世の中から受けた攻撃について、トッドは、率直に、まだ何も成し遂げていない若い研究者だった自分にとっては、「かなり辛いこと」だったと述べています(『問題は英国ではない、EUなのだ』95-97頁)。
「いったいこの本が何を引き起こしてしまったのか、まだ若かった私は理解するのに時間がかかった」とも(『エマニュエル・トッドの思考地図』190頁)。
それはそうだろう、と思う一方で、その後の展開を知る者からみると、このとき以降トッドが被り続けた拒否反応や反感が、社会を見るトッドの視線をいっそう研ぎ澄ませ、虚飾なしの真実をつぎつぎと映し出す「魔法の鏡」的に機能したこともじじつであるように思えます。
これ以前、トッドは、「しっかり勉強し、賢ければその努力は報われる」(『エマニュエル・トッドの思考地図』189頁で「母の教訓」として述べている)。つまり努力して、学術的な成果を上げれば(=真実を発見すれば)、社会は正当に評価してくれると考える、純朴な若者であったのです。
彼の「アンガジュマン」の前提にも、社会とりわけエリートに対する素朴な信頼感があったはずです。
しかし、それらは裏切られ続けます。学術界には無視され、曲解される。政治の世界でも、人々は聴く耳を持たないか、理解を示す人々がいても現実は何も変わらない。そのような経験が、何度も何度も、何度も何度も、繰り返されることによって、彼は、自らが発見した事実の重みを、より深く理解するようになっただろうと思います。
フランスやイギリスでの人々の反応を見て、トッドは、明らかな証拠とともに提示された自らの仮説を拒否しているのが、彼らの知性ではなく、核家族システムに由来する「自由」の価値観であったり、アカデミアのグループシンク(集団浅慮)であることを知ったはずです。EUの通貨統合、反イスラム主義、自由主義経済への幻想と闘ってみれば、一人一人の漠然とした思い込みが集まって集団的心性となったときの、その岩盤のような強さを思い知ったはずです。このようにして、トッドは、人間の集合的心性、つまり、社会というもののままならなさを、身を持って体験していくのです。
トッドは、つねに、楽観的な構えを崩さない学者です。それは現在も変わりません。しかし、楽観の「質」は、異なってきていることが感じ取れます。
『第三惑星』や『新ヨーロッパ大全』で彼の発見を世に問うていた頃、トッドは、「家族システムの決定作用を知ることは、真の自由に近づくことである」という趣旨のことを述べていました。
より具体的に、『第三惑星』の段階でこの仮説が広く受け入れられていたなら、ユーゴスラビアやルワンダでの悲劇を予見し、被害を軽減するための手立てを打つことができたのではないか、と述べたこともあります(『世界の多様性』20頁)。
つまり、この段階では、「人間とは、正しく理解すれば、正しい行動が取れるものである」と考えていたわけです。
しかし、数々のアンガジュマンを経て、彼は、科学者として必要な情報を提供すれば、指導層がしかるべき行動を取ってくれるだろうと期待したことを、大きな間違いだったと、はっきりと述べるようになりました。
エリートについての経験主義的な研究が不足していたことで、しばしば彼らの知性や責任感、道徳性を過大評価していました。
『グローバリズム以後』10-11頁
だから私は、何度も何度もフランスの指導層が結局はユーロの失敗を認めて、自分たちが引きずり込んだ通貨の泥沼から、社会を引き出してくれるだろうと思ってしまいました。
結局、違った。ユーロは機能していない。けれども消えていません。若者がひどい扱いを受け、とくに移民系で最も弱い人たちのグループがのけ者になる事態は続きました。
こうして、彼はエリートに対する漠然とした期待や、世の中が彼の望む方向に進歩するという意味での楽観とは縁を切ります。
「彼はあきらめたのだ」と言う人は言うかもしれませんが、事実は違います。市民としてのトッドが怒り、がっかりする一方で、研究者トッドは「真実」に目を見張ります。「そうだったのか」と嘆息した後、彼はエリートを観察し、記録することを始めるのです。
1999年の『経済幻想』の頃から、学界やエリートは「期待をむける対象」であるより「研究対象」としての比重が重くなり、その研究は、教育水準の上昇がもたらす社会の変化をよりよく理解することに役立てられていきました。
人類学についてはフィールドワークをしていないというのが欠点です。私の唯一のフィールドはもしかしたら大学というフィールドかもしれませんが。というのも、私は長年、大学や学術界、そこに安住する人々としばしば対立してきました。ですから、その内部で何が起きているかは、客観的な観察者として知り尽くしているのです。
『エマニュエル・トッドの思考地図』53頁
現在、彼がどんな風な「楽観」を抱いているのか。
私の好きなトッドの発言をいくつかご紹介します。
政治指導者は歴史上、誤りが想像しうるときに、必ずその誤りを犯してきました。だから私は、人類の真の力は、誤りを犯さない判断力ではなく、誤っても生き延びる生命力だと考えています。
『自由貿易という幻想』265頁 (初出『毎日新聞』2011年1月13日)
アメリカ合衆国とロシアの衝突の根強い存続、イランとシリアの解体と、イスラム国の出現という恐怖にもかかわらず、私は未来に対する根本的な楽観の姿勢を保持せずにはいられない‥(略)‥。いずれにせよ人類史は、これまでつねに混沌状態にあったのであり、人口学者として死者の数を数えてみるなら、現在は人類史の中でとりたてて暴力的な局面にあるわけではないということが分かるのである。ヨーロッパや中国の全体主義の時代になされたことを尺度にとるなら、現在の世界全体の暴力の水準は、いささか口にするのが憚られるが、どちらかと言えば低い。
『トッド 自身を語る』2-3頁(2015年)
私は自分の好みを打ち出すのをやめてしまいました。政治的な戦いでは、私はつねに負けてきました。私が望んだことが選ばれることはありませんでした。だから、私は好まないでいることを好むようになりました。あるいは、自分の好みはそっと秘密にしておく。
『グローバリズム以後』52頁、61頁(発言は2016年)
今はなにかを予測しようということにそんなに心を砕きません。むしろ今起きている重要なことに敏感でありたいと思うのです。それを察知すること、それだけで大きな仕事です。
トッドは、人間についての極めて現実的な見方に到達したにもかかわらず、同時に、その生命力に魅せられ、人類の歴史を眺め、底流の真実を感知することに喜びを感じている。なんか、すばらしいなことだな、と思ってしまいます。