目次
- インド洋でのイギリス
- 現地支配者の好意で拠点を確保し、綿織物を仕入れる
- インド財政(税金、賄賂、その他)
- インド支配の手法と方針
- 中国とインド(紅茶とアヘン)
- イギリス経済の飛躍ー産業革命は関与したのか?
- 「共存共栄」の海から「抗争と略奪」の海へ
- 次回に向けて
- 今日のまとめ
インド洋でのイギリス
時代は再び1600年前後に戻ります。
イギリスが持っていたものは、毛織物、そして主にスペイン経由でヨーロッパに入ってくる新大陸の銀。
当時、アジアからの物産の購入に充てるためには、イングランド産の毛織物(従来の厚手に代わる薄手の新毛織物)はまったく輸出品として役に立たず、新大陸からヨーロッパにもたらされる銀塊を交換手段とするしか方策がなかった。
秋田・26-27頁
アジアの海に進出したイギリスが当初「欲しい」と思っていたのは香辛料で、イギリス東インド会社(1600年設立)は、まずは東南アジアの香辛料貿易への参入を狙います。しかし、オランダとの抗争に敗れて断念。
彼らが代わりに目をつけたのが、南アジアのインド亜大陸のベンガルや南インド地方で生産されていた薄手のキャラコやモスリンであった。
秋田・67頁
ここから、イギリスのアジアにおける「商業革命」が始まります。あまり気が進まない方もいると思いますけど‥‥
元気を出して!
再び、お手並みを見せてもらいましょう。
現地支配者の好意で拠点を確保し、綿織物を仕入れる
イギリス東インド会社が、初めて西北インド(グジャラート州のスーラト)に船を送ったのは1608年。
ガマの航海から約100年。ヨーロッパ人の間でも、現地の商取引事情はかなり知られるようになっていたので、彼らはいきなり大砲を放つようなことはなく、平静に現地の支配者との交渉を試みました。
これは100年前のガマにぜひ教えてあげたいことなのですが、礼儀正しく交渉にいくと、現地の人たちは、すごく良くしてくれるのです。
東インド会社は、まず、ムガール帝国の皇帝(ジャハンギール)から、スーラトを拠点に貿易を行う許可をもらいました。条件は、会社にとってかなり有利なものであったようです。
*上の地図はムガール帝国の領土が極小化していた時期のもので、アクバルの跡を継いだジャハンギール(アクバルの息子)の時代はもっと広かった(下の地図の緑の部分↓)。
1611年には、やはり現地の支配者の許可を得て、マスリパトナム(マドラスの少し北)に商館を設置。
1639年、今度は地元の領主から招かれて、マドラスを新たな拠点と定めました。
この地方領主は、招聘にあたってイギリス東インド会社に一定の土地を貸し与え、そこに要塞を築くことを認めた。
羽田・101頁(改行しました)
また、イギリス東インド会社のマドラスでの貿易については関税を免除し、イギリス東インド会社以外の商人が貿易を行う際にかかる関税収入の半額を会社に与えることとした。
これは、イギリス東インド会社にとっては願ってもない破格の条件である。
ポルトガル人がゴアを、またオランダ人がバタヴィアを、力ずくで奪ったのとは異なり、彼らは地元の領主に請われて、平和裡に亜大陸に橋頭堡を築くことができたのである。
イギリス東インド会社に「破格」の好条件での貿易を認めたこの地方領主が、「共存共栄の自由貿易圏」の住人であることは、間違いないでしょう。
イギリス人であっても、キリスト教徒であっても関係ない。ただ「この人たちとはよい取引ができそうだ」「これで地域は潤うだろう」と、そう思ったから、特権の下での貿易を認めたのです。
*インド(とくに北インド)の家族システムは基本的に共同体家族です。
ともかく、こうしてインドに貿易拠点を確保した東インド会社が、商品として手に入れたのは、インド産の綿織物でした。
*当初の取引は、イギリスから持ち込んだ銀で綿織物を買い、綿織物をイギリス本国(やヨーロッパ)で売る、というのが基本。その綿織物で東南アジア産のスパイスを買い、イギリス本国(やヨーロッパ)で売る、というパターンもあったようです。
1613年に東インド会社が綿織物を初めてイギリス本国に輸入して以後、インドの綿織物はイギリスのあらゆる階層の間で大人気となり、17世紀後半から18世紀初頭には全輸入額の70%を占める超主力商品に成長していきます。
イギリス東インド会社は現地支配者に歓迎されて拠点を確保。綿織物が主力商品に
インド財政(税金、賄賂、その他)
