)

私の知識と想像力に大幅に限りがあることは認めます。その上で「でも普通に考えたらこうなるよね?」と思えることを書いて、まとめに代えたいと思います。

  • 内婚制共同体家族はまもなく内婚制共同体家族ver.2になる。
  • 識字化人口の数的優位により世界の中心を占める。
  • 自分たちの居住領域において、彼らは「核家族サイズの国家の分立状態」に満足せず、新たな秩序を模索する。
  • 新たな秩序は、何らかの強大な権威に裏付けられた宥和的なものとなる。
  • かりに「イスラム」を掲げたとしても内実はほぼ世俗的なものとなる。
  • 「権威による平和」を志向する彼らは、世界の中心に返り咲く過程で、「権威との戦い」「競争による秩序」を志向する核家族とぶつかる。
  • 核家族側が妥協しない場合、大きな紛争が生じる。
  • 外婚制共同体家族との関係は、交渉次第(内婚制共同体家族の包容力が問われるところか)。
  • 内婚制共同体家族ver.2が中央、核家族・直系家族ver.2が周縁という当初の配置において平和を回復する。

これは私の「願望」ではありません。家族システムの変遷に基づく世界史を書いてきた筆をそのまま少し先に進めてみただけです。「順調に行った場合の近未来」の予測ではありますが、当てようとも当てたいとも思っていません。

でも、正直、内婚制共同体家族ver.2が作る新しい秩序を見てみたいな、とは思います。

核家族ver.2の「自由」は魅力的で、世界中に新しい風を吹き込みました。しかし、昨今の世界情勢を見ていて、「核家族のやり方で世界を平和にまとめるのは無理なんだな」と私はしみじみ理解しました(こちらに少し書きました)。

直系家族にもその力はないし、外婚制共同体家族はちょっと強面すぎる。

多様性をそのままに、世界をそれなりに平和に統合するという役割にもっとも適しているのは、内婚制共同体家族システムなのではないか。

とはいえ「だったら、われわれも内婚制共同体家族システムを採用して平和裡に世界を征服しよう」といってできるものではないし、気に入ろうが入るまいが、内婚制共同体家族ver.2が再浮上の過程にあるならば、それを止める手立てはないのです。

無責任に聞こえるとは思いますが、みんながそうやって腹を括れば、世界はかなり平和に近づくと思う。

トッドの人類学理論は、人類をそのような境地に近づける可能性を持つ理論だと、私は思っています。

(終わりです)

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家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(5) 核家族レジームは機能したか

 

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核家族レジームは機能したか

「識字化した核家族」の近代にあって、とりわけ大きな混乱にみまわれた地域。その代表格といえるのは、バルカン半島と中東です。

旧オスマン帝国の領土であったこれらの土地は、覇権が共同体家族から「識字化した核家族」に移行する中で何を経験したのか。それが今回のテーマです。

のちに「民族紛争と宗教紛争の巣窟」と化してしまうこの地域を、オスマン帝国はどのように治めていたのかを、改めて確認しておきます。

オスマン帝国 スレイマーン1世(在位1520年-1566年)

林佳世子先生は、帝国の性格について、次のように述べています。

「オスマン帝国は、当該地域、すなわちバルカン、アナトリア、アラブ地域のそれ以前の伝統を受け継ぎ、諸制度を柔軟に統合し、効果的な統治を実践した中央集権国家だった。帝国の周辺での対外的な戦争により、内側の安定と平和を守った国でもあった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)23頁

「あえて支配層の民族的帰属を問題にするならば、オスマン帝国は、「オスマン人」というアイデンティティを後天的に獲得した人々が支配した国としかいいようがない。「オスマン人」の集団に入っていったのは、現在いうところの、セルビア人、ギリシャ人、ブルガリア人、ボシュナク人、アルバニア人、マケドニア人、トルコ人、アラブ人、クルド人、アルメニア人、コーカサス系の諸民族、クリミア・タタール人などである。少数ながらクロアチア人、ハンガリー人もいる。要は、何人が支配したかは、ここでは意味をもっていなかったのである。」

同・14頁

前半は、以前ご紹介した鈴木董先生の「柔らかい専制」の趣旨と一致していますね。

ここでは、帝国における「民族」の扱いに注目します。

オスマン帝国が、多民族、多言語、多宗教の人々を効果的に統治していたことはよく知られていますが、林先生はここで、支配層についても、民族的帰属が問題になっていなかったことを明確にしています。

オスマン帝国は、被支配民に関してだけでなく、支配層の人間についても民族的帰属を問わない、「何人の国でもな」い帝国であったのです。

その「何人の国でもなかった」国は、しかし、帝国解体後、「近代国家」を目指すと、直ちに、民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となってしまった。いったい、なぜなのでしょうか。

「何人の国でもなかった」旧オスマン帝国領土は、帝国解体後、直ちに民族紛争、宗教紛争が荒れ狂う地となった。なぜ?

