*この文章は、家族システムの概念に関する「やや立ち入った解説」です。概要についてはこちらをご覧ください。
「家族システムとは?」
家族システムの分析は、20世紀初頭から、非西欧、非先進社会の成り立ちを知るための人類学研究として開始されました(人類学では「親族構造」「親族システム」と総称されることが多いようです)。
20世紀中頃になると、歴史学もこれを用いるようになり、「歴史家」エマニュエル・トッドも、その流れの中で、家族構造の研究をすることになったわけですが、彼が家族システムと現代のイデオロギーとの関連性を「発見」するに及び、改めて、本質的な問いが浮かび上がってくることとなりました。
「家族システムって、何なんだ?」
人々の絆の中心に家族関係、親族関係がある未開社会では、家族システムの分析がイコール社会システムの分析になるのは当然です。
しかし、現代はそうではありませんね。古い家族の構造は壊れ、ほとんどの国で、現実の家族は(少なくとも都市部では)核家族がスタンダードになりました。
それでもなお、家族システムが機能しているとしたら、家族システムとは、一体、何なのでしょうか?
家族システムは「家族」のシステムではない
トッドの理論に対するよくある誤解の一つに、「トッドの理論は家族を重視している」というものがあります。当初の「保守反動」といった反発の背景には、おそらく、この誤解があったと考えられます。
私も、日常会話の延長で軽くトッドの理論に触れたときなどに、「やっぱり、家族は大事だから、そういう影響力があっても当然だよね」といった感想を受け取ることがあります。
しかし、トッドのいう「家族システム」は、現実の家族のあり様を指しているわけではない。これは重要な点です。
「家庭生活のあり方が社会のイデオロギーを決定している」とか、「過去の親族関係や家庭生活の記憶が社会のイデオロギーとなって残っている」とか、そういうことを言っているのではないのです。
では、何なのか。
人類は、配偶者を得て、子供を作り、育てる。食料を確保し、外敵から身を守り、生き延びるために、協力し合う。そのようなやり方で、種をつないでいく生物です。
そのために、人類が形成する相互扶助のネットワークが「社会」であるとすると、家族システムは、その「社会」の設計図に相当する機能を果たすものといえます。人間と人間、世代と世代をどうつなぐかを定義する。そして、そのことによって、社会の基層に一定の価値観を埋め込む。それが家族システムである、といってよいでしょう。(家族システムについての講師(私)の解釈については、こちらもご覧ください)。
近代化によって伝統的な家族が壊れても、家族システムは変わらず、社会の基盤を支え続けます。だからこそ、近代化後の社会に住む私たちは、イデオロギーという形で、それを感知することができるのです。
農村の家族によって「人類学システム」を可視化する
トッドが「日本の家族システムは直系家族である」というとき、その判断の根拠とされているのは、近代化以前の日本の家族に関するデータです。他の地域の場合も、彼は、農村時代の家族についての情報を集めることで、その社会の家族システムを検知するという手法を用います。
これが「家族を重視する理論である」という誤解のもとになっているわけですね。しかし、彼が伝統的家族を研究対象とするのは、伝統的家族を重視しているからではありません。
彼が、現代ではなく農村時代を研究対象とするのは、単に、農村という場所が、社会の設計図(家族システム)が一番見えやすく、分析しやすい場所であるからです。
「‥‥農村世界を観察現場にするという選択は、ヨーロッパのさまざまな地域の家族制度の中から、平等と不平等、権威と自由主義という諸価値を同一の方法で突きとめるための単純な指標を決定しなければならないという、技術的必要からなされたものである。」
新ヨーロッパ大全 I 47頁
近代化以前、社会の中心にあり、相互扶助のすべての機能を担っていたのは、家族であり、親族のネットワークでした。人々をどう繋ぎ、社会をどう組織するか、その基礎となる価値観は、すべて、家族のつながりの中に表れていたわけです。
一方、現代の多くの社会では、人類の生存、生殖、種の繁栄に必要な相互扶助機能の中心には、国家があり、国家の枠に包摂された様々な組織があります。