(1)フランスとの戦争:植民地化開始
イギリス東インド会社は、1709年の組織再編で、ボンベイ、マドラス、ベンガルの3地点に管区を形成する体制を確立しました(上の地図を参照)。
ちょうどその頃、一足遅れのフランスが、フランス東インド会社を作ってインドに進出(拠点はボンディシェリ(上の地図を参照))。どこでも争っているイギリスとフランスはここでも抗争状態に入り、両者は他人の土地であるインドで、派手に戦争を繰り広げるのです。
この三次にわたったカーナティック戦争は、‥‥基本的にはイギリスとフランスとの争いであったが、在地勢力をも巻き込んでインドの地で行われ、その過程で、インドの諸勢力に対するヨーロッパの軍事力の優秀さが立証されることになったのであった。これは、続いて起こる軍事力によるインド植民地化の第一歩としての意味を持っていた。
辛島・136-137頁
*カーナティック戦争は1744年、1750年、1758年の3回。最終的には、概ねイギリスが勝利した。
(2)インドの現地勢力との戦争:なぜか領主となる東インド会社
これに勝利したイギリス東インド会社は、インドでの商売をさらに活発化させ、現地の(インド人の)支配層と衝突。再び戦争が始まります。
有名なプラッシーの戦い(1757年)はその一つで、イギリス東インド会社がベンガルの政治権力と戦って勝利。
その結果、イギリス東インド会社は、ベンガル太守に傀儡を立て、実際上、ベンガルの領主になってしまうのです(民間企業なのに!)。
*プラッシーの戦いは日本では「イギリス東インド会社軍 VS フランス・ベンガル太守連合軍」が戦って、勝利したイギリスがフランス勢力を駆逐し、インドにおける覇権を確立した戦い、とされていることが多いが、フランス軍はおまけ程度にくっついていただけで、実際は「イギリス VS ベンガル太守」の戦いである。イギリスは「ベンガル太守軍に勝利して、インド植民地支配を確立した」のであって、フランスは関係がない(フランスがイギリスに決定的に敗北するのは1760年のヴァンダバシュの戦いだそうである)(以上につき、羽田・311-312頁)。
もはや彼らを単なる貿易商人と考えてはいけない。彼らはインドの領主なのだ。
東インド会社軍を率いたロバート・クライヴの友人(1758年)(羽田・310頁)
東インド会社が現地勢力を破りインドの領主となる際の立役者であったロバート・クライヴは、さらにムガール皇帝にインドの徴税権(ディーワーニー)を割譲させ、次のように語っています。
純益は165万ポンドにのぼります。インドでの輸出用商品と中国の特産品をすべて購入し、インドの他地域の商館の要求に応えた上で、なお相当の残りがでる額です。
*現在の価値で約1億4500万ポンド(約277億5000万円)
*東インド会社は、インドの行政官に集めさせた税金のうち、決まった額をムガール皇帝と太守に渡し、残りはすべて自分たちの活動資金とした。
普通東インドで貿易を行う人々は商品を購入するために銀を持ってきます。ディーワーニーの獲得によって、この銀の運搬はイギリス東インド会社にとって不要となりました。1ピアストル銀貨さえも送ることなく、我々の投資は実行され、行政と軍事の費用は支払われ、多くの銀が中国へ送られます。ディーワーニーの獲得以来、ナワーブ〔太守〕に属していた権力はすべて東インド会社に移り、ナワーブには名目的な権威だけしか残っていません。
羽田・315頁
*東インド会社はすでに太守の下で司法・警察権を行使する役職の者を指名する権利を得ていた(事実上司法・警察権を持っていた)ので、徴税権の割譲はほぼ完全な支配権の移転を意味した。また、東インド会社は、ベンガルの支配権を確立した後、軍事力と調略を駆使してインド国内の対抗勢力を屈服させ、19世紀前半までにインド全土に対する支配を確立した。
(3)インド財政からの私的収奪
インドの徴税権は、長期的には、イギリスの財政を支えていくことになるのですが、当面のイギリス東インド会社にとってはかえって重荷となり、会社の財務状況は顕著に悪化、破産寸前までいきました。
*会社の財政悪化は、インド各地での征服戦争の軍事費が嵩んだことや、東インド会社株が投機対象となって高騰し配当金比率を上げざるを得なくなったこと、また税の徴収がうまくいかなかったことなどが理由という(秋田・76頁、羽田・323頁)。なお、アメリカ独立革命の開始を告げる「ボストン茶会事件」の直接の原因となった茶条例(1773年)は、財務状況が悪化した東インド会社の救済策だった。
