はじめまして。そうでない方には、こんにちは。
辰井聡子といいます。社会科学の研究者です。
この度、web上でエマニュエル・トッド入門講座を開講することにしました。どうぞよろしくお願いします。
この記事は予告編です。講座の趣旨をご説明します。
目次
- 堅実な研究者としてのエマニュエル・トッド
- 彼の「理論」は誰にでも使える
- 一度知ってしまうと元には戻れない
- 彼の理論はなぜ「それほどよく知られていない」のか
- 非西欧世界の人なら喜んで受け入れるとは限らない
- 20世紀をちゃんと終わらせ、次に進もう!
堅実な研究者としてのエマニュエル・トッド
エマニュエル・トッドは、世界情勢に関する「独自の」分析を示す知識人としての側面が(少なくとも日本では)一番よく知られていると思います。
本の宣伝には「現代最高の知性」「予言者」「緊急提言!○○に備えよ!」「本当の脅威は〇〇だ!」「大転換期に日本のとるべき道は?」といった言葉が踊っているので、「知識と頭の良さで売っているちょっと攻撃的な論客」みたいなイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
たしかに彼にはちょっと面白いことを言って人を喜ばせるみたいなところがあります(それほど攻撃的なことをいうことはないと思います)。しかし、いずれにせよ、私たちが彼から一番学ぶべき点はそこではありません。
トッドは、社会の動き、個人と社会の関係についての法則を発見し、理論化しました。そして、その理論は、もしノーベル賞に「歴史学賞」「社会科学賞」があったら、必ず受賞するであろうというくらい、インパクトの大きいものです。
例えば、「なぜ戦争がなくならないのか」「普通の人がなぜ民族大虐殺に加担するのか」「21世紀になっても差別がなくならないのはなぜなのか」といった問いに対して、「答え」とはいえないまでも、理解の糸口を与えてくれる。そういう理論なのです。(ルトガー・ブレグマンなどがどうしてトッドの理論にたどりつかないのか、不思議でなりません。)
社会科学者として、長年、社会というものの分からなさ、ままならなさに「うーん」とうなっていた私は、彼の理論に出会ってまさに「目から鱗」の状態になり、「社会科学にもこういう「ブレークスルー」があり得るんだ!」と心の底から感動しました。
彼の「理論」は誰にでも使える
彼の理論のすばらしい点の一つは、「誰にでも使うことができる」という点です。
相対性理論を提唱したのはアインシュタインですが、今では多くの人がその考え方を理解して、みんなで宇宙現象や素粒子理論の解明に役立てています(私は理解していませんけど)。
トッドの理論も、これと同じです。トッドの理論は、彼の思想や哲学ではなく、データの解析が導いたもの、つまり科学法則のようなものなので、特別に物知りでなくても、深い思想の持ち主でなくても、内容を理解しさえすれば、歴史や社会をよりよく理解するための道具として、普通に役立てることができるのです。
しかも、理論自体はとりたてて難しいものではないのに、理解を助ける道具としての威力は絶大です。国際情勢(中東で何が起きているのか、アフリカで反政府運動が高まっているようだが何なのか、ミャンマーはどうしちゃったのか、はたまたアメリカは?、等々)から、国内のさまざまな問題、コロナ対策への疑問など、幅広い社会的事象について、大筋が掴めてしまう。「だいたいこんな感じの話だな」とわかってしまう。普通に社会に関心を持ち、素直に真実を知りたいという方であれば、これを身につけない手はないと私は思います。
一度知ってしまうと元には戻れない
世界の根本に関わる科学理論とは、世界の見方を根本的に変え、知ってしまった以上二度と元には戻れない。そういうものです。
例えば、地動説(非地球中心説)は人間の目に写る宇宙の姿を根本的に変えたと思います。今では天動説(地球中心説)に立って天体の動きを論じるなんて考えられない。同様に、進化論なしに生物の世界を眺め、遺伝学の知識なしに人間の形質や疾患を論じることもできないでしょう。
それと全く同じ理由で、私はトッドの理論を理解してから、それなしに世界というか社会を見ることができなくなってしまいました。彼の理論はそのくらい、社会の本質的な部分に関わるものです。
