- はじめに
- 核家族のふるまいーヴァスコ・ダ・ガマの場合
- 勢力争い→イギリスの覇権へ
- イギリスはどうやって覇者となったか
- 毛織物は売れない
- 銀を手に入れた
- 新大陸でのイギリス
- 「大西洋三角貿易」は貿易か?
- 次回に向けて
- 今日のまとめ
はじめに
世界の中央に進出してきた「識字化した核家族」は、そのふるまいによって、世界の進む方向性をどう変えたのか。今回は、共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」で、ヨーロッパが何をして、世界をどのように変えたかを追っていきます。
核家族のふるまいーヴァスコ・ダ・ガマの場合
西アジアの海に最初に踏み込んだ「識字化した核家族」出身者(の一人)は、ヴァスコ・ダ・ガマです。
カリカット(Calicut(現在はKozhikode))の役人に笑いものにされた後、再び戻ってきたガマ(1502年)がどんな行動を取ったのかについては、詳細が残っています。
*CalicutはKozhikodeの英語訛りによる英語名
‥‥インド西海岸カンナノール沖に到着したガマの船隊は、港には入らず、そこで紅海方面からカリカットへ向かってくる船を待ち伏せした。‥‥ ガマは、敵であるカリカットへ向かう船は、すべて掠奪の対象と見なした。すでに一隻を拿捕し、一隻を取り逃していた29日、大きな船が一隻水平線上に姿を現した。この船には、メッカへの巡礼を終えた240人とも380人ともいわれる男と多くの女子供が乗っていた。
羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)53-54頁
ポルトガル船隊は大砲を撃ってこの船を停めた。巡礼者の中にいた裕福な商人が、身代金を払うから見逃して欲しいと願い出たが、ガマは許さず、船を徹底的に掠奪すると、人々を乗せたまま火を付けた。助けを求めて泣き叫ぶ婦人や子供を見ても、ガマは顔色一つ変えなかったという。これは一定額の身代金を払えば船と人を解放する海賊よりもさらにたちの悪い行為である。十字軍的な精神に凝り固まっていたガマやポルトガル人にとっては、イスラーム教徒を満載した船は、丸ごと破壊しても構わないものだった。この時奪った財宝の額は、3万クルザード。ポルトガル王室の年間収入の10分の1に相当したと言う。
その後カリカットへ至ったガマの船隊は、冷静に交渉を進めようとするカリカット王の提案を相手にせず、カブラルがこの町に来た時に被った人的物的被害の賠償とアラブ人ムスリムを町から追放することを要求した。王がこれに応じないと、通りかかったムスリムの小舟を次々と捕縛し、先に捕虜にしていたムスリムを処刑してそのマストにぶらさげたという。その数34人と伝えられる。そして、様子を見に浜に集まった大勢の人々に向けて突然大砲が放たれた。砲撃は2日間続き、400発の砲弾が撃ち込まれた。海岸に近い場所に建っていた家屋や建物は完全に破壊された。
英雄ヴァスコ・ダ・ガマの行動がこれというのは正直ちょっと引いてしまいますが、より重要なのは、彼の行動は当時のヨーロッパ人の行動としては完全に正常である、という点です。
①掠奪
まず、巡礼船の掠奪(前段)について。
当時のヨーロッパでは、戦争状態にある国や地域(=敵)に属する船の掠奪は完全に適法で、推奨される行為ですらありました。この種の掠奪は、正当な経済活動とみなされていて、それを生業(なりわい)にする民間人も少なくなかったといいます。
‥‥前近代のヨーロッパにおいてはそれは必ずしも非合法な行為ではなかった。中・近世のヨーロッパでは経済活動はしばしば「暴力」と密接に結びついており、掠奪はそのような連関がもっとも端的に表れたものであった。そしてそれは当時の法観念では正当な行為、場合によっては名誉な行為とすらみなされていたのである。
薩摩真介『〈海賊〉の大英帝国 ー 掠奪と交易の400年史』(講談社、2018年)14頁
そして、当時のヨーロッパ人、とりわけレコンキスタ(ウマイヤ朝以後イスラーム勢力の支配を受けたイベリア半島の再キリスト教化)を完了したばかりであったスペイン・ポルトガル人にとって、「異教徒」とは「敵」の代名詞のようなものです。
そういうわけで、メッカへの巡礼船を襲い、キリスト教地域ではない外国の港を大砲で破壊するガマの行為は、何ら恥じるところのない、正当で勇敢な行為だったのです。