バルカン半島のその後

(1)ユーゴスラヴィアの解体

オスマン帝国末期以降、バルカン半島に暮らしていた諸民族は、紆余曲折を経て独立し、ギリシャを除く南スラヴ地域は一度はユーゴスラヴィアとして統一されます。しかし、メソ紀53世紀末(5290年代(1990年代))の内戦でバラバラになり、現在、バルカンの地には、ギリシャを含む8つの国連加盟国と、国際社会から一致した承認を得られていないコソヴォ共和国が存在しています(コソヴォ紛争についてはこちらをご覧ください)。

WWⅡからユーゴ内戦までを舞台にした映画
アンダーグラウンド(監督エミール・クストリッツァ) おすすめです

平たくいうと、バルカンの人々は、「帝国」から解き放たれた後、西欧にならって国民国家の成立を目指したが成功せず、部族国家といいたいほどの小規模の国家の分立状態に立ち至ってしまった、ということになるでしょう。

なぜそんなことになってしまったのか。家族システムの変遷と関連づけて国家の歴史を見てきた後では、その理由は、かなりはっきりしているように思えます

メソポタミアに近接するこの地域、古くから多様な民族が出入りし、混ざり合って暮らしていたこの地域を、辺境の島国で生まれた「国民国家」の流儀でまとめるという目標には無理があった。そういうことではないでしょうか。

バルカン半島は一度はユーゴスラヴィアとしてまとまったものの
内戦により粉々に。核家族レジームとの齟齬が関係?

(2)オスマン帝国のバルカン

バルカンがどんな感じのところなのかをイメージするために、ビザンツ帝国が後退した後、オスマン帝国の支配が確立する前のバルカンの状況を、再び林佳世子先生に教えていただきましょう。

まず、前提として、バルカンの地形や都市の構造について。

「バルカン地域の特徴は、東部では東西に、西部では南北に延びる山脈が峻険な山岳地帯を形づくっている一方で、山脈と山脈の間には平野部が開け、平野部は、河川に導かれて外の世界とつながっていることにある。このため、バルカンの諸地域はその複雑な地形のわりに人口の移動が多く、山脈に分断された諸地域に多くの民族を内包することになった。」

『オスマン帝国500年の平和』(講談社学術文庫、2016年)50頁

バルカンを私たちは「ヨーロッパ」だと思っていますが、実はトルコと一つながり、というところも、ポイントのようです。

「山がちな地形は、海峡をはさんでアジア側(アナトリア)ともよく似ている。農耕を行う定住農民、山と平地を往来する遊牧民(牧羊民)、そして山中に隠れる賊たち、農産物の集散地として点在する都市といった社会の仕組みも、共通項が多い。天水に頼る農業の手法も、基本的に同じである。ビザンツ帝国とオスマン帝国が、コンスタンティノープルをコンパスの視点として支配したアジアとヨーロッパは、自然環境やそれに規定された生産活動の面で一つながりの地域であった。」

同50頁

バルカン半島には、ビザンツ帝国が健在であった時代から、スラブ系の民族が侵入して、14世紀には「ビザンツ帝国の後退、スラブ系諸侯の分裂で、西アナトリア以上に激しい分裂状態になってい」ました。

一番有力だったセルビア王国もなんだかんだで結局は分裂してしまい、その他の地方でも、

「諸侯や王族が割拠し、互いに争う状況が生まれた。諸勢力のなかには、在地の諸侯だけでなく、黒海北岸から進出したトルコ系のノガイ族やアナトリアからの雇い兵として動員されたアイドゥン侯国などのトルコ系騎馬軍団、カタロニア兵などヨーロッパからの雇い兵軍団、ヴェネチアやハンガリーからの派遣隊など、外来の部隊。集団も含まれていた。彼らの存在によって、軍事的なバランスは非常に複雑だった。」

52-53頁

オスマン帝国の祖、オスマンは、似たような状況のアナトリアで、実力でのし上がった人でした。そして、息子オルハンは、その軍勢を率いて、バルカンに入り、勢力を固めていきます。

彼らが帝国を築いたその地は、要するに、民族も出身も立場も文化もまったく異なる勢力がつねに出入りしていて、放っておけば、諸勢力の割拠、複雑な離合集散、収まることのない騒乱‥‥といった状態に必然的に陥ってしまう、そのような地理的・歴史的な環境だったのです。

こういうところで、国をまとめるのに、「民族」などという概念を用いるバ‥‥いえ、為政者はいません。

そういうわけで、オスマン帝国は、被支配層はもちろん、支配層についても民族的帰属を問題にしない「何人の国でもな」い国となりました。

メソポタミアで生成した共同体家族システムが、ユーラシア大陸の中央部に定着し広く拡大していったのは、多様な民族が行き来し、言語・文化が入り混じるその土地での秩序形成に適した家族システムであったからだと考えられます。

一方で長期の安定性を欠いたそのシステムは、内婚制共同体家族に進化することで、「温かさ」「柔軟さ」を付け加え、支配の安定性に寄与しました。「オスマン帝国500年の平和」は、おそらく、その基層の上で初めて成り立っていたのです。

ビザンツ帝国の後退後、諸侯や王族が割拠して争い、激しい分裂状態となっていたバルカン地方をまとめたのが内婚制共同体家族のオスマン帝国だった

(3)否定された「帝国」の遺産

西欧近代の台頭で、オスマン帝国が退陣を強いられたとき、彼らの基層がもたらす価値は、すべて「時代遅れ」のものに見えたと思います。

トッドに学んだ私たちは、西欧の「近代化」の核心部分にあったのは「識字化」であり、「自由と民主」や「国民国家」といったスローガンではないことを知っています。

しかし、当時の人々には、「「帝国」が負け、「国民国家」が勝った」と見えたはずです。したがって、当然、彼らは、無理矢理にでも「民族」を意識し、「国民国家」を目指して、悪戦苦闘を重ねていく。彼らの意識の中で、オスマン帝国は、「否定し、克服すべき対象」でしかありませんでした。