ところがしかし、彼の理論は、それほどよく知られていません。普通に知的な人なら誰でも知っているというものにはなっていません。そのせいで、私は、社会について考えを述べるたびに、いちいち彼の理論を説明しなければならないという、非常にめんどくさい状況に追い込まれているのです。
「こんなことを続けるくらいなら、一度ちゃんと説明しよう!」
私がこの講座を開くことにした個人的な理由です。
彼の理論はなぜ「それほどよく知られていない」のか
ここまで読んで「そんなに重要な理論が「それほどよく知られていない」なんてことがあり得るのか?」と思った方がおられるかもしれません。
彼の理論がその価値ほどに世の中に受け入れられていない理由については、この講座の中でも折々に考えていくことになると思います。しかし、単純な理由もいくつかあります。
(理由1)適当な入門書がない
エマニュエル・トッドは学者なので、その理論を学術書の形で公刊しています。
ありがたいことに、トッドの本のうち重要なものはほぼ全て読みやすい日本語で読むことができます(訳者の石崎晴己さんと藤原書店さんのおかげです)。
しかし、学術書なので、どれも分厚いのです。
トッドは、最初の「発見」の出版から数えて40年近くに及ぶ研究者人生を通じて、その理論を大いに発展させ、ブラッシュ・アップしています。初期に発表された理論も、繰り返し言及される過程で、少しずつニュアンスを変えていたりするので、その分厚い本たちを全部読まないと、ちゃんと「分かった」という感じを得られない。
彼の理論がなかなか一般に普及しないのは当然と言わなければなりません。
エマニュエル・トッドとはどういう学者なのか。どのような歴史的文脈の中で、どのような理論を立てたのか。その理論は現代のわれわれにとってどのような意味を持っているのか。そのような基本的な情報を、わかりやすく、客観的に説明した入門書が存在しない。このことは、彼の理論の浸透を阻んでいる大きな理由の一つだと思います。
(理由2)専門領域をまたいでいる
もう一つの理由に、彼の学問が特定の専門領域の中に収まっていないということがあります。これは「なぜ入門書が出ないのか」の答えでもありますが。
現在の学問の世界では、研究者はみな特定の専門領域に属していて、その専門の中で研究し、研究成果を公表し、評価を受けます。
トッドは、自らを「歴史家」であると定義していますが、大学の歴史学の教授ではありません。彼は、歴史を理解するために、人類学や人口学を多用し、自身は長くフランスの国立人口学研究所というところに勤めましたが、彼が解明した事実の全体像は、およそ人類学や人口学という専門領域に収まるようなものではない。彼がしばしば政治や経済についても発言をしますが、それは、その理論の威力によって、それらの領域でも、真の問題が理解できてしまうからであって、彼が政治学や経済学を修めたからではない。
そういうわけで、現代の学問世界に、彼の理論を正当に評価する資格のある「専門家」は存在しません。しかし、専門主義が基本仕様であるこの社会では、基本的には、専門家による評価なしに学問が普及していくことはありません。
例えば、特定の理論が教科書に載るには、まずは専門家の間での評価が必要ですね。いくら面白くて有意義でも、専門家の間で通説ないしはそれに近い学説として認められていない理論が、学校で教えられることはありません。入門書のようなものも、専門家の間で評価が高まった結果、その領域の専門家が一般向けに書き下ろすというのが普通の流れです。
トッドの理論は、専門という狭い「入り口」を通れず、社会のメインストリームに届かずにいるのです。
(理由3)欧米知識人層の忌諱に触れた
以上のような、どちらかというと形式的な理由だけでなく、彼の学問の内容に関わる理由というのもあると思います。彼の理論には、おそらく、欧米の知識人層を苛立たせ、目を背けさせる何かがあるのです。
トッドが多用する「人類学」という学問は、通常、非西欧社会、とくに未開の社会を研究対象にする学問です。彼はその方法を近代国家に適用することで大きな成果を上げました(以下で述べることはいずれ詳しくご説明することなので、ここでは適当に読み流していただいて構いません)。
近代国家?
