目次
- はじめに:おかねの仕組みが問題だ
- 現代のおかねの基本
- 官の信用に基づくおかね:中国の場合
- 世界通商帝国のおかねーモンゴル帝国の場合
- 産業振興のためのおかね:江戸日本の信用貨幣
- 次回に向けて
- 今日のまとめ
はじめに:おかねの仕組みが問題だ
現在、私たちは、おかねがなければ生きていけない世界に暮らしています。
普通にお米を作り魚を取って近隣の住民に供給しているだけではロクに食べてもいけず、次々と新しい商品やサービスを開発し、付加価値を付け、世界のお客様に選んでいただかなくてはならない。
そんなことを続けていれば、環境への負荷は増し、いよいよ地球は住める場所でなくなる。誰もがそれを知っていて、何とかしたいと思っているにもかかわらず、です。
「何なんだ、これは?」
「どうやったらここから出られるんだろう?」
私はずっとそう思っていましたが、このたび、「トッド後の補助線」のおかげで、ついにそのカラクリがわかりました。
私が立てた仮説はこうです。
①識字化した核家族は、それまで商業や交易の手段であったおかねを「掠奪の資本としてのおかね」に変えた。
②17-18世紀のイギリスで作られたこのおかねが、私たちを「抗争と掠奪」の世界に閉じ込めている。
おかねの仕組みがポイントなので、話はそれなりにややこしいです。でも、仕組みがわかったら、そこから出る方法もわかるかもしれませんよね?
ぜひぜひ、共有させてください。
*以下「おかね」の語は「通貨」の意味で使います。
◉17-18世紀に作られたおかねの仕組みが、私たちを「抗争と掠奪」の世界に閉じ込めている
現代のおかねの基本
探究を始めるに当たっては、現代のおかねについての認識を共有しておく必要があるでしょう。
言葉に慣れていただく意味もあるので、少し(だけ)専門的な用語を使って、説明をさせていただきます。
(1)信用通貨である
現代のおかねは、いわゆる「信用通貨」です。金貨や銀貨のように、その価値が素材自体の価値に裏付けられている通貨ではなく、もっぱら発行主体などの信用に依存している通貨、という意味です。
例えば、1万円札(日本銀行券)は、紙製です。デザインや印刷に工夫が凝らされてはいますが、物自体に1万円の価値があるわけではありません。
日本政府が1万円の価値を保証していること、そして、みんながそれを信用していることによって、1万円札は1万円の交換価値を持つものとして通用しているわけです。
(2)預金がメインである
1万円札の話をした直後で申し訳ないのですが、実際のところ、私たちが使っているおかねのメインは預金です。そう、銀行口座に入っているやつです。
日本銀行(以下「日銀」)は、金融機関から経済全体に供給されている通貨(おかね)の総量を示す「マネーストック統計」を毎年作成・公表していますが、その解説の中に次のようにあります。
通貨(マネー)としてどのような金融商品を含めるかについては、国や時代によっても異なり、一義的には決まっていないが、わが国の場合、対象とする通貨および通貨発行主体の範囲に応じて、M1、M2、M3、広義流動性の4つの指標を作成・公表している。
日本銀行統計調査局「マネーストック統計の解説」(2023年6月)
上の図は、4種の通貨指標の定義を示したものですが、ここでは一番狭い「M1」に注目して下さい。
M1に含まれるのは現金通貨と預金通貨。以下が大体の定義です。
M1 :現金通貨(日本銀行券+硬貨)+要求払預金(普通預金・当座預金)
ちなみに、比率でいうと、M1に占める現金の比率は約1割。残りの9割は預金です。
現代において、おかねとは、基本的に預金通貨の形で存在しているのです。
(3)おかねを発行しているのは市中銀行である
では、その預金通貨を発行するのは誰かといえば、市中銀行です。「え、そうなの?」とお思いでしょうか。
上の図の左側、「通貨発行主体」のところをご覧いただくと、「M1」の発行主体には、銀行機能を有するすべての金融機関が含まれていることがわかります。
日銀も含まれていますが、日銀が発行するのは現金だけで、預金通貨は発行しません。
つまり、預金通貨を発行しているのは、日銀以外のすべての金融機関。おおまかにいえば、市中銀行なのです。
(4)おかねは貸付によって生まれる
