- 1 カトリック地域では何が起きたか
- 2 脱宗教化の謎
- 3 脱宗教化の仕組み
- 4 平等主義核家族の脱宗教化(1730-1800)
- 5 プロテスタンティズムの再活性化と崩壊(1740-1930)
- 6 反動的カトリシズムの存続 (1900-1965)
- おわりに
1 カトリック地域では何が起きたか
プロテスタンティズムが直系家族地域に浸透し、絶対核家族地域では「変形」を被っていた頃、プロテスタンティズムを拒否した地域では何が起こっていたのでしょうか。
第2回で書いたように、ドイツの隣国フランスでは、プロテスタンティズムは、パリ盆地などの平等主義核家族地域には浸透せず、フランス内の共同体家族地域もカトリック側に付きました。
フランスの一部と並び、識字化が進んでいたにもかかわらずプロテスタンティズムを撥ねつけた地域を代表するのは、北部および中部イタリアです(北部は「絶対」ではない核家族だが、ローマは平等主義核家族、それ以外の中部イタリアは共同体家族)。
*平等主義核家族と共同体家族はいずれも(ざっくり言うと)「ローマの遺産」なので、両者は地理的に近接しているのが普通です。この件についてはこちらをご参照ください。
*なお、南イタリアは平等主義核家族ですが、文化的な遅れ(識字率の低さ)のために対抗宗教改革の中心地にはなっていません。
家族システムもさることながら、「当時のイタリアはローマとイコール」(『新ヨーロッパ大全 I』140頁)であり、ヴィッテンベルクがプロテスタンティズムの中心地であるのと同様、イタリアはカトリシズムの中心地なので、プロテスタンティズムが浸透する余地はないのです。
そこで、イタリア、そして、フランス、スペイン(の識字率の高い部分)は、その文化的な進歩性により、対抗宗教改革の中核を担うことになりました。
北部イタリアは神学者を提供する。北部フランスは、ユグノーに対して猛り狂った都市大衆を立ち上がらせる。スペインは軍隊を派遣し、ヨーロッパで最も発達した地帯の一つであるベルギーからラインラントまでの一帯で、宗教改革の拡大を軍事力を以って阻止するのである。
『新ヨーロッパ大全 I』150-151頁
彼らは、天上での自由と平等を守るため、ルターの予定説に対抗する教義を練り上げ、教会および聖職者勢力とは妥協して共存する道を選びます。
ところが、この選択は、思わぬ副作用をカトリック地域にもたらすことになりました。文化的進歩のスピードが、目に見えて低落したのです。
プロテスタンティズムは、信徒に自ら聖書を読むことを求めます。そのため、プロテスタンティズムは通常は識字率の高い地域に浸透し、そうでない場合には直ちにその地域の識字率を上げる。
これに対抗するカトリシズムは、聖職者以外の者に「読む」ことを事実上禁じます。
プロテスタントの文化的進歩主義に対して、カトリシズムは書物への紛う方なき憎悪によって素早く反応する。早くも1559年にローマ教会の異端審問所は、キリスト教徒の宗教的純血を守るために、読むことを禁じた書物を列挙した「禁書目録」の第1版を発表する。「目録」は、知的官僚主義の驚嘆すべき顕現に他ならないが、文字で書かれたものに対するカトリシズムの敵意のほんの一要素にすぎ[ない。]
‥‥実は、教会はあらゆる印刷物を脅威とみなしているのだ。カトリック圏には、ひとりでものを読む人間に対する猜疑の態度が一般に広まっている。聖書を所有するということそれ自体、ほとんど異端の兆候なのである。
181-182頁
1500年以前、文字文化の中核は、ベルギー、ドイツ圏南部、北イタリアでした。
このうち、プロテスタンティズムの中心地となったドイツは、さらに精力的に識字化を推し進め、1670年には世界初の男性識字率50%超えを達成します。
ところが、カトリック陣営に残ることを選択したベルギー、イタリアの文化的発展は減速し、ヨーロッパの中では中くらいの凡庸なアクターに成り下がってしまう。
スウェーデンやスコットランドがプロテスタントを受容したことによって識字先進国となったのと正反対に、ベルギーやイタリアは、カトリックにとどまったことによって、先進国であることを止めるのです。