しかし、それにもかかわらず、東インド会社によるインドの政治的支配の拡大は、インドからイギリスへの大量の資金流入をもたらし、イギリスの経済を大いに活性化するのです。
なぜか。それは、東インド会社の社員や軍人などの関係者が、各種利権をフルに活用して巨額の資産を築き、本国に持ち帰ったからです。
*納税額を減額する見返りに徴税請負人から金品を受け取るとか、徴税請負人と組んで租税の一部を懐に入れるといったことも行われていたそうです(羽田・325頁)。
クライヴはその代表格で、彼が自己の取り分としてインドからヨーロッパに送金した手形の総額は、わかっているだけで31万7000ポンドに達しています。
*現在の貨幣価値に換算すると約2766万ポンド(約53億1100万円)。
18世紀後半にベンガルからイギリス本国に送金された個人資産の総額は、約1800万ポンド(うち1500万ポンドは1757年以降)。
*約15億7060万ポンド(約3119億円)
インドからの私的な資産の送金額は、年平均に換算すると約50万ポンド。その額は、ジャマイカ島の砂糖プランテーション経営者(不在地主)の年間収益(約20万ポンド/1773年)を大きく上回ります。
*秋田・72-73頁参照。いずれも総額だろうと思います。
インド財政からの収奪という形で、東インド会社の関係者は、これだけの金額を稼ぐことができたのです。
◼️ イギリス東インド会社とは何か?
イギリス東インド会社は、民間企業である。イギリス国王によって(イギリスの)インド貿易の独占権を与えられてはいたが、1858年にインド統治権をイギリス国王に譲り渡し、1874年に解散するまで、私企業であったことに違いはない。
その私企業が、インド領主の地位を(事実上)得て、徴税権まで取得したというのは不思議な感じがするが、当時のイギリスでの受け止めは普通に好意的なものだったという(クライヴがのちにイギリス国内での批判にさらされるのは、本文で書いたように、彼が個人として「いささか常軌を逸する財産形成」(羽田・310頁)を行っていたためであり、インドを支配したからではない)。
先ほど、西インド諸島の砂糖プランテーション経営者を「IT長者」に準えたが、東インド会社もまさにそれで、とくに寡占が進んだ段階でのAppleとかGoogleみたいなものと考えるとよいと思う。
民間企業としてはいささか不穏当なほどの権力を持ち、やがては国の中枢にくい込み、政府と協力関係に立つ(目立った行き過ぎがあれば規制がかかることもある)。関係者は莫大な資産を築き、個人的にも大きな社会的影響力を持つ(クライヴは個人としてもインドの地方領主の地位を得ていた)。そんな存在である。
なぜイギリスやアメリカからつねにこのような存在が生まれるのか、という点については、いつかどこかで考察することになると思う。
◉東インド会社の関係者はインド財政の私的収奪(等)により巨額の資産を築いて本国に送金。多額の資金流入はイギリス経済を活性化させた
インド支配の手法と方針
イギリス東インド会社の活動を通じてベンガルの領主となり、インド全土に支配権を広げていくイギリス。彼らはどうやって支配を拡大し、どんな風に統治をしたのでしょうか。
(1)軍事保護同盟による支配領域の拡大
プラッシーの戦い以後、支配領域をインド全土に広げていく過程でイギリスが用いた手法は主に二つ。一つは直接的な軍事力の行使、もう一つは軍事保護同盟の締結です。
*イギリス東インド会社に対するイギリス政府の関与(監督)は、1773年の統治機構改革(総督と参事会の設置)、1784年のインド法(イギリス政府と総督の立場を強化)などを通じて次第に強化され、最終的には会社が持つインド統治の権限はすべてイギリス国王に委譲されることになるので(1858年 インド統治改善法)、この辺から主語として「イギリス」を用いていきます。
軍事保護同盟とは、通常その国を軍事的に保護することを名目に、イギリスが軍隊および駐在官を駐留させ、その国が費用を負担する関係をいう。被保護国は、他国との関係についてイギリスの承認なしには何の交渉も成しえず、外交権の喪失を意味していた。また、イギリスは、しばしば内政に干渉し、巨額の軍事費を要求し、やがて条約を結んだ国は経済的に破綻し、ついにはイギリスに領土を割譲せざるをえなくなることが多かった。
