目次
はじめに
イギリスの街角で生まれた「民間の商人が発行する、広域的掠奪の資本としてのおかね」。
今回は、このおかねが国家の中枢に入り込み、世界を変えていく様子をお届けします。
近代国家とは何か。
資本主義とは何か。
核心に近づいています。
近代イギリス国家の誕生
(1)国王と富裕層の契約関係
当時のイギリス国王はウィリアム3世。いわゆる名誉革命(1688-89)のときにオランダからやってきて、妻のメアリ2世とともに王位に就いた人物です。
前回、イギリス国王(政府)はいつもおかねに困っていたと書きましたが、ウィリアム3世の場合もその点に違いはありません。
*「王は君臨すれども統治せず」(ウォルポール)となったのはハノーヴァー朝のジョージ1世(1714-27)の頃からで、ウィリアム3世はまだ統治をしています。
しかし、時代は変化していました。この頃、ロンドンにはすでに銀行業が興り、新しいおかねの仕組みが動き始めていたのです。
民間の業者が易々と事業資金を借り入れているのですから、国王が同じことをしていけない理由はないでしょう。
そして、ウィリアム3世には、銀行を納得させるだけの、立派な事業計画があった。
「フランスと戦って勝つ」。
それが、彼の事業計画でした。
再び、イギリスで新たに生まれた信用通貨の「金回り」図(信用基盤)をご覧ください。
「貿易等」に対する大量貸付 → 全世界での掠奪 → 大量の富の還流
「貿易等」で稼いだ富裕層、そしてロンドンに大集合した商人の金融業者が一体となって、このループを回し始めてしまった以上、彼らはこれを続けなければならない運命です。
*以下一括して「富裕層」とします。以下に見ていくように、イギリスの「貿易等(外国での掠奪)」はやがて金融(貸付・投資)を主な手段とするようになり、この両者はますます一体化して「富裕層」を構成していくからです。
*この連載では、「貿易等」の語を、イギリスが大西洋やインド洋等で行った貿易ともいえない貿易その他の不当な商業的行為の総称として用いています。こちらをご参照ください。
そして、前回見たように、世界での大量掠奪を続ける条件は、勝ち続けること。ヨーロッパの競争相手とりわけフランスとの熾烈な勢力争いに勝利し、なるべく多くの土地と人を支配下に置くことが不可欠なのです。
そこに、フランスとの戦争に並々ならぬ執念を燃やすウィリアム3世がやってきて、「戦争をしたいがおかねがない」というのですから、富裕層としては、彼に協力をしない手はないでしょう。
*名誉革命直後に始まったイギリスとフランスの抗争は、ヨーロッパの中での勢力争いであると同時に、植民地における「貿易等」の利権をめぐる戦争でもありました(「第二次英仏百年戦争」「植民地百年戦争」などといわれます)。一方、オランダの有力貴族であったウィリアム3世には、フランスによるオランダ侵略を防ぐ目的があったともいわれています。
国王(政府)と富裕層はにこやかに握手をし、共同で事業を行う契約(合弁契約とでもいいましょうか)を結びました。
この契約によって生まれたイギリス国家のあり方を、専門家は「財政=軍事国家(fiscal military state)」と呼んだりしています。
*国債発行(国家に対する貸付)を中心とした財政システムにより、多額の軍事費を賄った国家というほどの意味です。
しかし、私の理解では、この契約は、近代国家イギリスを誕生させた契約です。
富裕層の協力により「資本としてのおかね」を国家の中枢に招き入れることなしに、イギリス国家が安定した財源を確立することは決してなく、国家として軍事行動を活性化し「帝国」を築くこともあり得なかった。
*国王が個人的に借金をして個人的な動機で戦争をしているような国(契約成立以前のイギリスです)は近代国家とはいえないでしょう。
国王(政府)と富裕層の協力関係は近代イギリス国家の基礎であり、この両者の利害が一致したとき、近代国家イギリスが生まれたのです。
*それが「財政=軍事国家」であるということは、つまり、近代イギリスは財政=軍事国家として誕生したということだと思います。
◉国王(政府)と富裕層が手を結び、近代国家イギリスが生まれた
(2)契約内容
このとき、両者の間で交わされた契約の内容は、以下の3点に及びます。
第1 国王と富裕層は、以下の役割分担により、イギリスの世界覇権を目指す。
1️⃣国王は戦争に勝ち、支配領域を拡大する
2️⃣富裕層は掠奪を進め、海外の富を国内に流入させる
第2 当該目的を達成するため、巨大銀行を設立し、1️⃣2️⃣の事業にかかる資金の融通を容易にする。
第3 巨大銀行の設立にあたっては、国王(政府)が国債の引受銀行となることを条件に株式銀行としての設立を認可し、富裕層がその設立・運営を担うこととする。
