カテゴリー
トッド入門講座

家族システムの変遷
-国家とイデオロギーの世界史-
(4)「識字化した核家族」の時代

目次

西欧の家族システム

(1)核家族と直系家族の二種類

ユーラシア大陸の中央部の家族システムが「核家族→直系家族→外婚制共同体家族→内婚制共同体家族」へと発展を遂げていた頃、西ヨーロッパはどんな状態であったのでしょうか。

拡大当初のローマが中東から受け取っていた共同体家族が、征服した核家族地域に侵蝕されて後退したことはすでにご説明しました

文明の中心地から見れば「辺境」であった西ヨーロッパでは、その後、共同体家族が自律的に発生することも、伝播によって広がることもなく、わずかに「ローマの痕跡」が、イタリア中部の共同体家族地域に残るにとどまりました(ちなみに共産主義が定着した地域です1起源1・下448頁。
 *ヨーロッパの共同体家族についてはこちらもご参照ください。

そういうわけで、現在に至るまで、西欧に残る主な家族システムは、核家族(絶対、平等、より原初的)と直系家族の二種類。文明誕生直後のメソポタミアと同じ状況です。

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的なものとはみえない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的な逆説なのである。」

起源1・上 45頁

共同体家族の後退により、西ヨーロッパの主な家族システムは直系家族と核家族の二種類となった。

(2)西欧の核家族は「起源的」か

西欧の人間であるトッドは、彼らの自慢である「近代性」が実は「起源的」システムの産物であった、という「逆説」を強調する傾向があります。

彼がその「逆説」に西欧の傲慢さをたしなめる教訓を読み取る気持ちはよく分かります(西欧近代を範とする日本の社会科学者であった私も、当初はそうでした)。

しかし、今、私の気分は少し変化しています。

起源的であるということは、同時に、普遍的であることを意味しています。例えば、次のようにいうことは、誤りではありません。

「どの地域も原初に遡れば「核家族」であり、自由で男女平等の世界であったのだ。」

ここで、例えば、「人類の活力ある未来は、「原始への発展」の中にこそあるのではないか?」といったスローガンまたは予測をぶち上げるとします(魅力的ですよね?)。

すると、やはり西欧近代は、ある意味で「先駆者」であり「模範」であるということになる。識字能力を身につけた人々が自由を求めて立ち上がる過程を描くトッドの筆の中にも、そのような気分がないとは言えないと思います。

「逆説」を強調するとき、トッドは、純粋核家族と原初的核家族は似て非なるものであるという事実を捨象しています。

純粋核家族は単なる原初的システムではなく、直系家族との衝突という特殊な過程を経て生まれたシステムであるという事実を、無視しているとはいいませんが、重視してはいない(絶対核家族の誕生のメカニズムはこちら)。

しかし、社会科学者として長年、西欧のシステムと日本のシステムの相違に苦しんできた私には、今、純粋核家族の特殊性が目について仕方がないのです。

彼らとうまく付き合っていくためには、単なる原初性とは異なる、純粋核家族の特殊な性格をしかと認識することこそが必要なのではないか。

そういうわけで、この文章では、純粋核家族の誕生の経緯、その過程で直系家族が果たした役割に注目しながら、「西欧近代」の誕生を見ていきたいと思います。

西ヨーロッパの核家族は「直系家族以前」の原初的システムではなく、
直系家族との協働によって生まれた特殊進化形である

直系家族の発生と伝播

文明の初期、初めての「国家」は、直系家族と同時に誕生していました。

同様に、ローマ帝国崩壊後の西欧で、近代国家に連なる国家が生まれたときにも、同じ時期に直系家族の発生が観察されています。

トッドの仮説によると、その起点となった場所は、フランス北部でした。

「フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること、そして西ならびに中央ヨーロッパにおける直系家族の発達の出発点を確定することができる。‥‥クローヴィスの子孫2メロヴィング朝フランク王国の初代国王。在位メソ紀3781-3811(481-511)にとっても、シャルルマーニュ3カロリング朝フランク王国の王(在位:メソ紀4068-4114(768-814))。の子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥西フランクにおいては、男子長子相続制の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。」

「さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という観念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。」