では、銀行はどうやって「預金通貨を発行」しているのか。あとで(次回)詳しく説明しますが、銀行は、貸付によっておかねを発行する仕組みになっています。
例えば、顧客が銀行から2000万円の住宅ローンを借りる場合、銀行は顧客の口座に2000万円の入金処理をします。そのとき、銀行は、2000万円の預金通貨を発行しているのです。
銀行は預金者から預かったおかねを貸していると思っている方がいらっしゃると思います(私もずっとそう思っていました)。
たしかに銀行の主な業務は、預金の受入れと資金の貸付けですが(銀行法2条2項参照)、しかし、銀行の貸付の総額が、保有する預金の金額に拘束されるということはありません。両者はまったく無関係なのです。
現在の日本では、銀行の貸付額には、銀行の経営の健全性を担保するという観点から、上限が定められています(専門家の説明を引用します↓)。しかし、そのような規制が必要なのは、銀行が実際上「無から有を産むことができる」からこそなのです。
然らば、次に、こうした市中銀行による、無から有を産むが如き信用創造は無限なのか。答えはノー。有限なのである。
横山昭雄『真説 経済・金融の仕組み』(日本評論社、2015年)105頁
‥‥市中銀行は、先に述べたように法令によって、自己の与信行動による資産総額(J)の膨張を、自己資本(M)の一定倍(現行の規定ではJ/M≦12•5倍、海外業務のない向きは25倍。それぞれ前記自己比率規制値8%、4%の逆数)までに留めるべきものと定められている。
これは、経済循環の血液たる通貨を創造・供給・媒介するという、特殊の権能を与えられた銀行(その他あらゆる信用創造機構)に課せられた、金融行政上の究極の存立規範とでも言うべきものであ‥‥る。
*文中の「法令」にあたるのは、銀行法14条の2と同条の規定に基づく金融庁の告示です。
(5)現代のおかね(まとめ)
以上をまとめると、こうなります。
現代の主たるおかねは預金であり、貸付の際に市中銀行が発行しているが、その価値を保証しているのは政府である。
「なんか変!」
変でしょう?
でも、この仕組みこそが、現代のおかねが、17-18世紀のイギリスに由来することの証しなのです。いったい、何がどうするとこうなって、これにどんな意味があるのか。
探究を始めましょう。
◉現代のおかねは信用通貨であり、その大部分は「預金」のかたちで存在する
◉「市中銀行が貸付によって発行するおかねの価値を政府が保証する」という現在の仕組みは、17-18世紀のイギリスで生まれた
*ここまでの話について「もうちょっと理解してから先に進みたい」という方には、別サイトの次の記事がお役に立つと思います(次回に結構しつこく説明するので、適当に読み進めていただいて大丈夫ですが)。
官の信用に基づくおかね:中国の場合
(1)おかねの見方
今回の基本テーマは、「識字化した核家族は、おかねの仕組みをどのように変えたのか?」ですので、「近代」以前のおかね(信用通貨)の事例をいくつか確認していきたいと思います。
信用に基づいて支払手段として用いられる媒体のことを「信用通貨」と呼ぶとすると、信用通貨そのものは、商業の発祥と同じ程度に古くから(つまりメソポタミア文明の初期の頃から)用いられていたと考えられます。
*古アッシリア時代(紀元前19世紀)には、商人の債務証書が支払手段として機能していた(譲渡可能となっていた)ことが確認されているようです(明石茂生「前近代経済における貨幣, 信用, 国家:古代メソポタミアから中世ヨーロッパまで)。
日頃の商売を通じてそれなりの信用を培っている商人同士の間では、信用取引(ツケ払いとか)が行われるのが普通です。というか、行われないことの方が珍しい。そして、その証拠として交わされる媒体が、一定の範囲内の商人間で支払手段として通用するのも、かなり普遍的に見られる事象なのです。
その媒体は、限定的な、「知り合いの知り合いの知り合い」くらいの関係性の中で通用する、私的な信用通貨といえるでしょう。
しかし、信用通貨を、より広く、不特定多数人の間で流通させようとすると、実現はがぜん難しくなります。
だって、紙切れ一枚に、金貨や銀貨と同じ価値があるなんていわれたって、そうやすやすと信用できませんでしょう?