「19世紀、20世紀の歴史のなかで、多くの国が、自分たちの抱える構造的な問題を『オスマン帝国の負の遺産』とみなし、その責任を、いわば過去のオスマン帝国に押し付けてきた。」

「しかし、実際には、すべての国々に有形無形のオスマン帝国の遺産は引き継がれていた。負の遺産として挙げられる『近代化の遅れ』ばかりでなく、オスマン帝国の官僚制や政治風土、生活文化や習慣などさまざまなものが、意識されないまま引き継がれている。それらは「トルコの影響」ではなく、オスマン帝国の共有の財産・遺産である。」

しかし、それらの価値が正当に評価されることは決してありません。

「‥‥オスマン帝国が支配下にある民族を「整理」しなかったという点は各地域にマイナスの遺産を残したとして強調され、現在のバルカンや中東の民族紛争の原因として常に挙げられる。」

なんと、「何人の国でもなかった」ことによって、500年の平和を保持したオスマン帝国の偉大な歴史が「マイナスの遺産」とは。

「とはいえ、民族を「整理」しなかったこと自体がマイナスであったはずはない。」

その通り、としかいいようがありません。ともかく、進化の頂点である内婚制共同体家族から辺境の核家族へのレジーム・チェンジは、これほどの価値観の転倒をもたらしたのだ、ということを、確認しておきましょう。

帝国解体後の苦境の中、核家族レジームとの齟齬から来る諸問題の責任がすべて「帝国の負の遺産」になすりつけられた

(4)早すぎた「近代化」

次のような疑問が生じるかもしれません。

「識字化した核家族の土地に自由主義的な国民国家が生まれ、識字化した直系家族の土地により秩序志向の強い国民国家が生まれ、外婚制共同体家族の土地に共産主義的な権力集中国家が生まれた。内婚制共同体家族は、なぜ、これと同じように、彼らの相応しい「近代国家」を生み出すことができなかったのか。」

これは、彼らの将来にも関わる問いです。

将来の可能性は次回(最終回)検討しますが、オスマン帝国崩壊後について言うと、彼らがなぜ「自分らしい近代」に到達できなかったのかははっきりしています。

まだ、近代化の準備ができていなかったのです。

バルカン地域の識字率に関する歴史的データを私は持っていませんが、20-24歳の男性の識字率が50%を超えた時期は、トルコが5232年(1932年)、ロシアが5200年(1900年)ですから、バルカン地域は、早くてもこの中間のどこかでしょう。*下の「追記」をご参照ください。

要するに、彼らは、「十分な識字化人口」という、自律的な近代化に不可欠なものを、まだ持っていませんでした。

西欧近代は、まだ準備が整っていない彼らから、帝国の保護を奪い、「国民国家」の理想を与えました(もちろんそれだけでなく、列強はそれぞれの思惑でいろいろと介入もしました)。

しかし、どこにどう線を引いても、それぞれの領域の中に、民族は混じり合っているのです。

ちなみにいうと、彼らは、言語も違うし、宗教もさまざまに分布していますが、家族システムも多様です。

旧ユーゴ内では、セルビア人、ボスニア人、マケドニア人は共同体家族、スロヴェニア人は直系家族、モンテネグロ人、クロアチア人、アルバニア人は核家族です(コソボの人口の9割はアルバニア人)。

オスマン帝国の下では、民族の違いを意識することもなく暮らしていた彼らも、「民族自決」の掛け声のもとで、近代国家を作るとなれば、話は違います。

歴史的に見て(また家族システムから見ても)、セルビアが指導的な立場に立ったことは自然であったように思えますが、同時期にオスマン帝国から独立した対等であるはずの民族間で、安定した支配-非支配関係を構築するのが容易であるはずはありません。

その上、ちょうどその時期が「移行期危機」に重なっているのですから‥‥バルカン、そしてユーゴスラヴィアは、「帝国」を離れて、国民国家を目指したその日から、いくつもの時限爆弾を抱えていたようなものだったといえるでしょう。

爆弾が破裂して、例えば、ユーゴスラヴィア連邦内の一共和国が、あるいは共和国内の一地域が「独立」を目指して蜂起したとき、かりにオスマン帝国が宗主国であったら、直ちに反乱軍を鎮圧し、国としての統合を維持しようとしたでしょう。ユーゴ紛争のとき、ロシアに力があったら同じことを試みたかもしれません。

しかし、現代の覇権国、絶対核家族のアメリカは、「権力への抵抗」とか「独立のための戦い」となると、一も二もなく支援に走ります。

大量の武器を送り込み、何なら軍を動員してまで、旧来の秩序に抵抗する側を支持し、結果として、地域をバラバラに分解する。

そうやって出来上がったのが、現在のバルカン世界である、と言えると思います。

西欧近代は、準備不足の人々から帝国の保護を奪い、複雑な民族構成のバルカンに「民族自決」の理想を与えた。

純粋核家族は、統合維持の困難を理解せず、問題が起こればつねに「独立」側を支持して、解体を促進した。

[追記]ユーゴスラヴィアについて『帝国以後』に記載があるのを発見しました(68頁以下)。箇条書きで紹介します。
・旧ユーゴの近代化(識字率上昇≒出生率低下)は、キリスト教系住民とムスリム系住民の間で時間的にズレがあった。
・キリスト教系住民が中心であるセルビア、クロアチア、スロヴェニアの人口転換は1955年までには概ね完了しており、彼らの近代化が共産主義の伸張をもたらした。
・キリスト教系(カトリックと正教徒)とムスリムが混在するボスニア、マケドニアは、それぞれ1975年、1984年前後に出生率が低下し、正教徒とムスリムが混在するアルバニアとコソヴォは1998年前後に低下する。
・共産主義の崩壊は、セルビア人、クロアチア人には移行期危機の出口となりうるはずであったが、ちょうどその時期にムスリム系住民の移行期危機が重なり「殺人の悪夢に変わってしまった」。