*当時はヨーロッパの各種勢力(国や領主)間で絶えず戦争が行われていたので、ヨーロッパ船同士の間での掠奪合戦も活発だった。当時の場合、戦争状態にあるかどうかは相互の認識次第というところもあり、合法な掠奪と違法な海賊行為との境目もしばしば曖昧だったという。しかし、いずれにしても、それらが当時の人々が眉を顰めるような行為でなかったことは間違いない。例えば、1577-80年に南米の太平洋沿岸でスペインの船や植民地を掠奪・海賊して回る「掠奪世界周航」を行ったフランシス・ドレイクは、スペインからの激しい抗議にも関わらず、処罰を免れただけでなく、エリザベス女王からナイトの称号を授かっている(薩摩真介『〈海賊〉の大英帝国ー掠奪と交易の400年史』(講談社、2018年)51-55頁)。
②貿易独占のための制圧行動(後段)
後段には、ガマが、「ムスリム排除」等の要求に応じさせるため、ムスリムを処刑して晒し者にし、2日間に渡る激しい砲撃で町を破壊したことが書かれています。ガマは、いったいどういうつもりで、このような行動を取ったのでしょうか。
前回の航海での体験から、ガマには、一つの確信があったのだ。それは、武力でインド洋を制圧すれば、投資金額は絶対に回収でき、さらに大きな利益をあげることができるという確信だった。
羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)52頁
ガマは、最初の航海のときに、インド洋には大砲を備えた強力な艦隊がいないこと、また沿岸地域には武器が普及していないことに気づいていました(平和だからですね)。武力でインド洋を制圧して貿易を独占すれば莫大な利益が得られると確信した彼は、国王に進言し、それを自ら実践してみせたのです。
*スペイン、ポルトガルには、イスラーム世界の交易活動を破壊し、最終的にはイスラーム最大の聖地メッカを武力で征服する意図があったことも指摘されている(家島彦一「国際交易ネットワーク」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993年)252-253頁)。
ガマの進言の通り、ポルトガルは、アルブケルケなどの軍人を送り込み、1503年から1515年までの間に、インド洋海域の主要な港町を武力で制圧し、貿易の独占を図りました。
異なった宗教を持つ様々な民族が共存し、切磋琢磨しながら商業活動を行う、共存共栄の海であったインド洋に、当時のヨーロッパはなじむことができず、自分たちのやり方を持ち込みました。
自分たち(キリスト教圏)の間でも、小さな国や地域に分かれ、絶えず武力で抗争していた彼らに、「敵」である異教徒との「共存共栄」というあり方は、理解を超えていたのかもしれません。
羽田先生にまとめていただきます。
ポルトガル人は、港町を征服し、この海域の「主人」として、そこで行われる貿易活動を武力によって支配し、管理しようとした。これは、海は誰でも自由に航行でき、港町は誰でも自由に利用できるというそれまでのこの海域におけるルールの根本的な変更を意味した。地中海や北海などヨーロッパ周辺の海は別として、インド洋ではこの時まで海とそれを利用した交通や貿易を支配しようとした者はいなかった。ポルトガル人が姿を現してわずか10年あまりで、インド洋海域の秩序は大きな変更を迫られることとなった。
羽田正『東インド会社とアジアの海』(講談社学術文庫、2017年)57-58頁
◉巡礼船を掠奪して異教徒を殺戮し、港町を砲撃で破壊するガマの行為は、当時のヨーロッパ人としては正当な行為だった
◉ポルトガル人は、「共存共栄」のインド洋のルールに反し、武力制圧により貿易を独占しようとした
勢力争い→イギリスの覇権へ
ポルトガルのインド洋支配は100年程度で落日を迎えますが、もちろん、それで「共存共栄の海の復活」とはなりません。
*「支配」とはいっても、実際には海洋をコントロールすることは不可能で、既存の商人による貿易もそれなりの規模で継続していたようです。
ポルトガルの後退をチャンスと見たオランダ、イギリス、フランスが、われもわれもとやってきて、勢力争いを繰り広げたからです。
「やたらと競争をする」というのは、この時代のヨーロッパの大きな特徴です。「なぜか?」は後で(最終回で)考えますが、ともかく、彼らは、インド洋でも新大陸でも、互いに対立抗争し、競争相手の誰よりも有利な条件を確保し誰より多くを稼ぐために、あの手この手を繰り出します。