というわけなので、信用通貨には、必ず、それを通貨として成り立たせる信用源が存在します。
そして、その信用源、つまり、誰の、どういうタイプの信用によって成り立っているのかを特定できると、どうも、そのおかねの性格がわかるようなのです。
ちょっと、やってみましょうか。
◉信用通貨には必ず信用源が存在し、信用源を特定するとそのおかねの性格がわかる
(2)北宋の紙幣:交子
政府やそれに類する機関が、その公的信用を基礎として発行・通用させた信用通貨(紙幣)に限ると、「世界初」は11世紀初頭の中国(北宋)である、とするのが一般的です。
10世紀末の蜀地方(四川省)では、商人たちの組合が「交子」と呼ばれる私的な信用通貨を発行・使用していた。
*蜀地方で通用していた貨幣(鉄銭)の預かり証として発行されたもので、鉄銭に交換できることを前提としていた。この種の信用通貨は中国の他の地域でも出回っていたようです。
やがて、組合は、政府の認可を受けて(蜀での)交子発行を独占し、その信用力から、蜀の交子は他の地域の類似の手形を圧倒する通用力を持つようになったのですが、準備不足で不払いを起こし、あえなく破綻(wiki)。
*この文脈で「準備不足」とは、交換用の鉄銭の準備が不足したことをいいます。
この交子発行の事業を、北宋の政府が引き継ぐこととなり、ここに初めて、公的な信用に基づく、本物のおかねとしての紙幣が誕生したのです(1023年)。
紙幣は本来銭との交換を前提に発行されたわけだが、信用や権威を背景にすれば、引き替える銭がなくても流通させることができる。国家財政が窮迫してくると、政府がこの利点に目をつけないわけはなく、政府発行の紙幣が現れるのは、当然のなりゆきだった。
東野治之『貨幣の日本史』(朝日新書、1997年)89-90頁
北宋政府は、交子の発行を官業とし、民間の発行を禁止することで、政府の信用に基づく紙幣としての性格を明確にします。
その上で、36万貫の準備金に対し発行限度額を125万余貫と定めて、財政規律を保とうとしたようです。
実際には、戦費の必要性などから濫発気味になって「兌換停止→信用崩壊」の道を辿り、改めて交子に代わる「銭引」という紙幣を出し、その信用が低下したらまた別の紙幣(会子)を出し‥‥といった試行錯誤もあったようですが、そこを含めて、「官」(政府)が責任を持とうとする中国のおかねのあり方は、日本のわれわれから見ると、いたって常識的といえるでしょう。
◉中国では、民間で生まれた私的な信用通貨の発行事業を政府が引き継ぎ、官業とする(独占する)ことで、政府の信用に基づく信用通貨が誕生した
(3)官の信用に基づく、商業活動を支えるおかね
では、北宋の信用通貨「交子」は、いかなる信用構造で成り立っていたのか。
宋代は、中央集権が強まった時代で、経済的繁栄も著しかったとされています。米を中心とした農業生産力の向上、商業=都市の発達、地域間の流通や貿易の活発化で経済は活況を呈し、国家は、農業など各種生産に対する税金、塩や茶の専売、商税を通じて税収を確保した。
つまり、交子の信用は、政府の権威と、国全体の経済力に裏打ちされた経済的信用に基づくものだったと見ることができるでしょう。
交子(紙幣)が必要とされるようになったのは、その由来(商人組合発行の私的信用通貨)が物語るように、商業活動が活性化する中で、貨幣が足りなくなったか、あるいは高額の取引が増えて貨幣では不便になったといった事情によるものと考えられます。
交子というおかねは、どういう性格のおかねであったか。このように表現してみたいと思います。
「官の権威と信用(=国の経済力)に基づく、国の商業活動を支えるためのおかね」
◉宋代の信用通貨は「官の権威と信用に基づく、国の商業活動を支えるためのおかね」であった
世界通商帝国のおかねーモンゴル帝国の場合
つぎは13世紀、モンゴル帝国の事例です。
モンゴル帝国の中興の祖、クビライ(1215-1294)は、商業の振興を重視したことで知られており、彼らが構築したおかねの仕組みは、モンゴル帝国の通商政策と大いに関わっています。イギリス帝国のあり方との違いをイメージしていただくために、少し詳しめにご紹介させていただきます。
(1)クビライの国家構想
杉山正明先生は、帝位継承戦争(1260-1264)を制したクビライが単独の皇帝の地位に着いた後のモンゴル国家を「第二の創業」期と表現します。