*「株式銀行としての設立」は、実質的には、「大銀行の設立」を意味します。1826年に銀行共同出資法が成立するまで、イギリスの銀行はすべて個人か6人未満の小規模パートナーシップによる経営でした(北野友士「銀行業の発展と銀行自己資本の意義」経営研究(大阪市立大学経営学会)58巻3号(2007年)57頁参照)。イングランド銀行は国王が特別に設立を認めた富裕層による巨大銀行だったのです。
要するに、国王と富裕層はタッグを組み、この新しい「広域的掠奪の資本としてのおかね」を武器に、覇権を取りに行くことを決めたのです。
*協定は、イングランド銀行の設立(1694年)、国債制度の確立という形で具体化されました。
その威力は絶大でした。
18世紀前半のイギリスは、‥‥対仏戦争に次々と勝利していった。とすれば、なぜそのようなことが可能になったのか。戦術や兵士の士気に至っては、プレス・ギャング〔強制徴募〕の犠牲となって、誘拐されて入隊した者の多かったイギリス軍のそれがとくに高かったとはとても思えない。問題は、イギリス政府が大量の資金を短期間に集めえたことにあった。
川北稔・木畑洋一『イギリスの歴史』(有斐閣、2000年)84頁
ブリテンで行政府が、1688年以降、議会によって保証された収入を担保に広範に借入れえた事実は、世界史において決定的な役割を演じた。それは大部分ブリテンの一級国としての出現の原因であった‥‥大規模に借入れる能力にもとづく国家財政制度のお陰で、ブリテンは革命に続く数世紀間、費用のかかる戦争を賄い、あるいは大陸の同盟者を援助することができたのである。
P. Einzig, p179(佐藤芳彦「近代イギリス予算制度成立史研究」170頁からの孫引き)
*なお、戦争費用には高額の税金も役立てられましたが、当時は税金を払っていたのも富裕層です。「当時の租税は、当面は貿易商が支払う関税に加えて、地主にかかる地租、製造業者が負担した内国消費税が中心であった。とくに地租は、戦時中は所得の40%にも達したといわれるが、関税と地租は体制を支えた地主と商人が負担しただけに、不満は比較的小さかったといえる」(川北稔・木畑洋一『イギリスの歴史』(有斐閣、2000年)85頁)。
◉国王と富裕層はタッグを組んで「広域的掠奪の資本としてのおかね」を武器に覇権を取りに行くことを決め、実行に移した
(3)イングランド銀行:国王と手を組んだのは誰か
ここまで、「国王と契約を結んで協力関係に立ち、イングランド銀行を設立・運営したのは「貿易等」で稼いだ富裕層である」という事実を前提に書いてきましたが、「本当?」と思われる方もいるでしょう。
実際のところ、イングランド銀行を設立・運営し、国王に貸付を行なったのは誰なのか。それを知るには、当初のイングランド銀行の取締役や議決権を持つ株主の顔ぶれを見るのがよいと思います。
イングランド銀行の取締役会は、総裁・副総裁を含め、計26名の取締役によって構成された。取締役に就任する要件は、イングランド銀行の株式を額面金額にして2000ポンド以上保有することであった。候補者は額面金額1000ポンド以上の同行株式保有者で構成される株主総会で取締役に選出された。総裁や副総裁に就任するには、さらにそれぞれ3000ポンドおよび4000ポンドの高額におよぶ株式を保有することが必要であった。
坂本優一郎『投資社会の勃興 財政金融革命の波及とイギリス』(名古屋大学出版会、2015年)22頁
なるほど。とりあえず金持ちってことですね。
シティの有力なホイッグ系市参事会員は、イングランド銀行の創立後25年の間、取締役会に強い影響力をもっていた。‥‥
坂本・22頁
*「シティ」は金融の中心地 the City of London のこと。
ほうほう。
なお、シティの市参事会員は「政治的にも経済的にも、シティの支配者層」であったといいますが、その要件にも
1710年時点で少なくとも15000ポンド、18世紀前半期には約30000ポンド以上の財産保有
が含まれていて、
実際に就任することができたのは、商業社会のなかでも豊かな経済力をもつ最上層の人々であった
そうです。
具体的にはどういう人々であったのか、といえば‥‥
‥‥〔市参事会は〕17世紀にレヴァント貿易や東インド貿易に従事した商人が富裕層を占めたさいには、市参事会員の構成もそれに合わせて変化し、経済構造の変動に適応することで18世紀まではその政治的な権力を維持し続ける。
坂本・25-26頁
ということですから、大まかにいえば、17-18世紀に「貿易等」で稼いだ人々こそが、当時の市参事会員であり、かつ、イングランド銀行の株主であり、取締役であったはずだ、と考えてよいと思います。
以上は、イングランド銀行の場合ですが、国債の仕組が生まれ出た当初、その引受を行ったのは、イングランド銀行だけではありません。
他に、東インド会社と、南海会社(西インド諸島の貿易に従事)がその役目を果たしているのです。
