はじめに
トッドによれば、現代アメリカの家族システムは「原初的核家族に接近した絶対核家族」です。
その情報だけお持ちいただければ「アメリカ I・II 」をお読みいただくのに支障はありませんが、一応、トッド入門講座なので、イギリスから持ち込んだ絶対核家族がどのように変化していったのか、トッドの理論の概略をご紹介させていただきます。
植民開始時のイギリス
(1)絶対核家族の成立
イギリスが本格的にアメリカへの植民を開始したのはエリザベス1世(在位1558-1603)の時代です。1584年にスタートしたプロジェクトで開拓された土地はVirginiaと命名され、ジェイムズ1世(在位1603-1625)の時代に同地に入った入植団がジェイムズタウンを建設(1607年)。ここから入植が本格化していきます。
トッドは、イギリスに絶対核家族が成立した時期を「1550年から1650年の間」としており、住民リストのデータから「エリザベス1世の治世(1558年-1603年)の終わり頃のイギリスについては絶対核家族が成立していた可能性を具体的に語ることができる」と述べています(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上 298頁、英語版159頁)。
*以下単に「上」「下」という場合この本の引用を指します。また英語版の頁数を併記する場合、引用文は辰井が英語版から訳出したものです(日本語版も参照しています)。
したがって、イギリスからアメリカに植民した人々は、絶対核家族か、少なくともそれが成立しつつあった地域の出身であったと考えてよいでしょう。
(2)イギリスの個人主義
その頃のイギリスの家族が、具体的にどんな風であったかを見ておきましょう。
イギリスにおいて、絶対核家族の成立は、「ルールなし」の原初的核家族から「個人主義」、つまり、親族との絆の最小化を規範とする社会への変化を意味します。
ゆるやかにつながっていた親族集団は解体され、成長した子供は(ほぼ)必ず家を出て自立する。生涯独身者の割合が増大し(1555年頃に生まれた世代と1605年頃に生まれた世代の比較で8%から25%へ)、結婚年齢も上昇する(結婚年齢は1640-49年に女性26歳、男性28歳)。
そう。イギリスではすでにこの段階で、親族集団とのつながりを持たず、単身ないし夫婦二人で暮らす世帯が「標準」となっているのです。
もちろん、誰にでも、病や老い、身近な親族の死といった苦境は訪れます。したがって、これほどの「個人主義」は、何らかの公的な扶助制度がなければ成り立たないでしょう。では、当時のイギリスにそれがあったのか、というと、(何と?)あったのです。
イギリスはもっとも早期に「救貧法」を成立させた国ですが、それ以前から、地域共同体を主体とする給付システムが存在していたと見られています(ちなみにこの地域共同体は古代ローマ時代の遺産です(上・308-314頁))。
偉大な中世史家リチャード・スミスは、エリザベス時代の救貧法に先立って、地域の運営による老齢年金が存在していたことを示唆している。想定されているのは、荘園裁判所の監督下で、引退した小作農とその後継者(親族とは限らない)を関連づけるシステムである。
上・300頁、英語版159頁
*小作用の農地を引き継ぐ人が何らかの形で支払いをするという趣旨かと思います。
大規模農園で一労働者として働き、単身か夫婦(と子供)で暮らして、老後は社会福祉の世話になる、という私たちにはきわめて「現代的」に思える暮らしは、イギリスでは「伝統的」なものでした。
*「昔からそうだった」というだけで「進んでいる」というわけではありません。お間違えのないように!