その一途な努力の結果として、彼らは、「世界を征服する」というような英雄的精神とはまったく無関係に、世界を政治的・経済的に従属させていくことになるわけですが‥‥ ご承知の通り、その競争を勝ち抜いて、世界の覇権にもっとも近づいたのは、イギリスです。
そこで、以下では、イギリスを「識字化した核家族」の代表とみなし、彼らの行動を中心に話を進めます。
*とはいえ、以下で見るようなふるまいがイギリスに固有のものだったわけでは決してなく、他のヨーロッパ諸国も同じようなものです。その点は、どうか、お忘れなきようにお願いいたします。
イギリスはどうやって覇者となったか
ここで皆さんに質問です。
辺境のヨーロッパ(の中でもさらに辺境)に位置したイギリスは、なぜ、どういう風にして、世界の覇者の地位に上り詰めることができたのでしょうか。
皆さんの「常識」は、どんな感じですか?
「えーっと・・まず、産業革命ですよね。イギリスが、世界で最初に産業革命を実現して「世界の工場」になって・・」
「あと、北米やインドでの植民地獲得競争に勝ってたくさんの植民地を手に入れたので、植民地から資源を輸入して、本国で加工した製品を輸出するというやり方で、貿易で覇権を取って・・」
「貿易で覇権を取ったことで、ポンドが基軸通貨になって、その後は多少物が売れなくなっても、「世界の銀行」としての立場で何とかなった、みたいな感じですよね?」
・・という、感じですよね?
私は大体こんなような感じで理解していました。
でも、調べてみると、なんか、全然違うみたいなのです。
まず、産業革命についていうと、専門家の間では、「そもそも、イギリスに産業革命なんてあったのか?」という議論が活発に行われているほどで、「仮にあったとしても、イギリス経済に与えた影響はそれほど大きくなかった」というのが常識となっているようです。
18世紀後半のイギリスは、世界で初めて農業社会から商工業社会へと変化し、社会の構造や人々の生活が大きく変化したといわれる。このような社会経済構造の大きな変化を「産業革命」と呼び、世界で最初の現象として、英語で表現する場合は、定冠詞theを冠してthe Industrial Revolutionと表現するのが一般的である。ところが近年のイギリスにおける経済史研究では、産業革命に否定的な見解が一般的になりつつある。
秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)79頁(強調は辰井)
*例えば、秋田先生が「最新の計量経済史の手法を用いた手堅い実証的なもの」と評価するある研究では、一般に産業革命の時代とされてきた1780-1830年のイングランドの経済成長は年1%弱(全要素生産性)にとどまり、劇的な成長は見られなかったという。「主要な産業は依然として手工業に支えられ、生産性の伸びはゆるやかで漸進的であった、というのである」(80頁)。
では、何が、イギリス経済の飛躍をもたらしたのか。この点についても、専門家の間では、大筋で合意が得られており、その骨子は世界史の教科書にも記載されています。
大航海時代の到来とともに、世界の一体化が始まった。ヨーロッパ商業は世界的な広がりをもつようになり、商品の種類・取引額が拡大し、ヨーロッパにおける遠隔地貿易の中心地は地中海から大西洋にのぞむ国々へと移動した(商業革命)。世界商業圏の形成は、広大な海外市場を開くことで、すでにめばえはじめていた資本主義経済の発達をうながした。‥‥
木村靖二・岸本美緒・小松久男『詳説 世界史(世界史B) 改訂版』(山川出版社、2017年)204頁(太字原文)
商業革命により、西欧諸国は商工業が活発な経済的先進地域となった。‥‥
要するに、貿易量の飛躍的拡大(しばしば「商業革命」と呼ばれます)が、ヨーロッパの経済的飛躍の源泉だった、というのです。
ふうむ、どうも、あれですねえ‥‥
大航海時代にヨーロッパが世界の海に乗り出していった、というところはいいでしょう。
ヨーロッパは、アジアで取引されている商品群に魅了され、その豊かさを手に入れるべく、アジアの海に向かいました。
しかし、市場というのは「蜜と乳が湧き出し、流れる」楽園ではないわけで、欲しい物を手に入れるには、こちらにも、相手が欲しがる商品の持ち合わせが必要です。
国王からの贈り物すら物笑いの種になっていた貧しいヨーロッパ。産業革命の寄与がないとすると、彼らはいったい何を売って「商業革命」を成し遂げたのでしょうか?