人口学的移行期が時間的にずれていたために、連邦全体の規模で、異なる住民集団間の相対的比重が絶えず変わることになり、その結果、圏域全体の主導権について全般化した不安が醸成された‥‥。より早期に出産率を制御したので、セルビア人とクロアチア人は己の人口増加が減速するのを感じ、急速に人口を増やしていく「ムスリム」住民に直面して、人口的に侵略され呑み込まれる過程が進行すると予想した。共産主義後の民族的強迫観念が、こうした速度と時期を異にする人口動態によって誇張されることとなり、クロアチア人とセルビア人の分離をめぐる問題系の中に導入されたのである。

・なお、アメリカやNATOの介入についてはつぎのように述べています(苦言を呈しているといってもよいでしょう)。

「はるか以前に近代化の苦悩から抜け出た軍事大国が行う介入には、歴史的・社会学的理解の努力が伴わなければならないだろう。ユーゴスラヴィア危機は、多くの人の道徳的態度を呼び起こすことになったが、分析作業はほとんど呼び寄せていない。いかにも残念なことである。

エマニュエル・トッド『帝国以後』70頁

中東のその後

オスマン帝国終焉ののち、部族国家サイズの国家の分立状態に立ち至ったもう1箇所は、中東、とりわけアラブ世界です。

この地域の多民族、多宗教、多言語性について、あえて言及する必要はないでしょう。しかし、バルカンと同様、この地域でも、近代以前において「民族」「宗教」が問題化することはなかったということは、よくよく確認しておく必要があります。

(1)内婚制共同体家族の洗練

地域のイスラム化が進んで以降(この講義の観点からは、内婚制共同体家族の拡大を意味します)、アラブ世界を含む中東では、アラブ系、イラン系、トルコ系のイスラム王朝がいくつも盛衰しましたが、

そのすべてが民族・文化のるつぼであり、いくつもの文化層が堆積されているイスラーム世界の政治権力の常として、程度の差こそあれ、コスモポリタンな性格をもっていた。そのため、イスラーム世界の住民は、コスモポリタンな性格をもつ中央権力のもとで、王朝がアラブ系であるか非アラブ系であるかに関係なく、社会・経済生活を営んでいた。

この点、オスマン帝国も例外ではなかった。確かにこの帝国は、それまでのイスラーム諸王朝にくらべて、きわだって中央集権的な軍事・統治機構をもっていた。しかし、この帝国は同時に、納税を条件に多くの宗教共同体(ミレット)に大幅な内部自治をあたえる「ズィンマ」(保護)の制度というような、イスラーム世界に伝統的な住民を間接的に支配する方法をも引き継いでいた。こうして、住民の生活の現実は、オスマン帝国下にあってもそれまでとさほど変わらなかったと考えられる。

加藤博「オスマン帝国下のアラブ」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)166頁

オスマン帝国の時代、アラブの中心部、シリアと北イラクは、トルコやバルカンと同様の直接支配地域となっていましたから、彼らは、「オスマン人」のアイデンティティも持っていたかもしれません。しかし、いずれにせよ、彼らを含むアラブ世界の人々は、それぞれに、宗教・宗派、言語、地域等に対する複合的な帰属意識を持ちながら1彼らの「複雑で複合的な帰属意識構造」につき、加藤博「アラブ世界の近代」坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)74頁以下。、洗練されたコスモポリタン的な世界を生きていました。

この洗練された社会体制の基層に、家族システムの「進化」を見て取るのは容易です。繰り返しになりますが、共同体家族(とりわけ内婚制共同体家族)は、このような、長い歴史を持ち、多種多様な民族・文化が混淆する世界をまとめるのに最適であったからこそ、大陸中央部を席巻することになったに違いないのですから。

内婚制共同体家族の基層の上で、オスマン帝国時代のアラブの人々は、それぞれの宗教・宗派、言語、地域に対する複雑な帰属意識を保ちつつ、民族にとらわれないコスモポリタン的世界を生きていた

(2)帝国の終焉と「核家族国家」化

しかし、識字化した核家族が作った「西欧近代」のレジームによって、帝国の時代は終わりを迎えます。

「オスマン帝国の中東」に関していうと、まず、オスマン帝国は、帝国自身の近代化の努力により、「トルコ人の国民国家」に変貌を遂げる。

それまで「オスマン人」であったはずのアラブ世界の人々は、突然「トルコ人に支配されるアラブ人」の立場に置かれることとなって反発し、彼らは彼らで独立を目指します。

彼らが作る「近代国家」には、本来、多様な選択肢があったはずです。「アラブ」としてまとまるのか、「イスラーム」としてもっと大きなまとまりを作るのか。

しかし、バルカンについて述べたのと同様に、彼らもまた、識字化した人口を十分に持ってはいなかった。つまり、準備が整っていなかったのです。

彼らは悪戦苦闘を重ねつつ、欧米列強の手玉に取られていくことになっていきます。人口的な国境線が引かれ、小国家の分立状態に置かれた挙句に、核家族と直系家族の(狭量な‥‥)「国民国家」が生み出した「ユダヤ人問題」の精算のために、パレスチナ問題まで押しつけられる。

