私は、東京下町の出身なので(?)京都という町にはあまりよい印象を抱いていなかった。古都といっても実際には車がガンガン走る近代的な大都会だし「むかし天皇が住んでいたというだけじゃないか」「権威主義」などと思ったりしていた。
一方で、おいしいごはん屋、弁当屋、暮らしに根ざした喫茶店、和洋の菓子店など、例えるならパリのような都市の雰囲気があることは感じていて、うらやましいのと同時に「どうして京都だけが‥」と不思議に思ってもいた。
要するにやっかんでいたのだが、この度「日本史概観」という記事を書く過程で「花の都」京都の「花」には人類学的な根拠があることに思い至り、「権威主義」というのは大いに誤解であると分かったので、お詫びを兼ねてご紹介したい。
日本の家族システム
日本の家族システムは直系家族である。地域により多少のバリエーションはあるが、直系家族システムの枠内には収まっている。
ついでなのでそのバリエーションを説明しておこう。
東部 | 直系家族 (発祥地) | 男性長子相続 |
南西部 | 直系家族 (伝播 14C-) | 末子相続 相続人の自由選択等を含む 【伝播による分離的反転】 |
北東部 | 直系家族 (伝播 17C-?) | 直系家族の純粋性・不純性 (女性の地位高、兄弟間の不平等) (兄弟間の一時的同居) 【遅い伝播による教条性+未分化性】 |
直系家族は関東(鎌倉)で生まれた。同地に生じた男性長子相続が日本の直系家族の典型である。
他方、トッドが「南西部」と記す関西以南には、末子相続や相続人の自由選択を行う共同体が少数ながら観察される。しかし、これは直系家族以外のシステムの存在を示すものとはされず、トッドによれば「長子相続の観念の分離的反転」である。
→原初的核家族では、年齢が上の兄弟から家を出ていく結果、末子が家を継いで親の面倒を見る、ということがよくある(ルールではない)。そのような核家族の世界に長子相続制度が伝播したとき、「長子相続」というルールに刺激され(それを反転させて)末子相続がルール化することがある。ここで「分離的反転」と呼ばれているのはそのことである。
北東部は一見したところ少し複雑である。兄弟姉妹が結婚した後夫婦ごと同じ世帯を構成するケースがあったり(子供が生まれたときに分離)、絶対長子相続(性別に関わらず長子が家督を継ぐ。女性の地位が相対的に高いことを示す)の制度があったりするのである。
こうしたデータ、とくに兄弟姉妹間の連帯という前者のデータからは、共同体家族の可能性が検討されることになるのだが、トッドは結論としてはそれを否定し、「追加的な一時的同居を伴う直系家族」、要するに直系家族の一類型として位置付ける。
トッドは、北東部の家族に見られる直系家族の純粋性(兄弟間の不平等、女性の地位の高さ)と不純性(兄弟間の一時的同居等)は「〔直系家族を〕それほど必要としていなかった社会に直系家族的概念が輸入された結果」と見る。
この遅れて開発された地域では、直系家族はより遅く到来した。しかもとりわけ、前もって作り上げられた概念として、形成されつつある社会に適用すべきモデルとして、到来したのである。人口密度の低さからすると、この地には、不分割の原則〔長子単独相続の前提ー筆者注〕が内発的に生まれる理由は何一つなかったと考えられる。北東部の直系家族が、同時により純粋にもより不純にも見えるのは、そのためである。
『家族システムの起源 I ユーラシア』上 143頁
つまり、上記の「不純な要素」の方は原初的核家族のなごりであり、「純粋」な要素の方は、特段必要のなかった社会が「規範」として学習したことによる教条性のあらわれだ、というわけである。
仮説:「日本のパリ」京都
京都が属する西部には、すでに述べたように末子相続がしばしば見られるといった特徴があるわけだが、トッドによれば、「本州の人口密度の高い部分の西と東の間の違いは、とはいえ、単線的な直系家族類型の中の微妙な差に過ぎない」(243頁)。
ただ、その成り立ちを考えると、京都というまちには、西部、南西部の他の地域とは異なる、固有の特色があってもおかしくないと思われる。
①平安ー鎌倉時代:原初的核家族の都
平安京が造成された頃、家族システムはまだ進化していなかったから、京都は原初的核家族の都として発展していくことになった。
その後、関東で直系家族が生まれるが、その段階で京都はすでに都会であり、「碁盤の目」の合間を縫って農地を開拓したりはしていない。
どういうことかというと、直系家族(長子相続)は、王位などの地位を相続する必要のある王侯貴族か、土地を継承する必要がある農民にとってのみ意味がある制度なので、最初から都市の民であった京都人にはこれを受容する理由がないのである。
したがって、関東から全国に直系家族が広がっていった後も、京都だけは(原初的)核家族の都として維持された可能性が高いと思われる。
②室町時代:武家文化との融合、しかし町衆は?