◉ヨーロッパの経済的飛躍は、産業革命ではなく、「商業革命」と呼ばれる貿易量の飛躍的増大によるものらしい
◉しかし、貧しいはずのヨーロッパは、何と交換でアジアの豊かな物品を手に入れたのか?
毛織物は売れない
16世紀以前、イギリスの主な売り物(輸出品)は毛織物です。
*ヨーロッパでは17世紀後半に綿織物が普及するまでは毛織物が衣類の基本素材だった。ヨーロッパ各地で生産されたが15世紀-16世紀にはイギリスの最重要産業となった(こちらに詳しい)。
イギリスの毛織物は、ヨーロッパではよく売れました。しかし、ウールといえば(当時は)冬物、アジアとの交易ではまったく役に立ちません。
この時代には、ヨーロッパから積極的に売りに出せるような商品価値の高い物産は、まだほとんどなかった。あえていえば毛織物とか高級な工芸品のたぐい、あるいは毛皮、北欧からの木材、といったところであろうが、いずれも遠隔地を結ぶ交易で大量に扱われるには限界があった。
福井憲彦『近代ヨーロッパの覇権』(講談社学術文庫、2017年)
基本的に、アジアが欲しがる商品をほとんど持っていなかったヨーロッパが、どうやって貿易を拡大し、覇者の地位に上り詰めていくのか。お手並み拝見といきましょう。
イギリスの主な輸出用商品である毛織物はアジアではまったく売れなかった
銀を手に入れた
ヨーロッパが初めて手に入れた「売れる商品」は、銀でした。
最初に銀をふんだんに手に入れたのはポルトガル。彼らは、アジアでの取引に使う銀を、日本との交易で入手していたことが知られています。
*ポルトガルは、香辛料貿易の独占を進めるために東南アジアに進出し、ムスリム商人の貿易の拠点として栄えていたマラッカを(武力で)制圧してみたところ、日明間の密貿易(明は海禁政策をとっていた)で倭寇が稼いでいることを知り、自分たちもこれに参入。中国で仕入れた絹を日本で売って銀を入手し、それを香辛料購入の資金に当てた。ちなみに、1543年にポルトガル人が種子島にやってきたとき中国船で漂着しているのはそのため(鉄砲伝来)(日本人との間の通訳に立ったのは倭寇の頭目だった)。16世紀のポルトガルの通商覇権は日本産の銀によるところが大きく、1635年の鎖国令(≒ポルトガル追放令)でポルトガルが日本市場から追放され、日本がオランダとの交易を始めると、アジア貿易の主役の座がオランダに移る(東野治之『貨幣の日本史』(朝日新聞社、1997年)143-150頁)。
しかし、ヨーロッパ全体にとっての銀の供給源となったのは、南米です。
スペインは、武力で征服したアステカ帝国(1521年)やインカ帝国(1533年)からも、金銀財宝を掠奪していましたが、その後、世界最大のポトシ銀山が発見されたことで(1545年)、絶頂期を迎えるのです。
*スペイン(と一部でポルトガル)以外の国は新大陸から直接銀を得ることはできず、当初はスペイン領からの銀の密貿易やスペイン船の掠奪に明け暮れていたが(本当です!)、スペインはその銀を(主に戦費として)使ったので、結局、ヨーロッパの市場には大量の銀が出回ることになった。
ではスペインは、ポトシ銀山の銀を、どうやって掘り出したのか。南米に植民した彼らは、自分たちでせっせと働いて、鉱山から銀を掘り出した‥‥というわけではありません。
スペインの征服者(政府から統治を任されていた)は、インディオと呼ばれた現地の住民たちを労働力として酷使し、それによって銀を得たのです。
*統治者はインカ帝国時代の遺制である輪番労働制を復活させ、各地の共同体人口の7分の1を毎年ポトシに送らせたという(網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社学術文庫、2018年)200-201頁)。