彼らは、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種を巻かれた土地の上で、識字率を上昇させて本当の「近代化」に向かうと同時に、移行期危機を迎えることになります。(続く)

準備不足の状態で「近代国家」を押し付けられた人々は、彼らに相応しい多様な選択肢を検討する間もなく欧米列強の手玉に取られていく

彼らは現在、「識字化した核家族」によってバラバラにされ、紛争の種をまかれた土地の上で、移行期危機を迎えている

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トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(4)「識字化した核家族」の時代

目次

西欧の家族システム

(1)核家族と直系家族の二種類

ユーラシア大陸の中央部の家族システムが「核家族→直系家族→外婚制共同体家族→内婚制共同体家族」へと発展を遂げていた頃、西ヨーロッパはどんな状態であったのでしょうか。

拡大当初のローマが中東から受け取っていた共同体家族が、征服した核家族地域に侵蝕されて後退したことはすでにご説明しました

文明の中心地から見れば「辺境」であった西ヨーロッパでは、その後、共同体家族が自律的に発生することも、伝播によって広がることもなく、わずかに「ローマの痕跡」が、イタリア中部の共同体家族地域に残るにとどまりました(ちなみに共産主義が定着した地域です1起源1・下448頁。
 *ヨーロッパの共同体家族についてはこちらもご参照ください。

そういうわけで、現在に至るまで、西欧に残る主な家族システムは、核家族(絶対、平等、より原初的)と直系家族の二種類。文明誕生直後のメソポタミアと同じ状況です。

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとはみえない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的な逆説なのである。」

起源1・上 45頁

共同体家族の後退により、西ヨーロッパの主な家族システムは直系家族と核家族の二種類となった。

(2)西欧の核家族は「起源的」か

西欧の人間であるトッドは、彼らの自慢である「近代性」が実は「起源的」システムの産物であった、という「逆説」を強調する傾向があります。

彼がその「逆説」に西欧の傲慢さをたしなめる教訓を読み取る気持ちはよく分かります(西欧近代を範とする日本の社会科学者であった私も、当初はそうでした)。

しかし、今、私の気分は少し変化しています。

起源的であるということは、同時に、普遍的であることを意味しています。例えば、次のようにいうことは、誤りではありません。

「どの地域も原初に遡れば「核家族」であり、自由で男女平等の世界であったのだ。」

ここで、例えば、「人類の活力ある未来は、「原始への発展」の中にこそあるのではないか?」といったスローガンまたは予測をぶち上げるとします(魅力的ですよね?)。

すると、やはり西欧近代は、ある意味で「先駆者」であり「模範」であるということになる。識字能力を身につけた人々が自由を求めて立ち上がる過程を描くトッドの筆の中にも、そのような気分がないとは言えないと思います。

「逆説」を強調するとき、トッドは、純粋核家族と原初的核家族は似て非なるものであるという事実を捨象しています。

純粋核家族は単なる原初的システムではなく、直系家族との衝突という特殊な過程を経て生まれたシステムであるという事実を、無視しているとはいいませんが、重視してはいない(絶対核家族の誕生のメカニズムはこちら)。

しかし、社会科学者として長年、西欧のシステムと日本のシステムの相違に苦しんできた私には、今、純粋核家族の特殊性が目について仕方がないのです。

彼らとうまく付き合っていくためには、単なる原初性とは異なる、純粋核家族の特殊な性格をしかと認識することこそが必要なのではないか。

そういうわけで、この文章では、純粋核家族の誕生の経緯、その過程で直系家族が果たした役割に注目しながら、「西欧近代」の誕生を見ていきたいと思います。

西ヨーロッパの核家族は「直系家族以前」の原初的システムではなく、
直系家族との協働によって生まれた特殊進化形である

直系家族の発生と伝播

文明の初期、初めての「国家」は、直系家族と同時に誕生していました。

同様に、ローマ帝国崩壊後の西欧で、近代国家に連なる国家が生まれたときにも、同じ時期に直系家族の発生が観察されています。

トッドの仮説によると、その起点となった場所は、フランス北部でした。

「フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること、そして西ならびに中央ヨーロッパにおける直系家族の発達の出発点を確定することができる。‥‥クローヴィスの子孫2メロヴィング朝フランク王国の初代国王。在位メソ紀3781-3811(481-511)にとっても、シャルルマーニュ3カロリング朝フランク王国の王(在位:メソ紀4068-4114(768-814))。の子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥西フランクにおいては、男子長子相続制の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。」

「さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という観念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。」

起源1・下 597頁
ユーグ・カペーの戴冠

43(10)世紀末、フランスの貴族の下で直系家族が成立し、中世封建社会の幕が開きます。この少し後で、日本でも同じことが起こりましたね(なお、日本の直系家族化は鎌倉時代後半から江戸末期にかけて漸進的に進行します)。

「秩序と無秩序とを組み合わせてまとめ上げられるこの方式は、いかにも独創的ではあるが、これは古代中国と中世日本において実践されていたものでもある。封土は安定し整然とまとめられたが、弟たちは内戦や十字軍戦役を求めて街道を駆け回る。日本とヨーロッパの発展過程の類似には驚くべきものがある。」