こうした点から見ても、国王と協力関係に立ち、近代国家イギリスの財政基盤の確立に貢献したのは、もっぱら「貿易等」で稼いだ人々であったことがわかります。
◉国王(政府)の資金の融通に協力したのは、「貿易等」で稼いだ富裕層だった
(4)イングランド銀行の立ち位置
イングランド銀行を設立・所有・運営したのが、「貿易等」で稼いだ富裕層であることはわかりましたが、そのイングランド銀行とは一体何なのでしょうか。
現在のイングランド銀行は、イギリス政府が所有する、イギリスの中央銀行です。しかし、イングランド銀行が国有化されたのは1946年。有り体にいえば、イギリスのおかねが一回「終わった」後のことです。
イギリスが覇権を握っていた当時のイングランド銀行は、何をする、どういう位置付けの銀行だったのか。この問いこそが、われわれの探究にとって鍵となる問いです。
当時、イングランド銀行は、普通の民間銀行でした(本当です!)。
イングランド銀行は国債を引受けましたが、それ以外の点は、ほかの民間銀行と全く同じ、収益目的で銀行業務を行う普通の銀行だったのです。
イングランド銀行は、政府へ貸し付けることを条件に株式銀行としての設立を特別に許可された特権的銀行として出発した。当時のイングランド・ウェールズにおいては株式会社組織の銀行は認められていなかったので、他の銀行に比べれば飛びぬけて大きく、政府との関係もはじめから深かった。しかし、あくまで民間の一株式銀行以上のものではなく、株主たちは同行が収益を上げて少しでも大きく配当することを期待していたのである。
金井雄一「信用システムの生成と展開」金井雄一・中西聡・福澤直樹編『世界経済の歴史 グローバル経済史入門』(名古屋大学出版会、2010年)207頁
イングランド銀行は、19世紀前半に、「最後の貸し手」(「銀行の銀行」)として信用制度全体を支える存在となり、ポンド覇権が確立した19世紀後半からは「通貨の番人」として金融政策を司るようになっていきます。
要するに、中央銀行になっていくわけですが、まず、前者(「銀行の銀行」化)に関しては、それは、イングランド銀行が一番大きく頼りになる銀行だったから他の銀行が頼って来てそうなった、という自然発生的な結果にすぎません(経緯は以下の通り)。
・イングランド銀行は、他の銀行と同様に、銀行業務を行なっていた
・イングランド銀行は、他の銀行と比べて突出して大きかったため、自然と他の銀行に頼られるようになる(他の銀行の資金需要が逼迫したときに信用供与を求められるようになる)
・信用制度の安定を保持することの重要性に鑑み、イングランド銀行が「銀行の銀行」の役目を担うようになった現実を追認する形で法制度が整備される
後者(金融政策への影響力)に関しても、富裕層そしてシティ(マーチャント・バンクを代表とするロンドン金融界)を代表する存在であるイングランド銀行には、事実上、それだけの影響力があったということにすぎないのです。
*世紀転換期から第一次大戦頃(ポンド覇権期の大半です)のイングランド銀行の理事の多くは、マーチャント・バンク(ロスチャイルド、ベアリング、モルガンなど)の関係者によって占められていて、彼らはイギリス政府(大蔵省)とも強いパイプを持っていたとされています(古賀大介「第一次大戦期ロンドン・シティ金融界における人的関係の変容ー戦時公債発行を手がかりに(上)」)。この傾向はそれ以前から一貫しているのではないかと推測します。
また、1833年には、イングランド銀行券が法貨(Legal Tender)と定められ、イングランド銀行はポンド紙幣を発行する立場を得ているのですが、だからといって、イングランド銀行が官営になったわけではない。
要するに、こういうことではないでしょうか。
近代国家イギリスの基盤は、政府と富裕層の協力関係であるが、両者は利害が一致する限りで「覇権国家イギリス」という合弁事業を営んでいたにすぎず、一体化したわけでもなければ、富裕層が自己利益の追求を諦め、国家の利益(公益)のために尽くすことを約束したわけでもなかった。
イングランド銀行は、あくまで「シティの親分」であり、富裕層の利益のために行動するという軸は揺るがない。
だからこそ、ごく当然のこととして、イングランド銀行は、政府から独立した、民間銀行であり続けたのです。
*「中央銀行の独立性」もここから来ていると私は睨んでいます。