*フランスにもその面がありますが、ドイツ圏に近いことと、国内に直系家族地域があることでイタリアより有利であったと考えられます。「カトリック地域にとっては、文化的発展は、外部からの影響による外因性の過程となるのである。北フランスは、識字化の進んだドイツ圏に近く、地理的にイタリアより有利な立場にあったわけである。」(182頁) *イギリスはプロテスタントですが、核家族なのが不利な点で、識字においてドイツ、スウェーデンに遅れをとった理由と考えられます。識字における直系家族の寄与についてはこちらをご覧ください。
対抗宗教改革の中核となった地域は、カトリックにとどまったことにより、文化的先進地域であることを止める
2 脱宗教化の謎
宗教改革の決着が付くと、次のビッグイベントは、信仰そのものの放棄、脱宗教化です。
脱宗教化が近代化に付随する現象であることに疑問の余地はありません。したがって、普通に考えると、脱宗教化の時期は、識字化あるいは産業革命(工業化)等の時期と一致することになりそうです。
しかし、実際はそうではありませんでした。
脱宗教化の時期
第1期(1730-1800)
パリ盆地のフランス、中部・南部スペイン、南部ポルトガル、南イタリア
第2期(1880-1930)
イングランド、ドイツ圏、北欧
第3期(1965-1990)
ベルギー、南ドイツとラインラント、オーストリア、スイス、フランス周縁部、北部・中部イタリア、北部スペイン、北部ポルトガル
〔脱宗教化:進行過程の特徴〕
ヨーロッパにおける脱宗教化の進行過程には、2つの特徴が見て取れます。
第一に、その信仰崩壊の過程は、連続的ではありません。集中的に信仰が崩れる3回の「崩壊期」を経て、最終的に脱宗教化が完成する。
第二に、信仰崩壊の速さは、文化的ないし経済的発展とはリンクしていません。
いち早く脱宗教化したのは、識字・工業化のどちらも中程度であったフランスで、これに続くのは、スペイン、ポルトガルといった低開発国です。
これよりだいぶ遅れて、工業化先進国であるイングランド、識字先進国のドイツ、北欧が脱宗教化を果たす。そして、この時期を乗り切った地域は20世紀後半まで、脱宗教化を持ち越すのです。
スウェーデン | 90% |
プロイセン | 80% |
スコットランド | 80% |
イングランド | 65-70% |
フランス | 55-60% |
オーストリア・ハンガリー | 55-60% |
ベルギー | 50-55% |
イタリア | 20-25% |
スペイン | 25% |
*脱宗教化の測定 地域の住民にとって宗教が重要なものでなくなったという事実をどのように測定するのか。カトリックの場合、教会を通じた宗教実践の熱心さ(日曜のミサへの出席、幼児洗礼の比率、宗教結婚のパーセンテージなど)を基準にすることができます。聖職者の権威を否定するプロテスタントでは、ミサへの出席率の低さ、牧師の数の少なさは、それ自体では、不信仰の証にはなりません。しかし、ミサへの出席率や牧師の数を経年で比較して、急激な低落が見られるとすれば、それは充分な指標となるでしょう。
脱宗教化は3回に分けて断続的に進行。順番は文化的・経済的発展の度合いとは無関係だった
3 脱宗教化の仕組み
脱キリスト教化の過程が複雑な様相を呈するのは、キリスト教信仰の分解要因と抵抗要因とが存在し、その両方が1730年から1990年までに期間、同時に作用したからに他ならない。プラスの要素とマイナスの要素がぶつかり合い、宗教に関するそれぞれの地域の独特の運命が決定されるわけである。
『新ヨーロッパ大全 I』199頁
(1)信仰の解体要因と抵抗要因
脱宗教化の過程は、次の二つの要素を考慮することで、ほぼ説明し尽くすことができます。
1 信仰の解体要因:科学革命
①ニュートン革命(17世紀後半)
②ダーウィン革命(19世紀後半)
2 信仰の抵抗要因:信仰の強度
①家族システム
②農地制度(大規模農業経営の有無)