室町時代になると、武家の足利政権が京都に移り住んだので、人口の15-20%を武家が占めるようになり(15世紀中期)、伝統的な王侯貴族の文化と武家文化の融合が進んだ(高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)150頁)、ということになっている。
そうなのだろう。そして、足利政権が全国統治の必要上京都に拠点をおいたという事情から考えると、とくに、幕政に関わりのある上層の人々の間では、文化の一体化が進んだと考えられる。
しかし、町衆はどうだろう。
核家族の都に、直系家族の武家がやってくる。
それも、天子様の住まう古来の都に無骨な(?)関東の武士がやってくる、という状況で、町の人々が大喜びで武家のスタイルを受け容れたとは思えない。
日本史の教科書(『詳説 日本史B 改訂版』(山川出版社、2020年))に、鎌倉時代末期の関東と室町時代の京都の「女性の地位」について、対照的な記載がある。
→「女性の地位」は直系家族の成立を示す指標の一つ。
原初的核家族では男女は対等で、直系家族システムに進化すると女性の地位の体系的な低下が起こる。
‥‥御家人たちの多くは、分割相続の繰り返しによって所領が細分化されたうえ、貨幣経済の発展に巻き込まれて窮乏化していった。この動きにともなって、女性の地位も低下の傾向をみせ始めた。女性に与えられる財産が少なくなり、また本人一代限りでその死後は惣領に返す約束つきの相続(一期分)が多くなった。
112頁
北条政子の活躍などにも見られるように、鎌倉幕府の初期は比較的女性の地位が高かったと考えられるが、その地位は、直系家族の生成が進むにつれて低下していくわけである。
一方、室町時代の京都については、「商工業の発達」という項目で、地方の特産品を売却する市が活発化したという記載の後、次のように書かれているのである。
また、連雀商人や振売と呼ばれた行商人の数も増加していった。これらの行商人には、京都の大原女・桂女はじめ女性の活躍がめだった。
136-137頁
続けて、脚注にはこうある。
大原女は炭や薪を売る商人、桂女は鵜飼集団の女性で鮎売りの商人として早くから活躍した。そのほか、魚売り・扇売り・布売り・豆腐売りなどには女性が多く、また女性の金融業への進出も著しかった。
137頁
こうした記述は、武家の直系家族的文化との接触にも関わらず、京都の庶民が核家族を保っていたことを示唆している。
この事実をどのように解釈するべきか。一つの可能性は、「まだ」直系家族化が進んでいなかった(直系家族化の遅れ)とする解釈であるが、もう一つ、魅力的な可能性がある。
「反発」である。
イギリスやフランスに核家族システム(絶対核家族・平等主義核家族)が生まれたのは、直系家族の支配層に押し付けられた権威への反発からだった(詳細はこちら)。
彼らの核家族とは、ルールなしの原初的自由をそのまま反映したものではなく、直系家族に反発して「自由」をルール化したことで生まれたものである。
室町時代の京都で、これと同じことが起きたと考えることはできないだろうか。
室町時代に京都の庶民が置かれた状況は、絶対核家族を生むのに最適である。
彼らは平安京の昔から核家族の都市の民として生きてきた。
そこへ関東から武士がやってきて、天子様に代わって国を治めるという。
「けっ、何様?」と当然思うだろう。(違いますか?)