辛島・141頁
18世紀末から、イギリスは、このような条約を多くの勢力と結んだが、その最初が1798年のハイダラーバードであった。
軍事的保護を名目に(費用は相手持ちで)軍隊と駐在官を駐留させて、経済・外交政策の自律性を奪う。それは、第二次世界大戦後のアメリカが盛んに用いている方法ですが、イギリスが始めたことなのですね。
*私は知らなかったので、「あ、そうなんだ‥‥」と思い、ちょっとしみじみとしました。
「軍事力を提供する以上、見返りを求めるのは当然」という、民間企業らしい発想から生まれたやり方のようですが(羽田・312頁)、ともかく、文中のハイダラーバードの政権は領地の割譲を強いられ(1800年)、アワドの王国は軍事同盟を結び(1801年)、カーナティックの太守はマイソール王国の王との内通を理由に領土を奪われ‥‥といった具合に、インド各地の勢力は、次々に、主権と領土を失っていったのです。
◉イギリスは軍事力の行使または軍事同盟の締結によってインド各地の勢力から主権と領土を奪っていった
(2)イギリスのためだけのインド統治
東インド会社がひたすらに商売上の利益の追求した結果、成り行きでインドを統治することとなったイギリスです。
それでも19世紀前半までは、当時流行の「自由・平等・博愛」(フランス革命)の精神で「インドのためにインド社会を改良しよう」という動きが起きたこともあったようです。
*総督ベンディングの下では、サティー(妻の殉死)禁止法(1829)が出され、初等教育における英語の義務化、インド人が上位の行政職につくことを可能にするなどの「進歩的」な政策がとられた。1835年からは高等教育の推進も図られた。その時期、東インド会社にはジェームズ・ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父親で自身も功利主義に立つ哲学者・経済学者)が勤務していた。
しかし、1857-58年のインド大反乱を契機として、イギリス政府は腹を決めます。
すなわち、イギリスは、この反乱をきっかけに、インドを自国の経済発展の道具としてのみ利用する政策を明確にしたのであった。
辛島・159頁
イギリスは、現地社会に存在する様々な相違(地域、宗教、カーストなど)間の対立を煽る「分割統治」に専念し、「進歩的」政策も放棄して、ただひたすら、自国の利益に奉仕するべき存在として、インドを利用していくのです。
*私は「セポイの反乱」と習った覚えがあるが、これを「傭兵(セポイ)の反乱」と見るのはイギリス側の(そして相当に事態を矮小化した)見方のようである。反乱はイギリス軍に所属するインド人兵士(今の日本では「シパーヒー」というらしい)によって開始されたが、イギリスの綿製品の流入で打撃を受けた職人、旧王国での職を失った兵士、新しい地税制度で土地に対する権益を失った農民や地主から、権力を奪われたムガール皇帝や諸王国の王・王妃まで、あらゆる階層のインド人が参加し、1年以上にわたって広範な地域で戦闘を継続したもので、辛島先生は「この反乱こそ、その後にきたるべきインド民族独立運動の第一歩であった」と評価されている。
◉19世紀後半以後、インドは「イギリスの経済発展の道具」としてのみ利用された
中国とインド(紅茶とアヘン)
インド洋におけるイギリスのふるまいを検証するのに欠かせないのは、紅茶です。
東インド会社が本格的に紅茶の輸入を始めたのは1678年。紅茶の輸入量は、会社が広州に拠点を置いた1713年以降に大幅に増え、1760年には、インド綿を抑えて、イギリスの輸入に占めるシェアのトップに躍り出ます(総輸入額の40%)。
*広州に拠点を置いて直接取引を始める前は、私貿易業者から購入していた(羽田・270−271頁)。
当時、イギリス本国の製品(毛織物など)は中国でも全く人気がなかったので、イギリスは、銀と引き換えにお茶を買っていました。つまり、イギリスで紅茶の人気が高まり、紅茶を輸入すればするほど、イギリス国内から中国に銀が流出していくという構造です。
紅茶は欲しい。もっともっと欲しい。しかし、当時の銀(や金)は基軸通貨ですから、流出する一方では困ります。
そこで、イギリス東インド会社は、インド産の商品の中から、中国で売れる商品を見繕って、それと交換に紅茶を手にいれるという方法を編み出します。「中国で売れる商品」とは何かというと、綿花、そして何より、アヘンです。