科学革命は、伝播にかかる時間や、受け手となる識字層の厚みなどによる相違はありますが、ある程度均等な作用を各地に及ぼします。
しかし、科学革命という作用に対する各地の反応は大きく異なる。それは、もともとの信仰の強度が、地域によって異なるためです。
(2)「信仰の強度」の決定要因
信仰の強度は、家族システムによって、第二に、農地制度(大規模農業経営の有無)によって決まります。
〔家族システムと信仰の抵抗力〕
親子関係 (権威 1 / 自由 0) | 兄弟関係 (不平等 1/ 平等 0) | 信仰の強度 | |
直系家族 | 1 | 1 | 2 |
絶対核家族 | 0 | 1 | 1 |
共同体家族 | 1 | 0 | 1 |
平等主義 核家族 | 0 | 0 | 0 |
神のイメージには、地上における父親のイメージが反映されるため、親子関係が権威的であるシステムでは神も権威的(強いイメージ)となり、自由主義的なシステムでは神も自由主義的(弱いイメージ)となります。
信仰の強度には、兄弟関係も影響します。神の権威を支えるのは、神の超越性(「人間とは異なる」)の感覚です。人間同士が不平等であるシステムは、神の超越性に疑問を持ちませんが、人間同士が平等であるシステムは「なぜ神だけが特別なのか?」という疑問を持ちやすい。その意味で、兄弟関係の不平等は権威を下支えし、平等は権威を掘り崩す作用を持つということができます。
親子関係、兄弟関係の指標を数値化すると、信仰の抵抗力がもっとも強いのが直系家族、もっとも弱いのが平等主義核家族となります。
〔農地システム:大規模農業経営の有無〕
大規模農業経営(直系家族の伝播の話で一度出てきました)とは、農民が自分の土地を持たず、他人の土地を耕して得た賃金で生活する仕組みです。
経済的な独立性の喪失(例えば自作農→工場労働者)が宗教感情の衰退をもたらすというのはウェーバー以来の命題ですが、ウェーバーが経済的自律性と「(地上および彼岸における)運命に対する感受性の強さ」とを結びつけたのに対し、トッドは、家族における父親のイメージの変化に着目した説明を試みます。
経済的独立は、家族を‥‥父親を企業主とする自律的生産単位にする。ところが‥‥賃金制度は家族から生産機能を奪い、‥‥消費単位の役割に押し込めてしまう。父親は家族の主ではあるが企業主ではない。‥‥父親の影響力は、子供の目にも見える日常の経済的決定の中に具体的な形を取って現れることをやめる。‥‥賃金制の下では父親の権威はより遠いものとなり、感情的な分野に限られてしまい、それさえもしばしば、家にいることの多い母親に中継されることとなる。経済的依存は父親の権威を抽象的なものにする‥‥。‥‥要するに賃金制は、工業においてであれ農業においてであれ、父親のイメージを脆弱なものとし、その結果、その反映に他ならない神のイメージを脆弱なものとするのである。
『新ヨーロッパ大全 I』208頁
大規模農業経営はそれ自体家族システムと相関性があり、大抵は核家族と結びついています。したがって、大規模農業経営は、核家族地域の神の「弱さ」に拍車をかけ、宗教を脆弱化させる要因として働くわけです。
信仰の強度が最も弱いのは、平等主義核家族 + 大規模農業経営
4 平等主義核家族の脱宗教化
(1730-1800)
そういうわけで、ヨーロッパにおける最初の脱宗教化が起こるのは、パリ盆地のフランス、中部・南部スペイン、南部ポルトガル、南部イタリア。地図の通り、「平等主義核家族+大規模農業経営」の地域とぴったり重なっています。
1730-1800年という時期は、ごく大雑把にいえば、「ニュートン革命後」の時期にあたります。
「信仰の動揺」に着目すると、17世紀の中頃から、神の存在を合理的に証明しようという試みが増加する。1641年にはデカルト(『形而上学的省察』)、1657-58年にはパスカル(『パンセ』)が、この問題に挑みます。
もちろん論法はデカルトのとは異なっていた。しかし不安は同じだった。神は存在しないかもしれないという不安である。‥‥信仰によってはもはや到達できないものを数学者たちが証明しようとする、というのがこの経緯の特徴なのである。