*なお、民間銀行が中央銀行機能を担うというシステムを現在も採用しているのはアメリカです。アメリカの中央銀行にあたるのは連邦準備制度(FRS: Federal Reserve System)。ワシントンに置かれた理事会(the Board of Governors:通常「FRB」と呼ばれる)と12の連邦準備銀行(地区連銀:Federal Reserve Banks)から成る組織で、理事会は政府組織ですが、地区連銀はいずれも民間銀行です。各連銀は、決済機構の運営、紙幣とコインの発行、加盟銀行と銀行持株会社の規制監督を行ったり、それぞれの地区の加盟銀行の準備預金を預かったりする他、地区内の公定歩合の水準を決定する権限を持ち、ニューヨーク連銀総裁とその他の4地区の連銀総裁(輪番)はFRSの金融政策の方針を決定する会議(公開市場操作の方針を決定する連邦公開市場委員会(FOMC))での意思決定にも参加します。要するに、金融政策に対する影響力も実質的な権限もかなりある、ということです(とくにニューヨーク連銀)。(以上につき、田中隆之『アメリカ連邦準備制度(FRS)の金融政策』(金融財政事情研究会、2014年))
◉政府と富裕層の協力関係とは、最初から最後まで、政府と「私的利益の追求を第一とする」富裕層との協力関係だった
(5)資本主義とは
では、一方の政府の方は、いったいどのような利害を代表していたのでしょうか。
契約にサインをした当人であるウィリアム3世は、たしかに「フランスとの戦争に勝つ」という彼に固有の目的を持っていました。しかし、まもなく、国王は君臨するだけで統治はしなくなり、政府の実権は議会の信任に基づく内閣に移ります。
議院内閣制の下での内閣は、富裕層と異なる、独自の利害を代表する存在であったのか。結論からいうと、それはかなり疑わしい。なぜなら、当時のイギリス議会は、基本的に、富裕層によって構成されていたからです。
議員に歳費支給もない当時、実際に議員を務めることができたのは、爵位貴族やそれに準ずる大地主であった有力ジェントリ‥‥の家に生まれた者や、中流層の最上位に位置した富裕な商人や専門職業人にほぼ限られました。厳守されていたわけではありませんが、庶民院議員の収入の下限を定めた法律も作られていました。‥‥ 18世紀イギリスの庶民院議員選挙の有権者は全体で30万人から40万人程度と考えられ、これは成人男性人口のせいぜい20パーセント程度であったと思われます。18世紀イギリスの議会政治は、広く国民を代表する議会民主政治(parliamentary democracy)ではなく、少数者のみがそこにかかわることのできる議会寡頭政治(parliamentary oligarchy)であったのです。
青木康『議会を歴史する』(清水書院、2018年)63-65頁
要するに、政権を担っていたのは、富裕層が選んだ「富裕層の中の富裕層」で、その彼らが、金融界を代表する富裕層と協力して営んでいたのが、近代国家イギリスなのです。
*イギリスで女性を除く全員が選挙権を行使できるようになった(男性普通選挙権)のは1918年、性別を問わず全員が選挙権を持つようになったのは1928年です。
まあしかし、私は、そのことをとやかくいうつもりはありません。
だって、「貿易等」で稼いだ富裕層こそが、辺境のパッとしない国家であったイギリスを、一夜にして覇権国家に変えたのです。
「貿易等」による彼らの稼ぎ、そして、彼らが育てた金融の力がなければ、近代イギリスが栄え、ましてや覇権を取ることなど、絶対にあり得なかったのですから、イギリスが「富裕層の、富裕層による、富裕層のための国家」となるのは、極めて自然な成り行きです。
とはいえ、私たちがそのことをよく知らないのはやはり問題なので、はっきりさせておきましょう。
広域的掠奪によって豊かになった国が、広域的掠奪の資本として生み出された、民間の商人が自由に発行することができるおかねを武器に、広域的掠奪による豊かさを永遠のものとするために作り上げたシステム。
それが資本主義である、と。
◉広域的掠奪によって豊かになった国が、広域的掠奪の資本としてのおかねを武器に、広域的掠奪による豊かさを永遠のものとするために作り上げたのが、資本主義というシステム(=近代国家イギリス)である
(6)すり替わったおかね
以上の経緯を、おかねの変化という観点からまとめておきましょう。
イギリスは、800年頃からずっと「ポンド(£)」を通貨の基本単位としています。
当初は銀貨のみを鋳造していたようですが、ヨーロッパの他の国との貿易で金貨が入ってきた関係で、1344年に初めての金貨が鋳造され、金銀複本位制となりました。
それから現在まで、ずっと基本単位はポンドですし、貨幣(硬貨)も使われ続けている。だから「おかねそのものが変わった」という事実は、気づかれにくいし、見逃されやすいのです。
しかし、銀行が貸付のときに発行する銀行券(および預金口座の数字)が信用通貨として機能するようになり、イングランド銀行の設立や中央銀行化などでそれが事実上国家公認となったことで、おかねの性格は根本的に変化しました。
おかねは金や銀を用いて国家が作るものから、信用に基づいて市中銀行が作るものに変わりました。硬貨は変わらず王立造幣局(the Royal Mint)が作っていますが、その硬貨は、国家が作ったおかねというよりは、銀行が作出したおかねにあてがわれる媒体にすぎません。