起源1・下 598頁

フランス北部で生まれた直系家族は、その後、ヨーロッパ各地に運ばれていきますが、運ばれた先で、同じように定着したわけではありません。

代表的なところでいうと、大いに定着したのはドイツです。しかし、パリ盆地の農民や、イギリスの農民には全く定着しない。その結果、後者は、純粋核家族の地域となるのです。

いったい、何がこの二つの流れを分けたのか。直系家族が農民の間に拡大せず、絶対核家族を生むことになったイギリスの例を見ていきましょう。

フランス北部で発生し封建社会の基礎となった直系家族は、伝播したドイツに大いに定着したが、パリ盆地やイギリスの農民には根付かず、純粋核家族を生むことになる

国民国家の誕生

フランス北部でメソ紀 43世紀(10世紀)末に発生した直系家族の影響は、直ちにイギリスに及びます。メソ紀4366年(1066年)、フランス貴族であるノルマン人、いわゆる(?)ノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服したからです(ノルマン・コンクエスト)。

ノルマン人騎兵とアングロサクソン歩兵が戦う様子(Tapisserie de Bayeux)

ノルマン貴族が持ち込んだ直系家族は、しかし、農民の間に広がることはありませんでした。なぜか。

一言で言うと、直系家族の核心である、「農地の不分割」(単独相続)の規則は、イギリスの農民には、単に必要ないというだけでなく、ほとんど意味をなさないものであったからだと考えられます。

西欧の農地制度は、非常にざっくりいうと、家族経営の地域と、集約的な大規模農業経営の地域に分かれるそうです。

イギリスやパリ盆地のフランスは、後者の典型で、非常に早い時期に大規模農業経営が始まっていました。大規模農業経営というのは、要するに、大きな農園を経営する地主がいて、農民はそこで働く。農民は、自作農でも小作人でもなく、工場労働者と同じ意味で「農業労働者」というべき存在になっている。そういう仕組みです。

「こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。」

起源1・下601頁

長子相続制は、新たに開墾する土地がなくなった「満員の世界」で、土地を分割せずに相続する必要に合わせて拡大する仕組みです。

所有者としてであれ、小作権者としてであれ、子どもに相続するべき土地や財産を持たない農民には、長子相続の規則はまったくの無意味です。

そういうわけで、これらの地域では、貴族と一部の富農以外の間に、直系家族が広がることはありませんでした。

「パリ盆地の農民は、最終的には直系家族の概念的反対物に他ならない平等主義核家族によって構造化されることになる。イングランドでは、直系家族概念が暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対的核家族の発明へとつながって行く。」

起源1・下 601頁

こうして、フランス、イギリスは、二種類の家族システムが併存する土地となりました。社会の支配層を占める直系家族と民衆の核家族です。

前者が形成した国家の傘の下に、後者が被支配民として収まることで、都市国家よりは大きく帝国よりは小さい国家が生まれた。これが国民国家である、ということは、すでに述べた通りです。

農民の多くが土地を持たない「農業労働者」であったフランス、イギリスでは、貴族や富農のみが直系家族となり、庶民は核家族にとどまった

支配層の直系家族+非支配層の核家族=国民国家

核家族は、支配層の直系家族への反感を構造化し、純粋核家族システムを形成した

純粋核家族安定の秘密

(1)直系家族と核家族の相互補完性

機能的に見ると、直系家族が誕生させた国家と、核家族の国民との組み合わせは、非常に理にかなっているといえます。

核家族は国家を形成する能力を持たないのですが、近代化の過程で農村の相互扶助機能が失われたときに、もっとも国家を必要とするのは核家族です(夫婦2人ではいざ何かあったときに立ち行きません)。

直系家族の国家は、彼らに国家(を通じた公的扶助)を提供することができます。

一方、直系家族は、国家を作る能力はあるけれども、ごく小さな国家しか作れない。核家族が国民となってくれることで、直系家族の国家は、繁栄に必要な「大きさ」を確保することができるのです。

このパターンの国民国家は、イギリス、フランス、そしてオランダに生まれました。

核家族と直系家族は、相互に欠落(国家形成能/国家の大きさ)を補い合う関係にある

(2)二項対立が安定をもたらす

異なる性格を持つ二つのシステムの併存は、不和の元になりそうに思えます。結果的に見ると、純粋核家族の生成は、この問題への解決策であったといえます。

核家族は、直系家族への「対抗価値」を構造化することで、純粋核家族システムに変化しました。それによって、これらの国々は、「二項対立」を軸とした安定を達成し、対立が生み出す活力とともに、順調な発展を遂げていくのです。

現在、イギリス、オランダ、フランスの国家としてのアイデンティティの源は、純粋核家族のシステム(絶対核家族(自由)、平等核家族(自由と平等)に求められています。

純粋核家族の「自由」の本質は、直系家族の権威への反感、「反権威」ですから、「権威」の誕生こそが国家の生成を促したという歴史を知る者から見ると、彼らの国家はちょっと不思議です。

「「反権威」を旗印にした国家なんて、成り立つのか?」

しかし、彼らが意識していようがいまいが、純粋核家族と直系家族はセットです。純粋核家族の出自には必ず直系家族が関わっており、直系家族の価値との対抗関係が生み出す二項対立軸こそが、純粋核家族国家の安定を可能にしているのです。

イギリスやオランダの場合には、その痕跡は、王室や世襲貴族という目に見える形で残っています。フランスは、王や貴族を廃止しましたが、その国土の半分を占める直系家族地域が、「痕跡」どころではない存在感を発揮しています。

純粋核家族は直系家族と1セット。直系家族との対抗関係が生み出す二項対立の軸が、安定の基礎となっている

(3)純粋核家族を出生地から移植したら‥‥

純粋核家族の生態(?)を知るために、科学者だったら、こんな実験をしてみたくなるかもしれません。

純粋核家族を、直系家族の痕跡を残す出生地から切り離し、(システムの)空白地帯に移植したら、どうなるか。それでも、安定した国家を運営して行くことができるのか?