チンギスの国家草創を第一の創業とすれば、これはまさに、第二の創業とよぶにふさわしい根本からの変容であった。
杉山・149頁
クビライは、広大な帝国の領土を維持し、領民から永続的に承認を受け続けるためには、軍事力による威嚇だけでは足りないことに気づいていて、もう一つ、何かが必要だと考えていたといいます。反対勢力を含む全モンゴルに皇帝の権力を承認させ続けるための、別の力。
*彼らは、征服の過程で帰順させ仲間に加えた人々をすべて「モンゴル」のアイデンティティの下に統合しました。したがって、「全モンゴル」とはモンゴル共同体の全構成員という意味です。
それは、富であった。モンゴルの大カアン〔皇帝〕は、モンゴル共同体の人びとに安寧と繁栄をもたらすからこそ、ゆいいつ絶対の権力者としてえらばれる。余人では不可能な富を、かれらにあたえつづける仕組みをつくりだせばよいのであった。そうすれば、すべてのモンゴル成員たちは、クビライとその血脈の権力をモンゴル大カアンとして、いただきつづける。
杉山正明『クビライの挑戦』(講談社学術文庫、2010年)147頁
クビライとそのブレインたちは、政権発足当初から、そのための構想を抱いていた。杉山先生によれば、こうです。
ここに、クビライ新国家の基本構想は、草原の軍事力、中華の経済力、そしてムスリムの商業力というユーラシア史を貫く三つの歴史伝統のうえに立ち、その三者を融合するものとなった。クビライ政権は、草原の軍事力の優位を支配の根源として保持しつつ、中華帝国の行政パターンを一部導入して中華世界を富の根源として管理する。そして、ムスリム商業網を利用しつつ、国家主導による超大型の通商・流通をつくりだす。
杉山・148–149頁
とうぜん、草原と中華を組みあわせる軍事・政治体制が必要である。政治権力と物流システムのかなめとなる巨大都市が必要である。その巨大都市を発着・終着の地とする交通・運輸・移動の網目状組織が必要である。
そのうえで、大カアン〔皇帝〕はすべての構成要素をとりしきるかなめにいて、軍事・政治・行政・経済の要点をおさえ、物流・通商に課税して国家財政を充実させる。その収入から賜与というかたちのものをモンゴルたちにわけあたえ、モンゴル連合体を維持する柱とする。その賜与は、おそらくその多くが、ふたたびムスリム商業資本をつうじて、物流・通商活動に投入され、モンゴル全域でいっそうの経済活動の活性化をもたらす。こういう図式であった。
こうであれば、モンゴル国家そのものや、さらにその属領が、たとえいかに、さまざまなレヴェルの分権勢力によって細分され、モザイク状になっていても、物流と通商は、そうした分有体制をのりこえてしまうのである。そして、富の根源と流通のシステムをにぎった大カアンは、かつてない巨大な富の所有者となり、帝国の分立はのりこえられてしまうのである。それが、クビライとそのブレインたちが構想した大統合のプランであった。
ふうむ、なるほど。こうやって生まれたのが、第1回で見た「共存共栄」の世界通商圏だったのですね。
この構想において、特徴的なのは、非常にグローバルな自由貿易圏の構想でありながら、富の流れの源泉は、あくまでも国家=皇帝であるという点です。
世界に中心にいるのは皇帝である。その皇帝は、まず国家財政を充実させて、それを分け与える形で富を流通させ、そのことで、経済活動を活性化する。そのようなシステムが考えられているのです。
では、この「国家主導のグローバル自由貿易圏」のために、彼らは、どのようなおかねの仕組みを生み出したのか。
(2)モンゴルのおかね
①基軸通貨:銀
超大型の通商・流通を作り出すことで、帝国を豊かさで満たし続けることを構想した彼らにとって、何よりも必要なものは、決済において共通の価値基準を提供する財貨です。モンゴルは、銀を選び、その全領域で銀を用いた徴税・財政体制をとりました。
モンゴルが覇権を取った13世紀までにはすでに、銀はユーラシア大陸のほぼ全域で国際通貨(外国との決済手段)として使われていましたから、彼らの選択は、まあ、普通です。
*馬蹄型(または「おわん」型)の銀錠(↓)が作られたが、形はどうでもよく、重さで量る秤量貨幣。2kg=1錠が基本単位(錠は中国語の場合。モンゴル語ではスケ(斧)、ウイグル語はヤストゥク(枕)、ペルシャ語はパーリシュ(枕))。