『新ヨーロッパ大全 I』202頁
イギリス知識人の間で理神論が活発化したのは1690-1740年の間、「この理神論は、その後、万有引力の法則とともに大陸に渡り、フランスで先鋭化され、最終的には何人かの手によって無神論に作り変えられる。」
18世紀、啓蒙期のフランスにおいて、伝統的な宗教の破壊は知識人の使命となり、「エリートの無宗教はヨーロッパ中に広がっていく」。
もちろん、ニュートンに代表される科学革命を受けた啓蒙期の理神論・無神論の影響を受けたのは、貴族やエリート層、ブルジョワ、聖職者といった都市の住民だけです。
カトリック陣営に属するこれらの地域では、識字率の上昇も緩慢で、農村の人口が啓蒙思想に感染するおそれはありません。それなのに、なぜ、脱宗教化が完了してしまうのか。
それは、これらの地域では、もともと、都市の住民だけがカトリックの信仰を支えていたからです。
平等主義核家族+大規模農業経営のこの地域では、農村の住民はそもそも信仰に無関心だった。
都市の識字層は対抗宗教改革に燃えたが、実のところ、彼らの抱く神の像は、自由主義的で平等主義的な弱々しいものでしかなかった。
こうして、これらの地域では、科学革命の衝撃によって、あっさり信仰が崩壊することになったのです。
*農村がカトリシズムに無関心であったという事実を、トッドは当時の新任聖職者の採用数のデータから導いています。同じフランスでも非大規模農業経営の地域では中流農民層から多くの聖職者が排出されているのに対し、大規模農業経営の地域では聖職者のほとんどが都市部から排出されている。この構造はスペイン、ポルトガル、イタリアでも同様に見られるそうです(219 頁)。
農民が宗教に無関心な地域(平等主義核家族+大規模農業経営)は、
科学革命の衝撃(→啓蒙思想の流行)であっさり信仰が崩壊
5 プロテスタンティズムの再活性化と
崩壊(1740-1930)
(1)プロテスタンティズムの再活性化
さて、平等主義核家族+大規模農業経営の地域でカトリック信仰が大打撃を被っていた頃、プロテスタンティズムは再活性化の時期を迎えていました。
理神論や無神論が流行したとしても、それはごく一部のインテリの間での現象に止まり、都市の一般市民、とりわけ農村の庶民たちに及ぶものではなかった。
そして、近代化に伴う「不安」は、かえって、信仰の一時的活性化をもたらしました。
イギリスでは産業革命の野蛮な第一局面のせいで、全般的不安が広がり、それが信仰の一時的再生をもたらすことになる。大陸では、イギリスの産業革命の半世紀後に始まったフランス革命が、それとは異なるタイプの恐れ、それとは別の信仰と形而上的安全の保証への欲求を生み出し、それが伝統的信仰の目覚めという同じ解決策に結びつくことになる。
223頁
なお、近代化の過程における伝統的信仰の活性化は一般的な現象で、比較的最近の事例はイスラム圏における原理主義の伸張に見られます。イスラム主義が高らかに掲げられ、女性の抑圧が強まったとしても、そのことは、彼らの近代化を疑う理由にはならない。
宗教の退潮と原理主義の伸張が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。神の疑問視と再確認は、同じ現実の二つの面に他ならない。
『文明の接近』53頁
(2)続・イングランドのプロテスタンティズム
前回イングランドのプロテスタンティズムについてやや詳しく扱ったので、ここでもイングランドの事例で「活性化」の様相を追いたいと思います。
イングランドは、アルミニウス主義による変形を経て、地上でも自由、天上でも自由という最強の自由主義プロテスタンティズムを確立していました。
そのようなところで信仰が活性化すると何が起きるかというと、教団が分裂するのです。
真のプロテスタント信仰は、個人のレベルでは、‥‥回心を経験したという気持ちを持つことを前提とする。選ばれたものの回心は、ほとんど自動的に分裂を促進することになる。特に、組織内の規律に価値を付与しないアルミニウス派的気質の国では、その傾向は一層強まる。