その実験と同じことが現実になされている土地があります。
アメリカです。

アメリカという国は、空白地帯でこそ発揮される「自由」の活力と、重しを持たない純粋核家族の不安定さを見事に体現しています。「トッド入門講座」として、書きたいことがたくさんありますが、ついでに取り上げるには大きすぎる話題なので、機会を改めて、扱うことにさせていただきます。

直系家族の重しから解放され、空白地帯に移植された純粋核家族。
それがアメリカである

辺境の西欧から—識字がもたらした逆転劇

この辺で、メソ紀47世紀(14世紀)頃の世界を俯瞰してみましょう(視野に入っていない地域がたくさんあってすみません)。

ユーラシア大陸の中心部では、モンゴルが去った後、共同体家族が帝国を統べていました。オスマン帝国が起こり、ティムールが活躍し、中国では明が建国されていた。

同じ頃、辺境のヨーロッパや日本に存在していたのは、直系家族か核家族のみ。家族システムの「進化」という観点から見れば、中東の約5000年前と同じ状況にありました。当然、そこにはコンパクトなサイズの国家や地域政権しかありません。

しかし、この後、直系家族と核家族の組み合わせがもたらすダイナミズムが功を奏し、辺境側の国力が急激に高まるのです。その動力こそが、教育、具体的には「識字」の力でした(近代化における「識字」の重要性についてはこちらをご覧ください)。

家族システムの「進化」で遅れをとっていた辺境のヨーロッパは、
16世紀以降に起こった識字化で急速に国力を高める

直系家族の寄与文字の誕生から大衆識字化まで

(1)「西欧近代」と直系家族

国民国家=近代国家の確立という点で先頭を切ったのはイギリスの核家族であり、直系家族は大分遅れを取ることになるのですが4「直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで〔土地の〕不分割原則が小国家の非集合原則によって補完された〔=置き替わった〕かのように」(起源1・下621頁)。ドイツ統一が1871年まで成し遂げられなかったのがその典型といえます。、「西欧近代」の成立に対する直系家族の寄与は本質的です。

すでに見たように、直系家族は、原初的核家族に「国家」を与えることで、純粋核家族の成立を導きました。その次に、直系家族は、その「世代間伝達能力」を活かして、西欧の識字化を先導するのです。

直系家族は、核家族に「国家」を与えた後、西欧の識字化を先導する役割を果たす

(2)文字と直系家族

識字の以前に、直系家族は、「文字」の誕生そのものに大いに関係していると考えられます。

この講座では、直系家族の発生と小規模な国家の発生がリンクしていることを見てきましたが、「文字」もまた、大体同じ頃に発生している。これを偶然と考えることはできません。

メソポタミアで直系家族が生まれ、都市国家が誕生したのは、メソポタミアで文字が誕生したメソ紀元年(前3300年)と同時期です。

楔形文字
Image of an unidentified cuneiform tablet in the British Museum, London.

中国では、文字が誕生したのはメソ紀19世紀(前14世紀)。やはり、中国が直系家族を生成させていた時期で、殷王朝が興ったとされているのもこの頃のようです。

文字とは、情報を書き留め、後世に伝えるための手段です。家系の永続を期して土地や財産を子孫に伝達するシステムである直系家族の生成と文字の誕生が同期することには、何の不思議もないといえます。5以上につき、Lineages of Modernity, pp.105-6. 

果たして、文明の最初期に文字を誕生させた直系家族は、その4800年後、識字率の大幅な上昇という局面で、再び、大いに存在感を発揮することになるのです。

家系の永続を期し、知識や財産の後世への伝達をこととする直系家族は、文字の誕生や文字文化の隆盛に大いに関わっている

(3)近代以前の識字状況

ヘレニズム期の社会の識字率を算定するという大胆な試みを行った人がいて、彼は、当時のもっとも発展した都市でも、男性識字率が20-30%を超えることはなかったと結論しました(William V. Harris, Ancient Literacy(Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989). p.141)(Todd, Lineages of Modernity, p.101)。

こうした仕事を受け、トッドは、文化・学問が大いに栄えた古典古代においても、社会全体の(おそらく男性の)識字率はせいぜい10%程度にとどまっていたであろう、と述べています。

メソポタミアの識字率を知る手立ては(私には)ありませんが、トルコで男性識字率が50%を超えた時期がメソ紀5232年(1932年)というところから見て、オスマン帝国までの4000-5000年の間は、ヘレニズム期の数字を大きく超えることはなかったと見てよいのではないかと思います。

西欧に関していうと、識字率はヘレニズム期をピークに、低下に転じます。低下傾向は西ローマ滅亡で加速し、再び上向きに転じるのは、メソ紀44-46(11-13)世紀頃でした。