その上、都市に暮らす彼らには、直系家族(長子相続)を取り入れる必要性など一つもないのだ。
京都の庶民たちが、このとき、武家文化への対抗意識から、核家族をシステム化したとしても、まったく不思議はないと思われる。
③応仁の乱後:絶対核家族の「市民」誕生か
室町時代に絶対核家族の芽が生じたと仮定すると、応仁の乱後の状況は、それを育成強化する格好の培地であったはずである。
応仁の乱と頻発した大火で町の大半が焼け落ち、疫病も流行って大勢の人間が死亡する。乱に参加していた武士や幕府の関係者はみな姿を消し、経済は崩壊。
幕府は衰亡、天皇の所領も略奪され、天皇は崩御や即位の儀式すらままならない状況に追い込まれたという(笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版』(中公新書、2021年)236頁以下)。
京都の人は「先の戦争」というと応仁の乱を指すという(おそらくかなり誇張された)伝説があるが、その「伝説」の存在に、京都の人々の室町武家政権への反感を読み取ることは可能であろう。
「武家とかいって偉そうにしていたくせに・・」
「なんなの、この体たらくは!」
(各々京都の言葉に翻訳してお読みください)
以上の考察より、本稿は、室町後期から江戸時代の初期にかけての京都は、押し付けられた直系家族への反発によって絶対核家族の都と化していた、という仮説を提案したい。
「検証」といっては大げさだが、その時期の京都が示す「核家族らしさ」を見ていこう。
京都の「パリ」時代
ー 町衆の文化
応仁の乱で荒廃した京都は、商業都市として再建される。とくに秀吉の功績が言われるが、それ以前の権力の空白状態の中で、復興の主役となったのは町衆だ。
①法華一揆
まず注目したいのは法華一揆である。
林家辰三郎先生にお出ましいただこう。
天文という時代の京都は、天文元年(1532)から5年(1536)までに間に、法華一揆とよばれる町の人々の大きなうごきがあって、その歴史のうえでも一時期を画するときにあたっていた。
林屋辰三郎『天下一統』日本の歴史12(中公文庫、2005(初版1974))55頁
法華一揆については教科書にも記載がある。こんな感じである。
京都で財力を蓄えた商工業者には日蓮宗の信者が多く、彼らは1532(天文元)年、法華一揆を結んで、一向一揆と対決し、町政を自治的に運営した。
林屋先生によると、一向一揆が、「農民を主体とし、土一揆と基盤を同じくして発展した」のに対し、法華一揆は町衆を主体としていた。
商人や手工業者を主体とする町衆は、「土倉衆〔幕府の財政に関与し同時に高利貸業を営んでいた〕の擁する巨大な富力と公家衆のもつ豊富な教養の影響をうけながら、経済力と文化性をもった「市民」的人間に成長して」いた、という。
その町衆たちが法華の信仰に導かれて、京都に法華の世界、町衆の国をつくったのがすなわち法華一揆である。
同前・56頁
なのである。
京都の「旦那衆」というのは、法華一揆の過程で形成された自治組織の中で支配層を占めた富商たちの呼称なのだという。
彼らはみな法華寺院の「檀那衆」(僧侶側から見た施主を意味する仏教用語→「檀家」の対個人バージョンですよね!?)であって、なんといえばよいであろうか、市民階級の上層(フランス革命の当初の主役だ)に属する人たちが自治組織の中心となって町を治める、ということがこのとき行われ、復興の基礎を築いたわけである。
こうした旦那衆の中には、狩野永徳を出した狩野家の人たちもいれば、のちに本阿弥光悦を出す本阿弥家の人たちもいた。永徳と肩を並べた絵師、長谷川等伯も法華宗徒の家に育った町衆だった。
農民を主体とした一向宗の信仰と、町衆に支持された法華の信仰は中身も違う。
一向宗の信仰はいうまでもなく厭離穢土(おんりえど)の考えのもとに彼岸的な極楽往生を説く点でも、ふかい諦念をもった農民の間に主として普及していたのであった。
同前・56頁
これに対し、法華の信仰は、
娑婆即寂光土を説くきわめて現実的な現世利益の主張であって、その点で商・手工業者の功利主義と一致した
56頁
のである。
イメージ重視で申し訳ないが、法華一揆に見られる功利主義的かつ(≒)個人主義的で自立的な市民の雰囲気は、とても核家族的である。
②桃山文化
桃山文化の斬新な華やかさも、自由の活力に溢れた核家族の都を思わせる要素といえる。
「旦那衆」狩野永徳の唐獅子図屏風に、長谷川等伯のモダンな襖絵。
雄大・華麗とされる城郭建築(京都ばかりではないが、安土城、大坂城、伏見城、姫路城)
女性の活躍も見逃せない。教科書によれば、
庶民の娯楽としては、室町時代からの能に加え、17世紀初めに出雲阿国(いずものおくに)が京都でかぶき踊りを始めて人びとにもてはやされ(阿国歌舞伎)、やがてこれをもとに女歌舞伎が生まれた。
168頁
とある。これが直系家族の文化「らしくない」ことは、脚注の記述でもわかる。
女歌舞伎はのち江戸幕府によって禁止され、ついで少年が演じる若衆歌舞伎がさかんになったが、これも禁じられ、17世紀半ばからは成人男性だけの野郎歌舞伎になった。
168頁(脚注)
③変わる町並みー徳川幕府の統制
しかし、この核家族的文化は、長くは続かなかった。