トッドはイギリスの歴史家 David Thomsonの言葉を引いています(上・300頁、英語版159頁。
チューダー朝やステュアート朝の教区民がなぜか1990年代のイギリスにタイムスリップしたとしたら、分からないことだらけだろうが、社会福祉のあり方をめぐる現代の議論にはまったく違和感を感じないだろう。
上・300頁、英語版159頁
*チューダー朝は1485-1603年、ステュアート朝は1603-1714年
アメリカにおける変容
(1)植民地時代:原初的核家族への退行
新天地を求めてアメリカに渡った人々が、安定した農村で培われたこうしたライフスタイルを維持できたかといえば、答えはもちろん「NO」でしょう。
さしあたり大規模農場もないしローマ由来の共同体もない。もちろん国による社会保障も望めない。全部自分たちでやっていかなければならないわけですから。
当初のアメリカの核家族は、イギリスの絶対核家族が強化されたバージョンというより、その正反対で、絶対核家族の特徴が著しく弱められたバージョンだったといえる。あらゆる領域で、未分化核家族への退行が見られた。世帯規模は大きくなり、遺産が分割されることが増え、兄弟姉妹の絆が復活した。植民地時代の状況は、親族の絆が最小限であることを特徴とする現代のアメリカモデルとは全くかけ離れていたのである。
上・331頁、英語版176頁
女性の地位という点でも、当時の核家族は「原初的」でした。
女性のステータスという点でも、現代のあり方からはかけ離れていた。トクヴィルを含め、建国期のアメリカを観察した者はみな、女性のステータスの高さに注目している。その始めから、ピューリタン農民の妻たちは宗教生活および社会生活において尊敬され、活動的だった。一方で、いかなる宗派においても、女性は土地と家の相続からは排除されていた。
最初のプロテスタント・アメリカ人の間での経済・社会生活における性の区別は、狩猟採集民のそれと同様に厳格だった。財の分配が当初女性にとって不利だったことは、父系制の初期の導入の例というよりは、ホモ・サピエンスの原初的男女分業の観点から解釈されるべきであるように思われる。T・Ditz が明らかにしたように、男性に有利な処遇に家系の後継指名の意図が見られない以上、これを父系制の第一歩とみなすことはできない。
上・332頁、英語版176頁
(2)20世紀初頭:絶対核家族への回帰
その後、1720-1770年(入植の第3世代から第4世代)の間に絶対核家族の台頭が進んだと推定されていますが(上・334頁)、アメリカ全土にイギリスと同様の絶対核家族が戻ってきたのは20世紀に入る頃です。
結構時間がかかりました。
理由の一つに、開拓が続いたことが挙げられます。フロンティアの消滅(宣言が出されたのは1890年)までは西へ向かう開拓の波が続いたので、その度に「原初的核家族への退行→社会の安定→絶対核家族への回帰」の推移が繰り返されることとなり、全体としての絶対核家族化は進まなかった。
もう一つは、産業革命が遅かったこと。イギリスの産業革命の開始は、1780年とされますが、アメリカは1840年です*。労働人口の大半が小規模の個人事業主であるうちは、親族との絆なしには立ち行きません。賃金生活者が増えてようやく、核家族への回帰に弾みがつくのです。
*トッドが W・W・ロストウ『経済成長の諸段階』(初版1960年。最新の改訂版が1990年)に依拠して用いる数字です。
(3)1950-70 : 絶対核家族の絶頂期
トッドが「絶対核家族の絶頂期」と呼ぶ1950-70年に、ある世代以上の日本人が「アメリカン・ファミリー」として思い描くであろう豊かで呑気な家族の時期がやってきます。
大企業が安定的に給与を支払う。
国家はニューディール政策で社会保障(失業保険、退職金、老齢年金等)を整備する。
16-17世紀のイギリスで大規模農園と救貧法がその役を果たしたように、アメリカでも、大資本と国家が、親族の絆を最小限とする絶対核家族の完成に寄与しました。
ところで、「アメリカン・ファミリー」といえば、郊外の一軒家、夫はサラリーマン、妻は専業主婦、子供が2、3人いて、犬の一匹も飼っている、というイメージですが、この男女の関係はどう理解したらよいのか?
トッドは次のように述べています。
この時期、男女の関係性は、対等な立場での男女分業という原初的ホモ・サピエンス型に戻っていたように思える。夫は外で働き、妻は家内をやりくりする。最新の家電製品の助けを借りて。
上・336頁、英語版176頁
「子供が2、3人」というのはもしかすると日本の高度成長期のイメージで、アメリカの場合は「3、4人」のレベルに達していたそうです。
この男女の分業体制が戦後のベビーブームを牽引し、合計特殊出生率を1950年には(女性一人当たり)3.1人、1960年には3.65人にまで引き上げた。出生率は1940年には2.30人にまで落ち込んでいたのだ。(上・336頁、英語版178頁)
上・336頁、英語版178頁
しかし、これが「絶頂期」ということは‥‥。そうです。大変意外なことに、アメリカはこの後、「絶対核家族」の凋落期を迎えていきます。
現代:グローバリズムの果て
トッドが繰り返し指摘していることですが、自由貿易は先進国の労働者の給与を押し下げます。その第一の犠牲者となるのは若者と非熟練労働者。彼らは家を出たくてもその余裕がなく、やむなく親と同居します。