西欧で、識字率の劇的な上昇が起こるのは、メソ紀49-50(16-17)世紀。このときの主役が、誰あろう、直系家族であったのです。

ヘレニズム期(10%程度)以降低下を続けたヨーロッパの識字率は、
11-13世紀にようやく上向きに。16-17世紀
劇的上昇が起こる

(4)ドイツにおける識字率の上昇

この時期の識字率の上昇が、活版印刷術の普及(グーテンベルクの仕事はメソ紀4754年(1454))、ルターの宗教改革(メソ紀4817年(1517)– )に関連することはよく知られています。

書籍の印刷所

「大衆の識字化は、そもそもプロテスタンティズムの基本的目標の一つであった。その必要性は、次のような純粋で強硬な三段論法によって導き出される。

 1 ルターは、われわれはすべて聖職者だと断言している。
 2 聖職者とは、(近代以前の人間の考えでは)文字を読むすべを知っている者のことである。
 3 それゆえ万人が聖職者となるためには、万人が文字を読むすべを知らなくてはならない。

 このためプロテスタント教会は次々と、都市住民と農村住民の読みの習得を力強く奨励したのである。」

新ヨーロッパ大全I・176-177頁

ドイツのプロテスタント地域の庶民たちは、ドイツ語に翻訳され、活版印刷された聖書を手元に置いて、読み書きを学びます。そうして、メソ紀4970年(1670年)、世界で初めて、男性識字率50%を達成するのです。6スウェーデンも同じ時期に達成している(直系家族である)。ドイツのプロテスタント地域で女性の識字率が50%に達したのは150年後のメソ紀5120(1820)年であったが、スウェーデンでは20年後の4990(1690)年であったから(女性のステータスの高さの反映である)、国民全体ではスウェーデンが先行したことになる。

この一連の出来事は、いったいなぜ、ドイツで起きたのか。

トッドは、直系家族、プロテスタンティズム、識字率の三要素が、相互作用によって、それぞれを強化する関係に立ったことを指摘しています。 

家族システムとキリスト教の教義に関するトッドの分析は大変鮮やかで、興味深いものなので、いつか個別にご紹介させていただく予定です。

[追記]その後「ヨーロッパのキリスト教(1)ー(4)」をアップしました。

直系家族・プロテスタンティズム・識字率上昇の相互強化作用で、
ドイツが世界初の大衆識字化を達成

(5)イギリスのテイク・オフ

識字化において先頭を切った直系家族地域は、その保守的傾向のために、近代化ではイギリスに先を越されることになりました。

しかし、イギリスの識字率上昇(男性識字率50%越えはメソ紀5000年(1700年))も、プロテスタントの影響、自国内および近隣地域における直系家族の存在なしに考えることはできません。

イギリスの優位は、①プロテスタンティズム、②直系家族地域の存在、③核家族の流動性、の3点が揃っていたことにあるといえます。

ともかく、このようにして、辺境の中でもとくに辺境であったイギリスにおいて、「識字化した核家族」が「西欧近代」の幕を開くことになりました。

「識字化した核家族」の時代(西欧近代)の幕開けを担うのは、
プロテスタンティズム・直系家族地域・核家族の流動性を備えたイギリス

核家族による「帝国」支配

西欧諸国と比較して、中東地域の識字化時期を見ると、トルコ 5232(1932)年、 シリア 5246(1946)年、イラク 5259(1959)年、イラン 5264(1964)年(下図をご覧ください)。イギリスと比べると、200年以上の遅れが発生したことになります。

メソポタミア文明以来、5000年の間(メソ紀5000年(1700年)頃まで)、共同体家族システムの基層の上で、文明の中心地であり続けた一帯は、「識字化した核家族」に、覇権を譲り渡すことになるのです。

「‥‥かつての超大国オスマン帝国を脅かしはじめたのは、近代西欧の台頭であった。その威力は何より、近代西欧における軍事の組織と技術の革新に求められる。
 1529年の第一次ウィーン包囲の際のオスマン軍の粛々たる撤退と、1683年の第二次ウィーン包囲の際のオスマン軍の潰走は、まったく別のものであった。その1世紀半の間に、西欧では社会体制の変化と軍事組織・技術の革新が起こって、両者の力関係は逆転してしまったのである。」

鈴木董『オスマン帝国』251-252頁

西欧が興隆した後の歴史をこれ以上見ていく必要はないでしょう。しかし、家族システムの変遷の観点から世界史を追っている私たちとしては、一つ、確認しなければならないことがあります。

核家族が覇権を握った後、共同体家族が作り上げた「帝国」秩序がどのように変わったのか、という点です。

果たして、核家族は、メソポタミア文明勃興の地に、秩序をもたらすことができたのでしょうか。次回に続きます。


Literacy of menLiteracy of women 
Protestant Germany16701820
Sweden16701690
Great Britain17001835
United States(1700)(1835)
Germany(Overall)17251830
France18301860
Italy18621882
Japan18701900
Russia19001920
Lebanon19201957
Turkey19321969
China19421963
Syria19461971
Libya19551978
Saudi Arabia19571976
Iraq19592005
Egypt19601988
Iran19641981
Pakistan19722002
Yemen19802006

共同体家族の中東は、大衆識字化において200年の遅れを取り、ヨーロッパに覇権を譲り渡すことになる。帝国秩序の喪失後、核家族は大陸に平和をもたらすことができたのか(次回に続く!)