起源1・下 597頁
ユーグ・カペーの戴冠

43(10)世紀末、フランスの貴族の下で直系家族が成立し、中世封建社会の幕が開きます。この少し後で、日本でも同じことが起こりましたね(なお、日本の直系家族化は鎌倉時代後半から江戸末期にかけて漸進的に進行します)。

「秩序と無秩序とを組み合わせてまとめ上げられるこの方式は、いかにも独創的ではあるが、これは古代中国と中世日本において実践されていたものでもある。封土は安定し整然とまとめられたが、弟たちは内戦や十字軍戦役を求めて街道を駆け回る。日本とヨーロッパの発展過程の類似には驚くべきものがある。」

起源1・下 598頁

フランス北部で生まれた直系家族は、その後、ヨーロッパ各地に運ばれていきますが、運ばれた先で、同じように定着したわけではありません。

代表的なところでいうと、大いに定着したのはドイツです。しかし、パリ盆地の農民や、イギリスの農民には全く定着しない。その結果、後者は、純粋核家族の地域となるのです。

いったい、何がこの二つの流れを分けたのか。直系家族が農民の間に拡大せず、絶対核家族を生むことになったイギリスの例を見ていきましょう。

フランス北部で発生し封建社会の基礎となった直系家族は、伝播したドイツに大いに定着したが、パリ盆地やイギリスの農民には根付かず、純粋核家族を生むことになる

国民国家の誕生

フランス北部でメソ紀 43世紀(10世紀)末に発生した直系家族の影響は、直ちにイギリスに及びます。メソ紀4366年(1066年)、フランス貴族であるノルマン人、いわゆる(?)ノルマンディー公ウィリアムがイギリスを征服したからです(ノルマン・コンクエスト)。

ノルマン人騎兵とアングロサクソン歩兵が戦う様子(Tapisserie de Bayeux)

ノルマン貴族が持ち込んだ直系家族は、しかし、農民の間に広がることはありませんでした。なぜか。

一言で言うと、直系家族の核心である、「農地の不分割」(単独相続)の規則は、イギリスの農民には、単に必要ないというだけでなく、ほとんど意味をなさないものであったからだと考えられます。

西欧の農地制度は、非常にざっくりいうと、家族経営の地域と、集約的な大規模農業経営の地域に分かれるそうです。

イギリスやパリ盆地のフランスは、後者の典型で、非常に早い時期に大規模農業経営が始まっていました。大規模農業経営というのは、要するに、大きな農園を経営する地主がいて、農民はそこで働く。農民は、自作農でも小作人でもなく、工場労働者と同じ意味で「農業労働者」というべき存在になっている。そういう仕組みです。

「こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。」

起源1・下601頁

長子相続制は、新たに開墾する土地がなくなった「満員の世界」で、土地を分割せずに相続する必要に合わせて拡大する仕組みです。

所有者としてであれ、小作権者としてであれ、子どもに相続するべき土地や財産を持たない農民には、長子相続の規則はまったくの無意味です。

そういうわけで、これらの地域では、貴族と一部の富農以外の間に、直系家族が広がることはありませんでした。

「パリ盆地の農民は、最終的には直系家族の概念的反対物に他ならない平等主義核家族によって構造化されることになる。イングランドでは、直系家族概念が暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対的核家族の発明へとつながって行く。」

起源1・下 601頁

こうして、フランス、イギリスは、二種類の家族システムが併存する土地となりました。社会の支配層を占める直系家族と民衆の核家族です。

前者が形成した国家の傘の下に、後者が被支配民として収まることで、都市国家よりは大きく帝国よりは小さい国家が生まれた。これが国民国家である、ということは、すでに述べた通りです。

農民の多くが土地を持たない「農業労働者」であったフランス、イギリスでは、貴族や富農のみが直系家族となり、庶民は核家族にとどまった

支配層の直系家族+非支配層の核家族=国民国家

核家族は、支配層の直系家族への反感を構造化し、純粋核家族システムを形成した

純粋核家族安定の秘密

(1)直系家族と核家族の相互補完性

機能的に見ると、直系家族が誕生させた国家と、核家族の国民との組み合わせは、非常に理にかなっているといえます。

核家族は国家を形成する能力を持たないのですが、近代化の過程で農村の相互扶助機能が失われたときに、もっとも国家を必要とするのは核家族です(夫婦2人ではいざ何かあったときに立ち行きません)。