彼らが普通でなかったのは、この銀を、徹底して、国を安定させ、かつ、豊かにするための道具として用いたことかもしれません。
クビライと彼のブレインは、銀が以下のような流れで帝国内外を循環するように仕組みました。
1️⃣中央政府:まず、中央政府は、塩の専売と税金により国庫に銀を集めます(中央政府の収入の80%以上は塩の専売による利潤)。
*税金といっても、そんなに高額の税を徴収したわけではありません(この点もイギリス政府とは違います)。農業生産からの税は全て地方財政に当てられ、中央政府は通商による税(商税)だけを集めました。商税についても、クビライは通過税(従来は主要な城市や交通上のポイントを通るたびにいちいち取られていた)を完全撤廃し、低額(約3%)の売上税だけとすることで、遠隔地商業を優遇しました。
2️⃣モンゴル帝室・王族・貴族:皇帝はこうして集めた銀を政府の事業(交通・運輸網の整備・維持・管理など)に用いるとともに、王族や貴族に「賜与」として分け与えます。毎年正月に与えられる「定例賜与」が総額で5000錠(銀10トン)、これ以外にさまざまな臨時の賜与があり、その総額は定例賜与の総額をはるかに上回ることが多かったそうです。
*例えば、部内や領内に天災・飢饉があったと皇帝に訴えると多額の賜与がもらえたそうです。
3️⃣オルトク:多額の賜与によって莫大な銀の所有者となった王族・貴族たちは、その銀を「オルトク」というムスリム商人などが作る会社組織に貸し与えます。
*クビライはこのオルトクを非常に重視。政権側はオルトクを管轄する専門官庁を設けて許認可行政の中に取り込み、オルトク側は許認可を盾に、モンゴルの武力と交通・輸送機関の優先的利用権を使って活発な経済活動を行うという仕組みを作り上げた。大きなオルトクは、通商・運輸・金融から徴税・兵站・軍需まで何でもやる「総合商社」に成長し、帝国の活力を支えたという。
4️⃣帝国内外の村々、人々:王族・貴族から銀の融資を受けたオルトクは、各地に出かけていって、商売、貿易、その他ありとあらゆる事業を営みました。その結果、帝国内外の隅々に銀使用の習慣が行き渡り、「銀立て経済圏」が作られていった。
モンゴルとそれにかかわる人たちは、軍人・商人・旅人など、立場はさまざまだが、江西、湖南、四川、雲南、鬼国、広西、ティベトなどの山の奥、谷あい、山のひだまでわけいっていった。
杉山・234頁
こうした人々のなかでも、とくに、オルトクたちは、そうであった。文献上、ヴェトナムにも、大型のオルトクがはやくから入り込んでいた明証がある。しかも、モンゴル軍団の進攻よりやや先立つ時期である。経済が、政治や軍事に先行している一例である。
そうした軍人や商人をつうじて、「銀使用」「銀だて経済」は、それまで「文明世界」からとりのこされてきたような人々、村々にまで、ともかく到達した。‥‥
クビライと大都を中心とする巨大な「人」と「もの」のサーキュレイションも、じつは銀のサーキュレイションであったといってもさしつかえない。こうした状況が、クビライの大元ウルスを中心に、程度の差こそあれ、モンゴルの全領域で展開したのである。
皇帝は、1️⃣塩の専売と税金(つまり、国内の資源と経済活動から得られる富)によって国庫に銀を集め、2️⃣銀の賜与によって国家や属領を支配する王族・貴族の忠誠を保ち、3️⃣彼らからの貸与を通じてオルトクの経済活動を支援・促進することで、4️⃣帝国の隅々にまで、文明と富を循環させる。
帝国内の通貨である銀は、すでに国際通貨でもありますから、その循環の輪は、帝国の外にまで広がっていきます。
クビライと大都を中心に、銀はめぐる。モンゴル帝国ばかりでなく、ユーラシア大陸もまた、めぐる銀とともに、見えない手でゆっくりと、しかし確実に、むすびつけられていった。そして、それは世界がひとつの経済構造につつまれるはるかなる近現代という名の後世へむけて、巨大な歴史のあゆみが誰にも気づかれることなく静かにスタートをきっていたことを意味する。
杉山・235–236頁
②信用通貨(紙幣)としての塩引
基本通貨は銀とされましたが、必要な流通量に対して、銀の絶対量は不足しがちであったとされます。モンゴルで、紙幣は(持ち運びのしやすさにより)遠隔地貿易を助けるため、そして、銀を補うためにも必要でした。