同じポンド硬貨でも、中身は、貸付が生む、イギリスの場合には「広域的掠奪の資本としてのおかね」にすり代わっているのです。
このおかねを使ってイギリスは世界をどう変えたのか。それを最後のテーマとしましょう。
*なお、19世紀以降に成立した金本位制は、信用通貨となったポンドの信用を安定させるための制度にすぎず、「金こそがおかね」とする制度ではありません。同制度の下では、ポンドは金との兌換性を保証されますが、実際には金の保有量をはるかに超える額のおかねが発行され、それが当然視されていたのです。
◉民間銀行が発行する資本としてのおかねが世の中で便利に使われるようになり、国家がこれを公認したことで、おかねは金や銀を用いて国家が作るものから、民間銀行が貸付によって作るものに変化した
イギリスの天下とその終わりーおかねが変えた世界
(1)イギリスの天下
「貿易等」の中心地であったイギリスは、世界金融の中心地となり、ポンド、またの名を「民間銀行が発行する、世界で富を掠奪する資本としてのおかね」は、世界中で通用するおかねになりました。
このときイギリスが手にした権力が、歴史上類のない、真に途方もないものであったことが、今のわれわれには理解できます。
なにしろ、イギリスが開発したおかねは、金鉱や銀鉱を開拓する必要もなければ、せっせと集めて金庫に貯めておく必要もない。貸付を行えば、魔法のように、そこに発生するものなのです。
その魔法のおかねを使って、彼らはイギリスとヨーロッパに鉄道網を敷き詰め、植民地、準植民地など各地の鉄道や港湾を整備し、運河を通し、海洋航路を開いて、世界をヨーロッパを中心とする「貿易等」の渦に巻き込みました。
*ちなみに、太平洋横断航路の開設が1867年、アメリカ大陸横断鉄道の完成が1869年、スエズ運河の開通が1869年です。
世界中を有線・無線の電気通信網で結び、これを、政府は植民地を支配し戦争を遂行するための連絡や情報収集に、民間は国際ニュースの配信や銀行業務(貿易の決済や送金)に使った。世界はいよいよ「一体化」したのです。
*ロイター通信は、1851年に英仏海峡海底電信ケーブルを使ったパリ・ロンドンの金融・相場情報の配信業務を始めています(wiki)。
インフラさえ整えてしまえば、欧米以外の地域を、この魔法のおかねの世界に引きずり込むのは簡単でした。
皆さんならどうします?
そう。貸せばいいのです。基軸通貨ポンドを発行できるのはイギリスの銀行だけなのですから、親切な顔をして、世界に通用するおかねを貸してやり、時期が来たら「返せ」といえばいいのです。
*フランスとその植民地にはフランが通用し、ドイツとその植民地にはマルクが、イタリアとその植民地には‥‥という具合なので、ヨーロッパ諸国も同じことをしています。
借りたおかねを順調に増やして、利子を付けて返してくれる国は「パートナー」です。ますます関係を強化して投資を増やし、彼らの発展をイギリスの富に接続しましょう。
借りたおかねを増やすことができず、返せない国がでてきたら、そのときこそ、合法的に掠奪を進めるチャンスです。
「私たちは、国家の代表でも何でもなく、営利を目的とする民間銀行にすぎません。大変残念ですが、債権確保のために必要な措置を取ることが、私たちの責務なのです。」
そういって、利権とか税収とか、金目のものを要求すればよい。それで相手国が弱体化したら、あとは政府に任せましょう。保護国にするなりなんなり、うまくやってくれるでしょう。
被害者代表として、まず、オスマン帝国の事例を紹介します。
外債による資金調達は、1854年に、クリミア戦争の戦費を調達すべくはじめられた。その後、うちつづく戦争の膨大な戦費負担が、外債依存をいっそう強めさせた。明確な経済発展政策を欠いた、関税などを担保にする外債への安易な依存は、のちにオスマン帝国の財政の破綻と、西欧列強への経済的従属への道をひらくこととなった。
鈴木董「『西洋化』するオスマン帝国」坂本勉ほか編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)40頁
オスマン帝国は、鉄道投資の対象にもなりました。
イスタンブルとパリを結ぶオリエント急行が開業したのも、この時代のことであった。1883年に開通したこの鉄道は、のちにはロンドンにまでのび、豪奢な寝台車、舞踏会もひらけるサロン車をそなえ、欧米人にとり東洋情緒のシンボルとなった。
鈴木・51-52頁
その背景には、19世紀後半にはじまった、西欧列強によるオスマン帝国への鉄道ブームがあった。1856年、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道がイギリスによって敷設されて以来、列強はアナトリアでもつぎつぎと鉄道敷設権をあたえられ、鉄道を敷設した。