直系家族の国家は、彼らに国家(を通じた公的扶助)を提供することができます。

一方、直系家族は、国家を作る能力はあるけれども、ごく小さな国家しか作れない。核家族が国民となってくれることで、直系家族の国家は、繁栄に必要な「大きさ」を確保することができるのです。

このパターンの国民国家は、イギリス、フランス、そしてオランダに生まれました。

核家族と直系家族は、相互に欠落(国家形成能/国家の大きさ)を補い合う関係にある

(2)二項対立が安定をもたらす

異なる性格を持つ二つのシステムの併存は、不和の元になりそうに思えます。結果的に見ると、純粋核家族の生成は、この問題への解決策であったといえます。

核家族は、直系家族への「対抗価値」を構造化することで、純粋核家族システムに変化しました。それによって、これらの国々は、「二項対立」を軸とした安定を達成し、対立が生み出す活力とともに、順調な発展を遂げていくのです。

現在、イギリス、オランダ、フランスの国家としてのアイデンティティの源は、純粋核家族のシステム(絶対核家族(自由)、平等核家族(自由と平等)に求められています。

純粋核家族の「自由」の本質は、直系家族の権威への反感、「反権威」ですから、「権威」の誕生こそが国家の生成を促したという歴史を知る者から見ると、彼らの国家はちょっと不思議です。

「「反権威」を旗印にした国家なんて、成り立つのか?」

しかし、彼らが意識していようがいまいが、純粋核家族と直系家族はセットです。純粋核家族の出自には必ず直系家族が関わっており、直系家族の価値との対抗関係が生み出す二項対立軸こそが、純粋核家族国家の安定を可能にしているのです。

イギリスやオランダの場合には、その痕跡は、王室や世襲貴族という目に見える形で残っています。フランスは、王や貴族を廃止しましたが、その国土の半分を占める直系家族地域が、「痕跡」どころではない存在感を発揮しています。

純粋核家族は直系家族と1セット。直系家族との対抗関係が生み出す二項対立の軸が、安定の基礎となっている

(3)純粋核家族を出生地から移植したら‥‥

純粋核家族の生態(?)を知るために、科学者だったら、こんな実験をしてみたくなるかもしれません。

純粋核家族を、直系家族の痕跡を残す出生地から切り離し、(システムの)空白地帯に移植したら、どうなるか。それでも、安定した国家を運営して行くことができるのか?

その実験と同じことが現実になされている土地があります。
アメリカです。

アメリカという国は、空白地帯でこそ発揮される「自由」の活力と、重しを持たない純粋核家族の不安定さを見事に体現しています。「トッド入門講座」として、書きたいことがたくさんありますが、ついでに取り上げるには大きすぎる話題なので、機会を改めて、扱うことにさせていただきます。

直系家族の重しから解放され、空白地帯に移植された純粋核家族。
それがアメリカである

辺境の西欧から—識字がもたらした逆転劇

この辺で、メソ紀47世紀(14世紀)頃の世界を俯瞰してみましょう(視野に入っていない地域がたくさんあってすみません)。

ユーラシア大陸の中心部では、モンゴルが去った後、共同体家族が帝国を統べていました。オスマン帝国が起こり、ティムールが活躍し、中国では明が建国されていた。

同じ頃、辺境のヨーロッパや日本に存在していたのは、直系家族か核家族のみ。家族システムの「進化」という観点から見れば、中東の約5000年前と同じ状況にありました。当然、そこにはコンパクトなサイズの国家や地域政権しかありません。

しかし、この後、直系家族と核家族の組み合わせがもたらすダイナミズムが功を奏し、辺境側の国力が急激に高まるのです。その動力こそが、教育、具体的には「識字」の力でした(近代化における「識字」の重要性についてはこちらをご覧ください)。

家族システムの「進化」で遅れをとっていた辺境のヨーロッパは、
16世紀以降に起こった識字化で急速に国力を高める

直系家族の寄与文字の誕生から大衆識字化まで

(1)「西欧近代」と直系家族

国民国家=近代国家の確立という点で先頭を切ったのはイギリスの核家族であり、直系家族は大分遅れを取ることになるのですが4「直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで〔土地の〕不分割原則が小国家の非集合原則によって補完された〔=置き替わった〕かのように」(起源1・下621頁)。ドイツ統一が1871年まで成し遂げられなかったのがその典型といえます。、「西欧近代」の成立に対する直系家族の寄与は本質的です。

