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トッド入門講座

アメリカ I
-差別と教育とデモクラシー(上)-

家族システムとデモクラシー
:アメリカの謎

トッドの探究は、「平等の価値を持たないアメリカが、なぜデモクラシーを成立させることができたのか」という問いから始まります。

しかし、私たちにとって、デモクラシーといえばアメリカ、アメリカといえばデモクラシーです。そもそも「アメリカのデモクラシー」の何がそんなに不思議なのでしょうか。

①イギリスの場合:議会制寡頭政治

世界に先駆けてリベラル・デモクラシーを確立した(とされている)のは、イギリスです。1642年にピューリタン革命が起きて、1688年の名誉革命以後は立憲君主制で安定しました。

ピューリタン革命の頃の議会の様子(たぶん)

イギリスが民主主義発祥の地(?)となったのは、イギリスには最初から議会があったからです。原始民主制の意思決定の場である集会。中東、インド、中国では(家族システムの進化とともに)とっくに失われた素朴な意思決定システムが、代表制の議会という形で、イギリス(とヨーロッパの一部)には残っていた。

‥‥中世末期のヨーロッパには、世界の他の主要文明と画然と区別される政治的特徴が数多く存在していた。それらの特徴ーなかでも最も重要なのは代表者たちの集会であったーが自由主義的民主制の基礎を成したのであり、それらこそは‥‥現代の発展途上の国々で再生産されることが決してあり得ないであろう素質なのであった。

Brian Downing, The Military Revolution and Political Change. Origins of Democracy and Autocracy in Early Modern Europe, Princeton University Press, 1992(下・16頁に引用)

Downingは代表制集会を先進性の証拠と誤解していますが、実際には、イギリスは、ユーラシアの辺境に位置し、家族システムの進化から取り残されていたがために、リベラル・デモクラシーの先駆者の地位を獲得することになったのです。

ただし、この段階のイギリスの政治システムを本当に「デモクラシー」と呼んでよいかどうか。

イギリスで選挙権を持つ者の割合は、18世紀初頭で全国民の4.7%(成人男性の人口比では15%)、18世紀を通して見ても成人男性の20%程度にとどまっていた。

選挙による代表制ということで「民主主義」と言われるのですが、有権者の数を考えると、その実態は「議会制寡頭政治」(parliamentary olicarchy)であったのです*。

 *青木康『議会を歴史する』(2018年、清水書院)64-65頁参照

②フランスの場合:平等へのこだわり

イギリスが「議会制寡頭政治」の状態で落ち着いてしまった理由は、その家族システム(自由+非平等 or 権威なし+平等なし)から説明できます。権威は倒さなければならない。平等でなくても気にしない。それが絶対核家族ですから。

他方、フランスの難産(革命による共和国の誕生からその安定化に至るまで100年を要しました)もまた、家族システムの影響のなせる技です。

自由と平等(権威なし+平等)のフランスは、国王を倒しただけでは満足できません。貴族が上に立てば市民が不満を持ち、市民が満足すれば労働者が暴れる、といった具合に、最終的に平等が達成されるまで戦いが続いてしまう。

しかし、その甲斐あって(?)、フランスは1848年の二月革命後には、21歳以上の男性普通選挙を確立させます(イギリスは1918年)。政治的混乱はまだまだ続きますが‥

Lithograph of the end of the Paris Commune. Photograph: Johansen Krause/Archivo Iconografico, SA/Corbis

③アメリカの場合:「平等」なしの平等?

こうして見てくれば、トッドが「なぜ、アメリカが?」と首を傾げる理由がお分かりいただけると思います。

イギリスと同じく、アメリカの家族システム(絶対核家族ないし原初的核家族)に「平等」の価値はありません。

それなのにアメリカは、1776年の独立宣言で高らかに平等を謳い上げ、早くも1820-40年には各州が男性普通選挙を実現させるのです。

われわれは、自明の理として、すべての人は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられていると信じる

アメリカ 独立宣言(1776年) https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2547/(一部を取り出すにあたり文章に手を加えています)

アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「あたりまえ」ではない。

人種主義と教育:「アメリカのデモクラシー」の基礎

「アメリカのデモクラシー」の秘密として、トッドが検知したのは次の2つです。

①識字率の高さ(白人間の均等な教育水準)
②排除することで「われら人民」の一体性の元となる先住民・黒人奴隷の存在

*「われら人民(We the people)」はアメリカ合衆国憲法前文の主語

①については、あまり問題はないでしょう。イギリスは当時もっとも識字率の高い地域でしたが、アメリカに植民した人々の多くはとくに熱心なプロテスタントだったので、建国当初のアメリカの(白人)識字率はイギリスと同等かそれ以上であったと考えられます。

 *識字と民主化の関係についてはこちらをご覧ください。 

問題なのは、②でしょうか。

トッド自身による説明をお聞きください。

謎の答えは独立宣言そのものにある。独立宣言は、カルヴァン的不平等主義から民主主義的平等主義への転換の過程を明示的に説明してくれているのである。

独立宣言によれば、先住民は「慈悲を欠く野蛮人(merciless savages)」である。平等な人類の次に置かれるのは「人類でないもの」。あたかも、白人の共同体から放逐された不平等が、共同体の外に居場所を確保したというかのように。

独立宣言、そしてアメリカ北部の社会の現実において、それは先住民だった。南部では黒人だ。

トクヴィルは南部の奴隷州に独特の白人平等主義が見られることに気づいていた。

「奇妙なことに、民主主義の勢いは、とりわけ上流階級が強固な地位を占める州で圧倒的だった。メリーランド州ー上流の者たちが建設した州であるーは、普通選挙制を宣言し、政府にもっとも民主的な制度を導入した最初の州となった。」

これらの州では、多数の黒人奴隷の存在が、白人間の平等の意識を強化したのである。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』下・22-23頁
 英語版196頁(適宜改行しました)

*英語版は Lineages of Modernity, Polity Press, 2019
以下、引用文に英語版の頁数を併記するときは辰井による英語版からの訳出です。

先ほど、アメリカでは1920-40年に男性普通選挙が拡大したと書きましたが、その勢いが最も強かったのはアンドリュー・ジャクソン大統領(任期1829-1837)の時期でした(「ジャクソニアン・デモクラシー」)。そのジャクソン大統領は、奴隷制の熱心な擁護者であり、先住民の強制移住を決然と推進した人物でもあった。

また、1860年から1900年、西部でエリートを排した平等主義的な社会が開花したその時期は、ちょうど、黒人に対するリンチが激化し、「マニフェスト・デスティニー」の標語の下で西部大平原のインディアン(Great Plains Indians)が駆逐されていった時期でもあったのです。

‥‥人種主義をアメリカのデモクラシーの欠陥とみなすことはできない。事実は正反対で、人種主義はアメリカのデモクラシーの礎石の一つなのである。建国期には、人種主義は白人の平等意識を促進した。移民流入の過程では、先住民でも黒人でもないという事実が、新たな移民の統合を容易にした。まず北部ヨーロッパ人、若干の躊躇の時期を経て、少し肌の色の濃いイタリア人、ユダヤ人のような非キリスト教徒。もっと最近では、日系、韓国系、ベトナム系、中国系のアメリカ人が、別扱いされる黒人の存在ゆえに、白人と同じ区分に分類されるようになっている。

いまや、アメリカのデモクラシーの魔法を、次のように定式化することができよう。

 平等の不在+黒人と先住民の排除→人種的デモクラシー 

このシークエンスは、アメリカにおけるデモクラシーの発展がかくも容易に達成され、ごく自然で調和的に見える理由も説明する。どれもこれも、民主化のプロセスといえば1789年、1830年、1848年の革命と1871年のパリコミューンの歴史を一通り学ばなければならないわれわれフランス人には心穏やかでないのだが。アメリカの民主制はイギリスの寡頭制と同様に安定している。それは、フランスでは政治的平等を求める大衆の蜂起を幾度も引き起こした「平等」の原則が、彼らの家族の無意識には存在しないからなのだ。

下・24頁、英語版197頁(太字は筆者)

アメリカのデモクラシーを可能にしたのは、次の2要素である。
 ①平等な教育水準
 ②人種主義による「白人の平等」

デモクラシーの最盛期(1950-70年代)