*イギリス東インド会社は、ベンガル産のアヘンの販売と生産を独占していたが、中国は18世紀末に国内へのアヘンの持ち込みを禁止したため、以後、東インド会社はイギリス人の私貿易商人を使って密貿易を行った。
上の図をご覧いただくと、まず1825年から1850年の間に中国へのアヘン輸出が激増していることがわかります。そのとき、アヘン戦争(1840-42)が起きました。
アヘン戦争は、大まかにいうと、再三のアヘン輸入停止要請に応じないイギリスに怒った中国が強硬措置(商館閉鎖、貿易停止、アヘンの押収・焼却)を取ったのに対し、逆ギレした体で、イギリスが仕掛けた戦争です。
*今、アメリカなどが各地で展開していることと基本構造は同じですね。
イギリスはこれに勝利して、上海など5港の開港、香港島の割譲、5港の治外法権、固定低関税(関税自主権の放棄)、片務的最恵国待遇などの不平等条約を結びます。
結局のところ、アヘン戦争は、中国を、「イギリスのために奉仕する市場」に作り変えるための侵略戦争だったのですね。
*イギリスは1856年に「第二次アヘン戦争」ともいわれるアロー戦争を(フランスとともに)起こしさらに支配を強化しています。こうした戦争の甲斐あって、1850年から1880年の間には、インドから中国へのアヘン輸出はさらに倍以上に増えました(↑)。
なお、銀の流出を回避するためにイギリスが編み出したこの取引手法は、「アジア三角貿易」と呼ばれます。
しかし、1850年までのイギリスー中国間の「貿易」を見ると、イギリスは、嫌がる中国にアヘンを押し付けて、その対価として紅茶を手に入れているだけです。強盗や恐喝‥とまではいえないかもしれませんが、少なくとも、真っ当な商売ではありません。
また、19世紀末になると、イギリスから中国への綿製品の輸出が激増しています。これは、いわゆる「産業革命」によるものなのですが‥‥。
これが何を意味するものなのか。インドのケースと合わせて、次章で検討したいと思います。
◉紅茶は欲しいが銀は渡したくないイギリスは、中国に(闇で)アヘンを売り付けた対価で紅茶を手に入れる方法を編み出した上、怒った中国の強行措置を口実に起こした戦争により中国を「イギリスに奉仕する市場」に作り変えた
イギリス経済の飛躍ー産業革命は関与したのか?
(1)「商業革命」の概要
さて、いよいよ、「産業革命ではなく、産業革命以前の商業の活性化(商業革命)こそが、イギリスの経済的発展の本体であった」という見解の真偽を確かめるときがやってきました。
ここでいったん、「産業革命以前」(17世紀ー18世紀末)のその時期に、イギリスが行った「貿易等」の内容を整理しておきましょう。
*以下、次回以降を含め、大西洋やインド洋でイギリスが行った貿易ともいえない貿易その他の不当な商業的行為を総称して、カギ括弧つきの「貿易等」と記載します。「貿易等」とあったら「ああ、あれね‥」とすべてを思い出してください。よろしくお願いします。
17世紀初頭、ロクな輸出品を持っていなかったヨーロッパは、新大陸で銀を手に入れ(イギリスもそのおこぼれに与り)、世界の交易網に参入する糸口を得ます。
イギリス人は西インド諸島や北米に植民し、砂糖と奴隷を中核とする「大西洋三角貿易」を確立し、イギリス人の間で財をぐるぐる回して、経済を活性化。
アジアでは、銀と交換にインド産の綿織物を手に入れます。綿織物は本国で大人気商品に成長したほか、独占的な権利を得たため、再輸出に回すこともできました。
イギリス東インド会社は、インドでの取引を有利に進めようと努力するうちに、なぜかインド領主の地位を獲得することに。関係者はその利権を大いに活用し、インド財政から収奪する形で巨額の資産を形成。イギリス本国に送金して、やはりイギリス経済を大いに活性化しました。
また、中国からは紅茶を大量に購入しますが、赤字による銀の流出を補填したのは、インドで独占権を得たアヘンでした。
こうした取引によって、イギリスの貿易額は激増(↓)。
貿易量のこのような激増は、経済構造はもとより、イギリス人の生活や社会の構造、さらには政治の趨勢をも大きく変化させたため、「商業革命」の名を与えられている。
川北・木畑 75頁[川北]
◉イギリスの「商業革命」は、基本的に、海外から不法に略奪・収奪した財をイギリス人の間でぐるぐる回したことによるイギリス経済の活性化である
(2)検証
「本当にそれだけなのか?」とお思いですよね?