プロテスタント国においては、教団分裂とは生命力が横溢していることを示す生のしるしに他ならない。所属教会から分離するということは、創始者たち、つまりルターとカルヴァンの物語を再び演じ直すこと、要するに自分をもう一度「改革派」として定義し直すことなのである。
223-224頁
そういうわけで、18世紀から19世紀にかけて、イギリスやアメリカでは、プロテスタントの教団が濫立します。
イギリスでは、1739年にメソジストの創始者の一人であるジョン・ウェスレーが説教を始めます。
同じくメソジストの創始者であるジョージ・ホィットフィールド(George Whitefield)は予定説を巡ってウェスレイと袂を分ち、ウェールズにおけるカルヴァン派メソジストの源流となる。
さらに、ウェスレイ・メソジストからは「ホーリネス運動」とともにホーリネス教会が生まれる、というように、どんどん分裂します。
メソジスト運動は16-17世紀にイギリスで生まれていた多数の宗派とともにアメリカに伝わり、宗教心が高揚して「目覚め」を経験した人たちは、さらに新たな宗派・運動を生んでいくのです。
こうした動きは、イギリス、オランダ、スコットランド、ウェールズでは顕著で、ドイツでは「ほとんど目につかない」。スウェーデン、デンマーク、ノルウェーでは「測定可能」ということです。(権威主義の度合いと連動しているように見えますが、どうでしょう。)
(3)プロテスタンティズムの崩壊
しかし、一時的に活況を呈したプロテスタンティズムの信仰は、1880年から1930年の間に崩壊していきます。
この度の「崩壊期」をもたらしたのは、ダーウィン『種の起源』の公刊(1859年)でした。
聖職者の権威を否定し、自ら聖書を読むことを大切にしたプロテスタントの人々は、旧約聖書の冒頭に書かれている天地創造の神話を、暗唱できるほど、繰り返し読んでいたはずです。
‥‥聖書を宗教的実践および反省の核心に据えるプロテスタンティズムにとって、自然淘汰説はとりわけ厳しい打撃となった。創世記を論破するというのは、聖書全体に疑惑の種を撒くことだった。プロテスタンティズムをその核心で掘り崩すことだったのである。
227頁
信仰を保持していたカトリック地域にはさしたる影響を与えなかったダーウィンの革命は、聖書を読むことに立脚していたプロテスタンティズムに、即時的かつ壊滅的な影響を与えたのです(どの地域でも、危機は1880年から1910年の間に開始しています)。
近代化にともなう「不安」を糧に再活性化したプロテスタンティズムは、
ダーウィンに天地創造神話を否定され、あえなく崩壊
(4)信仰崩壊の余波
多少の時間差はあったものの、プロテスタンティズムはすべての地域で一様に崩壊します。
しかし、信仰崩壊が社会に与えた影響(心理的ダメージ)は、地域によって大きく異なりました。それは、同じプロテスタントでも、それぞれの地域によって「神」のイメージが全く違ったためです。
ドイツ (正統派) | イギリス (アルミニウス説) |
---|---|
予定説 ・神への絶対服従 ・権威と不平等 | 予定説を緩和 ・自由な行為による救済可能性の導入 ・自由と非平等 |
強大な権威を持ち 理不尽を押し付けてくる神 | 多少気まぐれだが 自由を尊重する神 |
〔ピューリタンの「神」〕
プロテスタンティズムを受容した絶対核家族地域が生み出したアルミニウス説。その信仰を持つ人々にとって、神とはどのような存在だったのでしょうか。
正統プロテスタンティズム(ルター派・カルヴァン派)において、神の権威は強大です。神は人間には理解できない理由で一部の人間を予め選択して救済を与え、それ以外の人間には劫罰を下す。人間は、ただひたすらそれに従うだけの、非常に無力な存在として位置づけられます。
アルミニウス説でも、神の「恵み」(恩寵)が、選ばれた者にだけ与えられる、不平等なものである点に違いはありません(この点で「自由平等」のカトリックとは異なります)。