モンゴルの紙幣というと「交鈔(こうしょう)」が有名だそうで、たしかに、クビライは、即位した1260年(中統元年)に「中統元宝交鈔」(略して「中統鈔」)という紙幣を発行しています(↓)。
しかし、これは少額通貨であって、オルトクの遠隔地交易に役立てられるようなものではなかった。
*十文から二貫までの十種類(一貫は2000文)。中国由来の銅銭のかわりに用いられたそうです。少額通貨としての副次的な役割しか持っていなかったので、「交鈔の濫発でインフレとなり帝国が衰退した」という通説(らしい)も誤りらしいです。
本当に銀と同等の価値を持つものとして用いられたのは、塩引(えんいん)。つまり、塩を専売制としていたモンゴルで、中央政府が発行した塩の引換券です。
*塩の専売は漢代以来の中国の伝統です。
中国で、塩はとても高価だったので(歴代政権が価格を吊り上げた結果ですが)、塩引にはもともと「高価な塩と交換できる有価証券」という性質が備わっています。クビライは、その塩引に「中統鈔」の額面金額を記載し、政府がその価値を保証する紙幣という性格を同時に持たせることで、非常に信用度の高いおかね(高額紙幣)として通用させることに成功したわけです。
*紙幣としての塩引の額面は、銀とは別体系(中国の銅銭由来)の交鈔(中統鈔)の金額で書かれていましたが、交換レートがあって、銀との交換が可能でした。
*塩引には、塩を受け取ることができる製塩地が書かれていました。詳細は(私には)わかりませんが、塩の生産量に合わせて発行していたのであれば、濫発によるインフレの危険性も低かったといえるでしょう。
*唯一現存する大元ウルス時代の塩引(西暦1321年発行)(↑)。「中統鈔」で額面「伍拾定(50錠)」とある。50錠は、5000貫(中統鈔の最高額2貫の2500倍)に相当し、銀に換算すると2.5kgぐらいに相当するという(杉山・251頁)。
(3)皇帝の権威と信用に基づく、富を行き渡らせるためのおかね
モンゴル帝国のおかねについて、要点をまとめましょう。
- 商業の促進により帝国を富で満たすことを構想し、国家主導で巨大な通商・流通網を整備。その一環として通貨システムが構築された。
- グローバル通商網を循環する富の源泉は、皇帝が国内の経済活動を基礎に構築した国家財政にあった。
- すでに国際通貨として(事実上)機能していた銀を帝国の基本通貨とし、銀は帝国の内外で通用する基軸通貨となった。
- 帝国政府が発行する塩引に紙幣としての機能を持たせることで、信用度の高い紙幣を実現し、帝国内外におけるおかねの流通を促進した。
- 銀は、主に塩の売却益として中央政府が稼いだ銀が、王族・貴族に賜与され、賜与されたものがオルトクに融資されるという流れで供給され、オルトクによる商業活動を通じて、帝国の隅々に行き渡った。
では、モンゴル帝国で流通した高額信用通貨、塩引とは、どのような性格のおかねであったか。こんな感じでいかがでしょうか。
「皇帝の権威と信用に基づく、広域的商業の促進により富を帝国内外に広く行き渡らせるためのおかね」
◉モンゴル帝国の信用通貨(塩引)は、「皇帝の権威と信用に基づく、交易の促進により富を帝国内外に行き渡らせるためのおかね」だった
産業振興のためのおかね:江戸日本の信用貨幣
「近代」以前の例として、最後に、江戸時代の日本を取り上げたいと思います。
中国、モンゴル帝国のような巨大文明の中心地とは異なる、辺境の、直系家族のおかねの一例です。
(1)江戸のおかね
直系家族が作る国家の基本型は都市国家です。日本の場合、中国の影響で成立した天皇制のおかげで比較的容易に統一できたというのが私の仮説ですが、それでも、江戸期の幕藩体制は、いわゆる中央集権国家とは違います。
中央の地方に対する統制力、そして、官の民に対する統制力は、いずれもさほど強固ではない。しかし、中央も地方も、官も民も、それぞれが周りに配慮して行動する結果、全体としてはそれなりに秩序立ったまとまりが形成されるという、そういうあり方です。
そのことは、おかねの仕組みにもよく表れているといえます。
徳川家康は、政権掌握後まもなく、統一的な貨幣制度の樹立を目指して金貨、銀貨を発行し、慶長貨幣法(1608年)を制定して、金貨・銀貨・銭の比価を定めました。貨幣(金属貨幣)については、幕府が独占的に供給・管理することを明確にしたわけです。