現場を目撃していた宣教師たちの話を聞きましょう。
4年ほど前でしょうか。この土地を滅亡させんがために、地獄への入り口が発見され、その時以来、大勢の人々がそこに入っていくようになりました。彼らはスペイン人の貪欲が神に捧げた人々なのです。そしてここぞポトシ、陛下の銀鉱ポトシなのであります。
ドミンゴ・デ・サント・トマス(1550年ごろの記述)(網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』(講談社学術文庫、2018年)202頁)
四六時中暗くて、昼と夜も弁じがたい。そして、太陽がぜったい見えない場所なので、いつも暗闇であるばかりか、寒さもひどく、空気も重っくるしくて、人間居住の常態からは外れている。だから、初めて中に入った者は、胃がむかつき、苦しくなって吐き気をもよおす。この私もそういう目にあったーー金属はふつう硬い。そこで小さな鉄棒で、火打石を叩き割るようなふうに割ってそれを取り出す。それから、それを背に負って登る‥‥。
イエズス会士アコスタ(1580年ごろ)(網野・202-203頁)
そして、インディオ労働者の心身の疲労、というか過酷で非人道的な労働環境からくる苦痛を癒したのは、コカの葉とチチャ酒でした。
コカの葉は、インカ帝国の統治の下では、宗教儀礼と結び付けられ、消費も生産も国家や共同体によって管理されていたといいます。しかし、その麻薬としての効果を知ったスペイン人企業家は、コカの生産と販売を独占し、インディオ社会に大量投与するのです。
‥‥ちょうど漆のような葉をもつ、だいたい人の背丈ほどの木で、コカと呼ばれるものです。この葉を土地のインディオは食します。呑み込むのではなく、噛みます。彼らの間では、とても有り難がられているのですが、この生産はほぼ我々スペイン人の手中にあります‥‥。コカは、この地の最良の貨幣です。というのも、コカがあれば、インディオたちのもつものすべてを手に入れることができるからです。金や銀、衣服や家畜などなど、彼らは、ただ葉を噛みたいばかりに、手放すのです。
クスコ在住のスペイン人からイベリア半島の兄弟に宛てた手紙(網野・203−204頁)
苛烈な労働環境、死亡事故の多発、水銀中毒、そしてヨーロッパから持ち込まれた感染症(天然痘やはしか)の流行で、先住民人口は激減。
*ある試算によれば、スペイン支配開始後100年で10分の1以下(5000万→400万)に減少したという(福井憲彦『近代ヨーロッパの覇権』(講談社学術文庫、2017年)35頁)。
労働力不足に陥った現地のスペイン企業は、どうしたかというと、アフリカの住民を買い付けてきて、奴隷として働かせたのです。
*いわゆる大西洋三角貿易(奴隷貿易)はのちにイギリスの専売特許となるが、砂糖プランテーションのための奴隷交易は15世紀のうちにポルトガル商人が行っていたし、国際的な奴隷貿易の港として最初に栄えたのはスペイン(セビーリャ)のようである(要するに彼らにとっては割と普通なのだ)。とはいえ、イギリスの参入も1560年代(サー・ジョン・ホーキンズ。西アフリカで入手した奴隷を中南米のスペイン領で売却)なので、決して遅いということはない。
いかがでしょうか。
「植民地経営」というと何かもっともらしく聞こえてしまいますが、虚心坦懐に見ると、スペイン人は、武力で現地を制圧し、現地人と奴隷をコキ使って銀を略奪しただけ、そしてヨーロッパはそのおこぼれに与っただけ、といわなければならないと思います。
しかし、まだ世界に通用する貨幣(通貨)というものが存在しなかった当時、彼らが手に入れた銀は、紛うかたない基軸通貨です。
取り立てて売るものを持っていなかったヨーロッパは、新大陸における銀の発掘(略奪)によって見事に「成り金」となり、世界交易における地歩を固めたのです。