これらの鉄道は、大都市とその後背地とのあいだの物資と人の移動を容易にし、各地の社会と経済の発展をもたらした。しかし、それは同時に、西欧列強が鉄道をつうじて各地に経済的影響のみならず、政治的影響をも浸透させる手段ともなった。こうして鉄道敷設権は、外債で身動きできなくなりつつあるオスマン帝国における利権争奪戦の、最も重要な対象の一つとなった。
タンズィマート改革時代の1854年に第1回国債が発行されて以来の外債は、改革のための膨大な費用だけでなく、たびかさなる戦争の巨額の戦費のためにも、発行されつづけてきた。その総額は、アブデュルハミト専制時代の1881年には、総額1億9000万英ポンドに達した。
このため、この年、債権者代表とオスマン帝国のあいだで、外債返還についての協定が結ばれ、オスマン帝国債務管理委員会が設置されることとなった。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、オランダの6カ国からなる債権者代表も加わった委員会が設置され、帝国の税収の多くがその管理下におかれた。
アブデュルハミトも、この外債返済のために緊縮財政を余儀なくされ、海軍をはじめ軍備の革新さえ困難となっていった。‥‥
つぎはエジプト。
近代化を急ぎ、また戦争によって莫大な債務をかかえこんだエジプトは、1860年代からイギリス・フランスの財務管理下におかれ、内政の支配もうけるようになった。とくにイギリスは1875年、債務に苦しむエジプトからスエズ運河株式会社株の4割を購入して、エジプトへの介入を強めた。このような外国支配に反抗して軍人のウラービー(オラービー)がたちあがると(81-82頁)、イギリスは単独でエジプトを軍事占領して、事実上ここを保護下においた。
世界史285頁
*スエズ運河株の購入を決めたのはディズレイリ内閣。資金はロスチャイルド財閥から借入れたそうです。
中国の場合、ヨーロッパ諸国から貸付を受けることには慎重であったといいます。しかし、
清朝は従来から外債の募集には消極的であり、1874-95年までの外債発行額は、わずか1200万ポンドにすぎなかった。しかし、日清戦争の敗北による賠償金2億テール(約3800万ポンド)の支払財源は、外債発行に頼るほかなかった。
秋田茂『イギリス帝国の歴史』172頁
そこでパートナーとして登場したのが、シティ金融界と緊密な関係を持つ香港上海銀行の副支配人C・アディスである。アディスは、北京の中央政府の政治的権威が維持され、中国の領土が保全される一方で、イギリスが主導する「責任ある借款」計画を通じて、中国への影響力を拡大することをめざした。中国の賠償金借款引き受けをめぐるドイツ、ロシアとの国際的競争が展開される中で、イギリス外務省の協力を得た香港上海銀行は、中国政府に1896-1900年の5年間に、3200万ポンドもの巨額の資金を提供した。
世紀転換期以降も、イギリスからの借款はゆるやかに増え続け、1902-14年の間に倍増した。‥‥
「責任ある借款」 。私は、まったく同じ標語を、現代のIMF(国際通貨基金)が掲げていたとしても驚きません(「借款」は「融資」に変えましょう)。
私は比較的最近にアメリカ支配下のIMFの悪行を知り「アメリカって‥」と思っていましたが、イギリス(とヨーロッパ)のやっていることは、最初から、IMFそのものなのです。
◉イギリスは「広域的掠奪の資本としてのおかね」を使って世界を「一体化」し、おかねを貸付けることで「広域的掠奪の資本としてのおかね」の世界に引き摺り込んだ
(2)貸付(金融)がイギリスの生業となった
ポンドを基軸通貨とする体制が確立したとされる1880年頃から先、イギリスの貿易赤字は増え続けます。
第二次世界大戦後のアメリカと同じで、競争力のある産業が育たなかったのに消費が止まらなかったからですが、それでも消費を続けることができたのは、世界にポンドを貸付ける「資本輸出」(海外投資)によって、収益を得ることができたからです。
新大陸の銀から始まり、砂糖やタバコ、インドの綿、胡椒、中国の紅茶、陶器などを掠奪的に入手する過程で、新種のおかねを発明し、「世界の銀行」の地位についたイギリスは、すぐに、自分で富を奪いに行かなくても、おかねを貸付けさえすればそれだけで、世界中を思うままに開発し、魅力的な商品・サービスを供給させ、投資収益を得て、欲しいものを何でも手に入れられることを学びました。
イギリスには、自給自足できるだけの資源も、十分な産業競争力もありません。ポンドを貸付けて投資収益を得ることこそが、彼らが豊かな暮らしを成り立たせるのに不可欠な、基幹産業となったのです。
*産業ではないと思いますが。
◉19世紀後半以後、基軸通貨ポンドの貸付・投資(金融)がイギリス経済を支える基幹産業となった
(3)おかねがなければ生きられず、永遠に経済発展を続けなければならない世界へ