しかし、その「恵み」の作用、つまり、神の人間に対する働きかけの仕方は、大きく異なります。
アルミニウス派の「建白書」によると、「恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない」。
ここでは、「神」は、強大な権威をもって、理不尽を押し付けてくる神ではありません。「恵み」の対象を選択するという点において、多少気まぐれかもしれないが、しかし「不可抗力的に人に圧力をかけることはない」。人々の自由意志を尊重する神なのです。
この傾向は、ピューリタンにおいて一層強まります。
アルミニウス説的傾向のイギリスの各宗派―クエーカー、独立派(ないし会衆派)の大部分、ジェネラル・バプティスト―は、人間の不平等を前提とする神の選択という概念を捨て去るわけではないが、選択とは、永遠者の下す命令の結果というよりは、何らかの自己宣言の結果であると考える。そうした自己宣言の典型的な現れがクエーカーの「内なる光」である。神はもはや外在する権威ではなく、小さな断片となって、選ばれた人間の例の中に臨在するのである。
148頁
多少気まぐれだが、人間の自由意志を尊重する神、それは、絶対核家族における親そのものといえます。彼らは子供の自由を尊重する。しかし、財産の分与に関しては、遺言を使って、自分が選んだ子供に選んだ分だけを相続させる。
絶対核家族は、自由主義的で平等に無関心というそのシステムに合わせるかのように、神の選択を受け容れる一方で、神の権威を弱めます。人間の内にあって、人間の自由にそっと力を添える「光」。こう言ってよければ、とても個人主義的な力に変えるのです。
このような神の概念を持つ集団にとって、神の消滅はほんの一歩前進するだけのことにすぎない。いささかも心を乱すようなことではないのである。
229頁
〔ルター派の神の消滅〕
これに対し、神の強い権威の下にあったルター派地域では、神の消滅は、
解放感をもたらすどころか、本物の不安、取り返しのつかない喪失という気分を醸し出した。
「神は死んだ」と述べて(1882年『悦ばしき知識』)狂気に陥ったニーチェは、典型的です。しかし、
これに気づいたのはニーチェひとりに留まらない。この道徳的危機がドイツにどのような劇的な結果を生み出すかは、ナチスの台頭の際に明らかになるだろう。ナチスの台頭は、ルターの神の消滅の直後に起こった現象なのである。
229頁
ちなみに、ドイツにおける信仰崩壊は、1890年から1910年頃(1895年から1905年の間に聖職志願者の数が50%減少、1900年から1908年の間に神学専攻の学生数が4536人から2228人に低落1K.S.Latourette, Christianity in a Revolutionary Age, t.2, p98(『新ヨーロッパ大全 I』226頁による引用)。ドイツ労働者党の結成は、1919年です。
移行期危機は、秩序と安定に価値を見出す直系家族地域において、より強く激しいものとなる傾向があるとされます。直系家族ドイツにおける移行期危機は、ルターの神の死を経由したことで、いっそう激しさを増すことになったと考えられます。
神のイメージが弱い地域の脱宗教化は容易だが、
権威主義的な神を頂く地域では、激しい喪失感と苦悩を伴う経験となる
6 反動的カトリシズムの存続
(1900-1965)
(1)反動的カトリシズムの持続力
平等主義核家族+大規模農業経営のカトリック圏が崩れ、プロテスタント圏全般が崩れ、最後まで残ったのは、地図上のカトリック地域地域のみとなりました。
細かく見ると、中央にドイツ南部(山岳地帯)、ラインラント、西部オーストリア、中部スイス、イタリアのヴェネトとロンバルディアの一部、ベルギー、オランダ南部、フランスの東部を含む塊(「第1ブロック」と呼びます)、フランスのバスク地方からスペイン北部、ポルトガル北部に連なる塊(「第2ブロック」、フランス西部(ブルターニュ、アンジュー、ヴァンデ)、アイルランド。