◉ヨーロッパは武力で現地を制圧。現地人と奴隷の労働力を搾取することで銀を手に入れ、世界交易の地歩を固めた
新大陸でのイギリス
(1)西インド諸島
さて、われらが主人公イギリスは、1600年前後から、アメリカ大陸とインド洋に同時進行で進出します。アメリカ大陸の方が先に終わる(下火になる)ので、そちらを先に見ていくことにしましょう。
イギリスはクロムウェル時代にジャマイカ島、バルバドス島、トリニダード・トバゴなどを征服し、王政復古(1660年)後に入植を本格化させました。イギリス(やオランダ、フランス)が、アメリカ大陸の中で、主に西インド諸島と北米に向かったのは、南米はすでにポルトガルとスペインが抑えていたためですね。
① 砂糖でIT長者
西インド諸島で、イギリスが手に入れたものは、砂糖です。
イギリスの入植者は、奴隷として買ってきたアフリカの人を使って、砂糖の生産(栽培・加工)を行いました。
*なお、奴隷の使用を含めて、イギリス人は、ポルトガル人が本国やブラジルでやっていた手法を踏襲しています。
このビジネスは大当たり。彼らはこの新規ビジネスで大金を稼ぎます(↓)。
◼️ 砂糖農場経営者(ジャマイカ)の年間収益
- 1674-1701年(平均):1954ポンド
(現在の20万ポンド[4000万円]) - 1740年代:7956ポンド
(現在の94万ポンド[1億8000万円] ) - 1770年代:19000ポンド
(現在の166万ポンド[3億2000万円])
*川北稔による試算(私は秋田・43頁から引用しています)。現在の価値への換算はこちらのサイトを利用しました。
その破格の収入により、本国では「疑似ジェントルマン」として上流階級の暮らしを謳歌し、名望と政治的影響力を駆使してさらに安定した収益を確保する。
*現地の気候になじめなかった西インド諸島の植民者たちは、不在地主となり(現地のプランテーションを遠隔操作し)、イギリス本国を拠点に生活していました。
そう。彼らの立ち位置は、現在でいう「IT長者」にそっくりだったといってよいでしょう。
② 「合理的経営」というイノベーション
しかし、砂糖栽培といえば、本来、典型的な労働集約型産業です。彼らはいったいどうやってそんなにおかねを稼いだのでしょうか。
‥‥ジャマイカでは、徹底的な砂糖の単一栽培(モノカルチャー)がおこなわれ、大規模プランテーションが展開した。現地では、サトウキビの栽培、刈り入れたサトウキビの搾汁、それを煮詰め蒸留し結晶させる粗糖の生産が連続的におこなわれ、初期のプランテーションは、農場と加工工場が結びついた農・工業複合体(agroindustrial complex)であった。
秋田・43頁
そこでは、限られた時間内に粗糖を生産するために、厳格な時間規律と、熟練労働者と黒人奴隷による未熟練労働者の有機的な結合が求められた。18世紀末に本国で産業革命が起こり大規模工場の出現する前に、すでに西インド諸島では工業化に不可欠な、時間と労働の近代的な管理が行われていたのである。
要するに、こうです。
プランターたちは、まず、武力で現地を制圧し、現地人を安い労働力として使い、足りない労働力はアフリカ人奴隷で補いました。
しかし、彼らは、それだけでは満足せず、もっと多く、もっと効率的に稼ごうと、工夫を凝らします。
結果、彼らは、奴隷や現地人労働者の時間と労働を厳格に管理するという「合理的経営」を編み出し、この「イノベーション」こそが、まるで産業革命後の大資本家のような稼ぎを可能にしたのです。
通常、「産業革命」という言葉は、技術革新に基づく工場制機械工業の発達による社会の変革(農業中心から工業中心へ)を指して用いられます。