女歌舞伎や若衆歌舞伎が禁じられたのと同様に、町並みも、幕府の統制によって変わっていく。少し長くなるが、高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』から引用させていただこう。
近世初頭、17世紀前半までの町並みは、豊臣政権の経済活性化策を反映して華やかになった。本二階建が増加し、高くなった屋根には石置板葺のほか、こけら葺や本瓦葺が現れ、風除けのウダツが増加、両妻壁に通柱(とおしばしら)がならぶ。壁は柱を外面に見せた真壁が大勢であるが、本瓦葺の町家には白亜の漆喰で塗り籠める塗屋もあった。二階座敷の生活習慣が定着し、通りに面した表蔵のなかには四階建てすら現れる。
それが17世紀後半になると、二階座敷から人影が消え、つづいて低層・均質化がはじまった。天井が低いので費用がかからない厨子二階が街並みの大勢を占める。二階表は多様なデザインを失い、壁や土塗格子(ムシコ)で閉鎖的になった。四階蔵や蔵内にしつらえた座敷も消え、表蔵は敷地奥へ、本瓦や塗屋も減少する。町家は板葺にウダツを上げ、一階は開放的な店構えで揃った。所司代の建築規制の結果であり、町人側の自主判断で厨子二階や土塗格子が生まれたわけではない。
高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)(太字は筆者)223-224頁
現在に残る京都の古い町並みは決して派手ではなく、京都の人たちもその質素な美しさを自慢しているように思えるが、それは、本来の京都らしさとは少し違うものなのだ。
さらに、次の引用は、押し付けられた「地味好み」への「抵抗」のエピソードである。
‥‥京都支配の進展は、朝廷・公家をはじめとする京都側の、無意識のそれを含めた反発、抵抗を生んだ。その結果が寛永文化、すなわち寛永年間(1624-44)を中心に、天皇・公家・僧侶・武家・上層町人が結んだ清新な文化の創造である。
桂離宮・修学院離宮・曼殊院に代表される建築・造園、小堀遠州の大名茶、松永貞徳の俳諧、松永尺五らの儒学、石川丈山の漢詩文、烏丸光広の文学、近衛信尹・松花堂昭乗の書、角倉素庵の嵯峨本、俵屋宗達・本阿弥光悦・野々村仁清の美術など、格調高い作品が数多く生み出され、漢学と和学が重層する近世都市文化の源流になった。
その顕著な特徴の一つに、王朝以来の伝統ないし美意識への回帰がある。代表例は桂離宮だろう。‥‥
同前・224-225頁
京都でフランス革命を?
もし京都がその後も「核家族の都」であり続けたとしたら、幕末のシナリオも少し変わっていたかもしれない。
京都、それから薩長土肥の辺りに、関東の武家政権に対する反感から、絶対核家族地域が形成されていたとする(あくまで仮定です)。
薩長土肥は京都勢力と結んで徳川幕府を倒す。ここまでは実際に起きたことと同じである。しかし彼らが核家族であった場合、このクーデターは核家族 VS 直系家族の内戦となり、前者の勝利によって生まれる政権は、核家族に立脚した、正真正銘の自由主義政権となるのだ(*その方がよかったと言っているわけではありません)。
この場合、薩長土肥は天皇を表に立てるであろうから、新体制はイギリス的な立憲君主制となる。しかし、家族システムの配置ということでいうと、この内戦はフランス革命である。
フランスは、大雑把に言うと、パリ盆地を中心とする核家族(平等主義核家族)地域と周囲を取り巻く直系家族の地域に分かれているが、宗教戦争(ユグノー戦争)、フランス革命という内戦を経て、勝利を収めた核家族地域のメンタリティが国家の基礎となった。
日本の場合も、人口の半分以上が直系家族であったとしても、京都・薩長土肥の核家族(仮定です)を基礎とした核家族国家が形成される、ということは理論的には十分に考えられるのだ。
もちろん、現実にはそのようなことは起こらなかった。薩長土肥はもちろん、京都にも直系家族システムが浸透していたからである。
おわりに
それでも、日本の中でもっとも核家族的な色彩を残す地域が、京都であり、その周辺の都市であるということは間違いないと思われる。
下の図をご覧いただきたい。
1886年の国勢調査における世帯ごとの夫婦の平均数を示したもので、色が濃いほど夫婦の数が多い。
東北の場合には(先ほど書いたように)兄弟の夫婦が一時的に同居するというケースがあって世帯数が多くなっていると考えられるが、一般的には、世帯ごとの夫婦の平均数は二世帯同居の頻度を示す指標であり、数が多いほど直系家族度合いが高く、小さいほど低いということになる。
京都、大阪、奈良、兵庫のいわゆる畿内の周辺は真っ白。もっとも夫婦の平均数が少ない地域であり、それだけ直系家族度合いが低く「核家族的」であることが示されている。
京都といえば、伝統文化を体現する、もっとも「日本的」な都市であるというのが一般の認識であろう。
しかし、今に息づく日本文化の原型は鎌倉の直系家族(権威)であって、京都の核家族ではない。
京都に特別な雰囲気を与えているのは、日本が(日本らしい)日本になる以前の原初的核家族(ルールなし)の痕跡であり、あるいはまた、直系家族への反感によって桃山時代に花開いた(かもしれない)絶対核家族(自由)の伝統である。日本の中の異国、日本に残る「(原始的)西欧」と言ってもいい。
つまり、京都は、日本の中でもっとも権威主義の度合いが低く、「自由」な都市なのだった。
お詫びして、(私の脳内を)訂正いたします。