私なら思います。こんなものを「革命」と呼ぶのはちょっと非常識ですから、他に真っ当な取引があったのではないかと考えるのが当然です。
そこで、できる範囲で、データを確認していきましょう。
上の表は、1640年と1772/74年の輸出の内訳です(金額ベース)。
*総額は前項で示した「貿易額の増加」の表と一致しています。
イギリス伝統の毛織物の輸出や食料品(農産物)等も増えてはいますが、激増しているのは再輸出、そして雑工業製品の輸出です(赤字部分)。
再輸出というのはつまり、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって、武力で現地を制圧するなどして拠点を作り、現地の人々や奴隷を黎明期の工場労働者同様に働かせて大量に生産させた現地産の砂糖やタバコ、そして、インドの現地勢力を屈服させて好条件で手に入れた綿織物などのことです。
雑工業製品は国産品ですが、これは海外に出かけて現地に住むようになったイギリス人の需要に応えて供給された日用品です。
輸入については内訳がありませんが、「新大陸からの砂糖、タバコ、コーヒー、アジア方面からの綿織物、絹織物の輸入が激増」した(秋田・34頁)、とされています。
*全体に占める比率では、砂糖と綿織物の「激増」が圧倒的で、それ以外の商品とはかなり差があるのではないかと思います。
要するに、イギリス人が西インド諸島や北米に出かけていって‥‥(以下略)‥‥。
ここまでの段階では、イギリスは、世界が欲しがる商品を自ら生産したわけでも、魅力的なサービスを開発したわけでもありません。ただ、暴力や手練手管や「合理的経営」を駆使して外国の魅力的な商品を安価で手に入れ、すべてを一旦本国の港に運んで、半分を自国で消費し、半分を売りに出した。それだけです。
本当に、これだけが、イギリス経済の飛躍の「本体」だったのでしょうか。「産業革命」は?
(3)イギリスの産業革命
18世紀後半の時点で、イギリスは「外国の商品を手に入れる」という仕事に没頭しています。
イギリスの輸出は、従来からの毛織物(主にヨーロッパ向け)と植民地のイギリス人向け雑工業製品以外は、基本的にすべて「再輸出」ですから。
しかし、ここで改めて下の図を見てください。
19世紀になると、イギリスは、今まで綿織物の輸入元(輸出する側)だったインドに対して、綿製品を輸出していくようになるのです。
*19世紀後半には中国にも輸出していますね。
これはいったい、なんでしょう?
① 輸入代替工業化としての産業革命
世界史の教科書に出てくる一連の発明をご覧いただくと明らかなように、イギリスの「産業革命」は、紡績・織物の分野で始まります(↓)。
- 1733年 ジョン=ケイ 飛び杼
- 1764年 ハーグリーヴズ ジェニー紡績機
- 1769年 アークライト 水力紡績機
- 1779年 クロンプトン ミュール紡績機
- 1785年 カートライト 力織機 ‥‥‥
なぜかというと、イギリスの「産業革命」は、ずっとインドから輸入していた綿織物を自分たちで作るために起きた「革命」であったからです。
17世紀以来の大量輸入で、綿はイギリス人の必需品になりました。毛織物業者の圧力で綿織物の輸入・使用が禁止されても効果はなく、結局、禁止法は廃止(1774年)。そのとき、彼らは考えるのです。
「こんなに人気があるのなら、輸入ばかりしていないで、国内で作ればいいのでは?」。
彼らは識字化したイギリス人です。糸車で糸を紡ぎ、手で綿布を織るなんてあり得ない。「そうだ、科学の力を使おう」ということで、綿織物工業が発達を始めたのです。
*こうして見ると、「イギリス産業革命」の秘密は、「もっとも辺境に位置したイギリスで、もっとも早く大衆識字化が起こった」という逆説の中にありそうです。イギリスはずっと「売れる商品」に事欠き、憧れの商品を先進国のインドや中国から一方的に取り寄せる立場にあった。だからこそ、彼らが識字化したとき、いち早く「あれを作ろう」ということになった。もちろん、手工業の技術を極めるのではなく、機械工業化を目指したのは、彼らが核家族であったからだと思います(核家族とイノベーションについてこちら)。
つまり、イギリスの「産業革命」とは、「ずっとアジアの先進国から輸入していたものを、これからは自分たちの力で作ろう」という、いわゆる輸入代替工業化のための「革命」であったのです。
*ウェッジウッドとかの陶磁器も同じで、中国から輸入していたものの輸入代替工業製品です。
② イギリスの工業製品は売れたのか
その後、イギリスは、近代的な製鉄技術を開発し、蒸気機関を熱源とする鉄道も作れるようになりました(最初の鉄道は1825年)。
その頃から、イギリスは、自らを「世界の工場」と自賛するようになるのですが‥‥ イギリスの工業製品は、本当に売れたのでしょうか。
いろいろな数字などを確認してみますと、イギリスの製品は、最初は売れたようです。イギリスの工業製品の中で、本当に国際競争力があり、世界中から引き合いがあったのは鉄鋼製品(鉄道含む)で、世界中で、最初の鉄道は大抵イギリス製です(日本もそうです)。
*イギリス工業の中心は繊維(とくに綿)と鉄鋼です。例えば「1831年の工業製品輸出全体の中で綿製品が占める割合は50%、羊毛製品は13%、鉄鋼製品は10%」(湯沢威『イギリス経済史』(有斐閣、1996年)24頁)。