辞書を引いておきましょう。
「一般には、17、18世紀のイギリス革命やフランス革命以後の近代社会・近代世界に登場した国民(民族)国家をいう。(中略)
日本大百科全書(ニッポニカ) 田中浩
近代国家の政治原理としては、主権は国民にある(国民主権主義)、政治は国家が選出した代表者からなる会議体(議会)の制定した法律によって運営される(法の支配)、国民の権利・自由は最大限に保障され(人権保障)、そのためには民主的政治制度(代議制・権力分立)の確立を必要とする、などがあげられる。このような近代国家の論理や政治思想は、ホッブズ、ハリントン、ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって体系化されたものである。(後略)」
トッドは、人類学が用いる項目の一つ「家族システム」(親子の関係性、遺産相続のあり方、婚姻のシステム等を軸として類型化された家族の在り方の体系。詳しくは次回以降にご説明します。)に基づいて西欧社会を含む近代社会を分析しました。各文化圏の近代化以前の家族システムと近代化後の政治的イデオロギーを照らし合わせてみたのです。
彼がまず気がついたのは、両者が対応関係にあるということでした。かりにA型、AB型、B型、C型の家族システムがあるとすると、A型の地域はリベラル・デモクラシー、B型の地域は共産党独裁、C型はイスラム国家というように、古来からの家族システムと近代以降のイデオロギーは見事に対応していたのです。(①)
その後、彼は、家族システムが生成する過程を調査し、多様な家族システムたちが、皆、先史時代に遡る一つの原型から進化して生まれたものであることを確認しました。進化の道筋は、西欧近代の基礎にあるA型が、B型、C型への進化から取り残された、より原型に近いものであることを指し示していました。(②)
もう一つ、彼は、歴史学の発見と人口学の理論を援用し、近代化の過程で起きた「進歩」の本体を明らかにしました。現在の標準的な考え方は、商業の発達、貨幣経済の広がり、貿易の開始といった経済的要因をもっとも重視するのですが、トッドはこれを否定し、近代化における「進歩」にとってもっとも本質的なのは、社会全体の教育水準の向上であるという説を立てます。教育を身につけることで人々の主体性が増し、伝統や神の教え、政治的権威に従順である代わりに、自分の考えに従って行動するようになった。それによって表出したのが近代社会であると、そういう考え方です。(③)
・ ・ ・
これがなぜ西欧人の気分を害することになるのでしょうか。
①〜③の理論を組み合わせると、「近代化」ーいうまでもなく、16世紀以降の歴史を決定づけた最重要の現象ですーのメカニズムが導かれます。西欧の人たちの癇に障るような(笑)やりかたでまとめてみます。
(1)「近代国家」のイデオロギー(リベラル・デモクラシー)とは、A型の価値観を持つ農民たちがもともと持っていた価値観が近代社会に投影されたものであり、ロックやルソーなどの偉大な思想家の発明品ではない。
(2)西欧がいち早く近代化を成し遂げたのは、西欧がより原型的な(≒ 遅れた)家族システムを維持していたからである。
(3)A型以外の家族システムを持つ国民は、教育水準の上昇により「進歩」を成し遂げたとしても、西欧と同様のイデオロギーを内面化する国民にはならない公算が高い。
トッドの理論は、西欧が成し遂げた近代化の価値を決して低く評価するわけではありません。彼の理論は、ただ、一口に「近代の価値」とされてきたものが、家族システムの価値観に由来する「個性」と普遍的な「進歩」に分かれることを示すだけです。
しかし、これによって、近現代史における西欧のポジションは大きく変わります。
非常に大雑把にいうと、これまで、近代化とはこんな感じのものだと考えられてきました。ヨーロッパが先頭を切って達成した進歩に、他の国々が徐々に追いついてきて、最後には世界が自由で民主的な世の中になるという、そういうイメージです。
これに対し、トッドの理論に従うと、近代化マップは、次の図表のように書き換えられます(注:この表はイメージです)。近代化に対する西欧の立ち位置は相対化され、文化圏ごとの数ある近代化パターンの一つに「格下げ」となるのです。
近代国家の理想、それは欧米社会の誇りであり、彼らの自尊感情の基礎にあるものです。偉大な思想の導きの下、いち早く民主化革命を成し遂げ、自由で民主的で豊かな社会を築き上げたこと、そのことが、欧米こそが世界の中心であり、世界をリードする存在であるという彼らの自負心を支えています(バイデン大統領がやたらと「民主主義と専制主義の戦い」などと言っているのはそのためです)。
