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独自研究

内婚と外婚ー日本と韓国

内婚と外婚

エマニュエル・トッドが家族システムの分析に使う変数の一つに「内婚と外婚」というのがある。

近親婚(いとこ婚)を許容するのが「内婚」、許容しないのが「外婚」だが、キリスト教が近親婚を禁じているので、ヨーロッパには内婚の地域は存在しない。日本はいとこ婚OKの内婚、韓国は外婚である。

婚姻の制度は、人類学が重要視するファクターの一つで、トッドは、近代国家のイデオロギー体系と家族システムの関係を論じた「第三惑星」(『世界の多様性』所収)では、外婚制の共同体家族と内婚制のそれを分けて論じている。イデオロギー体系という文脈では、共産主義世界(外婚制)とアラブ世界(内婚制)を区別しないわけにはいかないからである。

これに対し、直系家族における外婚と内婚については、意識はされているが、立ち入った検討はなされていない。日本、韓国、ドイツ、スウェーデンといった主な対象国は、いずれも、資本主義を採用する(権威主義的な)民主主義国家であり、イデオロギー体系としての区別の必要には乏しいからだろう。

日本と韓国ー類似点と相違点

日本と韓国は、共通の人類学システム(直系家族)を持っている。共通点の多くーー目上への敬意、祖先信仰、歴史意識の強さ、女性の地位の低さ、みんなと一緒が安心、等々ーーは、それによって説明できる。他方で、両国の国民の平均的な態度には、はっきりと目に見える違いもある。

それは、意思表示、感情表現の仕方である。韓国の人たちは、好き嫌いや意見をはっきり大きな声で口に出すし、喜怒哀楽の表現も激しい。日本人とは「正反対」といってもいいほどである。この違いは、いったいどこから来ているのであろうか、と考えたときに、想起されるのは、当然、外婚と内婚の相違である。

「外婚と内婚か、ふうむ‥」と考えてみると、まあ、何となく、外婚だとアウトゴーイングになり、内婚だと消極的になる、というような感じはする。しかし「そんなことで説明していいものかねえ‥」というようにも思われ、「なんかちょっとピンとこない」というところで、長らくほったらかしにしてあった。

それが、この夏(2021年)、オリンピックのバドミントン女子ダブルス準決勝(日本ー韓国戦)を見ていたら急にピンと来て、「おお、そうか!」というところまで行ったので、書き留めておきたい。

オリンピック バドミントン女性ダブルス準決勝 日本ー韓国戦

ナガマツペア(永原和可那、松本麻佑)対 金昭映、孔熙容ペアの試合だったが、どっちが誰だったかは覚えていない。ただ、一人の韓国選手と一人の日本選手の感情表現があまりにも両極端で、非常に強い印象を受けたのだった。(以下、記憶で書くので、勘違いや誇張があるかもしれません。)

韓国選手の二人は、得点するたびに、いちいちびっくりするほどの甲高い声で、「キャー」(とはたぶん言ってない)と叫び声を上げる。とくに一人の選手の闘争心あらわな様子が目についた。一方、日本選手はどちらも一言も発せず淡々とプレーをするのだが、とくに一人の選手は、ストイックと言うか、心の中で自分を責めるようなというか、闘争心を完全に自分の内側に向ける様子は、見ている方が苦しくなるほどだった。

どちらも女性だったので、婚姻にからんだときのふるまいが想像しやすく、「なるほど、たしかにこうなる!」と合点がいったのだ。

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」が、養蚕と藍の生産を生業とする狭い地域内でみんなが結婚していく内婚チックな話だったのも、大いに助けになった。

外婚制・内婚制と女性のふるまい

外婚制というのは、結婚相手を自分の親族のネットワークの外から見つけてこなければならない、という仕組みである。農村時代には「見つけてくる」のは基本的に男性側の仕事なので、女性についていうと、外婚制の下では、女性は「ネットワーク外の男に見つけられる」必要があり、「よく知らない土地に嫁に行ってやっていく」のが基本だということである。

他方、内婚制というのは、直系家族の場合、「親族(いとこ)と結婚してもいい」ということであるが、この制度が示唆しているのは、全体として、割と狭い社会の中でやっていくのがスタンダードだということであろう。渋沢栄一は従妹と結婚しているが、長い間、身内に近い者たちで土地を守り、生業を守ってきた村には、まったくの他人なんていないのだ。

さて、このように仕組みが違うと、女性たちのふるまいはどう変わるでしょうか?