(1)経済的平等の達成
 ーニューディールのアメリカ

現代のアメリカは格差と分断の最先進国(後で確認しますが日本よりはるかに激しいです)となっているわけですが、20世紀中盤に、経済面でも平等に近づいた時期があったことをご存じでしょうか。

19世紀後半から20世紀初頭には、資本主義の急速な発展で大変な格差社会となっていたアメリカは、1929年の経済危機で立ち止まります。

ルーズベルトのニューディールが導入した平等主義的な福祉国家政策で、国による経済への介入、課税の強化がなされた結果、不平等は着実に縮小します。

下にグラフを載せましたが、最も豊かな10%の取り分は1928年の46%から1952年には32%に、最も豊かな1%の取り分は1928年の20%から1953年には9%に低下し、いずれも1970年代まで同程度で推移したのです(T. Piketty and E. Saez, Income and Wage Inequality in the United States, 1913-2002, Atkinson and Piketty, Top Incomes over the Twentieth Century, Oxford University Press, 2007, pp147-149)。

上位10% 1942年から80年代前半まで低めで安定している。
トップ10%の中の下から5%(P90-95)、4%(P95-99)、1%(P99-100)の取り分1%に注目すると1943年から1980年代前半まで低め
これは0.01% 同じ傾向

(2)中等教育の拡大(1900-1940)

19世紀から継続した民主的なメンタリティ、19世紀末から20世紀前半の革新主義を経て、20世紀中盤に達成された経済的平等。

なぜ、このときのアメリカは、一度は行くところまで行った経済的格差から立ち戻り、「デモクラシーの最盛期」に到達することができたのか。

トッドはその解を、中等教育の拡大(第二次教育革命)に求めます。

下の表の通り、1900年の時点で、欧米諸国の識字率はプロテスタント国を中心に高いレベルで平準化していました。

10歳以上の識字率
イギリス95%
アメリカ(白人、アメリカ生まれ)95%
アメリカ(白人、外国出身)87%
アメリカ(黒人)55%
スウェーデン95%以上
ドイツ95%以上
オーストリア94%
フランス83%
イタリア52%
スペイン44%
出典:Carlo M, Cipolla, Literacy and Development in the West, Penguin, 1969, P.99 et p.127-128(下・39頁より)

しかし、中等教育(日本の区分だと中学・高校レベル)をいち早く普及させたのは、イギリスでもドイツでもなく、アメリカだったのです。

ハイスクールへの入学率は、1900年の10%から1940年には70%に達していました(修了率は6%から50%)。1941年、アメリカが第二次世界大戦に参戦したときには、若い世代の半数はハイスクールの教育を受けていたことになります。

これがどれほど高い水準であったかは、1955-56年の各国の高校進学率を見ると分かります。アメリカは80%。しかし、ヨーロッパ諸国は、もっとも高いスウェーデンで25%、それ以外の国はせいぜい15-20%にすぎません(下・41頁)。

*なお、大陸の遅れはエリート主義的な教育政策のせいだというのがトッドの解釈です。

*ちなみに日本は結構高くて40%強です。80%を超えたのは1970年 http://honkawa2.sakura.ne.jp/3927.html

中等教育の拡大は、アメリカを世界の覇権国に導くとともに、「アメリカのデモクラシー」の最盛期をもたらしました。

アメリカはより高いレベルでの教育の平準化を達成した一方で、意地悪く確認しておくと、この時期、黒人差別はまだ制度として温存されていました。

識字率の高さと先住民・黒人奴隷の存在が可能にした「アメリカのデモクラシー」は、以下の二つを基礎にそのピークを迎えたわけです。

 ①より高いレベルでの教育水準の平準化
 ②黒人差別の制度的温存

アメリカのデモクラシーは、以下の状況下で最盛期を迎えた。
 ①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)
 ②黒人差別の制度的温存