*なお、17世紀前半までは、細川・鍋島・毛利など九州・中国地方の大名が独自の貨幣を発行・流通させていたそうですが、銭(主に中国宋銭の模鋳銭)については、寛永通宝の発行(1636年)以降は通用停止となり、金貨・銀貨についても、幕府の権力強化が進んだ17世紀後半には幕府貨幣の優位が確立。品質のよい一部貨幣が地金として用いられるにとどまったということです。
他方、それ以外の信用通貨(紙幣、手形など)については、幕府が独占権を主張することはなく、基本的には、室町時代から引き継いだあり方がそのまま温存されます。
室町時代から織豊時代にかけて、市場経済の進展に合わせ、信用貨幣は、大名、旗本、宮家、公家、神社、諸団体(町村の行政機構、村落の連合組織、同業者の組織)、商人など、様々な主体によって供給され、それぞれの地域および人的関係の中で流通していました。そのあり方が、そのまま続けられたわけです。
とはいえ、幕府は、信用貨幣の流通を全く無関心に放置していたというわけではありません。藩札(藩が発行する紙幣)を許可制としていたことに見られるように、「必要があれば介入する」というのが基本姿勢であったようです。
江戸期の初頭から、金銀銅を産出する大名領国では鋳貨を発行したり、札遣いが見られた所領もあり、領主は自領における貨幣の流通について相対的独立性を保持していたと考えられる。相対的としたのは、こうした権限が無条件で認められたわけではないからである。
安国良一「藩札発行における領主の機能」鎮目雅人編『信用貨幣の生成と展開』(慶應義塾大学出版会、2020年)175-176頁
制約の要点は二つである。第一に、幕府の貨幣(鋳貨)はその他の貨幣に優越すること、幕府貨幣の流通を妨げない限り札遣いも許容されているのである。
第二に、札の越境などによって他領の貨幣流通を侵犯しない限り、すなわち領主間の争いを惹起しない限り、幕府の許可を得て札遣いが実施される。
幕府だけが貨幣発行権限を独占しているかに見える背景に分け入れば、このような幕府と藩の了解があったと考えられる。
*藩以外の主体が発行する札については情報が少ないが、幕府の基本姿勢(問題が生じない限りは許容)は同様と推測される。藩札が許可制とされたのは、初期の頃にすでに札の越境によるトラブルなどが生じていたためのようです。
(2)藩札の運用
本で紹介されている藩札の運用状況を見ると、限られた地域であっても、信用貨幣を成立させ、安定的に流通させることは、そう簡単ではないのだということがよくわかります。
*以下を含め、岩橋勝「近世紙幣の流通基盤ー地域内流動性不足の観点から」鎮目雅人編『信用貨幣と生成と展開』(慶應義塾大学出版会、2020年)に教えていただきました。
藩札は多くの藩で発行されましたが、実態を調査してみると、長期に渡って価値の安定を保ち、順調に流通させていた藩の数は決して多くはなかったそうで、18世紀(1730年以後)についてみると、10年以上札価をさほど下げることなく流通できた藩は8藩にすぎません。
*幕府と藩の間で藩札発行に関するルールが確立したのが1707-1730年とされます。
19世紀に入っても、藩札を安定的に流通させていた藩が少数であることに違いはないのですが、それでも、その数は24藩に増えるのです。
*「持続期間内の実態を観察すると、安定的な流通の名に値するのはなお‥‥せいぜい12藩」というのが岩橋先生の評価ですが、進歩が見られることは事実のようです。
18世紀の失敗の典型は、1️⃣発行したが流通が振るわない、2️⃣流通したが過剰発行により信用が停止して流通停止に追い込まれる、の2パターンでした。
藩は「札を刷ればおかねが作れるの?」と思って作ってみるのですが、単に「おかねが足りない」という理由で作ってみても、そもそも信用が得られずに流通しなかったり(1️⃣)、「作りすぎじゃね?」ということで信用が揺らぎ、取付騒ぎが起きたりしてしまう(2️⃣)。
各藩はどうやってこれを克服したのでしょうか。
(3)高松藩の事例
高松藩は、18世紀の「8藩」、19世紀の「24藩」(かつ岩橋先生のいう「12藩」)のすべてに含まれていますが、18世紀には失敗もありました。
高松藩は、18世紀末までに「讃岐三白」と呼ばれる塩・綿・砂糖(うどんは入っていません)の生産を奨励する経済政策を取っていて、藩札の発行を生産者への融資のために用いていました。