すでに見たように、直系家族は、原初的核家族に「国家」を与えることで、純粋核家族の成立を導きました。その次に、直系家族は、その「世代間伝達能力」を活かして、西欧の識字化を先導するのです。

直系家族は、核家族に「国家」を与えた後、西欧の識字化を先導する役割を果たす

(2)文字と直系家族

識字の以前に、直系家族は、「文字」の誕生そのものに大いに関係していると考えられます。

この講座では、直系家族の発生と小規模な国家の発生がリンクしていることを見てきましたが、「文字」もまた、大体同じ頃に発生している。これを偶然と考えることはできません。

メソポタミアで直系家族が生まれ、都市国家が誕生したのは、メソポタミアで文字が誕生したメソ紀元年(前3300年)と同時期です。

楔形文字
Image of an unidentified cuneiform tablet in the British Museum, London.

中国では、文字が誕生したのはメソ紀19世紀(前14世紀)。やはり、中国が直系家族を生成させていた時期で、殷王朝が興ったとされているのもこの頃のようです。

文字とは、情報を書き留め、後世に伝えるための手段です。家系の永続を期して土地や財産を子孫に伝達するシステムである直系家族の生成と文字の誕生が同期することには、何の不思議もないといえます。5以上につき、Lineages of Modernity, pp.105-6. 

果たして、文明の最初期に文字を誕生させた直系家族は、その4800年後、識字率の大幅な上昇という局面で、再び、大いに存在感を発揮することになるのです。

家系の永続を期し、知識や財産の後世への伝達をこととする直系家族は、文字の誕生や文字文化の隆盛に大いに関わっている

(3)近代以前の識字状況

ヘレニズム期の社会の識字率を算定するという大胆な試みを行った人がいて、彼は、当時のもっとも発展した都市でも、男性識字率が20-30%を超えることはなかったと結論しました(William V. Harris, Ancient Literacy(Cambridge, MA: Harvard University Press, 1989). p.141)(Todd, Lineages of Modernity, p.101)。

こうした仕事を受け、トッドは、文化・学問が大いに栄えた古典古代においても、社会全体の(おそらく男性の)識字率はせいぜい10%程度にとどまっていたであろう、と述べています。

メソポタミアの識字率を知る手立ては(私には)ありませんが、トルコで男性識字率が50%を超えた時期がメソ紀5232年(1932年)というところから見て、オスマン帝国までの4000-5000年の間は、ヘレニズム期の数字を大きく超えることはなかったと見てよいのではないかと思います。

西欧に関していうと、識字率はヘレニズム期をピークに、低下に転じます。低下傾向は西ローマ滅亡で加速し、再び上向きに転じるのは、メソ紀44-46(11-13)世紀頃でした。

西欧で、識字率の劇的な上昇が起こるのは、メソ紀49-50(16-17)世紀。このときの主役が、誰あろう、直系家族であったのです。

ヘレニズム期(10%程度)以降低下を続けたヨーロッパの識字率は、
11-13世紀にようやく上向きに。16-17世紀
劇的上昇が起こる

(4)ドイツにおける識字率の上昇

この時期の識字率の上昇が、活版印刷術の普及(グーテンベルクの仕事はメソ紀4754年(1454))、ルターの宗教改革(メソ紀4817年(1517)– )に関連することはよく知られています。

書籍の印刷所

「大衆の識字化は、そもそもプロテスタンティズムの基本的目標の一つであった。その必要性は、次のような純粋で強硬な三段論法によって導き出される。

 1 ルターは、われわれはすべて聖職者だと断言している。
 2 聖職者とは、(近代以前の人間の考えでは)文字を読むすべを知っている者のことである。
 3 それゆえ万人が聖職者となるためには、万人が文字を読むすべを知らなくてはならない。