衰退するデモクラシー
:教育による平等の侵蝕

(1)中等教育から高等教育へ

ところで、トッドは1900-40年の教育革命が、連邦政府のプロジェクトとしてではなく、地域社会の主導で実施されたことを指摘しています。

第二次教育革命は、民主的・平等主義的な気分を反映したイデオロギーがダイレクトに引き起こしたものだったのである。

下・41頁、英語版206頁

民主的・平等主義的なメンタリティが地域における公教育の充実をもたらし、公教育の充実がさらに民主主義を向上させる。理想的に見えるこの循環を止め、逆回転にまで至らせたものは何か。

高等教育の拡大です。

1900年には男性の3%、女性の2%(25歳時点・以下同じ)、1940年でも男性7.5%、女性5%に過ぎなかった大卒者の割合が、1975年には男性27%、女性22.5%に達していました。

アメリカ社会がデモクラシーを謳歌しているそのとき、すでに社会の基層には亀裂が入りかけていた。

英語版208頁
https://www.statista.com/statistics/184260/educational-attainment-in-the-us/

初等教育が行き渡れば次は中等教育、その次は高等教育(=大学以上)と進むのは当然といえます。いったいその何がいけないのか。

初等教育、中等教育と比較したとき、高等教育には2つの顕著な特徴があります。

 ①全員には行き渡らない
 ②高等教育内部に激しい序列がある

 *もう一つ付け加えることもできるでしょう。
  ③教育内容が役に立つかどうか不明な場合が多い

多くの国で、高等教育の普及は30-40%程度で頭打ちとなりました。日本では50%、韓国では70%とかなり高くなっていますが、いずれも子供の数が異常に少ないという状況下での現象です。

初等教育の普及が「We the people(われら人民)」の基礎を構築したのと正反対に、高等教育は、まずは大学入学者とそれ以外を分ち、大学入学者を、ハーバードの博士課程を終了した者から三流大学中退者まで、無限に広がるランキングの中に振り分けます。

 *こうした事態に鑑み、トッドはアカデミアを「不平等製造マシン」(下・59頁)と表現しています。

‥‥当初、高等教育の進展は純粋な進歩と捉えられていた。人々は高等教育に達する人口の増加が均質な社会に亀裂をもたらすことに気づかなかった。人々が新たな文化的階層化を感知したのは、高等教育修了者という名誉あるカテゴリーに全員が到達できるわけではないと気づいたときだった。初等教育、続いて中等教育の普及は社会に民主的な種類の平等主義的下意識を涵養した。他方、高等教育の頭打ちは、アメリカでもどこでも、不平等の下意識を生み出したのである。

下・30頁、英語版212頁

(2)ベトナム戦争:「労働者階級の戦争」

教育の層が生み出した不平等の下意識は、この時期のイデオロギーに現れました。

ハーバード大学の心理学教授Herrnsteinが論文「IQ」を公刊し(Richard J.  Herrnstein “IQ”, The Atlantic, 1971)、「知能指数に差があり、その指数が諸個人の社会的パフォーマンスに確実な影響を与える以上、不平等は今後とも解消しないと断定」(下・55頁)したのは1971年。

1972年には同じくハーバードの社会学教授 Christpher  Jencksが『不平等(Inequality) 』を出版し、「教育の力で平等を実現する」というリベラルの夢を幻想として「真正面から攻撃」しました。

 *私はどちらも読んでいません。

しかし、彼らが階層社会の到来を予言していたそのとき、すでに平等主義は崩壊していた。それを白日の下にさらしたのは、ベトナム戦争でした。

第二次世界大戦は、アメリカ社会にとって、平等主義の偉大なる達成の瞬間だった。ルーズベルトの社会民主主義の成熟の象徴であったとすらいえるかもしれない。中等教育がほぼ全員に行き渡り、高等教育の進展はまだ初期段階であったそのとき、国民皆徴兵の名の下、すべての若いアメリカ人男性が兵役に就いた。アメリカの政治家たちは、そのため、ジョージ・ブッシュ(シニア)までは、その出身階層に関わらず、概してかなり輝かしい軍歴を有していた。報道ジャーナリストが、ベトナム戦争の兵役を逃れた政治家の追跡を始めるのは、ブッシュ以後である。

下・57頁 英語版216頁

ベトナム戦争では大量の若者が動員されましたが、兵役を逃れた者も多く、大統領経験者ではジョージ・ブッシュ(ジュニア)、ビル・クリントン、ドナルド・トランプらが「兵役逃れ組」として知られています。