トッドの理論は、西欧は特別ではないというごく当たり前のことを述べているにすぎないのですが、それは、欧米社会の誇りを傷つけることにほかならない。文化・経済の停滞や、中東政策の失敗、中国の台頭(?)などで、自信を失っている欧米のエスタブリッシュメントには、それを受け止める余裕はないでしょう。
非西欧世界の人なら喜んで受け入れるとは限らない
では「西欧は特別ではなかった」という事実を、非西欧世界の人々ならば、喜んで受け入れるかというと、そうとは言い切れない。というより「受け入れがたい」と感じる人の方が多いと思います。
世界中の人々は、憧れるにしても反発するにしても、つねに西欧文化を意識し、西欧を真似したり、追いつき追い越そうとしたり、「欧米ももう大したことない」とうそぶいてみたり、西欧を批判して「別の」道を行こうとしたり、してきました(最近は「西欧」の代わりに「グローバル社会」などといっているかもしれませんが、中身は同じです)。
西欧が世界の中心ではないということは、「西欧を真似すればよい世界を作れる」、あるいはまた「西欧を批判すれば本質的な批判をしていることになる」という前提が崩れることを意味します。
「西欧が理想だ」と信じている立場から見ると、先ほどの仮説(3)は、「家族システムが違う文化圏はどう頑張っても西欧にはなれない」という残酷な言明とも受け取れます。批判者にとっては、安心して批判を向けることのできる「巨大な敵」が失われることになり、それはそれで面白くない。
たしかに、なかなかしんどいですよ。
多くの国の国民は、「自由と民主主義」に代表される理想の追求こそが、よりよい社会への道であると信じて努力してきました。自国の社会がうまくいっていないと感じた時は、理想化された「欧米」との違いを探し、指摘し、修正を試みてきました。
それが良心的な市民の基本姿勢であり、知識人(文・理を問わないと思います)の姿勢でもありました。そのような状況が、日本についていえば、150年以上も続いてきたのです。
トッドの理論を受け入れる、あるいは正面から受け止めるということは、世の中に欧米やグローバル社会という「理想」ないし「手本」(ないしは標的)があるという考えを捨て去り、進むべき道を一から自分で考え直すこと、その覚悟をするということに他なりません。
今更そんなこと言われても困るという人はたくさんいるでしょう。それは仕方ありません。
*私の背景からしてとてもイヤミっぽい発言になりますが、分野にかかわらず、大学の知識人はとくにその傾向の強い人たちだと思います。だって、ずっとそれを仕事にして、それで権威を保ってきたのですから!
一方で‥‥たぶん、これを読んでいる方の中にも、目が輝き、胸がときめき、お腹が暖かくなっている人がいるはずです(反応はさまざまでしょう)。いますよね?
20世紀をちゃんと終わらせ、次に進もう!
若い方はもしかしたらご存じないかもしれませんが、世界はずっとずっと前から、自由と民主主義を目指していました。過去には、より一人一人の権利が尊重され、みんながより自由に生きられるようにという気運が、いまよりも盛り上がっていた時代だってありました。差別の問題も、環境問題も、ずっとずっと前から意識されていたのです。
でも、はっきりいって、それは実現されていません。日本だけでなくどこの国でも実現していません。自由と民主主義も、差別や貧困のない世界も、クリーンで持続可能な環境も、戦争のない世界も、ずっとずっと目標であったのに、実現していないどころか、悪化さえしている。
目標自体がまちがっていたとはいえないでしょう。どれもこれも、少なくとも大筋では、よいに決まっているものばかりです。
本気でなかったから、でしょうか?
私はそうは思いません。
証明する手立てもその気もないので、みなさんを止めようとは思いませんが、今までと同じやり方で「本気を出して」頑張り続けるなんて、私はまっぴらごめんです。今までだって、みんな、本気で、真面目に取り組んできたのですから。
そうだとしたら、残る答えは一つしかありません。
目指し方がまちがっていたのです。
本気でよりよい社会、少しでも暮らしやすい社会を目指すなら、いまが戦略を練り直すときだと思います。これまでの常識をいったんカッコに入れて、真実に耳を傾け、どうやって先に進んでいくかを考えるときだと思います。
面白そう!
それ、やってみたい!
と、ときめいている素直で能天気で(失礼!)やる気にあふれた皆さんと、エマニュエル・トッドの理論を共有すること。
それがこの講座の目的です。