 このためプロテスタント教会は次々と、都市住民と農村住民の読みの習得を力強く奨励したのである。」

新ヨーロッパ大全I・176-177頁

ドイツのプロテスタント地域の庶民たちは、ドイツ語に翻訳され、活版印刷された聖書を手元に置いて、読み書きを学びます。そうして、メソ紀4970年(1670年)、世界で初めて、男性識字率50%を達成するのです。6スウェーデンも同じ時期に達成している(直系家族である)。ドイツのプロテスタント地域で女性の識字率が50%に達したのは150年後のメソ紀5120(1820)年であったが、スウェーデンでは20年後の4990(1690)年であったから(女性のステータスの高さの反映である)、国民全体ではスウェーデンが先行したことになる。

この一連の出来事は、いったいなぜ、ドイツで起きたのか。

トッドは、直系家族、プロテスタンティズム、識字率の三要素が、相互作用によって、それぞれを強化する関係に立ったことを指摘しています。 

家族システムとキリスト教の教義に関するトッドの分析は大変鮮やかで、興味深いものなので、いつか個別にご紹介させていただく予定です。

[追記]その後「ヨーロッパのキリスト教(1)ー(4)」をアップしました。

直系家族・プロテスタンティズム・識字率上昇の相互強化作用で、
ドイツが世界初の大衆識字化を達成

(5)イギリスのテイク・オフ

識字化において先頭を切った直系家族地域は、その保守的傾向のために、近代化ではイギリスに先を越されることになりました。

しかし、イギリスの識字率上昇(男性識字率50%越えはメソ紀5000年(1700年))も、プロテスタントの影響、自国内および近隣地域における直系家族の存在なしに考えることはできません。

イギリスの優位は、①プロテスタンティズム、②直系家族地域の存在、③核家族の流動性、の3点が揃っていたことにあるといえます。

ともかく、このようにして、辺境の中でもとくに辺境であったイギリスにおいて、「識字化した核家族」が「西欧近代」の幕を開くことになりました。

「識字化した核家族」の時代(西欧近代)の幕開けを担うのは、
プロテスタンティズム・直系家族地域・核家族の流動性を備えたイギリス

核家族による「帝国」支配

西欧諸国と比較して、中東地域の識字化時期を見ると、トルコ 5232(1932)年、 シリア 5246(1946)年、イラク 5259(1959)年、イラン 5264(1964)年(下図をご覧ください)。イギリスと比べると、200年以上の遅れが発生したことになります。

メソポタミア文明以来、5000年の間(メソ紀5000年(1700年)頃まで)、共同体家族システムの基層の上で、文明の中心地であり続けた一帯は、「識字化した核家族」に、覇権を譲り渡すことになるのです。

「‥‥かつての超大国オスマン帝国を脅かしはじめたのは、近代西欧の台頭であった。その威力は何より、近代西欧における軍事の組織と技術の革新に求められる。
 1529年の第一次ウィーン包囲の際のオスマン軍の粛々たる撤退と、1683年の第二次ウィーン包囲の際のオスマン軍の潰走は、まったく別のものであった。その1世紀半の間に、西欧では社会体制の変化と軍事組織・技術の革新が起こって、両者の力関係は逆転してしまったのである。」

鈴木董『オスマン帝国』251-252頁

西欧が興隆した後の歴史をこれ以上見ていく必要はないでしょう。しかし、家族システムの変遷の観点から世界史を追っている私たちとしては、一つ、確認しなければならないことがあります。

核家族が覇権を握った後、共同体家族が作り上げた「帝国」秩序がどのように変わったのか、という点です。

果たして、核家族は、メソポタミア文明勃興の地に、秩序をもたらすことができたのでしょうか。次回に続きます。


Literacy of menLiteracy of women 
Protestant Germany16701820
Sweden16701690
Great Britain17001835
United States(1700)(1835)
Germany(Overall)17251830
France18301860
Italy18621882
Japan18701900
Russia19001920
Lebanon19201957
Turkey19321969
China19421963
Syria19461971
Libya19551978
Saudi Arabia19571976
Iraq19592005
Egypt19601988
Iran19641981
Pakistan19722002
Yemen19802006

共同体家族の中東は、大衆識字化において200年の遅れを取り、ヨーロッパに覇権を譲り渡すことになる。帝国秩序の喪失後、核家族は大陸に平和をもたらすことができたのか(次回に続く!)