クリントンはベトナム反戦運動に参加したことでも知られているのですが、さて、恵まれた大学生が行う反戦運動を、出征した兵士たちはどう捉えていたのか。

以下は、Christian Appy『労働者階級の戦争』からのトッドによる引用です。

ほとんどの兵士たちは反戦運動を本質的に中流階級のものと受け止めていた。マスメディアで流れる反戦活動家といえば左派の大学生のイメージだった。労働者階級の兵士たちにとって大学は特権の象徴であり、大学生は、ベトナムという文脈とは無関係に、恨み、怒り、自信のなさ、羨望、野心といった、階級に関わる一連の深い感情を掻き立てる存在だった。兵士たちが大学生の徴兵猶予の事実を知ると、階級間の溝は一層深まっていった。

Christian Appy, Working-Class War: American Combat Sodiers and Vietnam, 1993, p220 (下・58頁、英語版216頁)

(3)新自由主義の採用と格差の増大

1980年以降、行きすぎたグローバリズムによる経済格差の時代が訪れる前段階にあったのは、教育、そしてその結果としてのメンタリティの変化でした。大事なことなので、トッドに復唱してもらいましょう。

1968年までに教育による不平等の下意識は完全に出来上がっていた。他方で経済的な不平等はまだそれほど大きくなっていなかった。ここでも、歴史を追うだけで、どちらが原因でどちらが結果かを特定することができる。文化が経済を決定する。その逆ではない

下・62頁、英語版218頁(太字は筆者)

こうしたメンタリティの変化を受け、政治・経済のレベルでは、ニューディール政策に見られた平等主義が崩壊し、新保守主義・新自由主義が最高潮を迎えることになります。

上のグラフは2002年までですが、こちらのグラフを見ると、現在も同じ傾向であることが分かります。

https://ourworldindata.org/grapher/income-share-of-the-top-1-pretax-national-income?country=~USA

高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、アメリカ社会の格差・分断をもたらした。

残された謎

1980年以後、不平等がアメリカの時代精神となり、時代精神に即したあらゆる理論と政策が動員され、誰も抵抗できないうちに、著しい格差の増大と社会的分断が発生した。なるほど、と思わせる説明です。

しかし、「謎」はまだ残っています。

高等教育の進展は全ての先進国で国民の階層化をもたらし、全ての先進国は経済的格差の増大を経験しました。しかし、アメリカほど急速かつ極端な変化を経験した国は他にないのです。

まずは上位1%の取り分の推移(グラフ↓)。1980年から2000年の変化をご確認ください。

英語版225頁

こちら(↓)はアメリカの大企業350社における代表取締役と平均的労働者の所得格差の変遷のグラフです。取締役の所得は1960年には労働者の20倍でしたが80年代から上昇を始め、2022年は何と400倍です。

https://www.statista.com/statistics/261463/ceo-to-worker-compensation-ratio-of-top-firms-in-the-us/

いったいどういう仕組みで、アメリカの不平等はここまで激化することになったのか。トッドはいいます。

アメリカにおける平等という価値の崩壊は、あまりにも突然で、あまりにも激しく、あまりにも広範だった。これを完全に説明するためには、人類学システムの核心により深く踏み込んで行かなければならない。

下・70頁、英語版223頁

人類学システムの核心とは、家族システムにおける「平等の不在」をカバーしていた「魔法」。人種主義の展開にほかなりません。(つづく)

アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。

今日のまとめ

  • アメリカに全員参加型のデモクラシーが実現したのは「当たり前」ではない。
  • デモクラシーの成立を可能にしたのは、①平等な教育水準、②人種主義による「白人の平等」の2要素である。
  • アメリカのデモクラシーは、①中等教育の拡大(より高いレベルでの平等な教育水準)②黒人差別の制度的温存 という状況下で最盛期を迎えた。
  • 高等教育の拡大による「①平等な教育水準」の侵蝕が、経済的格差・社会的分断をもたらした。
  • アメリカにおける急速かつ極端な不平等拡大のメカニズムを解明するには、「②人種主義による白人の平等」の展開を確認する必要がある。