しかし、先行者の優位はあっという間に失われ、イギリスは早くも1873年には「大不況」(1873-96年)に陥ることになるのです。
「大不況」の原因は、後発の資本主義諸国の急速な工業化と、第一次産品生産国が本格的に世界市場に編入されたことによる世界の一体化、グローバル化の急速な進展であった。この時期には、アメリカ合衆国とドイツが急速な工業化を進め、鉄鋼をはじめとする資本材や石炭の生産でイギリスを追い抜き、1890年代にはロシア、イタリア、日本などの「半周辺」の資本主義国も工業化に乗り出して、世界経済はこれらの後発の資本主義諸国が工業化を競う段階に移行した。イギリスは「世界の工場」から三大工業国の一つに転落し、製造業の国際競争力も低下して工業製品の輸出が停滞した。
秋田・135頁
③ インドがイギリスの貿易収支を支えた
そうした中で、唯一、綿製品だけは売れ続けました(↓)。
イギリスの綿製品が人気があったからでしょうか?
下の図(左)を見ていただくと、1825年から1880年の間にイギリスからインドへの綿製品の輸出量が激増し、1898年も同じ規模で保たれていることがわかります。対中国も、かなり増えています。
19世紀後半、イギリスの綿製品を世界で一番輸入し、輸入量およびシェアを増やしていくのはインド(↓)。その次に輸入しているのは中国です。
いったいなぜ、ずっと綿織物を作ってイギリス(を通じて世界中)に売っていたインドが、イギリスが綿を作り始めたからといって、それを買わなければならないのでしょうか?
答えは一つ。インドを統治していたのがイギリスだったからです。
先ほど、イギリスは、インド大反乱を契機に、インドを「自国の経済発展の道具として利用する」方針を明確にしたと書きました。イギリスはインドを「利用」するために何をしたのでしょうか。
一つは鉄道建設です。
インドでは1853年にアジア最初の鉄道が開業。現在も約6万4000kmの鉄道路線を有する世界屈指の鉄道王国ですが、大々的な鉄道敷設の目的の一つは治安(軍の出動を容易にする)、もう一つは「イギリスの利益のための」商業的開発でした。
その〔鉄道開発の〕第一の要因は、自由貿易帝国主義と密接に関連していた。すなわち、イギリス本国の消費財市場、とくに綿製品の市場として、さらに本国への食糧・原料(第一次産品)の供給地として、インドを商業的に開発することであった。マンチェスターの綿工業利害、英印間の貿易にかかわる商社や経営代理商会、茶農園などの開発と運営にあたったプランテーション業者などが、インド内陸部への経済的浸透を実現する手段として鉄道建設を必要とした。
秋田・109-110頁
同時並行で、イギリスは、やはり「マンチェスターの綿業資本の政治的圧力を受け」、綿製品の輸入関税率を引き下げ、インドの産業保護の必要性を考慮せず、本国で大量生産した安価な綿製品をインドに持ち込みます。
こうして、強制的にイギリスの安い綿製品を流通させられた結果、伝統的な綿織物産業は崩壊。元々、ヨーロッパの憧れの的であった「豊かなインド」は、一転して、「イギリスに一方的に奉仕する市場」に貶められたのです。
◉綿織物の「輸入代替」から工業化を開始したイギリスは、鉄鋼製品で国際競争力を獲得したものの、先行者の優位が失われるとすぐに停滞。植民地・準植民地としたインドと中国のみがイギリス製品の市場となった
(4)「帝国」経済の真実
私は以前、「基軸通貨の誕生ーポンドの場合ー」という記事の中で、つぎのように書いたことがあります。
イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。
世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。
少し先には、次のような記述も。
国際金本位制〔ポンド覇権〕が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。‥‥
輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。
当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。‥‥
これを書いた時の私は、イギリスは、産業革命によって「世界の工場」となり、主にそのことによって「世界貿易の中心地」になったと信じています。
イギリスが「輸出入の双方に積極的だった」のは、原料の輸入を行う必要があるためだったと信じています。
19世紀後半に「貿易立国としてのイギリスの盛りが過ぎていた」のは、他国が工業化で追い上げてきたからだと信じています。
しかし、これらはすべて間違いでした(今回わかりました)。真実はこうです(↓)。
- イギリスは、外国の物産が欲しかった。
- イギリスは「売れる商品」を持たなかったので、外国から半ば不法に掠め取ってくるか、掠め取ってきた品を売って得た資金で外国から購入するしかなかった。
- こうした「三角貿易」をどんどん行なっているうちに、イギリスは「世界貿易の中心地」となった。
こうした中、産業革命はイギリスに初めて「売れる商品」をもたらしましたが、それでもイギリスの貿易収支が黒字になることはなく、多少はあった(かもしれない)赤字削減効果もわずか10年程度で消滅。
*下の表の1840–1845の数字は産業革命効果では?