しかし、「産業革命」の核心を、以下のような点に求めるなら、本当の「革命」は、17世紀後半から18世紀にかけての西インド諸島の砂糖プランテーションの現場で、やはりイギリス人の手によって成し遂げられていた、ということになりそうです。
- 大規模経営による大量生産
- 資本家が労働者に賃金を支払って労働させる資本・賃労働の関係の確立
- 効率的生産のための厳格な労働管理
- 時間意識の強化
- 長時間労働の一般化 ‥‥
③「疑似ジェントルマン」の政治力
もう一点、彼らが、砂糖栽培によるもうけを確保するために、「疑似ジェントルマン」として(イギリス本国で)得た政治力を十二分に活用していたことも、確認しておく必要があります。
彼らが砂糖栽培を始めた17世紀後半からの約100年(1663-1775)の間に、砂糖はイギリス人の生活に欠かせない必需品となっており、彼らが西インド諸島で作った砂糖のほとんどはイギリス本国の市場で販売されました。国際市場には価格競争が付きものでも、国内向けの独占販売なら、政治力で何とかなる。
*上記の期間に、本国での砂糖の消費量は約20倍に増加したそうです。
西インド諸島利害関係者は、その政治的影響力をフルに行使して、英領西インド諸島産砂糖の価格操作に成功し、莫大な収益を確保したのである。
秋田・49頁
◉イギリスはジャマイカ島などを武力で征服し砂糖を手に入れた
◉砂糖プランターは、奴隷と現地人労働者の時間と労働を厳格に管理する「合理的経営」のイノベーションと政治力で莫大な収益を確保した
◉大量生産、資本・賃労働の関係の確立、労働管理に伴う時間意識の強化、長時間労働の一般化といった(通常は産業革命に帰せられる)変革は、西インド諸島の砂糖プランターの下で発生していた
(2)北米:本国製品の市場
一方、北米植民地の主要産品はタバコ。こちらは大陸ヨーロッパが主要な販売先だったので、砂糖のような法外な収益にはつながりませんでした。
*価格競争のため。品質の点では(西インド諸島の砂糖よりも)北米のタバコの方が国際競争力に優れていたそうです。
しかし、こちらはこちらで、イギリスに、その経済成長に欠かせない機能を提供することになります。
北米がイギリスに提供したもの。
それはイギリス製品の市場としての機能です。
西インド諸島とは異なり、北米に植民したイギリス人は、現地の気候になじんで定着しました。タバコ栽培は、彼らに「疑似ジェントルマン」ほどの稼ぎは与えませんでしたが、それなりに十分な購買力を与えました。
イギリス出身の人間の多くが、つねに喉から手が出るほどほしがるものは何かといえば、イギリスの商品です。
そうです。これまで、ヨーロッパの域外に、自国製品を買ってくれる市場を見出すことができなかったイギリスは、この北米の地に初めて、自国製品を熱烈に求める市場を発見したのです。
本国側の雑工業製品の生産者にとって、北米タバコ植民地は、優位に立てる数少ない輸出市場であった。ヨーロッパ市場に十分な競争力、製品販売市場を持てなかったイギリス本国の雑工業製品は、高い国際競争力を持つ北米のタバコを介して、北米市場においてその輸出市場を確保することができた。
秋田・51頁
◉イギリス人入植者が定住した北米は、ヨーロッパにタバコを売って得た収入で本国製品を買ってくれる市場として、イギリスの経済成長に貢献した
「大西洋三角貿易」は貿易か?
こうして、西インド諸島の砂糖、アフリカの奴隷、北米の市場が出揃いました。いわゆる大西洋三角貿易の完成です。
しかし、「言葉に惑わされず、ヨーロッパが何をしたかをはっきりさせよう」というミッションを担っているわれわれにとって、この名称は要注意です。
「貿易」と聞くと、異なる国と国の間で交易が行われ、それなりに「win-win」の関係が成り立っている、という事実を連想しますよね?