外婚制の場合、見知らぬ土地の者(男の親族であることが多いだろう)に見つけてもらわなければならないので、女性はとにかく自分の美点を前面に押し出す必要がある。鮮やかな色の服とメイクで美を強調し、性格のよさを表情や仕草で明瞭に表し、役に立つ人間であることを言葉とふるまいではっきり示す。そうすることで、外部の人間の間で、評判を取ることが肝心だ。

結婚した後も同じである。彼女は、よく知らない者たちと暮らしていくわけなので、何か言いたいことがあれば、自分がはっきり言葉にして伝える必要がある。隣に住んでいる親族がいつも様子をうかがっていて、「もうちょっとあの娘のことも考えてやってくれないかねえ」と仄めかしてくれたりなんかしないのだ。

他方の内婚制の場合である。親族の延長線上にある狭い社会の中で結婚するということは、基本的に、子供の頃から知っている人たちの内部で婚姻関係を結ぶということだ。器量や性格なんて、みんな知り尽くしているのである。

このような社会では、自分の長所をアピールする必要はないし、意見を言うことも好まれない。その反対に、総領息子の嫁に相応しい資質、つまり、華美を好まず、余計なことを言わず、理不尽にも抵抗せず、我慢強く、気が利き、働き者で‥‥といった在り方こそが、求められるはずである。

男性の場合も、直系家族では「息子」というポジションのままで結婚するわけなので、男女に求められる役割の違いを除いては、大体同じようなことが言えると思われる。

ほかに、日本の人が、周囲の目を非常に気にする点(ドイツや韓国はそうでもないように見えますが、どうでしょうか)なども、「内婚」傾向と関係しているような気がする。

おわりに

いかがでしょうか。

私は割と納得しました。

日本人から見ると、韓国の人たちの感情表現には引いてしまうこともあるし、一方で、堂々と意見を言えるのはうらやましくもある。韓国の人は、日本の人が何も言わないのでイラッとする一方、まあ、何かうらやましく感じるようなこともあるかも知れない。

そんな違いは、日本と韓国が、近くて、似ている面もたくさんあるだけに、「何かちょっと‥‥」と思ってしまったりしがちである(韓国の人だともっとはっきり何かを思うのでしょうか‥‥)。

でも、お互いに、「ああ、なるほど、そういうことなのか」と思えれば、だいぶ違うのではないだろうか。ふるまいの違いは、個人の性格とかではなくて、社会のシステムに基づいて、体系的に定まっていることなのだと納得できれば、「へえ」と、単に面白がって眺めることができる(はずである)。なぜなら、それは、日本人である自分がもし韓国に生まれ育ったら、また、韓国人である自分が日本に生まれ育ったら、必ずや、そのようなふるまい方を身につけていたであろう、ということを意味するのだから。

家族システムというのは、配偶者を得て子供を作って育てるということを超えて、「一定の地域で配偶者の交換をするもの」だから、家族システムの概念には最初から地域の概念が含まれている、家族システムとは「地域における家族的価値観」のことなのだ、とトッドは(『不均衡という病』の巻末インタビューの中で)言っている。

地域における配偶者交換システムの重要性を考えれば、内婚か外婚かがその地域の人々のふるまいに大きな影響を与えるというのは、非常にありそうなことだと思われる。

(2021年10月 satokotatsui.com 初出)