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界は大きく変わりました。このときに起きた変化は、世界中の人々が、自分たちの暮らしの必要を満たすやり方を根本的に変えてしまう、世界史上類例のないほど大きな変化だったと私は思います。
世界中に大量のおかねが貸付けられ、交通・電信網が敷かれ、世界は「一体化」しました。資本を投下され、開発された地域は、おかねを返すとともに、自分たちも負けじとおかねを作り、ビルを建て、会社を作り、後進地域に貸付けることもしました。
おかねそのものが売り買いされ、外国の資本を受け入れてもっともらしく稼がなければ、自国のおかねの価値を下げられてしまったりさえする。
*金利の調整によって通貨の価値を操作する等の手法はアメリカの発明ではなく、19世紀末のイギリスが始めたものです。
おかねがすべての尺度となり、誰もがおかねを稼がなければ生きていけない、そういう世の中になったのです。
何がこの変化をもたらしたのか。多くの国において、原動力は、進歩に向かう人類の性向、ではありませんでした。かなり単純に、貸付(投資)によって収益を得たい、得なければならない、基軸通貨国イギリス(および当時の列強)の都合こそが、その原動力だったのです。
貸付(投資)を生業(なりわい)としている国が世界の中心にいる以上、世界は、一般には「経済発展」と呼ばれる、資源やコストのかかる変化を止めることはできません。
世界中が、なるべく多くの融資を受け入れ、なるべく多くの新規事業を起こし、なるべく多くの収益をもたらしてくれること。それこそが、彼らの富を支える収入源です。「私たちはもうこれ以上「発展」などしなくても満足に暮らしていけます。これ以上の投資は受け入れません」などという国が出てきては困るのです。
*「自由で開かれた‥‥」というお決まりの表現は、「西側諸国の自由な投資のために開かれた‥‥」という意味なのですね。
だからこそ、彼らは、世界中に鉄道が通り、工業化が進んで、各地域がそこそこ豊かに暮らせるようになっても、決してその手を緩めることはなく、もっとよい暮らし、新しい未来、見たことのない景色を追い求めるように煽り、世界の人々を競争に駆り立てます。
私たちが、自然環境や人類の将来を犠牲にしても、経済発展を止めることができないのは、世界の中心に「掠奪の資本としてのおかね」を貸付けることを生業とする人たちが居座っているからなのですね。
◉貸付によって生計を立てる基軸通貨国(とその周辺国)の都合が、おかねが全ての世界を作り、世界を「永遠の経済発展」に駆り立てている
(4)覇権の終わり
イギリスが世界で初めて手に入れたこの途方もない権力の源泉は、彼らが発明したおかねにあります。
基軸通貨ポンドの地位を得てますます肥大化した金回りのループ(↓)を継続する方法は、競争に勝ち続け、勢力範囲を広げ続けて、覇権を維持すること。それ以外にありません。
「貿易等」に対する大量貸付 → 全世界での掠奪 → 大量の富の還流
*いまではこの「貿易等」には投資収益が含まれています。
イギリスは戦い続けました。
植民地100年戦争でフランスを破った後も、アヘン戦争(1840-42)で中国権益を確保し、クリミア戦争(1853-56)でロシアの野心をくじき、南アフリカ戦争(ブール戦争/ボーア戦争 1899-02)で鉱物資源豊かな(ダイヤモンドとゴールド)植民地を確保し、第一次世界大戦(1914-18)に辛勝して挑戦者ドイツを退けた。
しかし、二つの大戦の間に、「真の勝者」の地位をアメリカに奪われ、イギリスの覇権は終わりました
「決してイギリスのようにはなるまい」と誓い、産業大国として世界に君臨するはずであったアメリカは、あっという間に、通貨覇権に基づく金融をなりわいとする国に堕し、往時のイギリスそのままに、覇権をかけて戦い続けていると。
*なおイギリスは、アメリカの傘下に入り、アメリカの覇権のために協力するという条件の下で、元の生業を営むことを許されているようです。
これが「おかねが変えた世界」の現在地、ということではないでしょうか。
◉イギリスは覇権の維持(=増えすぎた基軸通貨ポンドの信用の維持)のために戦い続け、二つの大戦の「真の勝者」の地位をアメリカに奪われたとき、ポンド覇権は終了した
おわりに
いかがでしょうか。
なぜ、おかねがないと生きられないのか。なぜ、経済は成長し続けなければいけないのか。なぜ、アメリカと西側諸国はこの期に及んでわけのわからない戦争ばかりしているのか。
私は納得しました。
今回の調査を始めるまで、私は、「ここまで極端な状況をもたらした元凶はアメリカ」と見ていました。でも、違いましたね。