イギリスは、インドや中国を自国製品の市場に仕立て、多額の綿製品を購入させたにも関わらず、それをはるかに上回る旺盛な消費のために、貿易赤字はますます増加の一途をたどるのです。
こうした貿易赤字の継続を可能にしたのは、最初はサービス収支(海運や保険)の黒字、その後は投資収益の黒字です。
彼らのやってきたことは、世界の海を舞台に海賊行為や奴隷貿易その他ありとあらゆる不法を働いて稼いだ後、カタギになって、得意の海運や金融サービスを独占的に営むようになった広域暴力団、という以外のなにものでもない。私にはそう思えるのですが、いかがでしょうか。
◉イギリス帝国の経済発展は、ほぼすべてが「貿易等」による海外からの富の収奪によるものであり、産業革命の関与はきわめて小さい
「共存共栄」の海から「抗争と略奪」の海へ
共同体家族を中心に営まれてきた「共存共栄の海」は、識字化した核家族の参入によってどう変わったのか。これが今回までのテーマでした。
識字化した核家族は、ムスリム商人などを蹴散らし、世界中の海と陸で、最初はアジアの商品を奪い合って競争し、工業化を果たすと、今度は資源と市場を奪い合って競争した。
彼らが展開した競争は「自由競争」などといえるものではない。ルールなしの対立抗争であり、正真正銘の戦争でもありました。
そして、彼らは、競争に勝つためにはいっさい手段を選ばず、非キリスト教徒、非白人を蹂躙することを厭わなかった。
「共存共栄」の海は、こうして「抗争と略奪」の海に変わった。私はそのように結論します。
◉共同体家族が作った「共存共栄」の海は、識字化した核家族の参入によって「抗争と略奪」の海に変わった
次回に向けて
識字化した核家族によるルール変更があったといっても、それは条約や法律に書き込まれたわけではありません。
「確かに、帝国主義とか、植民地主義とか、”抗争と略奪” 的な時代はあったけど、それは一時的なものであって‥‥ 少なくとも第二次世界大戦の後くらいからは、みんな、共存共栄、世界の平和を目指していたはずでは?」
そう思いたくなるのも無理からぬところです(ええ、私はずっとそう思っていました)。
しかし、今回の探究の過程で、私は発見しました。その新しいルールが刻み込まれ、その後の世界に広く深く長い影響を与えることになる媒体が、やはりこの時期に生まれていたという事実を。
その媒体とは、おかねです。
もちろん、おかねそのものは以前から存在しました。そこで、次回のテーマは「識字化した核家族は、おかねを仕組みをどのように変えたのか?」となります。
お楽しみに!
今日のまとめ
- イギリス東インド会社は平和裡にインドでの貿易拠点を獲得し綿織物を商品として仕入れたが、商業上の利権をめぐる現地を巻き込んだフランスとの戦争および現地勢力との軍事衝突を経てなぜかインドの統治者となった
- イギリス東インド会社の関係者がインド財政を私的に収奪して築いた巨額の財産の流入で本国の経済は大いに活性化した
- 大反乱以後、イギリスは自国の経済発展のための道具としてのみインドを利用する方針を確定させ、インドをイギリスに奉仕する市場として開発し、アヘン戦争を通じて中国も同様の市場に仕立てた
- 「産業革命」は綿織物の「輸入代替」から始まったが、綿製品の大量生産に成功したイギリスはすぐにそれをインドで大々的に販売した
- イギリスが「産業革命」の成果として好調な輸出を誇ったのはごく短期間で、競争力が失われた後も継続してイギリス製品を買ったのは植民地・準植民地とされたインドと中国のみだった
- 近代イギリスの経済的飛躍は、もっぱら「貿易等」によってもたらされたもので、産業革命はほぼ関与していない