しかし、トッドが農村世界を観察して検知する「非物質的だが不動の諸価値の総体」(前掲書47頁)としての家族システムは、こうした目に見える社会形態の変化にかかわらず、現代の社会においても「設計図」として機能し続けているようなのです。
こうなると、「家族システム」という名称が、ややミスリーディングだという感じすらしてきます。
実際、トッドも、つぎのように述べているのです。
「フランス、アメリカ合衆国、イングランド、ドイツ、もしくは日本のような、同じような発展水準を見せる諸社会の間に、風俗慣習の差異が存続しているのはなぜかを説明するために、必ずやいつの日か、家族システムという観念を廃して、代わりに人類学的システムという観念を採用することが必要になるであろう。」
『デモクラシー以後』 277頁
私は、家族システムとして特定された人類学的差異が、現代においても変わらず作用していることを確信しています。かつて現実の家族を統率していたシステムは、現在、社会を統率しているシステムと同じものであり、「人類学的システム」と呼ぶに相応しいものであると確信しています。
しかし、ここでは、「厳密に実証できないことはあまり価値がないのであり、結論を出すには、今後の歴史の推移を待たなければならないだろう」(同前)というトッドの研究者としての慎重な立場を尊重し、「家族システム」の語を使い続けることにしようと思います(そういいつつ、トッドも「人類学」の語を使っている場合があるので、引用部分では混ざります)。
家族システムは、無意識のレベルで作用する
すでに何度か述べたことですが、家族システムは、社会の集合的心性の無意識レベルで作用し、「上部構造」をもっとも根本的なところで規定しています。
トッド自身の言葉で説明してもらいましょう。
「表層部には、意識的なもの、つまり経済〔等〕がある。」
「そのすぐ下には、教育上の階層組織とその動きによって規定される社会的下意識とも言うべきものが見出されるが、これは、経済より強い決定作用を発揮する。大衆識字化は、社会に平等主義的下意識を付与し、民主制を招来した。今日では新たな教育上の階層組織が形成され、不平等主義的下意識を育む傾向を見せている。」
「さらにその下に行くと、全く無意識的な深層部となるが、そこでは人類学的システムが作用している。このシステムは、過去に遡って、昔の家族構造を探ることによって把握することができるが、今日では拡散している。この人類学的システムは、変化することがあり得るのであり、その変化は、決定的だが非常に制御不可能である。」
デモクラシー以後 278頁
「エマニュエル・トッドの道具箱ー家族システム、教育、人口動態」でご説明したように、家族システムは、現代の社会の政治的イデオロギー、経済システム、教育のあり方、人口の再生産、差別の態様など、あらゆる事柄を説明します。
そうすると、次に来る問いは、当然、「家族システムは、変化しないの?」というものでしょう。
家族システムの変化ー予告編
「道具箱」では、社会の「進歩」の動因として、教育が重要であることを述べました。家族システムについては、「核家族から共同体家族へ発展した」「核家族がもっとも原始的なシステムである」旨を、比較的あっさりと記述していました。
しかし、それほど本源的なものである家族システムが、もし変化するのだとしたら、そして、その変化を跡付けることができるのだとしたら、それこそが、歴史の流れを、根底から説明するものになるはずではないでしょうか。
私はしばらくの間、直系家族日本と欧米核家族地域の人類学的相違を理解し、咀嚼することでいっぱいいっぱいで(それだけで満足だったという面もあります)、メソポタミアおよび中国における共同体家族の誕生が、世界の歴史にとってどのように重要か、といったことまでは、理解が行き届いていませんでした。
しかし、最近、いくつかの偶然のおかげで、急にスイッチが切り替わり、改めて『家族システムの起源』を読んだところ、頭の中に大変スケールの大きい歴史像が描かれた上、その先に、現在の様々な事象がつながっている様が、ありありと理解できるようになりました。
興奮を呼ぶ(?)その内容は、次回、「家族システムの変遷―国家とイデオロギーの世界史―」で、ご紹介させていただきます。