しかし、この「三角貿易」の中に、異国間の「win-win」的関係というようなものは存在しません。この交易に参加し、大きな利益を得ているのは、基本的に、全員イギリス人なのです。
*奴隷貿易では現地のアフリカ人にも不当な利益を得ている人がいます。また個人としてイギリス人以外のヨーロッパ人が参加している場合もあります。
上の図の提供者である井野瀬先生のご説明にしたがって、それぞれの取引について、利益を得ている主体を確認していきましょう。
‥‥三角貿易の手順はこうである。ブリストル(あるいはロンドン、後にはリヴァプール)から出港した船には、植民地向けの多種多様な日用品、食料や食器、靴や衣料、石鹸やろうそく、農工具、さらには奴隷の衣服などが満載された。
→物品の製造・販売業者(イギリス人)が、貿易業者を介してこれらを植民地人に販売して儲けている。
船は途中、西アフリカ沿岸に立ち寄り、仲介にあたる現地アフリカ人商人との間で、銃や弾薬、ラム酒、綿布やビーズなどと交換で、彼らが内陸部から調達してきた奴隷を船内に詰め込む。
→銃や弾薬、ラム酒などの業者(イギリス人)はこれを貿易業者に売って儲けている。
その後、船は西インド諸島へ向かい、ジャマイカやバルバドスなどで奴隷をおろし、代わりに現地で生産された砂糖(茶色の原糖)やタバコ、木綿、染料のインディゴ、ココアなどを大量に積み込むと、ブリストルへと帰還した。
井野瀬・149-150頁
→貿易業者(イギリス人)は奴隷を売って儲けている。
→植民地のプランター(イギリス人)は、現地人や奴隷を酷使して生産した砂糖を本国に売って儲けている。
一般に、15世紀から18世紀前半のイギリスの商業は、この大西洋三角貿易によって大いに活性化し「商業革命」の基礎を築いたということになっています。
しかし、この「貿易」がそれほど儲かったのはなぜかというと、
- 武力で砂糖やタバコ栽培に適した土地と安い労働力を獲得し、
- アフリカ奴隷を格安で入手し、
- 廉価かつ不自由な労働力を厳格に管理し、超効率的に砂糖を生産
‥したからです。
そうやって得られた砂糖やタバコ、奴隷と、イギリス製品(日用品)を、イギリス人の間でぐるぐる回し、「イギリスの商業を活性化」した。
むむ、これはいったい‥
これはいったい「貿易」でしょうか?
自慢げに「商業革命」などといえるようなことでしょうか。
国内ではおよそ許されないやり方で外から奪ってきたものを、イギリス人の間で山分けしているだけでは? ‥‥
◉「商業革命」の実態は、武力征服と現地労働力・奴隷の不当な使用によって得られた富をイギリス人の間でぐるぐる回して山分けしただけ、のような‥‥
次回に向けて
普通、奴隷貿易とか植民地の収奪といった事実は、「先進国も昔はいろいろあった」「輝かしい近代史の中の恥ずべき汚点」といった感じで、つまり、瑣末とはいえないにせよ、本筋ではないものとして捉えられていると思います。
なぜ、そのような扱いが可能であったのかと考えてみると、それは、その後に「産業革命による大いなる飛躍」という物語が控えていたからではないでしょうか?
ヨーロッパの創造性、科学と情熱の賜物である「産業革命」という本編があったからこそ、それらは「残念なエピソード」で済んでいたのです。
しかし、その「産業革命」は(仮にあったとしても)イギリスの飛躍にはほとんど寄与しておらず、掠奪してきた銀、砂糖にタバコ、奴隷の交易こそが主役なのだとしたら。
「西欧近代」のイメージは、相当大きく変わってくるのではないでしょうか。
いったい、どちらがより真実に近いのか。
引き続き、探究を続けましょう。
*なお、18世紀半ば以降、砂糖貿易の衰退とアメリカ合衆国の独立(1776年)で、大西洋貿易は停滞し、イギリスの貿易の中心はアジア(インド)に移ります。世界中で砂糖生産が拡大したことが砂糖貿易衰退の原因で、とくにヨーロッパで甜菜糖(ピート)の生産が増えたことが打撃となったそうです(以上につき、井野瀬・158頁)。
今日のまとめ
- インド洋に参入したポルトガルは武力で貿易を独占しようとした
- ポルトガルが後退すると他のヨーロッパ諸国が参入してきて競争を繰り広げた
- 売れる商品を持たなかったヨーロッパは、新大陸で獲得(略奪)した銀を世界交易参入の足がかりとした
- イギリスは、西インド諸島で砂糖、北米植民地に本国製品の市場を見出し、アフリカで得る奴隷とともに、基本的に国外で略奪的に取得した富をイギリス人の間でぐるぐる回す仕組み(三角貿易)を確立し、イギリス商業を活性化した