第1ブロックはすべて直系家族地域に属しており、「直系家族+カトリック」の組み合わせが信仰の持続力を高めたことがわかります。「父親の権威+聖職者の権威」と言い換えれば、「なるほど」という感じです。
第2ブロック以下の地域は、ぴったり直系家族地図に重なるとはいきません(下に並べてみました)。直系家族以外の部分には、絶対核家族も平等主義核家族も含まれています。
直系家族以外の地域の信仰の持続性を説明する要素として、トッドが指摘するのは、農村地帯であって、かつ、大規模農業経営ではないこと。つまり、経済的独立性です。この地域の場合には、「経済的独立性+カトリック」(父親の権威の具体性+聖職者の権威)が、信仰の強度を高めたということになります。
これらすべての地域で、第二次世界大戦の直後まで強固な宗教実践が残っていた。とはいえ内部的にはかなりの差異がある。最大限の忠実さはアイルランドに見られ、日曜のミサへの出席は90%に達する。最小の実践はドイツで見られ、日曜のミサへの出席率は1951年に50%ちょうどだった。とはいえこれらのすべての地域で、信仰は他の場所よりも長く、科学革命と産業革命との相乗的攻撃をしのいで生き延びたのである。
238頁
1500年、ヨーロッパに存在していたキリスト教は、(対抗宗教改革以前の素朴な)カトリック一つだけでした。そして、1950年、気がついてみれば、ヨーロッパに残るのはカトリックのみという状況に(再び?)なっていた。
ただし、この時点で残っていたカトリックの中身は、往時のカトリックとは大きく異なります。
直系家族が多数を占めるこれらの地域は、宗教改革の時期にプロテスタンティズムを受け容れる地上的条件(識字率)が整わなかったことにより、カトリックにとどまることになった地域です。
彼らの本来の価値観は、平等主義核家族が再定義した「自由と平等」のカトリックよりも、予定説の権威主義の方に親和性がある。
カトリックの世界から対抗宗教改革陣営(平等主義核家族)が消え、直系家族が多数派となったことで、当然のように、カトリックの教義は「変形」していくのです。
19世紀を通して、カトリシズムは権威主義の方向へと漂い続けた。形而上学的体系があからさまに修正されたわけではない。しかし討論の主題の全体が、次第に秩序と服従の原則を称揚する方向に向かって行った。1871年はこの変遷の終着点を示す。この年、教皇不謬説が宣言される。それは教皇をこの地上における神の似姿にしようとすることに他ならない。
240頁
最後に残ったのは、対抗宗教改革のカトリシズム(自由と平等)とは全く異なる、権威主義的なカトリシズムだった
(2)脱宗教化の完成(1965-1985)
最後まで残った「反動的カトリシズム」も1965年−1985年の間には失われ、ついに西ヨーロッパの脱宗教化が完成します。
科学革命も産業革命も乗り越えて持続していたその信仰を、いったい何が崩壊させたのか。その答えを、トッドは中等教育の発達に求めています。
1900年から1965年までは、司祭は文化的水準からして大抵は信者より上であった。一般的には初等教育の段階を越えていなかった世界の中で、司祭は中等教育を代表していたのである。カトリックの教えが守られている地域では、司祭には特別の役割があるとするローマ教会の理論は、客観的な文化的上下関係によってしっかりと補強されていた。
識字化した司祭と文盲の信者という客観的な差異によって守られていた中世のカトリックは、聖職者以外の人々が識字能力を獲得した地域で、宗教改革の波に洗われることになりました。
文化水準の低い地域に残った最後のカトリシズムは、1965年頃、農村と都市の大衆が中等教育レベルに達し、司祭の権威を支える現実的基盤が失われたとき、ついにその役目を終えるのです。
文化的発展が遅れた地域に残った最後のカトリシズムは、中等教育の普及によって姿を消す
おわりに
最後にもう一度、6類型の一覧表を掲載しておきます。宗教の構成要素を地上成分と天上成分に分け、家族システムと文化・教育水準に照らし合わせることですべてが理解できてしまうこの喜びを、ご堪能いただけたら嬉しいです。