そのようにして親族のつながりが復活し、現在のアメリカは「むしろ原初的核家族では?」という様相を呈しているというのです。
□ | 25-29歳 | 65-69歳 | 70-74歳 |
---|---|---|---|
アメリカ | −9% | +28% | +25% |
イギリス | −2% | +62% | +66% |
ドイツ | −5% | +5% | +9% |
フランス | −8% | +49% | +31% |
オーストラリア | +27% | +14% | +2% |
下・130頁より
上の表は、1979-2010年における世帯あたり可処分所得の上昇率を、世帯主の年齢別に、平均上昇率との差で示したものです。オーストラリアを除いて、若年層の上昇率が低く、高齢者の上昇率が高いことがわかります。
人口の最若年層の所得減少は、新自由主義革命、とりわけ自由貿易の機械的な結果である。自由貿易は資本を持たない者を一律に、情け容赦なく粉砕する。最初に犠牲に供されたのは若い世代と労働者だった。市場原理主義は高学歴の者を含む若年層の親への経済的依存度を劇的に高めた。中年のエリートがかつてないほど個人の自由を謳歌し称揚していた正にそのとき、若い個人は自立の可能性すら失いつつあったのだ。
下・129頁、英語版258頁
アメリカの調査機関(ビュー研究所)は、2016年5月に、18-34歳の若者の親との同居率が1880年と同じ水準に達したことを示すデータを公表しているそうです(下・130頁)。
トッドはいいます。
いま、アメリカの核家族は、端的に「絶対」核家族の性格を失いつつある。彼らは明らかに、成人した若者の親との一時的同居そして原初的な未分化家族への(部分的な)反転を経験している。‥‥ 新自由主義革命は、雇用へのアクセスを困難にし、国家を弱体化させることで、アメリカの家族に、歴史上二度目となる、原初的ホモ・サピエンス型の未分化核家族への退行をもたらしたのである。
下・130頁、英語版259頁
おわりに
以上のように、トッドの示す解釈によると、アメリカの家族システムは、「絶対核家族→原初的核家族→絶対核家族→原初的核家族」と推移したことになります。
しかし、読んでいて、こう思った方はおられないでしょうか。
「これ、家族システムっていうか、単なる家族の観察じゃね?」
そうなんですよ!!
アメリカ以外の地域で、家族システムの特定は、近代以前の家族のデータを使用して行われています。「農村時代の方がシステムが見えやすいから」というのがその理由ですが、その前提には、家族システムとは「場所の記憶(the memory of places)」として固着し、人々のメンタリティに永く刻印を残すものであるという認識がありました。
現代日本の家族はたいてい核家族で、アメリカやフランスと大して変わらない。しかし、集合的なメンタリティに見られる確かな違いを、近代以前の家族のありようが説明する、というところに、トッドの理論の驚きというかときめきがあるわけです。
しかし、アメリカ社会は、最初から近代社会として誕生し、それ以前の「場所の記憶」というものを持たない社会です。この点をどう考えたらよいのでしょうか。
*人口が500万人に達したのが1800年頃ですが、その頃識字率はとうに男性50%を超えています(イギリスと同時期として1700年)。
私は、アメリカで観察された「絶対核家族」(20世紀から1950-70)については、次のように問うてみる必要があるのではないかと考えています。
「それって、本当に絶対核家族システムなのか?」
大規模農園や救貧法といった要素はイギリスの絶対核家族を可能にする条件ではありましたが、システムとしての凝固を促した要素は別にあります。長子相続を営むノルマン貴族や、地方組織の縦型の権威構造(ローマの痕跡!)の存在です。イギリス庶民は、それらを横目に見ていたからこそ、核家族を「規範」にまで高めることを選択したのです。
往時のアメリカには、大会社があり、国家による社会保障があった。しかし、直系家族の王侯貴族やローマ帝国の遺産といった、システムの鍵となる「場所の記憶」はない。
ということは、もしかすると、アメリカで見られた「絶対核家族風の暮らし」は、単なる事実状態にすぎず、「絶対核家族システムの成立」を意味するものではないのではないか。
「脳内の記憶」としての絶対核家族のイメージはあったかもしれないが、「場所の記憶」としての家族システムが成立したことはないのではないか。
そのような解釈は十分に成り立つように思えます。
「トッド入門講座」では、トッドの解釈に従い、「アメリカは原初的核家族に近い絶対核家族」ということで話を進めます。
しかし、ひょっとして「システム以前」の純然たる原初的核家族かもしれない、という可能性も捨てないでおくと、よりいっそう興味深い仮説を展開できる気がします。
今日のまとめ
- アメリカへの植民が始まった頃のイギリスはすでに絶対核家族だった。
- 植民地時代のアメリカは原初的核家族に回帰した。
- 絶対核家族は18世紀中盤から台頭し、20世紀初頭に全土に普及、1950-70年に絶頂期を迎える。
- グローバリズムの進行による経済環境の悪化から、親族との相互扶助の絆が復活している。
- 「システム」としての絶対核家族の成立には疑問の余地がある。