アメリカが現在やっていることは、イギリスが過去にやっていたことに酷似しています。「どうしてこんなことに‥‥」も何もなくて、近代はその最初から、掠奪と暴力に溢れていた。私たちは、まだ、識字化した核家族が敷いたレールの上を走っている。それだけのことだったのです。
*ガザ危機、というかイスラエルによるパレスチナ人虐殺について、私はアメリカがかつて原住民のインディアンに対して行ったのと同質の現象と見ていましたが、今回の調査の過程で、イギリスが起こした南アフリカ戦争ともそっくりであることに気づきました(だから南アフリカの反応が早かったのですね)。ざっと説明すると、オランダ人の後に南アフリカに入ったイギリスは、オランダ人が作ったケープタウンを奪ってイギリス領とし、オランダ系の定住民(ブール人という)は追われる形でより北方に国を作って暮らしていた。その後、ブール人の支配していた地域でダイヤモンドと金の鉱山が発見されたことから、イギリスは領土拡大を狙って戦争を起こし、結局この地を併合するのだが、その過程で、ブール人の農家を片っ端から焼き払ったり、ブール人の女性や子供を強制収容所に入れたりなどの悪名高い作戦を実行し(世界初の強制収容所事例だそうです)、ブール人側に戦死者以外に20000人の死者を出した(イギリス側の死者も多い)。これが南アフリカ戦争です(ブール戦争とかボーア戦争とかいわれることも多い)。おそらく、ガザ危機は、イスラエル人にとってのインディアン戦争であると同時に、アメリカ・イギリス・イスラエルが共同で実施する南アフリカ戦争(目的はガス田開発)でもあるのです。
識字化した核家族の時代が終わった後(もうすぐ終わりますのでご安心ください)、世界が新たな「共存共栄」の時代を迎えるには、おかねの仕組みを刷新することが欠かせません。
通貨覇権国とその周辺国(現在はG7)に世界の富を掠奪する権能が与えられるシステム(↔️multipolar system)を何とかしなければならないという点は、BRICSやグローバル・サウスの国々の間の了解事項なので、何らかの手当が行われるでしょう。
*プーチン大統領は「吸血鬼のパーティーは終わりだ」(the vampire ball is ending)と言い放ったことがあります。さすが。
おかねの凶暴性を制御して、真に「共存共栄」に役立つ道具とするには、もう一段、大きな変化が必要だと思いますが、今の私には具体的な道筋は見えません。
野放図に増えて地球上の資源を吸い込んでいく現在のおかねの仕組みがどのように崩れ、この世界がどんなふうに変わっていくのか。途中段階ではいろいろ大変なこともあると思いますが、でもやっぱり、楽しみではないですか?
そういうわけで、私は、現在の世界がなぜこんなふうであるかについて、完全に納得しましたが、連載はもう少しだけ(あと1回?)続けます。
「識字化した核家族」と和解するためです。
だって、物心ついた頃からずっと憧れて、尊敬して、見倣うべきお手本だと信じてきた西欧が、実は、最初から最後まで「抗争と掠奪」に明け暮れる広域暴力団連合だったなんて(そして日本はその末端のパシリだったなんて‥)、あんまりではないですか。
ショックが大きすぎて、暴れたくなる。そうでしょう?
幕末以来の(日本の)苦闘を思えば「可愛さ余って憎さ100倍」。日本中で暴動が起きたっておかしくない。そのくらいの衝撃です。
*起きませんけど。
しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。
エマニュエル・トッドの理論は、日本人にとって、「西欧のようになれない日本」を受け入れ、和解するための、最高のメディエーター(仲介者)でした。
その彼の理論を、今度は、「抗争と掠奪の500年」と和解するために、使うのです。
今日のまとめ
- 近代イギリスの基礎にあるのは、「貿易等」で稼いだ富裕層と政府の協力関係である
- 彼らが共同で成し遂げたのは、「広域的掠奪の資本としてのおかね」を武器に世界の覇権を取ることだった
- 政府と富裕層の協力関係とは、最初から最後まで、政府と「私的利益の追求を第一とする」富裕層の協力関係だった
- 民間銀行が発行する資本としてのおかねが世の中で便利に使われるようになり、これを国家が公認したことで、おかねは金や銀を用いて国家が作るものから、民間銀行が貸付によって作るものに変わった
- 資本主義とは、広域的掠奪によって豊かになった国が、広域的掠奪の資本としてのおかねを武器に、広域的掠奪による豊かさを永遠のものとするために作り上げたシステムである
- 基軸通貨国イギリスは金融(貸付・投資)を生業とするようになり、世界を「おかねがすべて」の世界に変えた
- 世界が「永遠の経済発展」を義務付けられているのは、金融(貸付・投資)を生業とする人々が世界の中心にいるからである
- イギリスは通貨覇権の維持のために戦争や資源の掠奪を続け、覇権を引き継いだアメリカは、現在、最後の戦い(戦争と掠奪)に臨んでいる