しかし、当初は、藩札の貸付を対生産者に限定せず、単に窮乏した藩士に貸付けて信用を損ねたり、生産者に事業資金として貸付けた場合も、産物の販売代金として回収できた銀を準備に回さず江戸での藩費用に使ってしまったりして、藩札の安定を損ないました。
こうして、彼らは、藩札の信用を維持するには、1️⃣有望な事業(この場合は「讃岐三白」の生産)に対して貸付けること、2️⃣事業の成功で得られた資金を還流させることが必要であることを学びます。
19世紀の高松藩は、藩札発行を専売制に結び付けることで、これを実現しました。
(例えば)「砂糖為替」を事業者に貸付け、藩は生産された砂糖を受け取って独占的に(主に大坂で)販売し、その代金(銀)を準備として藩の財政に組み込む、という形を取って、貸付から還流までの流れを構築したのです。
(4)産業振興の資本としてのおかね
藩札は、一応、藩政府が発行しているおかねなので、官が面倒を見ているおかねであるとはいえます。
しかし、藩の政府に、藩札の通用性を支えるだけの権威と信用がなかったことは明らかといえるでしょう。宋の皇帝やクビライのように、強大な権威と十分な富(経済力)によって、単純に信用通貨を流通させることはできなかったのです。
そこで、各藩は、産業振興と結びつけることで、信用通貨を成り立たせる仕組みを編み出したわけですが、この事実をどう理解したらよいのか。
私はこう考えます。ここに発生しているのは「資本としてのおかね」ではないでしょうか?
高松藩は、砂糖栽培の資本金として「砂糖為替」を貸付け、砂糖を販売した代金を藩の財政(準備銀)に還流するという流れを構築することで、藩札(砂糖為替)の信用を確立しました。
これって、現代の銀行が発行しているおかねと同じですよね? 銀行は、有望な事業計画を持つ企業に対して融資を行い、融資したおかねは事業の成功によって銀行に戻ってくる。
銀行は、決して、皇帝の権威や帝国の財力を持っているわけではありません。しかし「有望な事業に対する融資→事業の成功→還流」という流れを構築することによって、信用を成立させているのです。
このおかねは、皇帝の下に集まる富を(交易の促進によって)帝国全体に行き渡らせるためのおかね(モンゴル世界帝国のおかね)や、すでに豊かな国の商業を支えるためのおかね(宋のおかね)とは、少し性格が違います。
このおかねは、資本として用いられることを前提として初めて交換手段として成立するおかね、つまり、資本としてのおかねなのです。
江戸後期の各藩は、藩札を、地域の産業振興の資本として用いることによって成立させ、これを非常に堅実な経済成長の手段として用いました。
高松藩などで流通した藩札。このおかねの性格は、「官が旗を振る、領内の産業振興の資本としてのおかね」としておきたいと思います。
◉江戸時代の藩が発行した藩札(信用貨幣)は、「有望な事業に対する融資→事業の成功→藩財政への還流」というループによって信用を成り立たせたもので、「資本としてのおかね」である
◉江戸時代の藩札は、「官が旗を振る、領内の産業振興の資本としてのおかね」である
次回に向けて
「近代」以前の事例として挙げた3例のおかね(信用通貨)は、すべて、国家(官)が発行しています。
それぞれに、比較的堅実な信用基盤があり、有用で、サステナビリティも高い。また、全体のおかねの仕組みは、個々の信用通貨を包み込む形で別途存在し、仮にその信用通貨が破綻したとしても、通貨システム全体が脅かされることはありません。その意味でも、安定感のあるおかねの体系であるといってよいでしょう。
では、識字化した核家族はどんなおかねを作ったのか。彼らは、期待を裏切りません。17-18世紀にイギリスが作り上げ、19世紀以降の世界を席巻したのは、これらとは全く違う「⁉️」というおかねなのです。
乞うご期待!
(次回に続く)
今日のまとめ
- 現代のおかねの仕組みは、17-18世紀のイギリスで生まれた独特のものである
- 近代以前にも信用通貨が公的な地位を占めることはあったが、金属貨幣や銀を基礎とする通貨体系の中で「サブ」として使われただけだった
- 近代以前のおかね(信用通貨)は、国が自らの責任で(自らの権威と自ら成り立たせる信用に基づいて)、国の経済を支えるために発行するのが通例だった
- 識字化した核家族が作る信用通貨はこれとは全く違う「⁉️」な性格のものである