1 移行期危機とは
移行期危機とは、社会が前近代から近代に移行する際に発生する危機的現象のことを指す用語です。
トッドの理論では、近代化の引き金を引くのは識字化です。男性の半数以上が識字化し、物を考え、社会に参加する主体が増えることで、社会が変わる。
→ストーンの法則(識字率と民主化革命を結びつける)
→近代化のモデル
一方で、人間は、男性識字率50%がもたらす急激な変化を、当たり前のようにやり過ごすことができる生物ではありません。
人々は、期待とともに、強い不安を感じる。人々の精神の動揺は、社会を不安定化させます。その社会の不安定化こそが、移行期危機の原因である、というのが、トッドの仮説です。
文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を超えた社会がどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。
エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳)『文明の接近 「イスラーム VS 西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)59頁。
2 典型的な過程
移行期危機を経て社会が安定化に至る過程では、通常、上のようなシークエンスが観察されます。
近代化の過程においては、出生率低下は受胎調節(避妊)の普及の証であり、受胎調節の普及は、脱宗教化の証です。
*ただし、出生率低下の促進要因として宗教を重視する見方は、トッドが(主に)ヨーロッパのデータから導いたものであることには注意が必要だと思います。
宗教というファクターは、男性識字化(50%)から出生率低下までに170年を要したドイツ、識字化(50%)に先んじて出生率が低下したフランスの例を効果的に説明します(ヨーロッパの脱宗教化について詳しくはこちらをご覧ください)。
しかし、キリスト教システムが国家に準じるような大きな役割を果たしてきたヨーロッパと同じことが、他の地域(とくに日本やイスラム圏以外のアジア)にも当てはまるかは、まだ充分に検証されているとはいえません。
より普遍性を持たせるなら、「信仰心の喪失」ではなく、「伝統への忠誠心の消失」などと言い換える方が適切かもしれない、と私自身は考えています。
3 具体例
国 | 識字率50%(男性/女性) | 出生率低下 | 移行期危機を示す現象とその時期 |
---|---|---|---|
イギリス | 1700/1835 | 1890 | 第一次世界大戦(74万人が死亡)(1914-1918) |
ドイツ | 1725/1830 | 1895 | 第一次世界大戦-ナチスドイツ(1914-1945) |
フランス | 1830/1860 | 1780 | フランス革命-ナポレオン (1789-1814) |
日本 | 1870/1900 | 1920 | 満州事変-第二次世界大戦 (1931-1945) |
韓国 | 1895/1940 | 1960 | 朴正煕クーデター-光州事件 (1961-1980) |
ロシア | 1900/1920 | 1928 | ロシア革命-スターリン (1917-1953) |
トルコ | 1932/1969 | 1950 | 政治的混乱、テロ、クーデター、イスラム主義(1960-2000) |
インドネシア | 1938/1962 | 1970 | インドネシア大虐殺 (1965-1966) |
中国 | 1942/1963 | 1970 | 文化大革命 (1966-76) |
カンボジア | 1960以前 | ? | クメール・ルージュ(大虐殺) (1975-79) |
ルワンダ | 1961/1980 | 1990 | ルワンダ大虐殺 (1994) |
イラン | 1964/1981 | 1985 | イラン革命(1979) |
ネパール | 1973/1997 | 1995 | 毛沢東主義ゲリラ (1996) |
<注釈>
・男性識字率50%と相関する民主化革命は、それ自体が高度に暴力的である場合(フランス革命、ロシア革命)もありますが、そうでない場合(イギリス革命)もあります。
・トッドはイギリス革命の暴力性が低かった理由を、識字率上昇が全国的でなかったことに求めていますが、出生率低下(脱宗教化)がまだだったことに求める仮説も成り立つかもしれません。
・イギリスについては、第一次大戦時の被害の大きさ(ナショナリズムに基づく戦闘意欲の高さを示す)が移行期と関連するというのがトッドの見立てです。
・フランスの識字率上昇はパリ盆地と周辺の都市部だけを取るともっと早いです(1700-1790)
・中国の移行期危機はもっと長く取る方が妥当かもしれません(1950年前後?)
・上記以外のイスラム諸国の数字をいくつか紹介しておきます(男性識字率50%、女性識字率50%、出生率低下)。
シリア | 1946 | 1971 | 1985 |
サウジアラビア | 1957 | 1976 | 1985 |
イラク | 1959 | 2005 | 1985 |
エジプト | 1960 | 1988 | 1965 |
パキスタン | 1972 | 2002 | 1990 |
・いずれも20-24歳の男性・女性の識字率が50%を超えた年です。
4 ユースバルジ論との関係
トッドは人口学の専門家でもあり、近代化に関する彼の理論は、人口学の人口転換の理論を基礎の一つとしています。
多産多死 (出生率・死亡率ともに高い) 前近代
↓
死亡率低下 (高出生率+低死亡率→人口増大 「人口爆発」も)
↓
出生率低下(やや遅れて出生率が低下。人口増加率が落ち着く)
↓
少産少死 (人口が安定) 近代化完了
また、人口学および政治学の仮説に、激しい武力紛争や大量虐殺の原因を人口に占める若年人口割合の高さから説明する「ユースバルジ論」があり、これはトッドの移行期危機の理論とよく似ているので、両者の関係が問題となります(両者の関係についてはこちらでも論じています)。
両者は、それぞれかなり異なるエリア・関心から紡ぎ出されたもので、どちらかがどちらかを参照したという関係にはおそらくありません。つまり、それぞれが独立した理論であって、当人たちの間に、相互影響関係はないと考えられる。
しかし、人口転換論を前提にすると、トッドが重視する「出生率低下」の開始時期は、若年人口が極大化している時期に当たります。
ユースバルジ論は、極端に暴力的な紛争の発生原因に関心を寄せ、歴史家トッドは、近代化という現象の総体を捉えることに注力する。
このような力点の違いはありますが、移行期危機の理論とユースバルジ論は、基本的に同じ現象を捉える理論だといってよいと思います。
5 参考文献
- Emmanuel Todd, Lineages of Modernity, Polity Press, 2019, p132, p139-152
- エマニュエル・トッド(萩野文隆訳)『世界の多様性』(藤原書店、2008年)452-459頁
- エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己訳)『文明の接近ー「イスラームVS西洋」の虚構』(藤原書店、2008年)
- エマニュエル・トッド(石崎晴己訳・解説)『アラブ革命はなぜ起きたか』(藤原書店、2011年)